第02話 豊穣なる日々Ⅱ
#3
「前から言ってるけどさ、“エクシオン”のほうが格好良いよ。絶対にさ」
エクスシアを車庫に入れ、玄関まで戻ってきたサファイアにアルは拳を握りしめ、力説。つぶらな瞳をらんらんと輝かせていた。
何でも『煌都』でやっていたアニメ番組のキャラクターの名前らしい。十一歳という年のわりには変にませたところもある彼だが、こういうところは子供らしい。
もっとも、その作品の主な視聴層が十五歳以上と知って、サファイアが呆れはてるのは、そう遠い未来の話ではないが。
「格好良い、悪いでつけられた名前じゃないんだって。ここに来る前……あのバイクをくれた人が、悪魔と戦う天使の名前だからって、お守りがわりに付けてくれた名前。もっとも、悪魔と接する機会の多いその仕事柄、堕天使になることも多い天使みたいなんだけど」
その話を聞いたアルはとたんに変な顔になる。
「なにそれ? 嫌がらせ?」
「 “キミが彼と共に進む、この道が、善き道となるのも、悪しき道となるのも、すべてはキミ次第。その危うさをこの天使が伝えてくれる“当時、住所不定の旅人だったボクには有り難い言葉だよ。その言葉を胸に慎重に道を選び続けて、この自治区に辿り着けた――」
「善き道だった?」
「そう、この上なくね!」
そこでサファイアはドアに鍵を差し、もうすっかり住み慣れた我が家へとアルを招き入れる。
よく整理整頓されたリビングやキッチンとは対照的に、彼女の自室に足を踏み入れれば、本棚に入りきらず、踏めば軋む床の上に積み上げられた書物。棚いっぱいに詰められたレコードの数々が雑然とアルの瞳に飛び込んでくる。
サファイア達が暮らす『煌都』から遠く離れた辺境では、書物や音楽の価値は低い。生きていくうえでの優先度が低いからだ。
にも関わらず彼女はあの手、この手でそれらの収集を続けている。何故? と問えば、好きだから、と単純明快な答えが返ってくる。
本は知識を与えてくれるし、音楽は気持ちを安らげ、時に沈んだ心を鼓舞してくれる。生きていくうえで必要でないかもしれないが、生きていく力を与えてくれるものだ。
十代の若さで、戦後世界を旅してきた彼女にとって、音楽や書物で得た力はアルや周りの人間が思う以上に大きなものだったのかもしれない。まぁ彼女が言うように、“単に好きなだけ”な可能性もあるが――。
「オレンジジュースでいい? クレアおばさんから良いオレンジをたくさんもらったの。搾り立ては美味しいよ?」
「うん、砂糖入りのほうが俺は好みだけど」
「贅沢言わないの」
サファイアは“しょうがないなぁ…”と微笑みながら、少しだけ砂糖を溶かした搾りたてのオレンジジュースをアルのもとへと運んでくれた。指先についたままのオレンジの果肉が姉の健康的な美を際立たせている。それを軽く口に含む姉の姿が愛らしい。
そこにあるのは、しっかりもののようで、おっちょこちょい。大雑把なようで繊細な、皆から愛される――心配されているともいう――“おじょうさん”の姿だ。
“強化兵士”として忌み嫌われている響達とは対照的に、街の皆はサファイアに対し好意的だ。
三年前に旅人としてこの自治区を訪れた彼女は、街の食堂に住み込みで働き始め、山のように皿を割り、また、旅先で得た知識、鍛えた腕で絶品の料理をその皿の上にふるまい、食堂を訪れる人々の舌を喜ばせた。
そして、その愛嬌と飾らない、快活な性格は料理と同様に多くの人間の心を掴み、彼女はたちまち街のアイドルとなった。
当人としてはからかわれたり、いじられたりの毎日でアイドルなんて気分じゃないようだが、数年に渡った旅路のなかで、そろそろ定住の地を探そうと考えていたサファイアもこの自治区のあたたかさに感じるものがあったのか、街に留まることを決めた。
その決定的な理由は“響”だと、アルは考えている。サファイアは良くも悪くも、他人に尽くす人間だ。本人に自覚はなくとも、彼女は常に周囲を気遣い、皆が笑顔でいられるよう、道化役を演じることもある。
でも、響に関することになると、サファイアはとたんに頑固にもなるし、涙だってみせる。
響という存在がこの街にやってこなければ、サファイアの滞在はこれほど長いものにはならなかったかもしれない。そう感じさせるくらいの情熱と想いを、アルは響を見つめる彼女の視線から読み取っていた。
“強化兵士”である響達が一年以上もの間、保安組織として務められていたのも、サファイアという存在が街の人々の愚痴の聞き役となって住民の不満、反感を受け止め、また、意見することで、住民の嫌悪、両者の対立をやわらげていたからだと思われる。
また、響という“強化兵士”に理解を示し、惹かれたという一つの事実が、誰に対しても屈託なく、ありのままに接することができる彼女のあたたかな人柄を如実に示しているともいえた。
同時に、そうであるがゆえにサファイアと響の関係を危惧する住民も少なくはない。
