第04話 出発―たびだち―
#4
――寒い。
肌が感じた不快感とともに、少年は膝頭をより強く抱える。
いろいろな事があった。あり過ぎた。まだ、続いている。
「アル……」
その傍らには、白く、小さな、愛らしい“幼竜”のカタチを取り戻したガブリエルの姿があった。己という災厄が招いた悲劇によって、ふさぎ込む少年の姿に、どうしようもなくその瞳は潤む。
「だ、大丈夫だよ、ちょっと眠くなっただけだから」
そんなガブリエルに余計な気を遣わせまいと、アルは立ち上がり、窓の外の景色を眺める。“創世石”の力なのか、地続きでありながら、周囲からは完全に隔絶され、誰も立ち入れぬ“異界”と化した、この空間では、街の“状況”を把握することはできない。
だが、気配は、街を襲った災厄の気配は、アルにも感知することができた。
燃え盛る街のイメージが、血を流す響達のイメージが、アルの脳内にも確かに流れ込んできていた。
“エクシオン”も鉄馬モードから鉄人モードへと、その身を組み換え、アル達の居る廃屋の入り口で周囲に警戒の意志を向けている。
(姉ちゃん……)
そして、“機甲の天使”へと鎧醒し、この世の理を捻じ曲げ、蹂躙するほどの“異能”を、“奇蹟”を見せた姉は、サファイア・モルゲンは、いまも冷たい床の上で眠り続けている。
あの屑鉄置き場から、鉄馬モードに変形した“エクシオン”によって運ばれてきてから、早数時間――目覚める気配を見せぬ姉に、アルの不安は募る。
あれだけの“異能”をこの小さな、細い体から顕現させたのだ。生命を危ぶむほどの代償があったとしても、おかしくはない。不安が、恐れが、アルの瞳を潤ませ、それが雫となろうとしたその瞬間、
「う…ん…」
「姉……姉ちゃん!?」
姉の口から洩れた吐息に、アルは駆け寄り、その可憐な顔を覗き込む。蒼い瞳がゆっくりと開き、微かに濡れたそれが、ほとんど泣いてしまっている弟の顔を見つめる――。
「ア…ル…?」
状況を、目覚めた“現実”を確認するように、つぶらな瞳が左右に動き、細い指と手の平が、少し痛む頭をおさえる。
「そっか……ボク、眠っちゃって……それで、昔の――」
昔の――、
その言葉を、アルも、ガブリエルも解せない。サファイアは不安そうに、心配そうに、自分の顔を見つめる二人に微笑み、体を起こす。
「ガブ君、元に戻っちゃったんだ。すごく可愛かったのに」
ガブリエルの白い毛並をサファイアの指が撫で、ガブリエルは微かに赤面する。抱える嘆きを、痛みを一瞬でも忘れさせるほど、その指は、言葉は、”彼女”をあたたかく包んでくれた。
「ね、姉ちゃん、大丈夫? 体、おかしくなってない――?」
「うん、大丈夫! 何ともないよ、むしろ元気になってるんじゃないカナ? ほら、凝り気味だった肩も何ともない!」
耳朶を撫でる、アルの震えた声に、サファイアは満面の笑みを向け、肩をぶんぶんと回してみせる。
「――ああ、年齢も年齢だもんね」
「そうそう最近じゃ……って、じゅ、十代だよ!」
ポカリと、サファイアのげんこつがアルの頭を叩き、アルは舌を出して笑む。
変わらない。いつもと変わらない、本当に他愛のない、間の抜けたやり取りだった。
それが、アルの胸に安堵をこみ上げさせ、その身はたまらず彼女の胸へと飛び込む。
「姉ちゃん、良かった……良かった!」
「大丈夫! ボクは大丈夫だよ」
サファイアもアルの小さな体を抱きしめ、嗚咽する彼の背を優しく擦る。そして、
「ごめんなさい……ごめんなさいっ!」
「……?」
そんな姉弟の耳に、ひどく痩せてナイフのように尖りきった、ガブリエルの声が響く。
災厄に喘ぎながらも、互いを思い合う、そのぬくもりは、優しさは、災厄の”要因”である”彼女”にとって、残酷に過ぎた。
「僕の……私のせいで、こんな事に……! 私が”創世石”なんてモノを、この街に持ち込んだから――!」
”幼竜”の姿から湧き出る緑色の粒子が、微かに本来の”彼女”の姿を形作る。
嗚咽する少女の姿を。
そんな痛ましい少女の姿に、アルはパッと姉から離れ、涙に頬を濡らす友人の傍らへと、ズカズカと歩を進める。
「ん、んな事、気にすんなって言ったろ!? 俺の父さんと母さんは――!」
「アルっ」
「! 姉ちゃん……?」
そんなアルを片手でそっと制し、サファイアはうずくまるガブリエルの傍へと歩を進める。
「……大体の事情はね、”彼”から聞いて把握してる。キミが”居た”場所が、この石を護ってて、あの連中にやられちゃったって事も――」
