第02話 麗しき句は冥府に鳴る鈴の音の如く
#2
「……!」
薔薇の刺から血中に流れ込んだ“毒素”のように、脳を、全神経を痺れさせる“恍惚”を振り切り、サファイア・モルゲンは、唇を重ねる麗句=メイリンの身体を突き飛ばしていた。
「はぁっ、はぁっ……」
自分でも驚く程に呼吸が荒い。
震える手が、唐突に“奪われた”唇を拭う。
麗句のしなやかな指先に触れられた、朱く染まった頬が、全身が焼けるように熱かった。
「フフッ……初心なのだな、その様もまた愛らしい」
「お、女の人とキスするような趣味はないよ……!」
動悸がまだ正常に戻らない。
言葉で否定しても、目の前にある美貌が、甘い香りが、体の熱を冷ましてくれない。
そして――、
(これは……)
その事に戸惑いながら、サファイアは自分の身体の、もう一つの異常に戸惑っていた。
気を抜けば、膝を折ってしまいそうだった程の“疲労”が嘘のように消えている。
その彼女の惑いを察したのか、麗句は微笑とともに“解”を紡ぐ。
「お前の人間としての概念は消耗しきっていた。それを“麗鳳石”で回復させた。疵は癒え、体力も戻っているはずだ。力を直接、吹き込む必要があったからな。なかなか刺激的な、“儀式”だったろう――?」
「しゅ、趣味が悪いよ」
カッ!
その瞬間、遠くで閃く光を、サファイアの瞳が捉えた。
それは麗句も同様だったのか、二人の目線は自然、その方向へと向けられる。
(あれは……)
遠方から継続的に爆発音が轟き、黒煙が上がっているのが目視できる。
位置としては“栄華此処に眠る”の辺りである。
あの場所でまた、戦闘が開始されているという事か――。
「ブルーが“制限”を解除したようだな。己の異能に目覚めたばかりだというのに、お前の騎士も存外やるようだ――」
「……」
麗句の艶やかな声音が耳朶を撫でるとともに、得も知れぬ“不安”がサファイアの胸を掻き毟る。やはり、彼に、響に、何かが起こっている。
青の瞳は“栄華此処に眠る”から立ち上る黒煙に釘付けとなり、その様に、麗句は薄く微笑む。
その眼差しには、妹を見守る姉のような、穏やかさと、温かみがあった。
「麗句ぅぅぅぅ、メぃぃリぃぃン……」
「……!」
そして、岩の陰から、故障したスピーカーから漏れ聞こえるような、潰れた声が、歪んだ声音が響き渡る。何処か、聞き覚えのある声が。
「うわわっ!?」
「な……!」
岩陰から姿を現したそれに、サファイアが息を飲み、アルが驚愕の声とともに、尻餅をついてしまったのも無理はない。
そこにあったのは、言ってみれば、“生首”である。
それもその半分を機械化し、今、首の先から伸びる触手じみたコードを蛸の足のようにして前進する異形の“生首”である。
「お、お前は……!」
「喚かないでくれますか、少年。耳に障ります」
指差すアルへの、丁寧であるようでいて品のない物言い。
……間違いない。これは、奴の“生首”だ。
先程までサファイアと戦闘を繰り広げ、麗句=メイリンによって終止符を打たれたはずの男、ドクトル・サウザンドの。
「私自身の“想定した通り”とはいえ、口惜しいものだな……何かの間違いで逝ってしまってもよかったのだぞ、軍医」
「 “賢我石”の力と、生命維持に関わる器官の機械化が完了していなければ、普通に死んでいますよ……。まぁ、その内、右側も完全に機械化する予定でしたから、痛手はそれ程ありませんが――」
麗句の言葉に、生首は、ドクトル・サウザンドは、盛大な溜息とともに返答。触手状態のコードを駆使し、軟体動物のようにズルズルと麗句へと詰め寄る。
「貴女も同様に解体……機械化してさしあげましょうか?」
「悪いが、人形遊びに興味はない」
……!