彼女の無償の信頼が強化兵士である響に踏み躙られるのではないか、そんな不安は彼女の事を気にかける、多くの者の心に存在した。
「あれ、そういえばマウンテンバイクは? いつも一心同体って感じで乗り回してたのに」
「あ、うん…今朝、パンクさせちゃって」
「え……?」
自らの問いに対して、飛び出した“今朝”、という言葉にサファイアの表情が曇る。
アルがちらりとその表情を盗み見ると、いつも朗らかな彼女の表情に、姉としての、保護者としての厳しさが宿っていた。
しまった、と、視線をそらしても、もう遅い。
「アル……もしかして、アレ続けてるの?」
声音もどことなく厳しさを帯びている。
といっても、怒っているのではない。どちらかといえば悲しそうな声だ。自分を心配するどこか悲しそうな声。
でも、だからって怯むわけにはいかない! アルはぎゅっと拳を握り締め、どうでもいいように言葉を吐き捨てる。
「母さんブチ切れちゃってさ。部屋の窓に鉄格子つけるって」
アルにとっての早朝の日課、公園への疾走。この自治区を守護する響達への信頼を示すための、子供一人が街を出歩いても無事でいられるという彼等の功績を示すためのその日課は、周囲の人間にとっては頭痛の種、胃壁に穴をあけかねない大問題であった。
アルの両親も、アルの部屋の鍵を外側から閉める等の対策をとっていたが、アルは二階の窓からカーテンなどを多用してするすると降りていってしまう。
鉄格子をつけるという発言もアルの安全を思えばこそのものだろう。好き好んで子供を軟禁状態に置く親などいないとサファイアは信じているし、アルの両親はそういう人たちではない。
とどのつまり、アルがしていることは、軟禁状態にしなければならないほど、危険なものだということだ。
「やめないと、マウンテンバイクは修理してやらないって。まいっちゃうよ、ホン――」
「当たり前だよ!」
サファイアの声が一段と大きくなる。
「……響たちのことを心配してくれるのは有り難いけど、それは本当に有り難いけど……その事で、その事でアルにもしもの事があったなら! 結局、辛い想いをするのは響なんだよ!? もちろん、一番辛い
のはご両親だろうし、そんなことになれば、ボクだって普通じゃいられない……っ!」
まずいな……姉ちゃん、本気の本気だ。
すこし目に涙をためて訴える姉に、アルはバツが悪そうにうつむきながらも、きっちりと自分の言い分を叩きつけるべく口を開く。
自分だって、本気の本気なのだ。
「でも……大人たちはむかし、強化兵士にひどいことをされたからとか、人殺しのために生まれたような連中は信用できないとか、そんな理由で響兄ちゃんたちを悪く言ってる!
別に響兄ちゃんたちはひどいことをしてないし、好き好んで肉体を改造されたわけじゃないのにみんな、強化兵士だからって理由だけで響兄ちゃんたちを憎んで差別してるんだ! だから、子供の俺が子供のやりかたで証明してやるんだ! 子供の俺がこんな馬鹿な真似をしても無事でいられるような安全な街を、響兄ちゃんたちが作ってくれてるんだって!」
アルの理屈でいえば、自分の行為が無茶だというなら、大人たちはそんな無茶な真似をさせるな、ということになる。
気持ちはわかるが、それは自分の命を勘定に入れない、危険すぎる想いだ。しかし、自分たち大人がアルにそういう想いをさせていると考えれば、胸が痛む。
「……キミの気持ちはわかったよ。でも、もうすこし大人を信用してくれると、ありがたいかな。キミのそういう気持ちが皆に伝わるよう、ボクも努力する。だから、キミだけが背負い込まなくていい。姉ちゃんの肩なら無料だし、気安いでしょ?」
……姉ちゃんはもうじゅうぶん、努力してるじゃないか。
気丈な姉にアルは拗ねたように口を尖らせる。
「あんまりためこまないで! キミにはいま現在進行形で抱えてる問題もあるんでしょ?」
ポン、とアルの頭を叩き、サファイアはアルが大事そうに抱えているリュックを覗き込む。普段ならリビングの隅に放り投げられているそれのなかにあるものが、アルが今回、持ち込んだ相談事そのものなのだろう。もそもそと、リュックのなかで動いている“それ”が。
「ふっふーん、捨て猫? 捨て犬? 野良? そゆうのほっとけないんだよなぁ、アルくんは。素直じゃないキミのそんな優しさが姉ちゃんはちょっとだけ鼻が高いのだ」
そう言って、えっへんと胸を張るので、アルは豊かな胸をつついてやった。――チョップされた。
「でも……この辺にも犬や猫が戻ってきたんだ。これも治安が良くなってきた証拠かな?」
――犬や猫。他の動物たちも地球から持ち込まれた数は極少数だったと記録されている。だが、いまでは以前、人類が地球で暮らしていた頃と同じようにそこかしこで姿を見かけるようになった。
