第06話 その先にあるもの
#06
「ねー姉ちゃん、まだー? 俺、楽しみで昼飯抜いてきたんだよー?」
「はいはい、ちょっと待ってて。ちなみにボク、君がお昼、一人前以上食べてるの目撃してるんだけど?」
細くしなやかな指が、可愛い弟がご所望の“手作りケーキ”への最後のデコレーションをほどこしてゆく。
手作りケーキといっても、この自治区で手に入る範囲の材料で、とんちにも似た知恵と策謀を駆使して、やっとこさ焼き上げた“代替品”だ。
“どちらかといえば、パンだ“という批判があれば、甘んじて受け入れる用意はある。
だけど、弟の要望と、街の子供達が手軽に食べられるケーキがあればという発想から着手した“挑戦”である。何としても、少なくとも、美味しい“甘味菓子”ではあって欲しい。
「はいっ、お待たせー。ちゃんとイチゴも乗せといたよっ!」
「あ、すげぇ、見た目はちゃんとケーキだ」
切り分けたケーキを皿に乗せ、運んできてくれた姉に、アルは弾んだ声を響かせる。
「味もたぶんきっとおそらくはケーキだよって――思うよ?」
「自信ないんだ……」
姉の控え目な自信とは裏腹に、ケーキの味は良好だった。
どちらかといえば、パン的な触感だけど、充分に美味だったし、丁寧に塗られた生クリームも、ケーキというものへの憧憬を満たして余りあるものだった。
生クリームを口のあちこちにつけたまま、夢中でケーキを口に運ぶ弟の傍らへと、姉はホッとした様子でコーヒーを満たしたティーカップを運んでくれる。
「ごめんね、紅茶は切らしてるんだ。でも、このコーヒー、挽いてもらったばかりの豆を使ってるから美味しいよ?」
「あ、う、うん。姉ちゃん、紅茶好きなのに……残念だね?」
「まぁ、紅茶なんかは流石に、自給自足とはいかないからね。流通してるトコまで出掛ける機会もなかなかないし……」
――サファイア・モルゲンとアル・ホワイト。
二人の日常は穏やかさに、日溜りのような温かさに満ちていた。
姉の仕事が特にない時は、弟が家に入り浸り、何かと気が詰まりがちな姉の心を、無自覚にほぐしてくれる。忙しそうにしながらも、楽しげな姉の様子に、アルは嬉しそうな、照れ臭そうな表情を浮かべながら、湯気を立てるコーヒーカップのふちをウキウキとした様子で、指でなぞる。
「そうだよね? 紅茶は……手に入りづらいよね?」
「う、うん。どした? コーヒー嫌い?」
どこかおかしな弟の様子に、姉の顔が少し困った顔になる。
その困った姉の顔に、アルはふふんと、得意げな顔で胸を張ってみせる。
「いやいや、俺ぐらいになると、むしろこの苦味がないと舌が喜ばないんだよね~」
「……アル君、さっきから砂糖だばだば入れてるその右手は何かな? その左手は明らかに薄めるためのミルクを探してるじゃないかナ?」
困った顔から呆れた顔にシフトした姉の表情に、アルは悪戯っぽく微笑み、大事に背負ってきたリュックへと手を伸ばす。
「まっ、紅茶派なのは事実だけどね。でも俺や姉ちゃんはともかく、響兄ちゃんが飲めないのは困るんじゃない~?」
「んななっ…な?」
弟の言葉に思わずサファイアの頬がぽうっと赤くなる。
確かに響は“無意味に苦いうえに栄養源としても期待できない液体”という評価をコーヒーに下している。
鼻孔を擽る芳醇な香りも毒を口にさせるための“罠”と考えているらしい。サファイアから見れば、ジャムを直接食べることのほうがよほど不健康だと思うのだが。そして、
「はいっ! そんな姉ちゃんにプレゼント」
「……?」
アルの手がリュックから取り出した包みを、まだ頬をピンク色に染めている姉の手に握らせる。丁寧に包装されたその缶は、かけられた青色のリボンも目に鮮やかで、それを選んだ人の気持ちが確かに伝わる、温かさに満ちていた。
「え……これ……」
何より包装紙に記された店名から、サファイアにはそれが、どれだけ遠くにあり、得難いものであるか、瞬時に察することができた。――この街から一山越えた先にある珍しい食品や、嗜好品の流通地、そこにある紅茶の専門店だ。
「ア、アル、これ、プレゼントって……どうしたの? このお店、すごく――」
「へへ、みんなでさ、日頃の、その、お礼っていうか、プレゼントをしようって話になってさ。……確か、何年か前の今日なんだよね。姉ちゃんがこの街に来たのって」
