第15話 骸鬼―人間を護る存在―
焔渦巻く闇のなか、二体の獣が吠え、絡み合う。
鈍く輝く水銀と、黒い肉片を撒き散らしながら激突する、銀鴉と響の“鉄”と“骨”が、聴覚に突き刺さるような鋭利な金属音を響かせる。
響の肉に突き刺さった忌銀の短刀は、体内の壊音によって体外へ押し出され、砕ける。だが、負った損傷は響の体内の“壊音”の侵食率を高め、脳を、意識を刈り取るような“空腹感”で圧迫する。だが、
(クソッ――まだ、か。まだ――!)
思考を侵食する壊音の“空腹感”故か、あの時の、あの時のイメージへと辿り着けない。
コノ肉体は、俺はまだ――“アレ”に、魔獣に成れちゃいない。
焦る響へと銀鴉の悪意が弾け、獰猛なる牙を剥く。
短刀となっていた水銀が集合・結合し、また、新たな容貌へと変貌する。それは、
【ふふふ、響――】
「き、貴様……っ!」
彼が愛する少女。生命を、人間としての己を捨ててでも護ると誓った少女の容貌。その少女の貌を持つ水銀で造られた人形。その群れが一斉に響へと襲い掛かる。
できる。できる、はずだ。人間を捨てた魔獣なら、この貌を、少女を砕くことが。だが――、
「おらあああああああああああああああっ!」
刹那、高速で割り込んだ影が水銀の貌を、体を残らず蹴り砕く。
その砕け散る破片を、響はただ、呆然と見つめていた。
叔父を、叔母を、父を殺めた怨敵の攻撃に対し、まったく体を動かすことができなかった自身の醜態に只、呆然と――、
「すまねぇ、隊長。アンタの前でこんな――」
ごわっ!? 突如、鼻先を叩いた裏拳に、割り込んだ影、保安組織の副長、ジェイク・D・リーは鼻をさすりながら、理不尽極まる裏拳の主に、抗議の目線を送る。
「ちょっ、何す――」
「……すまない、ジェイク」
そして、その目線の先には、焦燥に端正な顔立ちを歪ませ、己のままならなさに歯噛みする人間的な、あまりに人間的な響の顔があった。
その馴染みある表情に、ジェイクの腹腔から安堵の息が強くこみ上げてくる。内なる怪物に思考を侵されながらも、偽物すら破壊できず、破壊された“それ”に憤りさえ覚える響の“彼女”への情の深さ。
悪意の焔に包まれ、流された血が煮立つような戦場のなかにあって、それは爽やかな涼風の如くジェイクの胸を吹き抜ける。
「はああっ!」
また、そんな彼に再度襲い掛かる、忌銀の乙女を今度はミリィ、ガルドの憤撃が砕き散らす。
隊長を囲うように陣形を整えた三人の若者は、それぞれの得物を構え、ニヤニヤと胸の貌を歪める銀鴉を睨み付ける。
「手癖の悪い野郎だ。手前の品のねぇ手品は全部、俺らが引き受ける。おとなしく“決闘”に専念しやがれッ! この七面鳥野郎ッ!」
立ち上がれぬほどだった疲弊と損傷は癒え、ほぼ全快状態の屈強な“強化兵士”集団、保安組織ヴェノムの雄姿がそこには蘇っていた。その要因となった、あの畏敬の念を喚起させる赤の光は、いまだ、彼等の周囲を漂っている。
その光を銀鴉の単眼もまた捉えていた。
畏敬の赤か――。
適正者以外の肉体の治癒、再生まで行えるとは俄には信じ難い。
成程。組織が“選定されし六人の断罪者”を二名も差し向けてまで奪取を目論むのも理解できる異能、そして“異常”だ。手に入らぬにしても、捨て置けぬというわけか。
「腐ン――どうも煮え切らネェ萎ァ。燃え尽きるにゃ混沌が足りネェ」
自分に与えられた仕事は言うなれば、その“畏敬の赤”に付着したゴミの排除だ。
埃のなかに埋没した宝石を拾い上げるための箒と塵取。
そんな任務だ。ゆうなればこの後、起こるであろう“畏敬の赤”同士の戦争――その前座である。
なら、盛り上げるしかネェだろう。メインイベントを食っちまうくらいに、この第一試合を盛り上げるしかネェだろう。“畏敬の赤”を塗り潰す程の“血の赤”で!