まして、野良まで存在するようになったのだから人間――というか、生命の定着力には物凄いものがある。もっとも調子に乗って五十年も戦争を続けてしまうのは定着力がありすぎるというか、この惑星にしてみれば、実にあつかましい話だろう。
「いつも家にいられるわけじゃないし……ボクも忙しいときは面倒みるのキツいかもしれないけど、そゆうとき、キミが手伝ってくれるっていうなら――」
サファイアはアルが持ち込むこの懸案を初めから予想していたかのように、プランを組み立てながら、リュックの紐をほどいていった。しかし、アルは不安そうな面持ちで姉の表情を窺っている。すると――、
「ええええええええええええええええええええええっ!?」
アルの予想どおり、派手に裏返った驚愕の声が部屋中に響き渡ったのである。
#4
「……どうもここに呼びつけられる、イコール怒鳴られるってのが俺の定説なんですけどね」
入り口の扉に使われているガラスはひび割れ、鍵すらもまともに機能していない。
その扉を抜ければ、コンクリート剥き出しの壁面と天井が内部を進む者を包囲し、洒落た絨毯も、訪れるものを歓迎するような装飾もいっさい存在しない廊下と階段が殺伐と続いている。
ここは文字通り、ただの“建物”だ。生活臭もなければ、建築家の美意識らしきものもまったく感じられない。
そんな場所にこの自治区を統べる長が住んでいるとは、外部の者は想像もできないだろう。事実、この街を訪れたばかりの頃、サファイアは、“この建物はなんにも使っていないんですか?”と、街の人間に訊ねたそうだ。無理も無い、と響は思う。
だが、この建物に呼び出され、殺伐とした廊下を進む“強化兵士”の若者たち――すなわち保安組織『VENOM』の面々にとっては理解できる、納得できる事柄である。
この無骨で殺伐として愛想のない建物は、あの頑固親父には相応しい。余計なものが存在しない、ゴツゴツとしたあの気性を表現した芸術作品としては百点満点。文句一つない出来映えといえる。
「無事、事件は解決。この街に害を成す悪党どもは一人残らず牢にぶち込み、幸い、この街の未来を担う子供たちも命を散らすことなく、あやまちに幕を下ろすことができた。にも関わらず世間はおかんむりで、俺たちはやっぱり鼻つまみもの。割りに合わないっちゃ合わない仕事ッすよね」
その芸術の内部を進みながら、ジェイク・D・リーはボヤき、激務に悲鳴を上げる肩をたたく。先程の民衆からの罵倒がまだ腹にすえかねている様子である。
「屋根の付いた家。あたたかいベッド。肉野菜付きの美味しい食事。“強化兵士”が合法的に得られる最高の待遇だと思うけど?」
そんなジェイクをたしなめるのは、『VENOM』の紅一点、ミリィ・フラッドである。長身のメンバーが多いなかでやや小柄な彼女は、その可憐さ、容姿の美しさもあって、見るものの目を引き付ける“華”を持っていた。戦闘者としての自覚から短めにはしているが、そのつややかな黒髪も彼女の“女性”の部分を強く演出している。
とはいえ、その左目を隠す眼帯が、彼女が“強化兵士”であり、保安組織『VENOM』の一員であるという事実も強く提示しており、殿方への牽制は充分すぎるといったところか。
「だいたい、『VENOM』以外に私達に相応しい仕事がある?」
「……そうだな、ハンバーガーショップでも開いて、道行くご婦人方とちびっ子に格安でご提供するさ。塩コショウの利いたバーグと極上のトマトソースをこんがり焼けたパンにサンドしたスペシャルなやつを」
ハンバーグをこねるような仕草をしながら、ジェイクは応える。はぐらかすような口調だが、瞳には微かな本気が滲んでいた。
戦闘のために肉体を改造された“強化兵士”が語るにはあまりに滑稽な“夢”かもしれない。だが、ジェイクは、それが様になるような、悪くいえば俗な、良くいえばとっつきやすい、人間的な一面が強い隊員だった。
もっとも、肉体を改造され、強い“戦闘衝動”を精神に植えつけられていること以外は、彼等とて普通の人間、若者である。ジェイクはその事実を最も良く体現した“強化兵士”であるといえるかもしれない。
「……いや、事実、コイツの腕はなかなかのものだ。その……“メチャウマ”だ」
そして、彼の夢をそうフォローしたのは、巨漢、ガルドである。岩石のような無骨な顔立ちと岩山のようなゴツゴツとした巨体。一騎当千の“強化兵士”の集団である『VENOM』のなかでも彼は一際、強面の男である。
しかし、そんな外面の問題とは裏腹に彼は小さな子供達から好かれている。いま使った無骨な彼には似合わない言葉も、子供たちから教わったものなのだろう。ガルドは穏やかな男である。そう――四人のなかで、もっとも“強化兵士”らしい、その風貌とは裏腹に、彼の気性はさざ波ひとつ立たない、水面のように穏やかなのである。
そして、常人を遥かに越えた“戦闘衝動”が彼の内面に吹き荒れているのもまた事実。どことなく無表情なその顔も、自らの気質と本性の間で揺れ動く己自身を噛み殺すための、苦悩の表情なのかもしれない――。
