第08話 極限Ⅱ
#8
――”悲劇”。
それが、その少女に与えられた名であった。
自らが背負わされた”悲劇”という名を乗り越え、この、あらゆるものを奪い、踏み付けるような”悪意”に満ちた世界を、強く、強く生き抜いて欲しい――。
そんな両親の祈りが、願いが、その命名には込められている。
少女はその意味を正しく理解し、自らの“悲劇”という名を心から誇りに思っていた。
どんな美辞麗句よりも、両親の愛情が感じられ、嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった。
故に、彼女にとって”悲劇”とは忌避すべきものではなく、己の生涯を賭して乗り越えるべきもの、自らが背負った”宿業”とでも呼ぶべきものであった。
そう、与えられたその名は、この世界と対峙する彼女の矜持そのもの。
それは、その想いは、彼女の歩む道に――、
(な、何――? いまの――)
突如として脳内に流れ込んだイメージに、白銀の鎧装の、サファイア・モルゲンの足が止まる。
荒削りではあるが、麗句の“朽ち果て呪われし聖槍”とほぼ互角に打ち合っていた、連結剣“賢者の杖”の躍動が鳴りを潜め、自らの得物である“朽ち果て呪われし聖槍”の動きと連動するような麗句の蹴撃が、鋼と鋼の激突を示す火花とともに、白銀の鎧装を後退させる。
「……そうか。離してしまった手への“未練”が、“後悔”が、お前を強くし、“創世石”に見初められる程の“業”を育んだのか……」
「――!」
何故、それを――!?
誰も知り得るはずのない、響にすらまだ話していない事柄を言葉にした麗句の口舌に、サファイアが怯んだ瞬間、黒の鎧装に覆われた麗句の腕と指先が操る“朽ち果て呪われし聖槍”が猛然と襲い掛かり、肩部の白銀の鎧装を砕き散らす。
その一撃によって裂けた皮膚から鮮血が飛び散り、激痛と解せぬ“驚愕”が同時にサファイアの脳を震撼させる。
「解せんか? ……解せんだろうな。いま、お前が見ているものが何か、想像も及ばぬが当然であろう――」
「あなたは……わかっているとでも言うの?」
惑うサファイアの言葉に、麗句は仮面の下で微かな笑みを浮かべる。
目視すれば、慄然とするような鋭利な笑みを。
「……我々が対峙して既に数十分が経過している。長時間、“畏敬の赤”の異能を駆使し、その粒子に万遍なく塗れた我々という存在は、鎧装に満ち、垂れ流される“畏敬の赤”のエネルギーのなかで一つの“概念”として次第に混ざり合い、徐々に“同化”しつつある――」
「同、化――?」
そのまま受け入れるには、あまりに常軌を逸した麗句の言葉に、サファイアの声が上ずる。
その動揺を愛おしむように、麗句の唇が仮面の下で、その口角を上げる。
「端的に言えば、お前と私の存在は、概念的に”一つ”になりつつあるということだ。“物質”である肉体と鎧装がある限り、完全に一体化することはないが、その記憶と思考は徐々に“共有”されてゆく。お前は私の人生を体感し、私もお前の生きてきた足跡を知る。……厄介な話とは思わんか? ――”相手を知り、理解する”。これ程の“障害”は、“難事”はあるまい。相手の“殺害”に至る、この“戦場”という道筋においてはな……」
「――!」
――“相手の殺害に至る道筋”。
麗句の言葉に、サファイアの臓腑に耐え難い不快感、締め付けるような重圧が満ちる。
「――早く決着を付けねば、また迷い、泥を舐める事になるぞ、“救世主”。いや……サファイア・モルゲン」
「……なんか変だ。姉ちゃん達の動きがなんか鈍った、ような……」
“概念干渉”を無効化し、“奇蹟”を殺す“朽ち果て呪われし聖槍”の特性による影響か、一時は姿を捉える事も叶わなかった二人の姿は、次第に輪郭を露わにし、いまでは状況を把握できるだけの情報を確認できるまでになっていた。
故に、アルは両者の動きが停滞し始めた状況に、不安を抱く。
――これは何か、“よくない事”の前兆ではなかろうか。
「時間が経ち過ぎたのかもしれない――」
「えっ……?」
アルの疑問に、彼の傍らで飛翔する幼竜が回答を投げる。
「 “畏敬の赤”のエネルギーには触れるあらゆる事象・概念を歪め、書き換える特性がある。それに長時間、浸される事で適正者自身の“概念”も影響・浸食されてゆく――。鎧装に組み込まれているセーフティによって完全に“同化して”しまったり、“人間でなくなる”ことは、よほど極端な使い方をしない限りはないけれど、対峙する者同士の“記憶”や“感情”は共有されてしまう事がある。
“混振”、あるいは“共繋”と呼ばれる現象だけど、今の二人にはそれが起きているのかもしれない――」
「記憶や感情を、共有……」