銀鴉の戦闘者としての矜持、否、もはやどう殺戮し、どう辱かしめるかしか考えられぬ脳髄が知覚をフル動員して、餌を、この饗宴を盛り立てるオードブルを探る。そして、
「粉――面白いモン見つけちまった是ェ。祭の添え物としてはなかなかに上等だ……。ひっぺがせェッ! “忌銀の魔爪”――ッ!」
「……いかん、皆跳べ!」
響の号令に、隊員達が街路を蹴った刹那、地面に垂れ流され、染み込んでいた“忌銀の魔爪”が唸りを上げ、街路に亀裂を走らせる。叩き割られたに等しいその石塊はシェルターへと続く地下通路へと雪崩込む。
咄嗟にミリィが地下通路を、布を剥ぎ、解放した“知覚強化端子”で探るが、幸いにして、そこに人の気配はなかった。だが、
「なんて、こった……」
魔爪が次に斬り裂いた建物の内部に在る影に、ヴェノムの隊員達の表情が凍りつく。
壁面と屋根を綺麗に引き剥がされ、内部を露にした建物のなかに彼等は、彼等はいた。
骨折した腕をギブスで固定した少年と、その母親、そして、母親の脚に必死にしがみつく少年の妹と思しき幼女。
瞬時に記憶が呼び覚まされる。少年は、昨日の捕物で響の一撃によって負傷し、捕縛されたユーシェンと呼ばれていた子だ。
「誘導漏れか? いや――」
逃げなかったのか?
少年の眼光に宿る感情、ヴェノムを、響=ムラサメを見据える眼差しに宿る感情は憎悪と自棄。
その有り余る感情が避難を訴える自警団や母親の声を無視し、説得に励んでいた母親と妹まで激しさを増す炎と戦闘で避難すらままならなくなった――というところか。
「甘えん坊がっ。逆恨みの、反抗期かよっ!」
ジェイクは吐き捨て、ミリィ、ガルドとともに彼等を保護するべく疾走する。
しかし、戦闘員の残骸が、銀鴉が垂れ流した“忌銀の魔爪”の水銀によって再結合し、操り人形のように不格好な動きとともに、ジェイク達の前に立ち塞がる。
「チッ――相変わらず、趣味の悪い!」
「呬簸簸――お前さんのやり方を参考にさせてもらった是ェ。元々、擬態は俺の領分だしナァ。さぁ早く俺を仕留めねーと、お仲間も、そのお坊ちゃん達も御傀儡が殺しちまう剃ォ?」
「オオオオオオオッ!」
銀鴉の挑発が空気を穢したその刹那、銀鴉の首筋に村雨の刃が押し当てられていた。
視覚する間も与えずに接近した響の腕が刃を引き、緑色の体液を撒き散らせる。
「嗚呼アアアッ!」
極限まで“壊音”に侵食された器官が発する悲鳴にも似た雄叫びとともに、響の黒の鎧装に覆われた拳が、銀鴉の纏う鎧装へと叩きつけられる。その拳を銀鴉の腕が掴み、裂かれた肉から滲み出た水銀が村雨の刃を絡めとる。
「枌――その程度か世ォッ!」
銀鴉の腕と水銀が、響の力を受け流すように、響の肉体を回転させ、地面へと叩き付ける。続け様、銀鴉の単眼から放たれた刃状に圧縮されたエネルギーが地面をガリガリと削りながら、瞬時にかわした響の首筋に迫る。
(――“捨てる”。“捨てろ”ッ!)