「そうなんだ、じゃあ、明日の昼食にでも、その腕ふるってもらおうかな? ねぇ、隊長?」
「ああ……」
興味深そうにジェイクの顔を覗き込みながら口を開いたミリィからの提案に、隊長である響=ムラサメは素っ気ない解答を示す。そして、自分の顔から響の背中に移るミリィの視線にこもる切なげな“熱”にジェイクはどこか面白くなさそうに言葉を漏らした。
「隊長には愛妻弁当がありますもんね。俺のバーガーなんて……」
「いや――」
拗ねたようなジェイクの言葉に、響はその足を止め、いつもの抑揚のない、どことなく感情に乏しい表情を彼へと向ける。
「お前の自慢の一品なら、アイツにも食べさせてやりたい……いけないか?」
あ……。
ジェイクはその一言に、というより、彼の在り様に呆気にとられたように言葉を失っていた。
響の端正な顔立ちに、そのクールな仮面のなかにどこか探るような、こちらの様子をうかがうような表情を垣間見たからである。
自分たち以上に戦場のなかで生きてきた彼は感情の表し方を人一倍、いや、十倍ほど知らない。クールに見えるが、その内実は――子供なのだ。余裕のある“のろけ”ではない。それは恋人への想いの一端であり、ジェイクへの不器用な気遣いでもあるのだ。
クールな仮面の下にあるのは、“化け物”と恐れられる強化兵士集団の隊長などではなく、純朴といってもいい青年なのである。
「かなわねぇな、ったく……」
ジェイクが畏れ、憧れるほどの強さと統率力。
自分たちとは比べ物にならない“猛獣”のような、否、響自身が申告する個体識別名を引用すれば、まさしく“魔獣”のような、強烈なその戦闘衝動をねじ伏せられるだけの精神力を持ちながら、そんな本質を持たれては、手のうちようがない。
頼りがいのある兄のようでいて、手のかかる弟のようでもある――そんな彼の人間的な在り様がジェイク達、『VENOM』隊員の心を掴み、彼へと近づけていた。
内面の繊細なまでの弱さと、それを覆い隠す痛々しいほどの強さを併せ持つ青年――。
それが、響=ムラサメという“強化兵士”の本来の姿であった。
◆◆◆
(やっぱ、おっかねぇ…隊長、弾除け、たのみます)
所在を示す案内も何もなく、最上階にただ、ポツンと存在する一室――。
“今日はガツンと反撃してみせますよ!”
その一室に足を踏み入れる直前まで、そう息巻いていたにも関わらず、早速、自分の背中に隠れてしまったジェイクに響は呆れたように息を吐く。
怒鳴り声が響いているわけでもない。物が壊れる音も、それに類似する事象も何一つ起こっていない。
しかし、この部屋に張り詰めている緊張、ヒリヒリと肌を刺激するような感覚はまるで、テロリストでも立てこもっているかのように高まっていた。
その要因はただ一つ。この部屋の主たる男、その存在そのものにあった。
「……なるほど、お前達の言い分はよくわかった。しかし」
彼の生きてきた年月の重さを感じさせる低音の効いた声が、響達の腹に響く。
「この自治区の輝かしい未来を担う坊主どもの負傷で、皆のお前達への不満、憎悪は爆発寸前にまでなっている。この街を統べる者として無視はできない――解決すべき問題だ」
――ジーン・ホグラン。この自治区“ナザレス”を統べる長である彼の眼光には、“強化兵士”である響たちをも怯ませるほどの威厳と迫力が在った。
彼の普段着である作業着がまるで軍服のように見えるのも、彼の貫禄が成せる技といえた。
腕っ節だけでこの戦後世界を渡り歩き、戦火によって故郷を失った多くの人々が生きてゆけるだけの“街”を作り上げた経歴は伊達ではない。
そして、そんな強面の長へと、響は一歩踏み出し、自らの認識を述べる。
「やりすぎた事は認める。だが、必要な処置だったことも事実だ。大怪我をさせてしまったかもしれないが、銃を持った相手を無傷で制圧できると思うほど、アンタも素人じゃないだろう。それに――」
そこで響は目を伏せ、溢れ出す感情を押し殺すように拳を握り締める。
「肉親を殺すってのは……アンタら“人間”には辛い話だろう」
あのまま発砲を許していたら、あの少年は自らの手で自らを生み、育んでくれたかけがえのないものを殺めてしまっていた。
他人事のように言葉を紡いでいるが、その“痛み”は、響にも理解できる。否――彼等、強化兵士のほうがそのような局面に陥ることは多いのだ。
「……悪さをしたガキが罰を受けるのは当然だ。なんならいまから俺が一人ずつぶん殴りにいってもいい」
響の瞳に滲む真摯な想いを受け止めるように、『VENOM』の面々を真っ直ぐ見据えたまま、ジーン・ホグランは口を開き、軽く溜息を吐く。
「だが、この自治区にもたらされる危険のレベルと、お前たちの強大な力。釣り合いがとれなくなってきているのはお前たちも感じているはずだ」
