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アームド・ブラッド―畏敬の赤―  作者: chiyo
第一章 覚醒の兆候―NEXT LEVEL―
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第03話 豊穣なる日々Ⅲ

#5


 夕食時も過ぎ、仕事を終えた男達が集まり始めた街の食堂は、夜の顔である“酒場”としての様相を(てい)しはじめていた。猥談や馬鹿話が店内に満ち始め、それは“裏部屋”で慣れない酒を口に運ぶキョウたちの耳にも届いていた。


 この裏部屋は、響たち、“強化兵士カスタム・ヒューマン”が気兼ねなく食堂を利用できるようにと、特別に作られた言わば、“特等席”である。


 現実的には街の住民と顔を合わせることによって発生するであろう、余計なトラブルを未然に防ぐための“隔離席”であるが、住民たちへの気を(つか)わずに済むこの場所は響たちにとっては有り難く、また得難いものであった。


 その裏部屋で響はどこか虚ろな目で、出されたフライドポテトにトマトケチャップをかけていた。血に溺れたようなそれがまるで、自分たち“強化兵士カスタム・ヒューマン”を暗示しているかのようで、ジェイクは口の端に苦い笑いを浮べた。


「なんなんだい、アンタ達、陽が暮れた途端に押しかけたと思えば、パトロールだ、なんだとまた出掛けて、戻ってきたと思ったら今度は酒びたりかい」


 いつにもまして辛気臭い空気を()き散らす『VENOM(ヴェノム)』の面々に、食堂の女主人であるカミラ・ポートレイは呆れ果てた表情で吐き捨てながらも、サービス品である鳥の蒸し焼きを彼等のテーブルに置いてくれた。


 この自治区の構築、その最初期に携わった長、ホグランの“戦友”とすら呼ばれる彼女である。『VENOM(ヴェノム)』の面々がいま抱える問題、葛藤を知ったうえでいま、ここに立っているのだろう。ホグランが彼等の父親なら、彼女は母親と呼べる存在であった。


「あの子ほど上手くはないけれど、それなりの味のはずだよ。そんなシケた(ツラ)じゃ、何食っても美味(うま)くはないだろうけどさ」


 ――美味くないはずがない。酒ばかりが満たされた空虚な胃袋に香采などをふんだんに使った、この鶏料理の香りはひどく刺激的で、喉が自然にゴクリと鳴るのにそう時間はかからなかった。


 彼女は街の嫌われ者である彼等『VENOMヴェノム』にいつも一品だけ、手料理をふるまってくれる。ぶっきらぼうな口調のなかにもどこか気遣うような響きがあり、この口うるさい“母親”は間違いなく『VENOMヴェノム』にとっての“癒し”であり、“救い”であった。


 かつては著名なポルノ女優であったらしく、出演した作品群はいまでも『煌都こうと』などで人気を博しており、その息の長さから、いまだに彼女が二十代の女優だと信じているファンも多いという。


 といっても、四十代に差し掛かったいまでも、その美貌は健在であり、街の男たちの憧れの的になっている。かつては、いまは退店しているサファイアと共に二枚看板と(うた)われた、この店の象徴とも呼べる女性である。


「しょげるのも、酒に愚痴(ぐち)るのもいいけど、しゃきっとしなよ! その鳥、ミリィのぶんも残しておきなよ。いまも真面目に“哨戒任務(パトロール)”の真っ最中だろ?」


 そのカミラの言葉が示すとおり、『VENOMヴェノム』の紅一点である、ミリィ・フラッドは現在、自らの強化兵士(カスタム・ヒューマン)としての“能力”と足を使い、街のパトロールを続けている。

 

 ふて腐れて任務を放棄したいような、自暴自棄な気分ではあるが、実際にそれが出来る程、彼等は自堕落ではない。――真面目(まじめ)なのだ。


 毒を持って毒を制す。そのような意図から『猛毒(ヴェノム)』と名付けられた若者たちは血生臭い戦場にしか生きることを許されなかった自分たちに、少しでも人間らしい“職場“を与えてくれたこの街に、執着にも似た恩義を感じていた。


 そこから”出て行け“と言われたに等しい現在でも、それは変わらない。酒に逃げようと試みているにも関わらず、ある程度、時間が経過すれば、日課であるパトロールに代わる代わる戻ってしまう。


 必要とされようが、必要とされまいが、関係ない――彼等はこの街を護りたいのだ。一途なまでに、その想いは強固である。


「……隊長、ちょっと()りすぎじゃないですか? そんなに強くないでしょ」


 ……アルコールには。

 苦笑ぎみに告げるジェイクの横で、響はあまり質の良くない酒を炭酸水で無理矢理、薄めて口に運んでいた。ガルドはそんな響の隣で若干、戸惑っているような、彼を心配するような視線を響へと送っていた。度を越したなら、止める。


 そんな決意がガルドの岩のような、生真面目(きまじめ)な顔に滲んでいた。


「まぁ長の話もわからないではないっすけどね」


 響とは違い、慣れた手つきで酒をグラスに注ぎ、ストレートで飲み干したジェイクは叩きつけるようにグラスを置くと、自らの昂ぶりを抑えるように、ケチャップ塗れのフライドポテトを口内に放った。そして、それをガツガツと食らいながら、彼は言葉を投げる。