そういえば、姉ちゃんが寝てる間、戦っている響兄ちゃんのイメージや、姉ちゃんの過去と思しき映像が、脳内に入り込んできたことがあった。
“あれ”と同じ事が、姉ちゃんにいま起こっているという事だろうか。
対峙する、麗句=メイリンを対象にして。
(でも……)
姉ちゃんなら、何が起ころうとも必ず勝ってくれる。
“奇蹟”を、その手にすることができる。
胸が張り裂けそうな不安の中、アルは湧き上がる想いを言葉とする。
――がんばれ、姉ちゃん、と。
「おおおおおおおおお!」
その声に応えるように、腹腔から轟くような気合いとともに、躍動した連結剣“賢者の杖”の、“畏敬の赤”のエネルギーを凝縮させた刃が、“朽ち果て呪われし聖槍”の柄へと喰い込み、消滅させられていた“奇蹟”を僅かにだが、周囲に顕現させる。
概念干渉が再度、発動すれば、純粋な“戦闘技術の競い合い”という、己にとって不利な状況を覆す事ができる。
――逃すわけにはいかない好機に、サファイアの両腕に渾身の力が込められる。だが、
「フン……!」
「……!?」
その“窮地”に、麗句は膝を使い、自ら“朽ち果て呪われし聖槍”の柄を折り砕くと、砕かれ、いまや短剣の如き様相を呈したその穂先を素早く掌握。それを“賢者の杖”の本体である、連結した“賢者の石片”へと、猛然と突き刺す――。
「しまっ――」
“奇蹟殺しの槍”による損傷によって、内部に満ちる“畏敬の赤”のエネルギーを制御できなくなった“賢者の石片”は爆散。
サファイアが反射的に指を離し、後退していなければ、彼女の両腕を跡形もなく消し飛ばしてしまっていたであろう、凄絶な閃光・衝撃とともに“賢者の石片”であったものは消滅する――。
「クッ……!」
「……詰めが甘い、と言いたいが」
麗句の握っていた槍の穂先は、分子の結合が解けるかのように消失し、“聖遺物”である金属片が再度、漆黒の鎧装へと収納される。
「我が“朽ち果て呪われし聖槍”を無効化するいう目的は果たせたな。流石の“聖遺物”も、この状態では、“物質としての神”である“創世石”の奇蹟を殺すことは叶わん――」
麗句の言葉通り、目的は果たせたのかもしれない。
しかし、その“窮地”の中、麗句はその大胆な機転によって、こちらの得物も無効化してみせた。戦闘の技術や技巧だけではない。発想においても、麗句=メイリンは遥かにこちらを上回っている。
果たして出来るのか。
自分に、“彼女の上”をいく事が。
「……どうした、手詰まりか? あまり私の手を遊ばせると」
動きの止まった“白銀の鎧装”へと、麗句はその甘い声音を鋭利に、硬く尖らせる――。
「可愛い弟に、”流れ弾”が飛ぶやもしれんぞ――?」
「あああ……ああああああああああああああ!」
見るな、見るな、考えるな!
脳内に絶え間なく流れ込むイメージを、激昂する己自身で塗り潰しながら、サファイアは麗句へと、その拳を振るう!
だが、その拳は、麗句の黒の腕部鎧装によって躱され、捌かれ、虚しく空を切り、過剰なまでに放出される“畏敬の赤”のエネルギーによって、大気を赤々と染め上げる。
「フン……!」
「……!」
溢れ出る激情に溺れ、思わず大振りになった拳を擦り抜けた、麗句の、“断罪の麗鳳”の頭突きが、アルファノヴァの機械的な仮面を直撃し、サファイアの脳を揺らす。そして、
「くっ……あああああああああああっ!」
無意識の、弟を護らんとする執念だけの一撃であろうか。
折れそうになった膝を踏み止まらせ、左脚を軸として放たれた蹴撃が、麗句の側頭部を捉え、今度は彼女の脳を揺らす。
残るは、互いに“無意識の”攻防――。
「はあああああああああ!」
己の鼓膜すら劈くような咆哮とともに、無意識の白銀の鎧装が、動きを止めた麗句へと挑みかかる。しかし、
「――“我は異端にして神を穿つ朱”――」
ここでも、サファイアは“格”の違いを見せつけられる。
動きを止めたかに見えた、麗句の左腕部鎧装が展開し、秘儀を起動。
方向を定めずに放たれた一撃ではあるが、大地を崩壊させ、純粋な衝撃波と破壊エネルギーで、サファイアを間合いの外へと放り出すには、充分に過ぎる一撃であった。
彼女らの纏う鎧装のはたらきによって、“脳震盪”状態にあった、彼女達の意識は回復し、勝負はまた振出しに戻る。
だが、“我は異端にして神を穿つ朱”によって弾き飛ばされ、地面に叩き付けられたサファイアの口内にはただ苦く、心身を蝕み、渇かせるような“絶望”の味が満ちていた。
――勝てない。
気持ちだけではどうにもならない、圧倒的な壁がそこにはある。
折れ砕け、捨て鉢になりそうな心にあるのは、ただただ、惨めな“諦め”のみであろうか――。
(――いや、違う――)
一つだけ、ある。
“勝つ”方法が。
道筋は先程、麗句が見せてくれた。示してくれた。
後は――自分の、覚悟だけだ。
「ハアアッ!」