そう、ホグランが語るように、響達、『VENOM』の活躍によって自治区の治安レベルは著しく向上。盗賊の類も『VENOM』の存在を恐れ、先程のような少年たちを使った姑息な手段に終始している。
それとて対策をとり、解決するのはけっして楽なことではない。しかし、今回、少年達に大怪我をさせてしまったように――響達“強化兵士”が持つ有り余る力は、時に必要以上の“破壊”、損害を発生させてしまうことがある。
それが住民の反感を買い、彼等が疎まれる強い要因となっているのは否定できない。必要な処置であったとしても、強すぎる力がそれを弱いモノいじめのように感じさせてしまうのだろう。
回復した治安が原因で恨まれるのだから、何とも腑に落ちない話である。そして、その“腑に落ちない”、ジレンマにも似た問題がいま、ホグランの眉間に深い皺を刻ませていた。
「とどのつまり、ガキどもやケチな山賊風情に振るわせるにはその力は大きすぎる。自らの戦闘衝動を抑え、律するその精神は、こんなちっぽけな自治区ではなく、もっと大きな場所で輝くべきものだ――」
威厳ある声音に、寂しげでもあり、誇らしげでもある、彼の感情の色が添えられていた。
そのどこかぶっきらぼうな口調のなかに滲む、確かな“温かさ”は強化兵士たる彼等の、この自治区での心の拠所であり、その主であるホグランは彼等にとって、まるで、父親のような存在だった。
『VENOM』の面々にとって、ホグランは、怖い、頭の上がらない人物ではあったが、同時に一番、心を許せる存在でもあった。
彼の怒鳴り声も、時々落とされる雷も、すべて本気で自分たちのことを考えてくれているからこそのものだと、全員が理解しているからこそ、『VENOM』はどれだけ蔑まれても、自暴自棄にならずに済んだ。
この街を裏切るような真似はいっさいしなかった。人のあたたかさや、“信頼”という言葉を思い起こさせてくれたホグランという存在は、彼等にとって、決して裏切ることのできない存在なのだ。
だが――そんな彼から発せられた言葉は、『VENOM』の面々にとって、信じ難いものだった。自らの、強化された聴覚を疑うほどの。
「お前たち……『煌都』に行くつもりはないか?」
「――――!」
ここを出ていくつもりはないか?
そう――聞こえた。短くはない沈黙が室内に満ちた。誰もが言葉の意味を受け止められず、ただ呆然とホグランの次の言葉を待っていた。自らの受けた衝撃を打ち消すだけのそれを。すべてが嘘になるほどの言葉を。
「俺の弟が『煌都』で機械技師として働いているのはお前らも知っているな? そう、この自治区の外交官であるホワイト氏を紹介してくれたのも弟だ。顔に似合わず、『遺跡技術』とかいう特殊技術にも携わっているらしくてな、それなりに偉いさんに顔が効くらしい。その弟を通じて、お前達『VENOM』のデータを『煌都』の……煌都十六戦団の人間に見てもらった。俺も先日、顔を合わせたが、信頼できる、お前達を預けるに値する懐の深い人物だと感じたよ」
煌都十六戦団。それは、この惑星の現在の統治機関である『煌都』を守護する、文字通りの“世界最強の”戦闘部隊。
たったいま、ホグランが語った『遺跡技術』を始めとする、この惑星における最先端、最高峰の技術を実装し、『煌都』によって選抜された最高の人材がそれを『矛』に、そして、『盾』と成す――。
煌都十六戦団はまさに『煌都』の力、その屈強たる地盤を象徴する、その地盤を揺るぎないものとする存在であった。響達も遠い存在だとは思いながらも、その存在の強大さ、在り様は認識している。
話が突然すぎて思考が追いつかないが、目の前の男は――長は自分たちを『煌都』に、煌都十六戦団へと誘っているらしい。
「自らの“戦闘衝動”にとりこまれることも躍らされることもなく一年以上もの間、この自治区の保安組織を勤め続けているお前達に『煌都』も強い興味を示している。『煌都』としても、戦後世界の難題の一つである『強化兵士』の社会での在り方を、いろいろと模索しているんだろう。その一種のモデルケースとして、お前たちは選ばれた。そう――」
ホグランは“語るべきその事実”を、“自らの誇り”として堂々と言葉にする。それを受け止める四人の顔を見据えながら――。
「『煌都』で編成される初の『強化兵士』部隊の一員としてな」
「―――!?」
元々、戦闘能力に関しては申し分ない『強化兵士』である。戦闘衝動の制御さえ出来ているのであれば、戦力としてこれほど重宝できる存在はない。
地球からの脱出の際に、多くの大量破壊兵器の資料・存在は破棄され、レーダー等の機器はこの惑星に充満する特殊な電磁波によって使用不可となっている。
それによって、航空兵器による爆撃等の攻撃方法が事実上、消滅したこの現状では、白兵戦のみが唯一の戦闘方法といっても過言ではなかった。
そして、それ故に彼等、『強化兵士』は生まれた。