呪念の如く繰り返す思念とともに、全身から滲み出した“壊音”が響の肉体を持ち上げ、フワリと宙に浮かび上がった響の蹴撃が銀鴉の頭蓋を揺らす。
標的を見失ったエネルギー刃は、明後日の方向の建造物をバターのように切裂き、崩す。
「ミリィッ!」
わかってる! ジェイクとガルドが、銀鴉の操る戦闘員の残骸――忌銀の奴隷兵”の群れへと組み付き、その隙にミリィの細腕が少年と母親、母親にしがみつく妹まで抱き上げ、一跳びで数メートル先の比較的、安全な領域へと離脱する。
可憐な乙女に見え、非戦闘型である彼女もやはり“強化兵士”なのだと、その事実一つで少年とその家族は実感する。
「逃げなかった理由はあえて聞きません。でもあなた――お母さんをあまり困らせないで」
“知覚強化端子”が感知する思念の乱れ、澱みからユーシェンの“その理由”は十分に推測できる。
肥大した自意識と、思春期特有の独善的な思考。自らの悪業すら肯定できる歪んだ視点。自らも通過した道故に、ミリィは理解し、たしなめるように言葉を投げる。だが、
「――怪物」
「好きなように呼びなさい。言葉どおりかもしれないし、それにすら値しないかもしれない。けどね」
猜疑に澱む瞳が吐き出した言葉に、届かぬと知りながら、ミリィは言葉を続ける。
「あそこで血を流している人が、人間を捨てるのは、あなたの、あなた達の為でもあるのよ? キミはそれを見なさい。逃げなかったキミにはそれをする義務がある」
一刀のみとなった“痛みに喘ぐ双児”を握り締め、ミリィはジェイクとガルドの加勢へと向かう。銀鴉が垂れ流した忌銀と混ざり合った“忌銀の奴隷兵”の戦闘力は高く、たかが数体といえど、その驚異は、通常の“強化兵士”を大きく凌駕する。
隊長の負担とならぬよう少年達を護り続けるのは至難の技だ。そして、
「繰兎亜ァアァッ!」
四肢に埋め込まれた“醒石”の輝きとともに、銀鴉の腕から放たれた衝撃波が、標的を弾き飛ばし、少年達の視界に、腕を、脚を、黒い鎧装に覆われた響の肉体を滑り込ませる。
化け物と罵り、畏れてきた青年の表層に顕れた変貌に、少年達の表情が一様に恐怖に歪んだ。端麗な顔立ちにゲル状の“何か”を張り付かせ、眼を赤々と光らせる様は、人間のそれとは思えなかった。
「逃…げろ、逃ゲロ――」
青年の変わり果てた声音が告げ、その青年へと、銀の鎧装に身を包んだ銀鴉の異形が、猛然と突進する。銀鴉の腕に構築された長剣と、響の“村雨”が鐔競り合い、鱗粉の如く火花を散らす。銀鴉の強靭に過ぎる筋力が響を押し込み、少年達との距離を縮める。
(クッ――)
「――爬ッ! そんなナリでまだ保安官気取りカヨォッ! コノ饗宴に必要なのは、本能と本性剥き出しの本番だけなんだヨォ。せいぜい足掻くこったなァ! 手前のその焦った面もなかなかそそるガヨォ!」
「巫山戯るなッ!」
響の怒気が“壊音”を活性化させ、両脚を覆う黒き鎧装が周囲に根を張るように蠢く。
押され気味だった村雨の刃が銀鴉の長剣へと喰い込み、銀鴉の脚をわずかに後退させる。
好機――だが、このまま怒気に飲まれ、“壊音”を解放するわけにはいかない。
この距離で、少年達の前で人間を捨てた魔獣と化せば、彼等を巻き添えにしてしまう可能性がある。
……理性を保ったまま、“壊音”を活性化させ、体内の“壊音”の濃度を上げなけれなならない。それは冷静に激怒するに等しい難事だ
銀鴉という難敵を前に、それは不可能に近い。
こうなれば、現在の状態で銀鴉を倒しきるしかない――。しかし、
「枌、捨てられねぇってんなら――俺がお膳立てシテ犯ルヨォッ!」
「ナッ――!?」
対峙する銀鴉は、その現状を維持させる程、“お人好し”ではない。
鐔競り合う響目掛け、銀鴉の胸の貌から緑色の粘液が吐き出され、響の全身を絡め取る。
咽返るような酸性の悪臭が響の嗅覚を刺し貫き、粘液の持つ凄まじい粘着力が四肢の自由を完全に奪っていた。響の“躊躇”という最悪の“隙”を制した怪物は、響の顔面を蹴り上げ、続け様、その頬を踏みつける。
「呬破破破破ッ! 中途半端に人間ごっこなんぞやっとるから、こんな目に合うんだ是ェ? 本来なら滅多に当たることも根ぇ“奥の手”だが、人間性なんて塵芥に目ェ曇らせた野郎にゃ覿面だったナァ。さぁて」