「――!」
“痛み”そのものに成り果てたかのような体を、バネの如く跳ね上がらせ、サファイアは最後の“賭け”に打って出る。
“創世石”の力を搾り尽くすかのような、総出力での概念干渉。
それをサファイアは一瞬の目晦ましへと昇華する。
彼女の、アルファノヴァの手にはいま、残存する“賢者の石片”の一つが、固く握られている。
これを拳撃とともに“暴走”させれば、先程、麗句が“賢者の杖”を消滅させた時と同様の衝撃と破壊が、麗句を直撃することとなる。
こちらも腕を、あるいは命を失うことになるかもしれないが――弟の命を護れるなら、躊躇う理由など何もない。祈りにも似た、鮮烈な“覚悟”が闇を――、
「……思い切りはよいが、所詮は小娘の考えだ」
「――!」
撃ち貫くことはなかった。
またしても、またしても、“壁”はサファイアの行く手を阻み、その道筋を寸断する。
麗句の漆黒の鎧装から射出された金属片が、概念干渉という“奇蹟”を殺し、全身全霊のサファイアの拳を、“断罪の麗鳳”の腕部鎧装、その掌が容易く捕獲する。
この状態で“暴走”させても、結果はたかが知れている。
この、“女王”には通用しない。
「敵の喋った事を丸々信用するなど、“街のお嬢さん”には美徳でも、戦場に立つ現在のお前にとっては極め付けの愚行でしかない。そこも、愛らしくはあるのだがな――」
――ブラフ。
響であれば、ヴェノムの面々であれば、あるいは気付けたのかもしれない。
麗句が躊躇いなく“朽ち果て呪われし聖槍”を折り砕いた、その裏の意味を、サファイアは考えるべきだったのだ。
あれは”賢者の杖”を破壊する機転であったのと同時に、自らの”切り札”が消失したとサファイアに錯覚させるための罠でもあったのだ。
拳を捕えられたままのサファイアの腹部を、強烈な膝蹴りが襲い、喉笛を押さえた麗句の腕部鎧装がサファイアを再度、地面へと這いつくばらせる――。
昏い光を灯した鷹の眼が、もはや身じろぎも出来ぬ白銀の鎧装を見据える。
「……哀れだな。だが、この敗北は飽くまで経験の差だ。お前と出逢ったのが私でなく、お前がその異能を使いこなせるだけの場数を踏んでいたのであれば、戦場の習いを学んでいたのであれば、結果は逆であったのかもしれん――」
「………」
己の喉笛を押さえ付け、捕える麗句の声音に、サファイアは大きな”揺らぎ”を感じた。
己の中の葛藤を押し殺すような、胸の奥底から湧き出でるような、深い、深い慟哭を。
「しかし、それは私が歩んだ堕落の道だ。健気な町娘のまま生き、死ねるのならそれ以上に幸福なことはあるまい。最後だ、『鎧醒』を解き、私に――」
「……思ってた」
「……何?」
己の言葉を遮ったサファイアの言葉に、擦れ、震える声に、麗句もふと、言葉を止める。
両者の視線が交わり、麗句は気付く。
いま、自分が地面に這いつくばらせている少女の目は“敗者”のそれではない。
機械的な仮面に隠されていても、わかる。これは――、
「あなたは、ボクに自分を見てる。だから、“とどめ”を刺す前に――心からの、血の滲むような言葉をくれると思ってた。あなたは優しい人だって、“繋がった”時、わかったから」
麗句は気付く。白銀の鎧装、その腰部のバックルに集中する、神々しくも毒々しい畏敬の光に。
「ボクは弱い。だから、その弱さを利用させてもらった。あなたに敵わないこの一瞬に、全てを賭けたんだ!」
諦めない瞳に、彼女の潤んだ瞳に揺るぎない“覚悟”が滲む。
「つらい道筋だけど、ボクはもう――“迷わない”!」
――不味い。“これ”は!
麗句の五指が、それの破壊に動くよりもはやく、サファイアの、アルファノヴァの指が、自らの異能の源泉であるバックル、“ヘヴンズ・ゲイト”を鎧装から引き千切り、麗句の頭上へと放り投げていた。同時に、バックルから高濃度の”畏敬の赤“の光が迸る。
――そうだ。これは知っている。この、力は。
【“SHINING ARROW”――発動承認】
畏敬の光が確かに麗句を捉え、宙を舞うバックルから電子音声が鳴り響く。
同時に、捕獲していたはずの白銀の鎧装が宙を舞っていた。
発動すれば、あらゆる因果律、物理法則も超越して、“相手に直撃”するという結果を固定する、その秘儀の特性に従うように。
「はあああああああああ!」
「しまっ――」
――発動!
アルファノヴァの肩部からほとばしる光が、翼の如く闇を切裂き、光速の、総ての概念を捻じ曲げ、貫き、撃ち抜く閃光の矢と化した白銀の鎧装が、麗句の、“断罪の霊鳳”の鎧装を打ち砕く。
着地したサファイアの脚先に残るは確かな手応え。
――越えられぬはずの壁はいま、確かに穿たれた。
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