“新天地での平和”への祈りとも呼べる兵器の破棄が、人そのものを兵器としたのは皮肉である。その皮肉は戦後世界での“災厄”となり、また、その災厄を討つための“戦力”となっている。結局――自分たちは“兵器”として利用され続けるしかないのだ。
そんな絶望が、全ての『強化兵士』の心底に存在した。
「ふざけるな……」
――利用され続けるしかない。この自治区に来てからの一年と数ヶ月……忘れかけていた現実。
治安のために利用されているにしても、此処は自分達の意思で守り抜きたいと感じ、選んだ戦場である。“道具”や“兵器”としてではなく、“人間”として戦えるかけがえのない場所。だが、その街の長から送られた言葉がいま、響たちの心をえぐり、震わせる。
向けられる憎悪も、差別も関係ない。俺たちが、俺たちがいたい場所は――、
整理できない、制御できない感情が、吼えるように喉を突いて出る。
「ふざけるなッ!!」
「……嫌いか? 『煌都』は?」
ああ、嫌いだね。響の眼が鋭さを持ってそう語る。
自分たちの存在理由をもう二度と踏み躙らせはしない。そんな、決意とともに。
「ずいぶんと体裁のいい厄介払いだな。手に余る乱暴者はお偉いさんに預けちまえば、後腐れなく“さよなら”できるってわけか。そんな事……!」
「力を有効に使えという話だ。お前達にはより相応しい活躍の場所が、あるということだ」
「なら、この街は誰が守る!? この街は誰が……!」
「『煌都』からエリート部隊が“辺境での研修”を兼ねて、この自治区に配備される。お前達を紹介したことによる報酬――というわけだな」
その言葉に響たちは愕然とし、言葉を失う。
売ったのか……俺たちを……。
響の瞳が、言いようのない感情に歪む。
「俺達を売るのかッ! 『煌都』に、実験動物のようにっ!」
「……恨んでくれてかまわん。だが、現実は受け止めろ。お前達の力は――この街には、“重い”」
「……ッ」
――声が、でなかった。ただ、憤りだけが喉を震わせ、咆哮のような息を彼に吐かせた。
いまにも暴れだしてしまいそうな、抑え切れぬ“負”の感情を振り切るように響はホグランに背を向け、部屋の出口へと歩を進める。他の隊員がその動きに同調するのにそう時間はかからなかった。
「俺達は……」
そして、
「俺達は、この街だから守ってきた。この街以外に守るものも、戦うべき場所も、理由もない」
振り返らずに告げたその言葉は、これまでこの街を守り抜いてきた彼等『VENOM』の誇りと、孤独を内包したものだった。――言葉の後には靴音だけが響き、ホグランの瞳には彼等の背中だけが映されていた。その背を見送るホグランの表情に、苦渋が満ちる――。
「そんなお前達だから……自分達の“幸せ”も考えて欲しい。それは……我侭か?」
ホグランの表情から、長としての厳格さが失せていた。そこにあったのは、子を想う親の表情、それそのものであったのである――。
◆◆◆
「ふふふ、ふふふん、ふふんー」
あたたかな湯気が室内に満ち、流れる温水が白い体毛に覆われた小さな身体を優しく洗っている。
故障のためか、テープであちこちを補強されたシャワーと、小さなバスタブが一つずつ設置された、けっして広いとは言えない浴室にいま、裸身の一人と一匹の姿はあった。
軽やかな鼻歌が楽しげに蒸気を彩り、太陽の下で健康的に煌めいていたサファイアの赤い髪は水に濡れることで、艶やかな魅力をその紅に滲ませていた。
この自治区が独自の供給ルートを持ち、充分な量の水を蓄えているといっても、やはり水は貴重なものだ。サファイア・モルゲンが新しい家族の湯浴みを、自分の入浴に便乗させたのも水・燃料の節約のため、という部分が大きいのかもしれない。
ただ、いま彼女に体を洗われている“存在”はそれ以上に、自分のような動物だろうと、人だろうと区別せずに受け入れてしまう彼女の度量の深さ、悪くとれば無防備さとも言い換えられるそれのほうに多くの要因があるように感じていた。
使いこまれて小さくなってはいるが、よく泡立つ石鹸でわしわしと自分を洗う指先、その腕はよく見れば、大小問わず、多くの傷を刻んでいる。
それは他人に手を差し出さずにはいられない人の腕だ――と、“存在”は思う。というよりもそうだと知っていた。“存在”にとって身近な人たちは皆、そんな腕をしていた。今は遠くへ去ってしまった彼等への想いに、“存在”の瞳は悲しく細められる。
この女性もきっと、彼等と同じように優しく、あたたかな人なのだろうと思う。
さきほどまで室内に溶け込んでいたやわらかな歌声も、けっして上手いとはいえないが、どこかホッとするような、彼女の人柄を象徴するようなものだった。
見上げれば、彼女の豊かな胸が“存在”を洗い上げる動きとともにふるふると揺れている。スイッチをオフにしたはずの“もう一つの自分”の感覚が羨ましいと呟くのを、“存在”は確かに知覚した。
(暴れ……ないんだね。人に慣れてる、のカな?)