響の首筋に銀鴉の長剣が当てられ、肌の裂ける痛覚とともに、赤々とした血の雫が街路に流れ落ちる。それと同時に長剣から溶け出たように、銀鴉の水銀が響の体内に流れ込む。これは――、
「このまま首を削ぎ落とすのもいいが――俺としては、あの“黒い怪物”と闘りてえンダ。あのまっくろくろすけになった手前をぶち殺して、初めて俺は手前に借りを返したコトになる」
“強化兵士”である、“人柱実験体”である自分に“恐怖”を与えた、あの真っ黒な球体。
あれを殲滅して初めて自分の“進化”は完成する。“醒石”という惑星の力を得た現在、“潜入工作”などという不名誉極まる任務に特化調整された“白鴉”なる存在は死に、“銀鴉”という新たな戦闘生物が体内で産声を上げつつある。
この処刑はそれを完遂するための儀式だ。
「この究極進化した俺が、あの怪物を滅殺し、気に食わねえブルーとシャピロもくびり殺す!
そうなりゃ、もう俺は人柱でも、実験体でもねえ! 俺が完成された一体、“究極の生物”として組織に君臨する! さあ、手前も手前の“獣醒”をしやがれッ! 俺に惨殺されるのに相応しい姿にナァッ!」
(戦、闘、薬か――)
自らの体内に流れ込む水銀の正体に五感が気づくと同時に、全身を貫く禍々しい昂揚が意識を刈り取らんと蠢き始める。霞み始める理性とともに、顔に張り付いていた“壊音”が糸蚯蚓の如く皮膚を這い回りながら、その面積を拡げてゆく。だが、
「ウウウ……オオオオオオオオオッ!」
響の黒の鎧装とほぼ一体化した掌が、頭部を、“響自身”を覆い尽くさんとする“壊音”を無理矢理引き剥がす。
皮膚の一部が剥がれ、鮮血が飛び散る。自身を捻り、引き千切る痛覚が容赦なく神経を震わせる。だが、その痛覚が、“響”という意識を“壊音”と成りつつある器のなかに踏みとどまらせていた。
「貴様ヲ……始末スる。俺は、俺のマまで……」
「た、隊長っ!」
救援に向かわんとしたジェイクの脚を、千切れた“忌銀の奴隷兵”の腕が掴み、投げ飛ばす。
元々、死体の継接ぎであるため、彼等に“死”の概念はないらしい。ジェイク達三人が幾ら打倒し、その身を砕いても再結合、もしくは部位ごとに独立して、攻撃を絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。
歯噛みするジェイクの目に、変貌に抗う青年の容貌が焼き付く。
両眼は赤々(あかあか)と輝き、バンダナの下の、額の精製手術跡までもが第三の眼の如く赤い光を放っている。
戦闘薬による昂揚と、器を覆い尽くし、我が物にせんとする“壊音”を、銀鴉への憎悪・殺意で抑え込み、響は纒わりつく粘液を殺意で硬質化し、刃と化した“壊音”で引き裂く。
「オオオオオオッ!」
その姿はまさに魔獣。――生ける刃。
その暴走寸前の理性と異能を叩き付けるように躍動する黒の拳がいま、
「これ、ナ~ンダ?」
「――!?」
――標的の前で虚しく静止する。
その鼻先に在る光景に、少年と、その母親の喉から漏れた怒号にも似た悲鳴が、空気を震わせる。
……響の拳が静止するその数センチ先で、銀鴉の手が子猫の首でも摘むようにして、幼い少女を“盾”としていた。
ジェイクを遥かに凌駕し、ミリィの超感覚の眼でも捉えられぬ銀鴉のスピード。それが瞬く間に少女を攫い、生ける盾としたのだ。
荒れ狂う戦闘薬と“壊音”の暴虐を制し、拳を止めた響の理性、心は、人間の尊厳そのものと言い得たかもしれない。
だが、その尊ぶべき心が、青年の“致命傷”となった。
「結局、同じ負け方だったナァ――色男」
刹那、銀鴉の腕の長剣が、響の肉体に深々と突き刺さる。
父親が自らを庇い、刺された時のように。
少女を護るため、青年はその刃を胸に受け容れた。
魔獣と呼ぶには、刃と呼ぶには――確かに青年は優しすぎた。
「さぁ始まりダァッ! 全殺し皆殺し神殺しの、叛逆の饗宴のナァ――ッ!」
響の全身を“壊音”が覆い尽くし、あの黒い球体が姿を顕す。
だが、それは果たして、“敗北”であったであろうか?
