第06話 無垢なる猛毒Ⅰ―誓い―
#5
夜は手足に絡みつくような闇とともに深くなり、時間は錆付いたようにその動きを鈍らせる。
そして、その夜に包囲された隊員寮の一室。
そこに座する者たちの心情を代弁するように、切れかけた電球のみがまばらに室内を照らす薄暗い空間のなか――叫びだしたいような激情にかられながらも、言葉一つ見つからぬ沈黙に、憔悴しきった精神をかき乱される若者たちがいた。
言葉が発せられず、誰も動かぬことで訪れる痛々しいほどの静寂がいま、皮膚を刺す。
別離は人の心をひび割れさせる。
戦場しか知らなかった“強化兵士”である自分達を導いてくれた“指導者”であり、“父”のように慕っていた男の遺骸を前に、保安組織ヴェノムのメンバーであるガルド・ガルドは巨体を小さな椅子に預けたまま、表情という表情を殺していた。
ベッドの上で眠り続ける物言わぬ父を凝視し、彼を、その遺骸を護るという己の使命を全うするべくガルドは微動だにせずに座り続けている。
まるで、石像のようなその様に、同室する自警団員達は声を掛けることも、なじることもできず、ただ耐え難き沈黙に耐え、項垂れていた。
彼らの胸の内にも、本件の当事者――階下の自室で意識を閉じている響=ムラサメやガルドの首根っ子を捕まえて、詳細を問いただしたい、罵ってやりたい衝動は絶えず渦巻いている。
だが、それを躊躇わせるのは、眼前のガルド、そして、他の隊員の瞳に宿る疲労と悲しみの色濃さ――であろうか。例えるなら、それは親の姿を求め、その面影にすがる迷い子の瞳に他ならない。
自分達が畏れ、蔑視していた、この“強化兵士”達がどれほど“長”を慕っていたのか、どのような想いを抱いていたのか……直感させて余りある瞳である。
その情を踏み躙れるほど、若者たちは無神経でも、馬鹿でもなかった。そして、
「隊長……」
部屋の前で立ち尽くす青年のなかでも様々な葛藤が、焦燥が、懺悔が絶えず渦巻いていた。
血が滲むほどに握り締められた拳が、震える肩が、彼の悔いても悔い切れぬ“無念”を無言のうちに伝えている――。
見守る二人の部下に、“大丈夫だ”と頷くと、青年はその拳をゆっくりとひらき、ドアノブへと指を絡ませる。
「……入るぞ」
「!」
乾いたノックの音とともに、聞きなれた声が耳朶を撫で、ガルドは思わず立ち上がる。
同時に、その声を聞いた自警団達も鍛え上げられた身を硬くし、溢れ出る感情に拳を握り締めていた。彼等の悲しみは理解できるとしても、“長”の死に関わる張本人に対する感情はまた別だ。そうだ。あの時、暴走状態にあったことを考えれば、この男が“長”を殺め――、
「隊長…!」
「この野郎……っ!」
当然の感情の発露だった。
――響=ムラサメ。ジェイクとミリィを伴い、入室した青年に、自警団員の一人が掴みかかり、襟首を締め上げる。
自警団員達のやり場ない感情が、尖った槍となって四方から突き刺さる。噴出したような怨嗟の眼差し。そのひとつ、ひとつを受け止めるように、響は黙して、罵倒と憎悪のなかに身を晒す。
「おい、やめろ! んなことしても始まらねえだろーが!」
一触即発の空気。
そのなかで、ジェイクは二人の間に体を滑り入れるようにして、響の襟首を掴む自警団員の身体を引き剥がし、事態を収集しようと試みる。だが、意外にも響の掌が下がらせたのは、ジェイクの身体のほうだった。
「隊長……?」
「――爺さんは?」
ただ、静かに発せられた響の問いに、全員の目線が無意識にベッドの上に寝かされた遺骸へと集まる。その死を悼むように、その現実を拒むように、白い布で覆われた一つの遺骸。
響は皆の目線を確認すると、遺骸へと歩み寄るべく、身体の向きを変える。
(なっ……)
そして、不意に目を合わせてしまった、そのあまりに悲しすぎる瞳に、血涙が凝固したかのような赤の瞳に、自警団員は思わず手を離してしまっていた。
響の瞳に宿る、自らを苛むような悲しみは自警団員達から瞬時に罵倒を奪い、忘却させていた。
――“すまない”、そう告げると、響は自警団員達の間を通り抜け、眠る長の傍まで歩を進める。その掌は、白布へと静かに伸ばされる――。
「……たく、なんて綺麗な顔して寝てんだよ、爺さん……」
ゆっくりと布を剥がし、そう語りかける声はどこまでも寂しげで優しかった。
どこか儚さすら漂うその声音に、室内に充満しつつあった怨嗟の念は次第に霧散し、消失する。
「もうちょっと恨んでくれてもよかったのにな。アンタに怒鳴られないのは……何か妙な感じだ」
「…………」
皆、黙して響の言葉を聞いていた。