「確かにこのちっぽけな街の保安組織にしては、俺たちは強すぎる。“毒”を持って“毒”を制すにしても、俺達の“毒”の濃度が濃すぎるせいで街の人間達は怯え、“強化兵士(カスタム・ヒューマン)”って看板に罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を飛ばす有様だ。まるで毒に侵されちまったみたいに……」


 ジェイクの言葉に、ほんの少し酔いが回り始めた響の赤い瞳が彼の方へと微かに動く。


 その赤の瞳も、金色の髪も、彼が生来、持つ“自然な”ものではない。


 彼が受けた人体精製の、体内に植え込まれた“魔獣(ビースト)”と呼ぶに値する“存在(シング)”の影響によって、色素が変質したがゆえの産物(もの)だ。他の隊員にはそこまで影響を与えるような精製はおこなわれていない。


 特別製の規格外品――強化兵士のなかでもより際立った毒素を持つ存在。それが響なのだ。そんな彼だから、ジェイクの言葉は尚更(なおさら)、胸に刺さるものなのかもしれない――。


「『煌都こうと』なら、この前も大規模なテロがあったって話だし……俺達の力もいい感じに使えるかもしれませんね。ここより全然、物扱いかもしれねぇけど、力を持て余すってことはなさそうだ。破壊屋同士、テロリストどもと潰し合うのも一興かもしれませんしね」


「……『煌都』に何がある」


 冗談とも本気ともつかない口調のジェイクの言葉を、響の鋭い刃のような声が引き裂く。静かな怒りに、やり場のない憤りに満ちた響の瞳に、ジェイクは軽く息を吐き、ふたたび言葉を紡ぎ始める。――軽妙に、しかし、飽くまで真剣に。


「……そりゃ金払いも物資もこことは比べ物にならないだろうし、何より十六戦団となりゃ『煌都』のお抱えだ。一気に戦後世界の勝ち組に――」

「『煌都』に……この街の連中はいない!」


 大声というわけではない。だが、突き刺さるような叫びだった。


「俺たちがいままで守ってきたものは『煌都』にはない。ここにあるものは、ここにしかない――」


 響が握り締めていたグラスに微かに亀裂が走る。わずかに滲み出た水滴がテーブルに落ち、

濡らす。


「俺が守りたいものはここにしかないんだッ!」


 しばしの間、沈黙が満ちた。響の言葉は主張というより、代弁だった。ジェイクも、ガルドも、同じ想いを抱いている。どんな罵倒を受けようが、彼等はこの街が好きだった。ここにある人の営みが、彼等がこれまで身を置いてきたどんな場所よりも、あたたかく、朗らかな暮らしのあるこの場所が。


 響にしてみれば、“強化兵士”である自分を兄のように慕ってくれるアルや、

VENOMヴェノム』の後援者であり、理解者であるその両親。


 そして、サファイア――。繫いできた絆は彼にとって、既に彼の半身。人間としての自分を成り立たせているかけがえのないものだ。


 『煌都』でも近しい存在は現れるかもしれない。だが、代わりがあるからといって代えられるほど、彼等がこの街で培ったものは軽いものではない。

 決して失えない、彼等の自己存在(アイデンティティ)にも関わる問題だ。そして――、


「……そのわりにゃ、逃げてますよね、隊長は」


 満ちていた沈黙を、挑発的ともいえるジェイクの言葉が破る。


「どういう意味だ」


 響の眉がピクリと動き、ジェイクと彼の視線が交わる。二人の間の空気が一瞬で張り詰めるのを感じ、ガルドは岩のような顔に汗を滲ませる。彼の無骨な、大きな掌はいつでも最悪の事態を制止できるよう準備を始めていた。


「わかるでしょ? サファイアちゃんですよ。いったい何日帰ってないんです? 確かにここ数日、俺たちは忙しかった。だけど、まったくチャンスがなかったわけじゃない。あの子が美味い弁当を届けてくれても、アンタは“ああ”とか、“助かる”とか一言だけ。まるで愛想がない。頭のなかは彼女でいっぱいのクセに、だ」


 ジェイクの勢いは止まらない。


「アンタはまるで、サファイアちゃんに触れるのを怖がってるみたいだ。――いや、怖いんでしょ? 自分の“戦闘衝動”が、彼女を壊しちまうような気がして、ね」


 響は答えない。それがジェイクの勢いにさらなる油を注ぐ。より滑らかに、また、苛立ったように、ジェイクは口撃を続ける。


「アンタが内に飼ってるやつは、俺たちの戦闘衝動とも違う、特別(スペシャル)な代物だ。“やつ”を満足させられるだけの戦闘が、治安の回復したこの街では得られなくなってきている。そんな状況下で、自分が彼女の前で理性を保ち続けることができるのか。“やつ”を抑えきれるのか。アンタは不安で不安で仕方ないのさ。そう――」