×××
ひどく、静かだった。
どこまでも広がる朱い空が眼に染みる。
大地に横たわる四肢の感覚が在る。
嵐のように脳髄のなかを駆け巡っていた昂揚は、跡形もなく消え去り、不気味なまでの静けさとともに、青年の肉体は、真っ黒な大地の上に投げ出されていた。
状況を整理しようと、大きく息を吐くと同時に、先程までの苛烈な戦闘の記憶が蘇り、青年に現状の不可解さを提示する。
燃え盛る街も、必死に賊と対峙する仲間も、助けを求める声も、此処にはない。あの銀鴉の姿さえも。果たして此処は幻夢の世界か、あるいは黄泉の国か。解答は――、
【――まったくダサい“神を喰らう獣”もいたものだなァ、“兄弟”】
「――!?」
ひどく歪んだ、聴覚に斬り付けるかのような声音が響の鼓膜を震わせ、聞き慣れない、だが、ひどく聞き覚えのあるその声に、響は右手に握られていた村雨を構え、身を起こす。
気配が、空気を穢し、五感を噛み千切るような獰猛な気配が、響の全神経を震わせる。
「貴様は……」
黒い大地が蠢き、カタチを成す。最初、自分と同じ容貌をしていたその黒の塊は、次第に巨大な髑髏と化し、響の眼前にその異貌を晒す。
そうだ、コイツの事は誰よりも良く知っている。
「壊音――」
予期せぬ“もう一人の自分”との邂逅に、驚愕の面持ちを隠せぬ響に、“壊音”は髑髏の口角を歪め、嗤う。
【そう……我ダヨ、喋れないとでも思っていたのか? 単細胞生物とでもタカをくくっていたか? まぁ、喋るにしても貴様の脳を利用してるって点で、そう上等な生物ってわけでもないがな】
「そんなにお喋りだとも思っていなかったがな」
朱い空の一部が砕けた硝子窓のように“外界”の風景を覗かせている。
こうして自分の一部である“壊音”と対峙している以上、此処はいつか迷い込んだのと同じ精神世界と呼ぶべき場所なのだろう。
ただ、四肢の感覚があり、内に“壊音”を感じないという事は、此処が“壊音”側の精神であることを裏付けている。
「何のつもりだ。ここが貴様の精神なら――」
俺をはやく現実に戻せ。
現実では、暴走状態となっている“壊音”と銀鴉の戦闘が始まっている。
銀鴉に掴まれたままの少女を護るべく、ミリィが、ジェイクが、ガルドが奔走し、時に銀鴉の盾となり、血を流している。
“忌銀の奴隷兵”も完全に無力化されたとは言い難い。これでは絶望的な状況下で、さらに敵が一体、増えたようなものだ。
【フン、お前、我になリたかッタんだろう? ひ弱な貴様“だけ”が戻ったところで何かの解決になるとは思えんがなぁ】
「……ッ! だから“俺”を喰らってもいい。銀鴉を倒せるだけの異能を――!」
【あの脆弱極まる一家を巻き添えにしてなァ。お前が懸念していたように、我の異能は犠牲の選り好みが出来る程、甘いもんじゃない】
もう一人の自分の悪辣な舌鋒は、次々に響の言葉を払い、現実を突きつけてくる。
【……嘆かわしい。我に自分を喰わせて、異能を得ようなとという甘えた考えで、人柱実験体を倒そうなどと、神を喰らおうなどと、全く図々しい“人間性”だな】
「巫山戯るなッ! 我が身を惜しんで何が護れる。俺が人間を捨て、あの“イメージ”に辿り着く事で初めて――」
【貴様――なら何故、我を喰らおうとは考えなかった?】
“壊音”の響を弄ぶような口調が、そこで一変した。
“怒気”、“憤怒”と呼べるような硬質な感情が、悪意の塊の如きこの怪物の内から噴き出し、言葉となって響の精神へと突き刺さる。
【人間を捨てる――人間を捨てた単に強力な戦闘生物ってだけなら我ダケデ完結してるんだよ。あの鴉が我に借りを返したがってるように、貴様の不在時のほうが“殺戮兵装”としちゃあ優秀だからなぁ――】
