第04話 幻夢―過去の残響―
#3
――眠りは深く、覚醒はいまだ遠い。
無意識の指は戻るはずのない時計の針を巻き戻し、二度と邂逅を許されない“過去”をまさぐっていた。
いま眼前に在る“記憶”という名の情景はあまりに生々しく――いまだ不安定な状態にある響の精神を激しく揺さぶる。繰り広げられた惨劇を示すように視界に広がる血の赤と、鼻腔に満ちる錆付いた鉄の如き血臭。
街路には自らが四散させた赤黒い物体、街を強襲した“賊”たちの血肉と臓腑が散見できる。
厳しく、長い戦闘だった。死闘は――陰惨を極めた。
世界の統治機関たる煌都から“民衆の敵”と認定されるほどの統率された“強化兵士”の集団。
それを実質、一人で殲滅したのだ。忌むべき半身である“壊音”を解放し、破壊の権化たる“魔獣”と化さなければできぬ芸当であった。
全体重を支えていた両膝が地面へと崩れ落ち、凄絶に過ぎる戦い様の反動であるかのように、彼の喉から吐瀉物が溢れ出る。極限の疲労に意識が混濁する。
“悪意”に満ちた世界を転がるように彷徨い歩き、漂着したが如くに辿り着いた一つの自治区。その見知らぬ自治区のために何故、こうまでして戦ったのか――。それは恐らく響自身にも定かではない。
そう、それは――、
「ごめん……ね」
「……?」
そして、響は返り血に濡れた頬に、ふとあたたかさを感じる。惨状に似つかわしくない、優しい声が耳朶を撫で、血の赤とは違う鮮やかな赤が響の視界を彩る。
響の眼前で彼女の柔らかな赤い髪が揺れ、雲ひとつない澄んだ空のような青い瞳が真っ直ぐ響の瞳を見つめていた。
細くしなやかな指が、全身をゲル状の分身――“壊音”に覆われつつある響の頬にためらいなく触れ、慈しむように、いまだ血を流している彼の傷痕をなぞる。
「……ごめんね、こんな姿にさせてしまって……この姿、見せたくなかったんだね。こんなこと……したくなかったよね。それで……あんなに」
つぶらな瞳に貯められた涙がポロポロと零れる。
何故……と呟いた響の唇に、彼女の指のぬくもりが伝わり、言葉を奪う。
涙を流す理由など見当たらなかった。
いや、それ以上に――人が人の為に泣く理由を彼はこの時、まだ知らなかった。響の喉が彼女の言葉への肯定とも否定ともつかぬ、惑いの呻きを漏らした瞬間、少女の腕がそっと響の背中に回され、黒の外套のように“壊音”に張り付かれた彼の胸に少女は顔をうずめた。
「ありがとう。こんな姿になってまで守ってくれて……。ごめんなさい。こんなこと、させてしまって……」
咽かえるような血臭が支配する惨状のなかで、彼女の髪の、果実のような爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。胸元を濡らす涙と少女の体温で、胸に焼け付くような熱さを感じる。
……物理的なものではない。
それは彼の内の内なるもの――戦場以外何も知らぬ、“無垢”とすら呼べるその“魂”が身体に訴えた一つの衝動。彼が生まれて初めて覚える感情の肉感的な顕現だった。
見知らぬ“熱”に潤む己が瞳に、青年は惑う。そして――、
「確かに怪物だな、お前が言っていたとおり」
「……!」
低く重く岩のように硬い、だが生い茂った大樹のような雄大さと穏やかさを感じさせる声音が惨劇に静まり返った街路に響き渡る。
その声に、少女に釘付けになっていた響の目線が微かに動く。夕日を背に石像のように悠然とそこに立つ、初老の男は、声から想起される硬質な印象そのままの険しい表情で響を見ていた。
少女の唇が“長…”と呟く。少女に頷き、石像がコツコツと街路を鳴らしながら響へと近付く。
群集は息を飲み、その様子を見つめていた。端正な顔と引き締まった肉体に醜悪なゲル状の分身を張り付かせた忌まわしい怪物へと歩み寄る、自分達の“長”の姿を。
「……だが、その“心”が我々を護ってくれた。その怪物に喰われなかった“心”が、な」
大きなゴツゴツとした掌が響の肩に乗せられる。
間近で見るその表情の険しさに宿るのは“怒り”や“他者への拒絶”ではなく、深い悲しみであった。響が感じる痛み、戸惑いを察し、噛み締めるような悲痛なる面持ち――。
そして、響がそこにある感情を解せず、呆けるように男の顔を見上げた刹那、悲しみに染まっていた石像の顔が瞬時に温かみを滲ませた。
年齢を重ねるごとに刻み込まれてきた皺が溢れる感情を示すように動き、男が胸の奥に秘めた真なる心を導き出す。そこに在るのは心から他者を労わる想い――熱く、滾るような“慈愛”である。
「――人間だ。お前は。それも俺が知る限り、もっとも強い部類に入る人間だ。自らの抱えているものに飲まれず抗い続ける……それがどんなに辛いことか、俺にもよくわかるつもりだ。――だから、だからこそ、その抱えているものを我々にもわけて欲しい」
言葉を進める度に、自らの暗部――その過去と向き合うような翳りが男の瞳に差し、男の声音が微かに震える。またそれ故に男の口から発せられる言葉は重く、深く、聞く者の胸に突き刺さる。
そして、響の肩に置かれていた手は静かに離れ、血に穢れた街路に膝をつき、自らを見上げる青年へとゆっくりと差し伸べられる。
「歓迎しよう、響=ムラサメ。此処にあるものを、この疲弊した世界でようやく芽吹いた平穏を、皆の生涯を護るために共に戦って欲しい。お前となら、お前なら――それが出来る」
それは青年の生涯のなかで、初めて差し伸べられた手だった。
瞳に映るその手は、己の全てを包み込んでしまいそうなほど、大きくて、温かい――。
(あ……)
――そして、戸惑いながらも硬く傷だらけのそれへと手を伸ばし、握り締めた瞬間、疲弊しきった青年の瞳から熱い雫が一筋流れた。握った手から伝わる男の体温が、響の胸に熱いものをこみ上げらせる。
その手に――そっと少女の手が添えられる。
同時に、胸のなかで滾る熱いものが嗚咽となって喉から迸った。
それは、親からはぐれた迷い子がやっと我が家に辿り着いたような、安堵の嗚咽。
そして、後にこの自治区の護りの要となる保安組織ヴェノム――それを束ねることとなる男が発した、響=ムラサメという一人の人間の、その歩むべき道へと続く“始まり”の嗚咽だった。
(オ、レ、は……)
懐かしく忘れ得ぬその記憶に、現在ふたたびの涙が溢れ出すのを感じる。
次第に目覚めへと近づく意識が、過去の幻影を霞ませ、その優しい輪郭を消し去ってゆく。
(俺は……ッ!)