 ジェイクは響の目を睨みつけながら言い放つ。 


「彼女を、殺してしまうんじゃないかって」


 ガタッ! その刹那、響が腰掛けていた椅子が転がり、ゆらりと響の長身がジェイクの前に立ち塞がる。


「どうせ抱いたこともないんだろ!? この童貞隊――」 


 ガルドの掌が響を抑えようとしたときにはもう遅かった。そのときには凄まじい速度で響の拳が躍動し、ジェイクの肉体を椅子ごと吹っ飛ばしていた。


「お前に……何がわかる。お前に……!」


 響の言葉には混乱があった。

 そして、激しい苛立ちが響を支配していた。こんな時に、そんなわかりきったことを口にするジェイクの心理が読めず、“戦闘衝動”とは違う激しい昂ぶりが響の全身の血を沸き立たせていた。

 

 ジェイクにしても、彼の気持ちが“わからない”わけではない。


 わかるからこそ、痛いところを突いているのだ。口内に満ち始めた血の味を感じながら、ジェイクは立ち上がり、鋭くなった響の眼光を受け止め、再度、(にら)みつける――。


「わからねぇな、手前勝手な臆病風であんないい子ほっとくなんざ!」 


 そして、ジェイクは、あえて言葉を研ぎ澄まし、響の心を(えぐ)り続けた。


「なんなら俺がもらってやろうか? 色男」

「……ッ!」


 まるで、響の内に眠る獣を挑発し、外部(そと)へと誘いだすように――ジェイクは口の端を歪めた。


 ◆◆◆


(静かな夜……静かすぎて、すこし不安になるくらい)


 街のほぼ中心に位置する建造物を割り出し、その屋上に一人立つミリィは物憂げにつぶやき、 

 自らが飛ばした思念波の糸が、街中に伸び、網を織り上げてゆくのを静かに感知していた。

 

 念動力、精神感応、透視能力、かつて、超能力と呼ばれていたそれらの能力はいまや、人体精製で生み出すことが可能な、さして珍しくもない、数多ある能力の一つに過ぎない。


 とはいっても、それを人に持たせるには、やはり尋常ならざる処置が必要となる。

 

 能力の発生源となる器官を無理矢理、人体に植え込み、機能させた――二十%以下の成功率で誕生する超能力者、魔法使い(ウイザード)と呼ばれる“強化兵士”たちは生けるレーダー、砲台、分析装置として、戦場を駆け巡り、道具のように壊れていった。


 ミリィは壊れずにすんだ魔法使い(ウイザード)の一人。そして、思念波による監視網を使い、この街を狙う不埒(ふらち)な輩の侵入、暗躍を未然に阻止する『VENOMヴェノム』の“守”の部分を司る、かかすことのできない逸材でもあった。ミリィが飛ばした思念波の糸は数百の監視カメラの如く、あらゆる異変、事象をミリィへと知覚させる。


 常人ならば、瞬時に発狂してしまいそうなほどの情報量がミリィの脳内へと送信され、ミリィの研ぎ澄まされた感覚の眼がその一つ、一つを吟味(ぎんみ)してゆく。


 外からこの街に入れる場所は二つしかなく、そのどちらも常時、街の有志が代わる代わる見張りに付いており、何か問題が発生すれば、すぐに『VENOMヴェノム』が出撃できるよう連絡体制は万全に整えられている。

 

 そして、内部はこのミリィの能力――文字通りの“監視網”によって、死角なく見守られている。無論、ミリィの精神と肉体に多大な負荷をかけるこの能力だけで街を守り抜けるわけもなく、隊員たちの地道なパトロールと一つとなることで、初めて街を防護する障壁と成り得る。


 自分たちが不要となるほど、治安が安定した現在でも、ミリィの心に油断はない。慢心一つない、平静かつ冷静な精神が街を視覚し(み)ていた。


(ん……?)


 そして、街を見守っていたミリィの集中がほんの少しだけ乱れたのは、知覚した見覚えのある背中と赤い髪によって、であった。相棒であるミニバイク“エクスシア”を押しながら、夜の街を歩く彼女の姿に、ミリィは思念波の糸を解除し、数十メートル先を進む彼女、サファイア・モルゲンを肉眼で確認する。


「サファイアさん……こんな夜中に?」


 つぶやくやいなや、ミリィは感情に流されている自分に苦笑しながらも、足腰に力を込め、跳躍の態勢に入っていた。――彼女の元へ、ゆくために。


「サファイアさんっ」

「えっ――?」


 不意に上から掛けられた声にサファイアが顔を上げると、そこには通りの建造物の壁を走り抜けるように蹴り、着地地点を見極めたかのように、くるりと宙を回転するミリィの姿があった。響のような建造物越えはあまり得意ではないが、壁を蹴って、飛距離を伸ばすくらいの芸当は出来る。


「はっ!」


 着地と同時に、ブーツの底が伸縮し、その衝撃を逃がす。強化兵士カスタム・ヒューマンの身体機能をフルに活かせるよう、彼等の戦闘服=『VENOMヴェノム』の制服には様々な機能(アイディア)が盛り込まれている。それこそ『煌都こうと』に高く売れそうな、もっと評価されるべき代物だ。


「ミリィさん! 良かった、探してたんです」


 みんな、隊員寮にいなくて。そして、突然、空から舞い降りてきたミリィにサファイアは、たたたっと駆け寄ってくる。“エクスシア”は突然、機能を停止してしまったらしく、うんとも寸とも言わないようだ。その後部に取り付けられた籠には自分たちへの差し入れが入ってると思しき、バッグが積まれていた。


「夜の一人歩きは危ないですよ、それこそアルくんを叱れなくなる」


 彼女のその好意を有り難いとは思いつつも、ミリィは腰に手を当て、保安組織メンバーとしての見解を述べる。表情を引き締めてはいたが、そこには子供を叱るような軽いニュアンスがあり、注意とは裏腹な彼女への信頼、親しみが込められていた。


「ははは、たしかに。相棒のご機嫌も損ねちゃったみたい」


 新たな天使の登場に拗ねちゃったのかな? 

