第03話 彼女の理由
#3
ひどく熱かった。息苦しかった。
幼い記憶が、自分の持つ最も幼い記憶がそう訴える。
そう、胸の奥深くに刻み込まれた心傷から、彼女の記憶はまさに始まるのである。
「ダメだよぉ、わたし、もう走れない……!」
「諦めんな、ボクだって、ボクだって怖いんだ!」
手を引くのは、黒髪の男の子だった。
強い眼差しを持った男の子だった。
遠くから近くから何かが爆発するような音が聞こえる。
この船が何処から来て、何処へ行く予定だったのか、それは覚えていない。
自分が何処の誰だったかも定かではない。
だけど、この男の子の事は良く覚えている。
この“苦難”の中、呆ける自分の腕を掴み、安全な場所を、子供が安心して“救助”を待てる場所を探してくれた。一緒にいてくれた。
けれど、
「きゃっ!?」
爆発が付近にあった鉄製の扉を吹き飛ばし、跳ね飛ばす。
幼い子供二人がそれに巻き込まれることはなかったが、恐怖は強く根付いた。自分達の生命が抜き差しならない”危機”にあることを知った。
「やだやだ……いやあああああああああああ」
幼い精神に耐え切れることではない。幼い彼女は叫び、制止する少年の腕も振り解き、走り出した。そんな彼女を、
「馬鹿っ! あぶないっ!」
少年の手が突き飛ばす。
正解であった。
彼女がそのまま直進していたなら、手摺や柵の一切を失った階段の踊り場から遥か下方へと落下していた。そこに再度の爆発。
今度、危機に陥ったのは――、
「あっ! うっ…!」
踊り場の下に体を落下させたのは、少年のほうだった。そして、その手を掴んだのは、
「ううう……」
「馬鹿、お前っ! 落ちちゃう! 落ちちゃうぞ!」
細く、非力な、幼い彼女の腕だった。
動転している少年も、踊り場の足場を掴もうと、必死に手を伸ばす。
少女もろともに落ちる。そんな最悪の結末を拒むように。
「む、無理すんな、ボ、ボクは……」
「やだ、やだから……誰かいなくなるの、もうやだから!」
”平気だから”。無理をしてそんな言葉を吐き出そうとした少年を遮るように、幼い彼女は叫んでいた。
”これ”以前の記憶を持たぬ彼女に、その意味は解せない。だが、幼い心に耐え難い別離が度々あったのは、確かだろう。
「優しいな、お前……んんんっ!」
彼女の心に応えるように、少年はより懸命に手を伸ばす。
そして、
「あっ……!」
手は届いた。千切れそうだった腕の痛みが和らぐ。少年は笑み、彼女も微笑みを返す。
”生きよう”。そんな互いの意志がきらきらと宝石のように――、
(えっ……?)
そう、一瞬だった。下から噴き上げた爆風が、少年の身体を軽々と持っていってしまった。
気の緩みがあったのだろう。固く握りしめていたはずの少年の手はするすると、彼女の手の平から擦り抜けていった。
少年は笑んでいた。爆風のなか、無事でいた少女の姿に安堵したのかもしれない。
衝撃で自分の状態を認識できていなかったのかもしれない。
けれど、その笑みは彼女にとって、サファイア・モルゲンにとって、”重荷”となった。
人を助け、己の生命を失うであろうその刹那にまで、彼女の無事に安堵し、笑むことのできた彼。
そんな彼を助けられなかった。自分が手を離してしまったから、彼を死なせてしまった。
そんな想いが少女の心を蝕む。
「いやああああああああああああああああ」
幼い彼女の喉から迸った慟哭を、少年は聞いただろうか。
だが、彼女は確かに見た。落下し、砕ける彼の肉と骨を。
この後、自分がどのように救出され、助かったのか。彼女は記憶していない。
それからも多くの出逢いがあり、別離があった。
そして、これより数年の後、彼女は自分を”ボク”と呼ぶようになる。
それには、十二歳までの時間を過ごした孤児院で兄と姉、両方の役割を果たさねばならなかった事も理由としてあるだろう。
だが、それ以上に自分を、人を助けて、微笑んで逝ってしまった彼の、少年の生き方を、彼女が引き継いでしまったから――という理由が大きいのかもしれない。
そんな彼女の瞳がいま、過去との邂逅から覚める――。
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