そう語るサファイアの手元には、“創世石”と“護者の石”を埋め込まれた鎧醒器、“ヘヴンズ・ゲイト”が在った。ガブリエルに語り掛けるように、“護者の石”は優しく輝き、蒼の光で彼女の粒子を包み込む――。
「ガブ……」
そして、ガブリエルの抱えている悲劇の一端を知り、アルの表情もまた、歪む。自分の両親を奪い、彼女の大切なものまで奪い去っていた“連中”への怒りに、嘆きに。
「辛かったよね、“彼”も、他の人達もいなくなってしまって――ずっと一人で、こんな辺境まで来て、寂しかったよね。そんなキミを、ボク達は放っておかない。事情を知れば、この街の人達も、ボクの大好きな人も、アルのお父さんも、お母さんも、キミを保護した、“家族”として受け入れたはずだよ?」
下を向いていたガブリエルの瞳が、サファイアの顔を、前を、見つめる。
「だから、ボクやアルにとって辛いのは――キミが自分を責めてしまうこと、全部、自分のせいだって塞ぎ込んでしまうこと。だから、だからね、一緒に考えよ、どうこの状況を乗り切るか、生き抜くか。後悔なんていくらしたって、前には進めないんだから」
「サファイア、さん……」
緑色の粒子が消え、”幼竜”へと完全に姿を戻したガブリエルの頭を、アルの手が撫で、抱き上げる。もう何も心配はいらないというように。溢れる涙は嘆きのそれではない――。
「そう――前に、進まなきゃね」
「ど、どこいくの?」
不意につぶやき、何処か遠くを見つめるような眼差しを浮かべた姉の表情に、アルのどこか上ずった声が重なる。ガブリエルを抱えたまま、転んでしまいそうな程の勢いで、彼女の前に立ったアルの姿勢は、心なしか外へと続く“出口”を隠すような形となっていた。それは彼の――、
短くはない沈黙があった。おそらく、サファイアにも、それを口にすることに躊躇いがあった。
「うん、眠ってたけどね、いろいろわかるんだ」
嫌だ。言わないで。アルのなかで焦燥が暴れ出す。
心の中で、押し殺してきたことが、暴れ出す。
「いかなきゃいけないって事。ボクがやらなきゃいけない事」
「な、なんだよ、それ……全然わかんないよ。姉ちゃん、やっぱり疲れてるんだよ。あ、あれから何も起きてないし、悪い奴だって姉ちゃんが――」
「やっつけてないよ。逃がしちゃったんだ。そいつがいま、みんなに――」
嘘だ。そんな――そんな!
「そんなわけないだろ!」
「――!」
自らの喉を壊してしまうような、必死の叫びが室内に轟いていた。
その懸命さが、必死さが、姉の口から言葉を奪っていた。
「姉ちゃんがいかなきゃいけないなんて……そんなわけないだろ……?」
知っていた。本当は、“知っていた”。
アルとてわかっている。――アルの脳内にもあのサウザンドの“脅迫”は届いていたのだ。
「アル……」
だから、恐れていた。姉が、サファイアという女性が、そんな時、どうしてしまうか、怖いくらいに理解していたから。その優しさと強さに、たぶん、誰よりも憧れていたから。
「……駄目だよ、姉ちゃんいかないでよ、俺、やだよ」
もう頬を濡らすまいとこらえていた涙で、滂沱の涙でぐちゃぐちゃになった顔で、アルは姉の、先刻のトラブルで少し裂けたままの衣服を掴む。
「姉ちゃんまでいなくなったら、俺、俺……」
姉まで、父さんや母さんのように、突然、“いなくなって”しまったら。
そう考えるだけで、立っていられなかった。
「悔しいよ、俺……引き留めることでしか、姉ちゃんを守れない」
響兄ちゃんみたいに強く在れない。泣いてすがることでしか、大好きな彼女を守れない。
その事実がアルの頬をより涙で濡らしてゆく。そして、
「ったく、意地っ張りだなぁ、キミは十分に強くて、優しいのに」
わざと、少しおどけた調子で言うと、サファイアはアルの涙を指で拭い、その頬をあたたかな両手で包む。
「もう、泣かないで。ボクなら大丈夫。いなくなったりしないよ。キミの晩御飯だってまだ作ってないでしょ?」
「姉ちゃん……」
アルの額に自分の額を合わせ、サファイアは言葉を続ける。
「ボクね、本当に感謝してるんだ。この街に来れたこと、キミという弟に会えたこと――。この街の人達に出逢えて、この街の人達の力になりたいって、心から思えた。ここで生きていくことが、“ボクが生きている”事への、最高の恩返しになるって、そう思えたんだ」
サファイアの蒼い瞳が、吸い込まれそうなくらい、真っ直ぐにアルの瞳を見つめる。