 サファイアのその言葉の意味はわからなかったが、彼女がまた何かを引き受けたのだということは、ミリィにもよく理解できた。彼女のいまの仕事は、いわゆる“何でも屋”だ。食堂の手伝いを辞めた彼女は、今度は街に生きるすべての人たちの手伝いを始めた。雑用、店番、ペットの世話、彼女の仕事の幅は狭いようで広く、街の人達の頼みを受け、忙しく走り回っている彼女の姿はミリィもよく目にしている。


 響の稼ぎだけでも食べてはいけるのだが、彼女はそれをよしとはせず、何とか自分の食べるぶんだけは自分の稼ぎで、と仕事を続けているのだが、彼女の性格上、報酬をきっちりと貰うことは少なく、なかなか目標の稼ぎには届かないようである。

 ――要は人が良すぎるのだ。


「シチュー作ったんです。みんなに食べてもらおうって」

「隊長に、じゃなくて?」

「響のぶんはなし! 彼女をほったらかしにしてる罰!」


 ミリィのひやかしを鼻息も荒く否定して、サファイアはふぅっと息を吐く。


「でも、反省してるなら……食べて良し」


 そこでサファイアは微笑み、てれくさそうに舌をだした。まったく、のろけにためらいのない二人である。あまりにためらいがなさすぎて、爽やかなぐらいだ。


「今日は……会わないほうがいいかも、たぶん、みんな荒れてるから」

「荒れてる……んですか?」


 こくりと頷き、ミリィは急に翳りが差したサファイアの表情に、“大丈夫ですよ!”と微笑んだ。“みんな……強いですから”、と。恐らく、これまでの微笑みは空元気だったのだろう。彼女(サファイア)だって寂しいし辛いのだと思う。想いが繋がっているのに会えない苦しみと、側にいるのに想いが繋がらない苦しみ。どちらが重く苦しいのだろう――。


 サファイアの透きとおるような青の瞳を見つめながら、ミリィは常に抱えている、そんな想いに(とら)われていた。


「私が届けておきます。好きな人に見られたくない姿って……男の人にはあると思いません?」

「たしかに! 響はああ見えて、意地っ張りで見栄っ張りだから……」


 ほんっと、しょうがないよなぁ……と切なげに笑み、サファイアはどこか遠くを見つめていた。まるで、そこに“彼”がいるかのように、その方向に“彼”がいることを知っているかのように――。 


「人間なんだもん、弱かったり、かっこ悪くて当然なのに」


 ――そのとおりだ。自分たちは強くなんかない。いま行っているパトロールも、この街を追い出されることが怖くて、怖くて、誰かにすがりたくて、職務を口実に、必死に夜の街を逃げ回っているだけな気すらする。自分たちの街への想いさえも疑ってしまえるほど、いまの彼等は混乱していた。 


 そして、そう言ってくれる人がいることが、ミリィは嬉しかった。

 自分たちを強化兵士(カスタム・ヒューマン)ではなく、人間として見てくれる彼女という存在が。


「お願いします。ホントはボクの手で届けたいんだけど……この子もなんとかしなくちゃいけないし……」


 ミリィにシチューの入ったバッグを手渡すと、サファイアはすっかりバイクとしての職務を放棄し、鉄の塊と成り果ててしまった相棒(エクスシア)の座席をポンポンと叩いた。


「……アイツが遠慮なく弱音を吐けるくらい、ボクも強くならなくちゃ」


 自分に言い聞かせるようにサファイアはつぶやき、ミリィへペコリと頭を下げた。


「なれますよ、きっと――」


 去りゆく彼女の背に告げ、ミリィはすこし、目を伏せる。

 それが、どれだけ困難なことであるかを知っているから。

 サファイアという女性が響=ムラサメという人にとって、どれだけ大切な存在であるか知っているから、ミリィはその事実を受け入れるしかなかった。


(彼女がこの街にいてくれたことを感謝すべきなのか、それとも悔やむべきなのか……困るな、ホント)


 ――好感の持てる“恋敵”というのもやりにくい。

 自らの口元から漏れる苦笑を抑え切れず、ミリィは嘆息する。


 彼女から預かったシチューのあたたかさが、やけに胸に痛かった。


 ◆◆◆


「だーかーらーガブリエルは悪いやつじゃないよ!」


 その少年の声には苛立ちと、決して退かない“必死”さが込められていた。

 実に美味しかった夕食の香りがまだ残る自宅のリビングで、アルは母親に対し、“無駄の積み重ね”ともいえる交渉を試みていた。


 テーブルの上にはいまだ、残されたソースの色も鮮やかな皿々が置かれたままであり、片付けはほとんど完了していない。


 しかし、交渉という名のアルの猛攻はやむことを知らず、母親も思うように仕事ができないようであった。


 さすがに困った様子ではあったが、いくら叱っても元気いっぱいな息子の姿に安堵しているようでもあった。『煌都』に比べたら何もかもが不便な、この辺境の地でも枯れることのないアルのバイタリティは彼女の悩みの種であり、また誇りでもあった。そんな母の気持ちを知ってか知らずか、アルは一気にまくし立てる。