そして、そんな“存在”を見つめながら、サファイアはアルのリュックから彼、または彼女を発見した時のことを思い返していた。
驚きのあまり、心臓が飛び出るかと思った、あの一瞬を。
「ええええええええええええええええええっ!?」
そのリュックの中身を見た瞬間、サファイアは自分でも驚くような、ひっくり返った声を響かせていた。
この自治区に辿り着くまでの長い旅路のなかで、様々な土地を渡り歩き、かつての人類の故郷――地球から持ち込まれ、この惑星で力強く種を存続させている生物の数々を見てきたサファイアだが、この中身だけは一度も目にしたことがない。
あるとすれば、絵本やSF小説の挿絵のなかでだけである。
「どら……ごん?」
第一印象はまさにそれであった。
しかし、その全身は爬虫類然とした鱗ではなく、ウサギのような白い、柔らかな体毛で覆われており、背中の羽は猛禽類の……というよりは愛らしい天使のそれを思わせる小ぶりなものである。
その容姿に二の句を次げず、口をぱくぱくとさせている彼女を、リュックのなかから、不安そうに潤んだ、小動物のつぶらな瞳が見つめていた。
……奪われた。うん。奪われてしまった。
「か、かわいい……」
見つめられたサファイアの頬が赤く染まり、瞳は幼い少女のように爛々(らんらん)と輝き始める。
「かわいい、かわいい、かわいいよー。なんだよぉ、キュン、ときちゃったよぉ。わぁーすっごく、ふわふわしてる。キミどこから来たノ? 迷い竜さん? それとも……捨て天使さん?」
す、捨て天使ってなに? と言いたげなアルをよそに、リュックの中にいた小動物を抱き上げた彼女は小動物の体温を自身の肌でたしかめるように頬ずりをする。
「 “ガブリエル”って名前みたいだよ? 首のプレートに書いてあるでしょ?」
自分が連れてきた風変わりな、珍妙といって間違いない小動物を夢中で抱きしめているサファイアの姿に内心、ホッとしながら、アルはそう告げた。
もし、彼女が自分の両親と同じように、この“ガブリエル”の容姿を恐れ、突き放してしまったなら――そう考えるだけで正直、足が竦む思いだった。そうなった時、他の誰にこの小動物を託してよいかわからず、最悪、また外で凍えさせることになるのではないかと考えるだけで気が沈む。
でも、そんな心配は無用だった。彼女の瞳は外見にとらわれることなく、その本質に触れることができるたしかな、無垢な瞳だ。
いままで頼って裏切られたことは一度もない。そんな彼女だから、本当の姉のように慕うことができる。姉に頼りすぎな自分が情けない気もするし、できることなら、この“ガブリエル”も自分で面倒を見たい気分もあるのだけれど。
(ふふ……やっぱり、かわいいな、キミは)
そして、自分が“ガブリエル”を抱き上げるまで、どこか落ち着かない様子だったアルに、サファイアは姉としての笑みを零した。
正直、一気に抱き上げるのには若干の迷いがあったが、緊張に強張り気味だったアルの表情がほぐれ、安堵で瞳が少し潤んでいるのを見れば、危険を冒したかいは充分あったと見るべきだろう。
この愛らしい子に危険があるとは少しも思わないが、外見からは想像もつかない毒や牙を隠し持っている生体を、旅のなかで度々目にしてきたサファイアとしては用心を怠るわけにはいかなかったのである。
けど、普段、悪ガキで通しているアルが、強気な瞳が潤むくらいに心配している子なのだ。悪であるはずがないし、アルの優しい気持ちに応えてあげたかった。
ちょっとひねくれてはいるけれど、本当はすごく優しい少年なのだ。下手をすれば、自分さえも傷つけかねないような、有り余る優しさを、ちょっと悪ぶって隠そうとしているあたりが少し、“彼”と重なる。
そんな、アルのような少年が自分を姉として慕ってくれるのが嬉しい。
その喜びは、サファイアのひそやかな誇りでもあった。
「俺は“ガブ”って呼んでるんだ。俺の部屋でこっそり面倒見ようと思ったんだけどさ、母さんに見つかっちゃって捨ててこいって……。今朝のこともあるし、すっげ~機嫌悪くて」
「そりゃいつ死んでもおかしくないような無茶を続ける息子が、見たこともないような動物を拾ってきたら、おばさんも気が気でないでしょうね」
サファイアの的確な指摘に、アルは「うぅ」と声を詰まらせる。やたら胸やらお腹やらをさわられたお返しである。ちょっと意地悪してみようかな? という気持ちとともに、サファイアは「べ」と舌を出すと、抱き上げた小動物……“ガブリエル”の顔をまじまじと見つめる。
「で、ホワイト家に嵐を呼んだキミの名は、“ガブリエル”君……か。たしか天使の名前だよね」
アルの言うとおり、ガブリエルの首元に首輪のように付けられている金属板には、彼の名前と思しき文字列が記されていた。サファイアはそれを確認し、何かを思案するように人差し指を唇に当てる。
「それも結構、有名な天使さん。古い宗教のなかにあった話で、聖母マリアに救世主の懐妊を告げにきたっていう……。奇遇といえば奇遇かな、確かその土地の名前がナザレス。この街と同じなんだよね」
この自治区の命名理由を知っていると、それは皮肉な符合だと感じる。
ホグランの“救世主とやらを降ろせるものなら降ろしてみせろ“という不遜な皮肉、そして、”神“という形のないものに対する憎悪にも似た哀願がこの命名には込められている。