「あの時、“離してしまった”手に、いま、皆を護れる力がある――それはボクにとって“救い”なんだ。慎重に道を選び続けて、たどり着いた、この“街”を護れる、そうすることができる力がボクに託されてる。その事が、ボクは嬉しいんだ」
「……」
アルは姉の過去を知らない。けれど、わかる気がした。”畏敬の赤”の力なのか、その断片はアルの脳内に確かに流れ込んできていた。
「だからボクはいくよ、みんなの事が好きだから。この街が、みんなの帰れる家であって欲しいから」
そこでアルはハッとする。
そこにあるのは、アルの良く知る姉の、街の皆から愛される、繊細でおっちょっこちょいな“お嬢さん”の表情ではなかった。そこにあったのは、多くの別離を体験しながらも、歩みを止めずにいた、帰れる家を失くし続けた“旅人”の表情であった。
この街で、傷ついた羽を休めていた彼女はまた、旅立とうとしている。皆の帰れる家を守るために。みんなの明日を掴むために。
けれど、彼女自身が帰れる保証は――、
「姉ちゃん……」
「キミの強い男の手は、彼女の手を握っててあげて。ボクの誇らしい、自慢の弟」
サファイアの白い指がアルの栗色の髪を撫で、その額に、彼女はそっと口づける。
そのぬくもりがゆっくりと離れ、アルは彼女の覚悟を知る。
いや、初めから知っていたんだ。その蒼い瞳が見つめているものを、その決意を。
「死んだら許さない……絶対、許さないからな!」
「うん――ボクには帰ってきたい場所がある。だから、絶対」
途中で途切れた言葉。それは約束というより、自身に対する“決意”に思えた。切ないくらいに、いつもと同じ微笑みをアルへと送り、サファイアはガブリエルにも言葉を贈る。
泣き虫な、新しい”家族”へと。
「ガブ君もアルをお願い。意地っ張りで、きかん坊だけど、すごく優しくて、傷つきやすい奴だから」
余計なことゆーな! 意地っ張りな弟の声に、舌を出しておどけると、サファイアは出口へと、自身を待つ“戦場”へと続く旅路へと足を向ける。
「……絶対、帰ってきてね」
アルの声に、姉は振り返らない。――振り返らない。
「姉ちゃんっ!」
たまらず叫んだ時、姉の姿は既にそこにはなかった。
まるで、幻のように。己の決意を示すように、彼女はその気配をその場から完全に消し去っていた。
「辛いね、弟にまでこんな力、使わなきゃいけないなんて」
【概念干渉・盲目の守護陣は戦闘中までは維持できない。だが、結界で非戦闘員を特定の区域から締め出すことは可能だ】
「それでいいよ。誰も、立ち入れないようにして」
【了解】
応える相棒の言語は、先刻よりも遥かに流暢に調整されていた。その成長が、寂しくもある。
「いまはエクシオン、だっけ。エクスシアって名前、大事にしたかったんだけどな」
【天使のままでは貴方を護れない】
応えてエクシオンはその身を鉄馬モードへと組み替える。
“……そうなのかもね” 少し寂しげにつぶやいて、サファイアは相棒へと跨る。
(響――)
彼はいま、どうしているだろう。
いや――きっと彼もいま皆の為に血を流し、戦っている。
無事でいて欲しい。
お願いです。ボクに、前へ進む勇気を、ください。
「鎧醒っ!」
発せされた言霊に、“創世石”が感応し、“畏敬の赤”が空間に噴き出す――。
空間を叩き割るようにして顕れた”戦闘機甲”は、聖痕を露わにした彼女の全身へと装着・鎧醒を完了する。そして、
「なっ……」
空に噴き上がった“畏敬の赤”の光。二枚の朱い翼に、超醒獣兵二体の追跡をかわしながら疾走する響の目は奪われる。予感が走る。あれは、あの光の下にいるのは――、
「サファイア……? サファイアか……っ!」
「余所見してる場合かいっ!?」
アーロウの肩部から放たれた砲撃が響を襲い、響の駆る”鬼夜叉”のドリフトがそれをかわす。
”クッ…!” 焦る響の咆哮が闇を震わせ、赤が空を染める。
「あ、あれは……」
そして、赤く、紅く染まる空を、彼女の決意のように羽ばたく二枚の朱い翼を、彼女を探していた街の住民達も目撃する。
「お嬢ちゃん……」
その”畏敬の赤”を目撃したもの全てがいま悟り、覚悟する。
此処に昨日までの平穏は既にない。
明日を掴むための“決戦”の時は、すぐ傍まで来ているのだ、と。
そう、いま、改めて記す。
――”救世主など自分しかいない”。
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