眠る長の顔を見つめていた。
――響の言葉どおりだった。全身を染め、凝固している血液も、いたるところに散見できる裂傷も、おそらく致命傷であろう刺し抉られたような胸の傷も、凄惨といっていい有様でありながら、眠る“長”の顔は満ち足りていた。
悔い一つ見えぬその頬に,、伸ばした指が触れた瞬間、響の表情が一瞬、呻く様に歪んだ。
眼前の長との別離の瞬間が、脳裏に鮮明に蘇っていた。
「夢を……見たよ」
先ほどまでガルドが身を預けていた椅子へと腰を下ろし、響は言葉を続ける。
言葉を織り上げるごとに、その貌に浮かび上がる表情は、勤務時の張り詰めた表情しか知らない自警団員たちにとっては、強い衝撃を覚えるような、柔らかな表情だった。
それは、彼等が魔獣、化け物と蔑み、見ようともしなかった、一人の青年の素顔。いままで彼等が青年へと向けていた怨嗟と蔑視の刃を突きつけられるように、その表情は一人、一人の胸に深く突き刺さる。
「爺さんやサファイアに出会ったばかりの頃の、さ。懐かしかったよ……懐かしかった。たった一年でも、俺には怖いくらいに永くて――幸せな時間だった」
この一年で、指は人を殺めることでなく、文字を紡ぐことを知った。鼻は血と硝煙の匂いではなく、果実と酒の香りを知った。心は、笑みと笑い声を知った。
十数年かけて得られなかったものが、この一年にすべて、凝縮されていた。
「あの手を握った時から、俺は始まった。自分が人間だって思い出すことができた」
転げ落ちるように人間性を磨り減らして生きてきた少年は、感情を殺したまま青年となり、この自治区で、失ったものを少しずつ取り戻してきた。
それは他の隊員たちにとっても同様であり、“人間”である自分と、この自治区の存在は既に切っても切り離せないものとなっている。
溢れ出る亡き長との記憶に、ミリィの瞳から大粒の涙が零れる。
「アンタとサファイア、ホワイトのおじさんとおばさん、食堂の女将さん……アル。皆と過ごした時間のなかで、俺みたいな化け物も少しは人間として生きるフリを覚えた。皆が教えてくれる、伝えてくれる温かさも、穏やかさも、俺には新鮮で、眩しくて……いつか、皆のような生き方が、皆と共に人間として生きることが出来るかもしれない、そんな気がしてた」
……そんな気が、してたんだ。
そう語る響の脳裏に、あの時の血の匂いが、自らの容貌が、有様が、浮かび上がる。黒く醜く浅ましい、もう一つの自分の容貌が。
そう、眼前で眠る長が刺された時、脳裏に浮かんだ、あの姿は――。
「……けどな、それは、“幻想”だ。その眩しさも、温かさも、幾ら手を伸ばしても俺が掴める、触れられるものじゃない。俺は所詮、獣だ。魔獣だ。俺の内に眠る“壊音”も、俺自身も、人間と呼ぶにはあまりに異質で、あまりに穢れている。それに、人間では立ち向かえない。あの男に、アンタを殺した――あの男のような連中に」
ナっ……。
その言葉で室内の空気が凍り付いた。
確かに――明らかに自殺や事故死の類ではなかったが、あらためて言葉にされると、背筋を冷たいものが走り抜ける。
“あの男”――響のその言葉が、ホワイト夫妻を殺害し、眼前で眠る長まで“死”に追いやった“悪意”の存在をいま、明確に浮かび上がらせていた。
そして、いま長に語りかけている青年は視たのだ、その“悪意”そのものを。――対峙したのだ、この街の日常を歪ませ、踏み躙った、その“犯人”と。
「……だが、そいつすら恐らく尖兵に過ぎない。敵は明らかに“組織”だ。それも煌都とのラインを潰し、隠蔽するだけの“事”を、連中はこの街で起こそうとしている。覚悟しなけりゃならない。俺が、“人間”を捨てることを、自分の“在り方”を変えることを……そうだ、俺は人間じゃなく、“人間を護るモノ”で在るべきだった……」
「隊長……?」
不意に立ち上がった青年の声音に宿るただならぬ気配に、ジェイクが戸惑いの声を漏らした刹那――、響は背に携えた村雨を無言で鞘から引き抜き、正眼に構えていた。
……精神を集中する。あの時、得たイメージに辿り着くために。そのイメージを再現するために。響は瞳を閉じ、己のなかの怪物へと接触を試みる。響の内なる手が、指が、黒々(くろぐろ)とした“もう一つの自分”に触れ、弄る。そして、
「――!」
獰猛な気配が噴出し、空気を振動させる。
響の唇が言霊めいた何事かを呟いたその瞬間、室内にいる全ての者が息を飲んだ。
響は既に村雨を鞘へと収め、姿も元の状態に戻っている。
だが、響が言霊を放ったその刹那、瞳に映ったもの。
アレは何だったのか?