『煌都』から遠く離れた辺境の地で、人々が平穏に暮らしていけるだけの土地を作り上げた男の心底にある“神”に対する絶望と羨望。ナザレスという名はそれを象徴して余りあるものである。そこに現れる天使の名としては出来すぎている。まるで、ホグランの不遜な皮肉に対する回答、あるいは嫌がらせみたいにも思える。
「……うーんと、良くわからないけれど、“エクスシア”の同僚ってこと?」
「ははは、うん。それに、ボクん家で暮らすのであれば、同僚ってよりは家族になるわけだし、ぜひとも仲良くしてもらわないとね」
理解し辛いと首を傾けるアルに、サファイアはやわらかな笑みとともに答える。
「買い過ぎたかもしれない食糧もひょっとしたら足りなくなっちゃうかもね。キミの好物は何かナ? 元気がないみたいだし、しばらくは野菜を煮崩したスープとか、消化の良いもの中心のメニューがいいかもね。……そもそも肉食かな? 草食かな? ボクの得意料理のなかに気に入るものがあればいいけれど……ん?」
その時、サファイアの青い瞳に赤い煌きが瞬いた。
ガブリエルの首に付けられていたのは金属板だけではなかった。
それは血が凝固したかのような赤い石。
金属板に一種の装飾品のように括り付けられた真紅の、窓から差し込む陽の光を吸い込むことで太陽のように煌くその石はサファイアの瞳に、焼け付くように映し出される――。
「この石は……?」
「あ、ね、姉ちゃん! ダ、ダメ……っ!」
そして、サファイアがその石に触れようとしたその瞬間である。
「きゃっ!?」
――がうっ! 予期せぬ一撃だった。自らを撫でるサファイアの掌に心地良さそうに目を細めていたガブリエルの口がガバッと開き、鋭い牙が一直線に彼女へと飛び掛っていた。
サファイアの身体が反射的に動き、慌てて手を引っ込めていたからよかったものの、ほんの一秒でも遅かったならサファイアの白い肌に痛々しい噛み痕が残っていたかもしれない。
それくらい“本気”の一撃だった。
白い毛並みは逆立ち、剥かれた牙の隙間から低い唸り声が漏れている……。
「そっか、それはキミの……大切なものなんだね?」
一変したガブリエルの様子にサファイアは驚いてしばらく声を失っていたが、すぐに優しい笑顔をとりもどし、逆立つ白い毛並みを撫でた。
ガブリエルもその様子から彼女が“それ”を奪うつもりがないことを察したのか、次第に平静を取り戻し、サファイアがテーブルに体を降ろしてくれた瞬間、力が抜けたようにぺたりとその場にへたり込んだ。
回復しきっていない体力での“無茶”だったのだろう。
どこか苦しげな様子で、彼はすまなさそうにサファイアの顔を見つめていた。
「こいつ、それに触ろうとするとすごく怒るんだ。前の……飼い主が付けたのかな?」
「繋がり……なのかな」
繋がり……? キョトンとした表情で自分を見つめるアルへと頷くと、サファイアはよく見れば傷だらけの、小さな肉体を慈しむように見つめた。
「そう、ボクたちにはただの石でもこの子には、この子が大切に想う人と自分を繋ぐ大切なもの。その絆の……象徴、みたいなものなんじゃないかな」
サファイアはそう言うと、周囲に飾られた風変わりな置物、絵画、書物などに懐かしそうな視線を送った。アルにしてみれば、ただのガラクタにしか見えない品々ではあるが、サファイアにとっては旅先で出会った人々の思い出が詰まった、繋がりを示す大切な品々であるのかもしれない。
「きっと、この石は前の飼い主さん、この子にとって大切な人が残した……託した、ものなんだろうね。この子はそれを、必死に守ろうとした。たぶん、ここに辿り着くまでの間、ずっと。必死にね。優しい子なんだね、キ・ミ・は」
そう言うと、サファイアはさっきのお返しと言わんばかりにガブリエルの口をびろーんと伸ばしてみせた。ガブリエルも今度は暴れることなく、慌てたように手足をバタバタさせ、アルを吹き出させた。
その愛らしい様子に、サファイアは目を細める。その、これから共に過ごすことになる新しい“家族”の姿に――。そして、
(ボク……あの時、託したって言った。なんで……)
ただのプレゼントかもしれない。
なのに自分は“託した”と言った。
託した、なんて、まるで何か使命があるみたいだ。
それは、まるで自分がその事情を知っているかのような言い草だ。でも、そんな気がした。 何故だろう――わからない。
(……考えすぎか、そうだよね)
ガブリエルの体を洗う指先を止めるそんな、ちょっとした疑問を一笑に伏し、サファイアは心地よすぎたのか、ウトウトとし始めたガブリエルの姿に思わずプッと吹き出した。
「ゆっくり休んでね。きっと、キミもこの街が気に入るよ」
ガブリエルの体の泡を洗い流しながら、サファイアは彼が加わることで、新たな彩りが添えられるであろう日々の暮らしに思いを馳せた。
(この幸せに、欲しいな、響クンの――)
それは贅沢なのかな?
彼女の表情に少しだけ寂しげな匂いが漂い、それを覆い隠すように、サファイアはガブリエルを元気良く抱き上げた。
そんな彼女を、石が見ていた。――いや、見ている気がした
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