麗句が指をパチンと弾くと同時に、“赤”の光が麗句の周囲から円状に噴き出し、サウザンドを麗句の間合いの外へと弾き飛ばす。
光は麗句とサファイアの周囲を囲うようにして、“檻”のようにその場に持続する。
アルも、ガブリエルも、サウザンドも、もはや二人の傍に近寄れない。
「姉ちゃん!」
「……組織への義理立てもある。お前の醜悪な策も、企みも総て試させてやった。だが、これ以上はない。これより先の私の行動に、譲歩はない。一切の、一欠けらの、一摘みの妥協すらない」
そう告げる、麗句の黒い瞳を見据えたサファイアの背筋に悪寒が走る。
麗句があの“単眼巨鎧”を屠った事が、ようやく腑に落ちたような気がした。
彼女は自分の一挙手一投足を誰にも阻まれぬよう、元来、“味方”であるはずのドクトル・サウザンドへとその牙を向けたのだ。
彼女は――組織の一員としてではなく、彼女個人として、いま自分の前に立っている。
彼女は、彼女自身の意志でいま自分を、自分が手にする“創世石”を見据えている。
「お前は確かに美しい。だが、“物質としての神”などというものは元来、人の手の内にあるべきものではない。まして、お前のように己の血を搾り、他者の喉を潤すような、聖者の如き気性の娘が持つべきものではない」
麗句の声は凛としながらも、微かに震えたように思えた。わずかであるが、彼女の美貌、その奥底に秘められた感情が垣間見えた気がした。その欠片が、サファイアの聴覚を、心を捉えて離さない。
「お前と私は良く似ている。このまま歩めば、私と似た道を歩むだろう。だが、それは、お前だけでなく、周囲の人間をも不幸へと導く――“絶望”の道だ。優しさが総てを救える程、この世界は単純でも、酷薄でもない。その優しさがチカラを手にした時、耐え難い悲劇を産むこともある」
麗句の目がわずかに伏せられ、どこか悲しげな色彩を宿す。
「渡せ、いまならばまだ引き返せる。一時、奇蹟を手にした町娘として、穏やかに、怠惰に余生を過ごすことができる。子を成し、生命を後の世に繋ぐことができる。それは、当たり前でありながら、得難い幸福、奇蹟だ」
自らへと手を差し伸べながら、告げる麗句の声と言葉は、突き付けられた剣のようにサファイアの胸へと迫り、サファイアの顔を真っ直ぐに見つめる麗句の瞳はどこまでも真摯で、強かった。
情に、満ちていた。
――けれど、
「ダメ、だよ」
ここで彼女に“従う”わけにはいかない。
彼女の言葉には、何故か、無視できないような響きが、心に直接、圧し掛かる“重み”がある。
でも、これは、この石は――、
「この力は、託されたものは、ボク一人のものじゃない。たくさんの人の想いが、ココに導いて、ボクが受け取った、みんなの“願い”でもあるんだ。……例え、貴女がどんな人でも、ガブ君やアルを悲しませた人達に、その願いは、“創世石”は渡せない。ボクが、護るよ」
「……美辞麗句だな。だが、それは冥府に鳴り響く鈴の音に等しい。――やれやれだ。残念だが、人は実際に誤らねば現実を直視できぬものかもしれんな。お前も、私も」
麗句は溜息とともに告げると、“鎧醒器”であるバックル、“ヘヴンズ・ゲイト”を握り締めたサファイアへと、その足を一歩、踏み出す。
「まぁいい。そもそも決闘が私の流儀だ。それをお前が望むというなら是非もない。お前の意志。私の意志で折り砕き、地に這わせる。神なき世界に――神という“幻想”を降ろさぬために」
「……!」
気が付けば、麗句の手に、その中心に赤々と輝く“麗鳳石”を埋め込まれた、黒い短剣の如き“鎧醒器”が握られている。柄を握り、鞘へと手を添えた麗句は、それを天へと掲げるように構える。
「ダ、ダメだ……!」
「ガ、ガブ……?」
その様に、麗句=メイリンが出現した後、言語を喪失したかのように押し黙っていたガブリエルが、蒼白となった表情とともに口を開く。
「サファイアさんは……サファイアさんは殺される……!」
「『鎧醒』――!」
麗句の唇がその言霊を紡ぐと同時に、鞘から短剣は引き抜かれ、目も眩むような高濃度の“畏敬の赤”の光が周囲に迸る。
短剣のそれの如く、空間に突き立てられた“畏敬の赤”の刃は“現世”を切り裂き、その裏側――この世を構築する“概念”を司る“異世界”から漆黒の鎧装を召喚する。
大仰な二翼を持つ異形の鎧装は瞬時に分割され、麗句の腕に、肢に、瞬く間に装着されてゆく――。
【 “QUEEN HAWK”――起動完了】
鷹の貌を摸したと思しき、機械的な仮面が麗句の美貌を覆い隠し、刺々しい、だが、匠の手による彫像のように整えられた、天使と呼ぶにはあまりに禍々しく、悪魔と呼ぶにはあまりに美しい鎧装が麗句の全身を、その存在をこの世ならざるものへと変える。
「……さぁ、挑んで来い。“皆の願い”という美辞麗句を貫く覚悟、私に見せてみろ――“救世主”」
麗句=メイリン。
彼女の意志を宿した鷹の仮面、“畏敬の赤”の光を満たした眼がサファイアを見据え、対峙する者の意識を遠のかせるほどの“殺気”が、黒の鎧装から噴き出す。
全身を濡らす汗を、粟立つ肌を認識しながらも、サファイアは己が手の握るバックル、“ヘヴンズ・ゲイト”を腰へと導く。
「……貴女の事はよく知らない。けれど、この石を奪おうというのなら、”皆の願い“を踏み躙るっていうのなら……」
青い瞳が、恐怖と戸惑いを振り切り、真っ直ぐに漆黒の鎧装を見据える。
「ボクは――戦う!」
『鎧醒』――!
言霊の発声と同時に、空間を叩き割るようにして出現した白銀の機甲が、サファイアの肢体へと装着され、いま再び“アルファ・ノヴァ”は、機甲の救世主は現世へと顕現する。
麗句の接吻によって、体力と概念を補強・回復した肉体は驚く程に軽い。
だが――、
邂逅は終わり、いま死闘が始まる。
彼女達の生涯そのものとでも呼ぶべき、永き死闘が。
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