「お、俺、ちゃんと自分で面倒見てやりたいんだ! 姉ちゃんは可愛いって気に入ってくれてるけど……もともとは俺が連れてきたんだし……ていうか、ほっとけないんだよ!」


 それはこの少年の生真面目さとも言えた。

 姉――サファイアが心良く預かってくれた“ガブリエル”ではあるが、アルには強い心残りがあった。それは、彼(彼女かもしれないが)を見捨ててしまったのではないかという想いである。


 出会ったのは、ガブリエルが怯えながらも、弱った体を預けてくれたのは自分なのに、自分はそんなガブリエルを姉に預けてしまった。なんだか裏切ってしまったような気がして、アルは後ろめたかったのだ。


 だから、自分自身でガブリエルの面倒が見れるよう母親にかけあってみているのだが――、


「良い悪いじゃありません、アル。あの子の姿は見たでしょう? あきらかにあの動物は普通じゃないでしょう? 何処かで作られた危険な生き物かもしれないし、新生種だとしたらますます『煌都』に保護してもら……」

「『煌都』なんかに預けたら解剖とかされるかもしれないじゃないかっ!」


 話し合いは平行線上をゆくだけでまったく前進しない。理屈で“ガブリエル”を否定する母と、感情で“ガブリエル”を保護しようとするアル、二人がかみ合うはずもなく、それは当然といえば、当然の結果といえた。息子を想う母の情と、ガブリエルを想うアルの情のぶつかり合いでもあるから尚更である。そして――、


「アル、ここに座りなさい」


 そんな二人の姿に頬を緩めていたアルの父――ランディ・ホワイトは、夕食の片付けの障害となっているアルへと太く、(ほが)らかな声をかける。一家の主である父からの言葉に、アルもしぶしぶとテーブルに戻る。


 アルはこの父にだけは逆らえない。心から慕い、憧れている存在なだけに、アルは口を尖らせながらも父の話を聞く態勢をとっていた。母への反抗も抗議の名を借りた甘えといったところかもしれない。――“男の子”とは得てしてそういうものだろうか。


「あまり母さんを困らせるんじやない。……母さんの料理の香りがいつまでも楽しめるという点では素晴らしいことだが」


 食後のコーヒーを楽しみながら、そう告げる父にアルは少し呆れたような顔になる。サファイアと響もそうだが、自分の周囲には“のろけ”自慢が多すぎる気がする。まぁ素敵なことではある。姉の部屋で盗み読んだ小説のような、ドロドロの人間関係や恋愛模様はアルの趣味ではなかった。


「それにいまは、お前の大好きなお姉さんにも、迷惑をかけっぱなしらしいじゃないか」

「ね、姉ちゃんは……!」

「いいから聞きなさい」


 口を開きかけたアルを目で制し、父はどっしりとした笑みを浮かべる。ホワイト家の大黒柱であり、この自治区(ナザレス)の“外交官”である男の余裕ある笑みだ。

 

 自治区(ナザレス)の長であるホグランの兄のもとで、機械技師としての腕を磨き、一財を成した彼ではあるが、師匠とホグランの頼みを受け、一年程前に『煌都』と自治区(ナザレス)を繋ぐパイプ役としてこの街に移住。以来、外交官としてその腕をふるっている。


 自治区の暮らしを豊かにする機械技師としての技術と、機械技師にしておくには惜しい交渉術。そして、辺境という小さな檻のなかで暮らしていては決して身に付かないような、“世界”に関する知識。


 また、その彼と『煌都』を通じて、世界の情勢を、世界から見た自分たちを知ることができる点が、住民とその長たるホグランにとって非常に大きなメリットであった。

 

 世界と自分たちを繫ぐ存在としても、一人の人間としても、もはや彼の存在はこの街にとってなくてはならぬものとなっていた。


 だが、父の都合で何もかもが充実した『煌都』からこんな辺鄙(へんぴ)な辺境に越してこなければならなかった息子はたまったものではなかった。

 

 この自治区(ナザレス)に移り住むことになったとき、あまりに突然な環境の変化に心を閉ざしてしまったアルを救ってくれたのが、サファイア・モルゲン。彼女であった。


 混乱と寂しさを紛らわすためなのか、周囲に悪戯や意地悪を繰り返していたアルを叱り、初めての友達に、心を許し、預けられる姉になってくれた彼女の存在はたぶん、アルが自分で考えている以上に大きい。

 何でもあったはずの『煌都』に存在しなかった温もり。その温もりと優しさがこの自治区をアルの第二の故郷に、その命を輝かせられる場所としてくれた。


 この事実に対するアルの両親の感謝はバケツいっぱいに涙をためても、まだたりないほどだった。彼女が自治区(ナザレス)に舞い降りた救世主(メシア)にすら思えたものだ。


「私も母さんも彼女には感謝しても感謝しきれないほどの恩義を感じている。だからこそ、彼女にお前の我侭をいつまでも背負わせるにはいかないと考えている。それはわかるな?」