“あの事故”以前の記憶を持たないサファイアにとって、自分の誕生日や年齢は、様々な情報の統合による推測でしか掴めない、不確かなものだった。
しかし、そんな彼女にも、明確な記念日が二つあった。
一つは響に己の心の内を告げ、ここで共に――といっても彼はなかなか帰ってきてくれないが――暮らし始めた日。
もう一つは、旅人だった彼女が、この街に居住を決めたその日。
アルが言うように、丁度、3年前の今日が、その日に当たる。
「その日に合わせて、みんなで小遣いためて、俺とジュンが代表で買いに行ったんだ。……確かに遠かったけど、缶も包装も傷んでないでしょ?」
リボンを解き、中身を確認すると、ちゃんと自分の好きな銘柄だった。
「……あの山はさ、確かにいまは人が通れるように舗装されてるけど、ボクだって越えるのは正直、シンドいんだよ? なのにもう、バカだな……」
胸がいっぱいだった。
本当なら、何でそんな無茶したの!?って叱らなくちゃいけないのに、目頭が熱くて仕方がなかった。そして――、
「サファイア姉ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「ふぇ……?」
部屋のドアがガチャと開くと同時に、街の子供たちの声が、彼等が手にしたクラッカーの音が、サファイアの胸と耳朶を優しく震わせる。視界に映る、無数の無垢な笑顔達に、涙を堰きとめていた堤防は脆くも決壊した。
「もう……みんな、ダメだよ、ボクなんかのために――」
「あー姉ちゃん、泣いた~!」
溢れる感情に、座り込んだ姉に子供たちは寄り添い、ハッピーバースデーの歌声を響かせる。
憧れの姉へ、親愛なる姉へ。
「えへへ、バースデーケーキは姉ちゃんに用意させちゃったけどね~」
……ああ、そうか。珍しくケーキが食べたいなんて我儘を言うと思ったら、そういう事だったんだ。
ホントに、この子は――、
「ありがとう、みんな、本当にありがとう……! お腹いっぱい食べて帰んなかったら、姉ちゃん許さないんだからね!」
涙を拭い、笑顔で告げる姉に子供たちは歓声で応え、和やかな空気が、清々しい時間が、サファイアの胸を満たす。
そうだ、この子達がこのまま健やかに生きていけるように、成長していけるように、自分は手助けをしていこう、街の人達の力になっていこう――そんな想いが、これまで以上に彼女の胸に溢れていた。
きっと、それが、ボクのこの手の「意味」だ。
決意が、かつての『記憶』とともに、青い瞳のなかに滲んでいた。
――記憶――
そう、これは、記憶。
柔らかで、あたたかで、かけがえのない、懐かしく愛おしい記憶。
その記憶を、想いを、遥か彼方から“観測”する一つの視点があった。
その“瞳”はこの"記憶"の保持者であるサファイアやアルの手の届かぬ場所にあり、彼女等と対峙する麗句=メイリンにも認識することは叶わなかった。
時間を、距離を、物理を、あらゆる概念を超越して、それはサファイア達を、その想いを“視”ていた。
そういった意味では、まさに“神の視点”と呼べるかもしれない
物質世界からは完全に隔離された、観念世界とでも呼ぶべき世界。
そこに在る“彼”の姿は、見る者によって、千にも万にも兆にも変幻するだろう。
だが、“彼”は間違いなくそこに居て、事態の推移を観測している。
自らが覗き、得た”記憶”という情報から復元するように、観念世界に新たに顕れた、線のみで構築された立方体の中に、手が、足が、顔が、浮かび上がってゆく。
その下方には――この観念世界全体を覆い尽くすような巨大な腕が、神々しくも毒々しい”畏敬の赤”の塊である巨大な腕が漂っている。
そのさらに下方に存在するのは、黄金の光を湛えた巨大な双眼。
果たしてこれは、”彼”の所有物か否か――。
物質世界では、“彼”の祝福を受けた白銀の機甲と漆黒の機甲が、死闘を演じようとしている――。
(……全ては”此処”に戻り、”此処”から始まる。そうか、ようやく――)
その、事象を見守る“彼”の思考が描くものは何か、その視線の先にあるものは――、
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