アレは人だったか? それとも獣、響の言うところの魔獣だったのか?
いや違う、どちらでもない。アレは――。
「……すまない。もしかしたら、アンタが、みんながくれたものを棄てることになるかもしれない。アンタの気持ちを、踏み躙ることになるかもしれない。
でも、たとえ……たとえ、どんなものに成り果てたとしても、アンタに託されたこの街は必ず護り抜いてみせる。この任務だけは絶対に果たしてみせる。
元々、親孝行なんてできる柄じゃないからな。これが……俺にできる精一杯の親不孝だ」
響はそこで言葉を区切ると、その瞳を、立ち尽くす部下達、自警団員達へと向ける。
「そして、アンタが俺を息子だって、俺達を手のかかる四人兄妹だって言ってくれた誇りだけは絶対に忘れない。……それにな、俺達だけじゃない。アンタを父と慕う人間はアンタが思う以上にいるんだよ。俺の襟を掴んだ手の熱さ、睨む瞳のなかの情の濃さ、皆のアンタを想う気持ちは確かに受け止められた。嬉しかったよ。そんな人を“父”と呼べることが、“父”と思えることが、俺はさ、嬉しくてしょうがないんだ」
そこで自警団員達は気付く。響達同様に憔悴しきった自分たちの瞳に。
そして、自分達が怨嗟の眼差しを向けていたこの青年にその実、労わられていたことに。
そんな、優しすぎる青年の有り様に。
彼等は、気付いてしまった。自分達が畏れていたものの正体に。
「ジェイク、ミリィ、ガルド――」
これまで共に戦い抜いてきた戦友達、一人一人の名を噛み締めるように呼び、響は黙って自分の言葉を聞いてくれていた彼等の目を、真っ直ぐに見つめる。
「生命を拾えるかは五分と五分。博打めいた戦闘になる。……それでも付き合ってくれるか」
「こういう時は黙って付いて来いって言うもんですよ、隊長」
そう言って、響の胸にジェイクは拳を重ねる。その後ろで、ミリィとガルドも頼もしい笑みとともに頷いていた。
異論などあるはずがなかった。いま、響が、四人兄妹の長兄が語った言葉は、等しく三人の想いであり、揺るがぬ結論であった。此処を守れるなら、自分達はただの刃で構わない。
響の言葉どおり、人間ではなくとも、“人間を護るモノ”であればそれでいい。
生真面目な兄が、生真面目にも亡き“父”に伝えにきた決意と言葉。それはどんな指示よりも三人の心を鼓舞し、纏め上げていた。
「……すまない」
これから始まるのは戦うことしか知らぬ愚者達の饗宴。
酌み交わす杯は磨ぎ澄まされた刃。その杯に注がれるのは互いの心臓から迸る鮮血のみ。
だからこそ、響の表情には苦渋が満ち、声音には感謝の念が滲み出ていた。
「各自、装備を充填。これより甲一種体制で任務に当たる。まずは手分けしてすべての住民をシェルターまで誘導するんだ。恐らく……一時間もすれば地表はすべて戦場になる」
「了解!」
子気味良い発声とともに、三人は迅速に行動を開始する。床を鳴らすブーツの音が各々の感傷を断ち切るように響き渡り、戦場の到来を改めて四肢の細胞に予感させる――。
「じゃあな、爺さん。――いや」
眠る長を見つめ、響は言葉を、別離の言葉を告げる。
「……行ってくるよ、“父”さん」
その言葉とともに、室内にいるすべての者に背を向けると、響は保安組織の隊長としての貌を表情内に作り直し、部屋を後にした。決意は揺るぎなく青年の血を滾らせ、その足を前へと進ませる。
そして、その青年の在り様を自警団員たちは言葉を発することもできずに、ただ、ただ、見送っていた。この一年、確かにこの街を護り、懸命に駆け抜けてきた青年の背中を。
無骨で、不器用なその背は、どことなく、“父”と似ていた。
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