「……わかってるよ。だから、自分で面倒を見たいんだ。自分の責任は自分で――!」

「違うな。お前は“他人の責任”を、自分の我侭(わがまま)で背負おうとしている。それも自分の命を代価として、だ」


 そこでアルは父の口調が一変したことに気付いた。瞳には厳格さが、彼お得意のジョークも裸足で逃げ出すような迫力が宿っていた。そして、いつの間にか、アルはその瞳から目をそらすことができなくなってしまっていた。真っ直ぐな、父の視線から。


「お前は優しい。父さんや母さんよりも早起きして死に急ぐような馬鹿をやるのも、得体の知れない、ひょっとしたら自分を食い殺すかもしれない生き物を世話しようとするのも、お前が優しいからだ。自分の大切なものや弱いもののためなら、自分の身の危険を考えずに行動できるその優しさがお前を突き動かしている。――だが、父さんも母さんもそれが、お前自身を取り返しがつかないほど傷つけてしまうんじゃないかと、とても恐れてる」


 父の瞳には苦悩が満ちていた。アルがしでかしていることへの不安、怒り、また、それをしでかすことのできるアルの心身への誇り。

 

 様々なものが入り混じり、どうしようもなく真剣な光を父の瞳に、眼差しに宿らせているのだ。その光を、アルも見つめる。自分にも同様の真剣な光が宿ってゆくのを感じながら――。


「響くんたちの事は長も、父さんも母さんも心を痛めてる。だから、今日、一つの提案を彼等にさせてもらった。それを受け入れるかどうかは彼等次第。まだ、どうなるかはわからないが、私としては彼等が選ぶ結果を尊重しようと考えている。それが良い選択だったと彼等が思えるよう陰ながら力になっていくつもりだ。……いや、陰ながらなんてのはそれこそ、お前の嫌いな“大人の言い草”だな。これからは“陰ながら”なんかじゃない。街の人達と喧嘩をしてでも、彼等をしっかりとフォローしてゆく。大人として、彼等の後援者として、お前の親として、責任を果たすためにね」


「父さん……」


「だから、お前はあんな無茶なんかしなくていい。まったく馬鹿げた行為で、子供の我侭としか言い様がないが……その子供の我侭と言い分が胸に堪えた。まったく、お前ときたら、響くんやサファイアくんのためなら、世界すら敵に回しかねないからな」


 父は息子の手を握り締め、告げる。


「――お前は自慢の息子だ。だから、これからはお前だけが辛いことを背負わなくていい。お前が寄りかかれる肩はここにもあるんだ。これでも、お前の両親なんだからな」

「……兄ちゃんたちはもう、大丈夫?」


 “ああ”

 ――息子の問いに、父は無言の笑みで応える。その笑みにアルのなかにあった壁のようなものが一気に崩れ去った。そして、それと同時にアルの瞳からポロポロと涙が(こぼ)れ落ちる。いままで一人で背負い込んできた重圧(プレッシャー)を、一番、降ろして欲しかった人に降ろしてもらえたから。その人が自分の気持ちをわかっていてくれたから。嬉しくて、嬉しくて――涙が止まらなかった。


「ありがとう、父さ…」

「礼を言うなら母さんに、だ。私を説得し、奮い立たせてくれたのは他ならぬ母さんなんだからな」


 父の言葉にアルが潤んだ瞳を母へと向けると、彼女は気恥ずかしそうにテーブルの上の皿を片付けていった。


「ありがとう、父さん、母さん。俺、なんていっていいか……」


 ――今まで心配かけてゴメン。

 ずっと言いたくても言えなかった言葉を喉が搾り出した瞬間、アルの口から嗚咽が漏れ出した。次第に大きくなるその嗚咽に、アルがこれまで抱えてきたものの重さを、その重圧を知り、父と母は自慢の息子に寄り添い、その肩を抱いた。


 これからは彼が抱えてきた重圧は自分たちのものとなる。

 互いの温もりを繋いだ家族として。痛みを分かち合い、共に生きる家族として。私達はこの土地で強く生きてゆく――。


 そして、息子の優しさと願いを無駄にすることなく、自治区(ナザレス)のあたたかな未来に繋げてみせる。

 

 そんな両親の決意が、朗らかな食卓の灯りのなかに揺れていた。


 ◆◆◆


「……どうした。立てよ、さんざん挑発したのは、ゆっくり寝るためか?」

「へっ――冗談(ジョーク)なんざ十年はえーよ、仏頂面」


 口内に溜まった血を吐き捨て、立ち上がったジェイクは眼前に立つ響を不敵な笑みとともに(にら)()えた。ほんの五分程前に始まった二人の決闘は、街の路地裏を舞台として、次第に凄惨な様相を(てい)し始めていた。普段の作戦に裏打ちされた規律正しい“戦闘(ミッション)”ではなく、拳と拳が乱舞する乱雑な“喧嘩”の様は、見守るガルドの心に悪寒を走らせたが、同時にどこか高揚している自分も感じられ、“強化兵士(カスタム・ヒューマン)”としての己の性をガルドは否が応にも認識させられる。