確かに、銀鴉を単純に排除するのであれば、現状そうであるように、全てを“壊音”に託してしまったほうが早いのかもしれない。
だが、それでは、周囲の仲間達を、護るべき対象を喰らいかねない。
人間を捨てなければ、倒せない。だが、人間を捨てては、護れない。
親不孝をする、と、父の遺骸に誓ったあの時から、その矛盾は“迷い”として響の意識の深層に根付いていたのかもしれない。
【あの爺やあの女から、貴様、何をもらったとほざいていた? わざわざこの我が人間などという容れ物に詰められた意味を考えろ。人間のまま我を喰らい、それを超えた存在となる。それがオマエの人柱実験体としての大要。お前が辿り着くべき“正解”だ】
「…………」
そうだ。
人間を護る存在が、人間の心を捨ててはならない。例え、この身が魔獣と成り果てても、ホグランに、サファイアにもらったこの“心”だけは捨てるわけにはいかない。
血と肉を、理性を削る死闘のなかで喪失しかけていたその願望を、響の心は確かに思い出し、握った拳の中に決意を滾らせる。
「……そうだとして何故それを俺に話す。俺の理性を喰らい、俺の身体をお前の意のままにする――人柱とするのもお前の“正解”のはずだ」
【そうだな、此処で貴様を完全に喰らい、我は我で好きにやらせてもらうのも悪くない。いい加減、保存食や非常食だけじゃあ“餓死”だ】
喰らいつきそうなほどに近づいた髑髏の目が細められ、腐敗臭にも似た悪臭とともに、“壊音”は己が息を響へと吐きかける。
【だが、面白いノサ、我という“負債”に足掻き、“人間”であろうとする貴様の七転八倒は。
だが、諦めちまって単なる容れ物になった貴様にゃ何の価値もねぇ、我を喰おうとする貴様の意志を我の意志で折り、望みのモンを喰らうのが我のいまの最高の“愉しみ”だ】
「…………」
何という勝手な言い草だ。要するに“お前をより永く苦しめるために、忠告をしてやる”と、この怪物は言っているのだ。
そして、わざわざそんな忠告をする詰めの甘さは、
「――所詮、お前も俺、らしいな」
響の言葉に、“壊音”は低く嗤い、その威容をより禍々しいものへと変貌させてゆく。
髑髏は裂け、尖り、歯は刀剣のように研ぎ澄まされた“牙”となる。その様はまさに天に唾し、神の御使いを咬み殺す邪竜――あるいは禁断の果実を人類に食わせんとする蛇か。
【さぁ我ヲ屈服させて見せろ。貴様とその刃で――“正解”に辿り着いてみせろ】
「ああ……」
自棄や挺身でこの怪物は操れない。
俺がこの一年で得てきた“心”で屈服させる。
抉るように悪辣な“壊音”の物言いに、ふとあの人の粗暴な物言いが重なる。あの人も――こんな風に自分の親不孝を叱りつけただろうか。
脳裏に過る感傷とともに、響は己が半身たる“村雨”を構え、意識の中に浮かび上がるその“言霊”を呟く。
【……フン、ようやく辿り着いたか、これで――】
――鎧醒、と。
×××
ジェイク、ガルドの絶叫が、ミリィの苦悶が、母子の悲鳴が、そして、銀鴉の嘲笑が闇夜に響き、銀鴉の手によって高く投げ放たれた幼き少女の身体が宙を舞う。
周囲では焼け落ちた建造物の残骸が、ガラガラと音を立てて崩れ、目眩を起こしそうな熱量と飛び散る火の粉が、疲労しきった意識を“絶望”という泥濘のなかに誘う。
いま宙を舞う、少女の“心”も擦り切れ、千切れようとしていた。
恐ろしいものを直視し過ぎた幼き瞳は固く閉じられ、現実との再会を頑なに拒んでいた。
このまま、全てが終わるまで目を閉じていよう。
そんな諦観と逃避とともに。
“……だ”
え……?