 それでも、食堂にいる人々に迷惑をかけまいと、生ゴミが散乱し、アンモニアのような臭気が漂うこの裏路地を決闘の場に選んだ二人には確固たる理性を認めることができる。

 最近、この場所に居ついた野良猫たちには悪いことをしたが。 


「ちょっと……なにやってんの!? 隊長! ジェイクっ!」


 そして、異変を察し、路地裏に駆けつけたミリィの裏返った声がガルドの耳朶を打つ。ミリィの腕には見覚えのあるバッグが抱かれている。彼女の差し入れだろう。彼女が此処にいなくて良かった。ガルドは心からそう思う。此処にある光景は――彼女にはだいぶ刺激的だ。


「はなして……! はなしてよ、ガルドっ! このままじゃ……っ!」

「俺もそう思っていた。だが」


 大きな掌でミリィの肩を抑えながら、ガルドは続ける。


「言葉だけでは伝えられぬものもある」


 そう――始めはガルドも二人を止めようとしていた。だが、二人の、彼の様子を見るうちにガルドの直感が何かを告げた。

 これは違うのではないのか、と。これは野卑な“喧嘩けんか”ではないのではないかと――。


「どうした。もう終わりかよ、魔獣(ビースト)骸鬼(スカルオウガ)が笑わせやがる」


 何度、ふっとばしても()まないジェイクの挑発に響の歯がギリと軋む。

 力の差は歴然としていた。

 響もジェイクの痛烈な一撃を何発も受けてはいたが、ジェイクが食らった拳の数はその比ではない。“喧嘩”としては既に決定打と呼べるものを十発以上、その体に受けている。


 だが、彼は退かない。

 これ以上は“殺し合い”になる。その事実がヒートアップした響の思考を急激に冷却してゆく。


「馬鹿野朗……死ぬぞ」

「ハッ……俺はそう簡単に壊れねぇよ、この甘ちゃんが!」


 刹那、戸惑いから拳を下ろした響の頬をジェイクの拳がえぐり、その体を地面へと叩きつける。倒れた響へと容赦なく襲い掛かる蹴りが、冷却された響の闘争本能を再沸騰させる。


「もうやめて! 二人ともヤケになりすぎよ!」

「しっかり見ていろ! ……信じるんだ、二人を」


 二人の間へと飛び出そうとしたミリィをガルドが制した瞬間、ジェイクの蹴りを受け止めた響が、ジェイクの脚から体を滑らせるようにして態勢を整え、体を起していた。その動きから全霊の一撃を予感したジェイクは飛び退き、全身の筋肉に命じる。

 ――これで、最期だ。気合、入れろ。


「おおおおおおおおおおおおおおおお」 


 共に躍動した二人の肉体は一瞬のうちに決着を迎えた。

 カウンター気味に炸裂した響の拳がジェイクの身体を数回転させ、地面にバウンドするボールのようにふっ飛ばしたのである――。

 ミリィは声を失い、ガルドも、拳の主である響ですらも、目を見開き、その様を追った。


「……ジェイクッ!」


 激しく路地を鳴らし、動かなくなったジェイクのもとへ響は駆け出す。


(馬鹿野朗……何を考えてッ!)


 ―― 迂闊(うかつ)だった。ジェイクは自分を粗暴で、軽薄な男のように見せているが、本来の彼は思慮深しりよぶかく、情け深い男だ。


 こんなくだらない喧嘩けんかをふっかけるような男ではない。……わかっていた。わかっていたはずだった。焦る心とともに響はジェイクの顔を覗き込む。そこには――、


「ったく、やっぱつええな、隊長は……」


 どこか憎めないお調子者の、ボロボロの笑みがそこにあった。

 その笑みに響は全身から力が抜けたように、表情を崩した。心からの安堵が吐息となって響の口から漏れる。そして、呆けたような響の表情に笑いを漏らしたジェイクに、響は少々憮然として口を開いた。


「どういうつもりだ、お前。こんな……」


 一歩、間違えば彼を再起不能に――下手をすれば死なせてしまうところだった。妙な話だが、強化兵士どうしでの喧嘩は信頼できる者としかできない。脳内に吹き荒れる戦闘衝動を律し、筋力を並の人間程度に制限(セーブ)できる者どうしでなければ、その喧嘩はすぐに殺し合いに発展してしまう。今回はその一歩手前までいった。……実に危険な行為だ。まして、響が抱える戦闘衝動は他の強化兵士と比べて極めて強い。


「……いやあ、相変わらず強いっスね、隊長」


 だが、ジェイクの口調は飽くまで軽く楽しげだった。悪戯を成功させた子供のような無邪気さまで感じさせた。


「そして、甘い。こんだけ殴っても急所や俺の古傷には一発も入ってないなんて」


 ジェイクは口内に溜まった血を吐き捨て、響が差し出した手を掴んだ。


「アンタがサファイアちゃんを殺す……? ありえないね。さんざん挑発してキレさせたところで俺一人、壊せやしねえんだ」


 そこで、響は彼の真意に気付いた。


「お前……」

「……自信持てよ。アンタは人間としてやってける。内に潜む怪物にも喰われやしないさ。だからさ、落ち着いて考えようぜ。俺たちのこれからを」


 それだけが言いたかった。そして、それを実感させるためだけの喧嘩――。

 