けれど、涼風に揺らされる鈴の音のような、清らかな響きに、少女の意識は、心は魅かれ、導かれる。
“大丈夫だ”
響きが明確な言葉となり、優しい声が耳朶を撫でる。
閉じた眼のなかに、豊かな緑に覆われ、花々が咲き乱れる庭園の情景が浮かび上がる。
それはもっと小さな頃に読んだ絵本のなかの情景だったかもしれない。
ふと、自らを抱きとめる腕を感じる。
温かい腕だった。
きっと天使の腕だと幼き少女は思った。
柔らかな羽毛の感触すら肌に感じたのだから。
脳裏にしっかりと形作られた天使の端正な顔立ちが、その口元に浮かぶ優しげな微笑みが、少女に自身の救命を確信させる。
嗚呼、本当にもう大丈夫なんだ。
少女は安堵の吐息とともに目を開ける。そこには――、
(え……?)
粘液を滴らせる牙があった。
自らを抱える、黒い鎧装に覆われた腕があった。羽毛のように感じたのは、少女を抱きかかえる為に一時的にゲル化した、黒い皮膚だった。
鼻先に突きつけられるのは、獰猛な息を漏らす三頭犬の貌。耳に響くのは皮膚を粟立たせる、鼓膜を這い回るかのような、醜怪な唸り声。
そのいまにも自らの頭に喰らいつきそうな地獄の番犬の頭を、両肩と胸に一つずついだく奇っ怪な黒い影。その顔は、鬼の面を想起させる凶相の仮面に覆われ、額に生えた二本の角と、闇に光る黄金の眼を、見る者の視覚に突き立てる――。
「い、いや……」
まるで鬼の骸。否、鬼の骸を解体し、無理矢理、鎧に仕立て上げたかのような目に余る異形がその存在には在った。
その、かつて、“保安組織の隊長”であった存在には。
「嫌ああああっ!」
少女の悲鳴が、火の粉舞い散る虚空を震わせ、それを目にする全ての者が息を飲む。そして、
「なん……だと!?」
予期せぬ黒い球体の変化に、銀鴉の声が上ずる。
一瞬の出来事だった。球体が弾けたかと思うと、青年の手に握られていた精神感応物質の刀が溶けるように鎖へと形を変え、青年の人型へと黒い物質を収束させ、縛り付けた。
これによく似た現象を銀鴉は知っている。それは、“鎧醒”と呼ばれる銀鴉自身をも進化させた『醒石』特有の――、
(確かに精神感応物質は、『醒石』の模造品――だが、)
脂汗を浮かべた銀鴉の胸の貌が、眼前の異形に、確かに見知っているはずの者へと再度、問いかける。……“貴様は何者だ?”、と。
「骸鬼――」
「な、何?」
応える声に、戦場には不似合いな静謐な響きがあった。
怒りや憎しみといった負の感情からは切り離された、一種の厳粛ささえ感じさせるその声は、凄みを持って銀鴉の聴覚に突き刺さる。
「骸鬼――“響=ムラサメ”だ」
もはや声帯の異常はない、澱みない青年の声が告げる。そう、人柱として獣に捧げられ、人間として獣を屈服させた、“人間を護る存在”の姿が、そこにはあった。
NEXT⇒第16話 決着、そして…