 まったくバカバカしくて仰々しいが、戦うことしかできない強化兵士(カスタム・ヒューマン)らしい、(いや)、まったくもって俺達らしいやり方だ。


 問題解決のために奔走しながらも大仰なその能力ゆえに街を壊してしまう俺達らしいやり方。それができるだけの信頼も、これまで苦楽を共にした“絆”もささやかながら存在する。


「俺は……アンタについていく。俺が隊長と呼べるのは、なんだかんだでアンタだけだからな」


 いや、そう言ってくれる仲間に対し、ささやかな、と表現するのは失礼な話だろう。言葉にするのは照れくさいし、気取った台詞も苦手だから一度も口にしていないが、彼等は初めて出来た兄弟のような存在だった。失いたくない――そう思えるかけがえのない。


「隊長っ! ジェイクっ! この馬鹿……っ」


 涙を(こぼ)しながら駆け寄ってくるミリィ、温和な表情で少しだけ呆れた様子で自分たちを見守ってくれているガルド。自分のために派手な無茶をしてくれたジェイク。

 

 彼等と共にこれからの自分たちを模索する――それが現在の自分がこなすべき最重要任務なのは確かだ。彼女、サファイアのためにも――。

 

 強化兵士(カスタム・ヒューマン)としてではなく、一人の人間として。


「今日はお帰りになるんですか、隊長?」


 ちょうどサファイアのことを考えていた最中に投げかけられた言葉に、響の頬にかすかな朱が浮かぶ。


「そうしたいがな。こんな顔じゃ……帰れない」


 ジェイクとの喧嘩で腫れ上がった自らの顔を指差し、響は笑った。

 こんな顔で帰ったら、彼女はきっと激しく怒るだろう。

 そして、自分を心配するあまり、もしかしたら泣いてしまうかもしれない。その姿は愛おしくもあるが、やはり胸が痛む。

 大事に思うあまり、触れられない――そんな側面が響には確かにあった。


「――今夜はじっくり考えたい。哨戒任務(パトロール)も手を抜くわけにはいかないからな」


 しかし、そんな臆病さにも別れが告げられるかもしれない。その機会を仲間がくれたのだ。無駄にするわけにはいかない。そして、いまは彼女が安心して眠れるよう、この街の安全を完全なものとしたい。


 今後、どうなるかはまだわからないが、自分の職務はいまだ保安組織の隊長――この街の治安を守る防人なのだから。


「無事、夜があけたら……」


 彼女のところへ帰ろう。彼女と共に今後の事を考えよう。

 お互いフラつく足取りをジェイクとともに支えあいながら、響は路地裏から足を踏み出す。

 瞳の奥に、微笑む彼女のぬくもりを感じながら。


「おやすみ、父さん、母さん」


 そして、その響を慕う少年も、明日から装いを変えるかもしれない、これからの日々に想いを馳せながら瞳を閉じた。

 

 父と母が確約してくれた――それは、少年にとって何者にも勝る喜びであり、希望である。だから、彼は安心して眠ることができた。


 いままでのように早朝に部屋を抜け出すようなこともないだろう。心地よい安堵とともに彼の心は深い眠りに落ちているのだから。


「……帰ってこないね、キミにも紹介したかったのに」

 また、時刻は午前一時を過ぎた頃、響=ムラサメの想い人、サファイア・モルゲンはソファーの上で寝息を立てているガブリエルに語りかけるようにつぶやき、うっすらと瞳に滲んだ涙を拭っていた。


 ――強くならなくちゃ。アイツが遠慮なく帰ってこられるくらい。アイツが抱えてる全部を受け止められるくらい強く。


 サファイアは自分に言い聞かせるように胸の内で繰り返し、用意していた食事に布をかぶせると、“あたためて食べてね”と記したメッセージカードを近くに置いた。


 自筆イラスト入りのお気に入りだが、大抵は読まれることなく、食事はそのまま、彼女の朝食、アルの間食になってしまう。


 それでもいい。明日、目が覚めたとき、隣に――彼の性格上、リビングのソファーの上にでも構わない――彼の寝顔があったら最高だけど……ううん、なくても会いにいくんだ。


 会って、ミリィさんが言っていた“彼を荒れさせるような問題”についても一緒に考えよう。


 待ってるだけじゃダメだ。ガンガン攻めていかなくちゃ!

 サファイアは確固たる決意とともにベッドに入ると、響の帰りにすぐに気付けるよう、部屋の入り口の方へと心もち身を寄せた。

 すべては無事、夜があけてから。


 そして、そのそれぞれの夜明けを祝うのか、呪うのか、ガブリエルの首もとで“あの石”が、血液が凝固したかのようなその石が輝いていた。

 すべてを見通し、観察しているかのように――。


NEXT⇒第4話 最初の流血Ⅰ 

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[良い点] ジェイク!? この……馬鹿野郎が(゜∀゜)ホメテル 身体の中の狂気とも言える存在との共存は、人を愛することにも臆病にさせてしまうのですね。゜(゜´Д`゜)゜。 それを身体を張って、あん…
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