過去を弄っていた無意識の手は自らを包む懐かしいぬくもりを求め、掴むように、また、振り払うように、激しい怒り、残悔とともに天へと突き上げられる! ……護りたかった、護れなかった、二度と戻らぬその人の笑みを瞼の裏に焼き付けながら。そして――、
「爺……爺さんッ!」
――咆哮のような叫びとともに青年は覚醒する。
いまだ意識を朦朧とさせる夢の残滓を振り払うように、頭を振ると同時にベッドの上に横たわっていた四肢が次第に感覚を取り戻し、自らの状態を認識しつつある眼球が“此処は…?”と、四方へ動く。そして、
「隊長……隊長っ!」
覚醒したばかりの青年の鼓膜を、鈴の音のような澄んだ声音が震わせる。
自らに抱きついた柔らかな腕、あたたかな指がぬくもりとともに、深い眠りから覚め、蘇りつつある五感を響に再認識させる。
「ミリィ…」
次第にハッキリとしてゆく視界のなか、部下のなかでもっとも聡明で、いつも凛としている彼女が泣き腫らした目で自分を見つめているのが確認できた。
そして、一番の泣き虫でもあるその彼女の頭をポンと叩き、響の右腕たる男――副隊長、ジェイク・D・リーは逆立てた髪をさらに掻き上げながら、ホッと息を吐き出すように口を開く。
「隊長がすげえ真っ青な顔で寝ちまってるから、コイツ――大変だったんですよ? あの“龍骸”やら“災厄の車輪“の連中と殺り合った時もここまでひどい顔色じゃなかったって、さ」
共に潜り抜けてきた死線を懐かしむように、ジェイクは言葉を紡ぎ、幾度倒れても必ず立ち上がってきた眼前の隊長へと“畏敬”の念を新たにする。ミリィはそれどころではないのか、子供のようにしゃくり上げながら嗚咽していた。
仲間たちの声、温もりとともに、肌に馴染んだ空気が疲弊した肉体に微かな力を吹き込む。
自身が身を横たえているベッドと、机が申し訳程度に一つ置かれただけの簡素極まる見慣れた風景――自分はどうやら、隊員寮の自室に運ばれてきているらしい。
「でも……今回はマジで死んじまったかと思っちまいましたよ。“厄介な”状態だった“壊音”を止めるためとはいえ、致死量ギリギリの量を隊長には喰らわせちまいましたからね。――それで無事なんだ。不死身の怪物。不名誉で不快な異名ですが、伊達ではなかった……てことですかね」
茶化すような口調ではあったが、そう語るジェイクの声音には真摯な“安堵”と、深刻な“畏れ”が確かに同居し、滲んでいた。響=ムラサメ。どのような状況下にあっても彼の痛々しいほどのその強さは、常に変わらずジェイクを驚愕させる――本当に痛々しい程に。
だから、だからこそ、自らの背中を預けるに値し、また、その“業”にも似た強さを背負う若い背を、命を賭して守り抜くと誓った。そんな男の目覚めにジェイクの目頭は自然、熱くなる。
「……“壊音”は母体である俺の生命維持の為に、どんな毒も、強すぎる麻酔も中和して無効化してしまう――」
そこまで口にして、響は微かに目を伏せる。
「……戦闘薬のような自身を活性化させるようなものは別、だがな」
そう語る響の声音には苦いものが満ちていた。彼のなかで蘇る戦闘の記憶。ジェイクやミリィが知ることのない事の顛末を示すその“断片”が、二人の聴覚にこびりつくようにして残る。
「だが、“壊音”がそれに集中しているその隙に活動を抑え込むこともできる。飽くまで本体である俺にしか干渉しえないわずかな隙だが」
それぐらいでないと駄目なんだ。
「んなっ……」
――自身の肉体、その死に直結するような、計算というよりは“賭け”に近い重大事を淡々と語ってみせる、らしい返答に部下たちは一瞬、顔を見合わせ絶句する。が、すぐに苦笑交じりの安堵の息も腹腔からこみ上げてきた。
そうだ――この、まるで自身の腹をナイフで裂いて中身を覗き込み、臓腑一つ一つの状態を確認するような自身に対する冷徹さと、その冷徹な仮面の下にある、隠そうとしても隠し切れぬ、抑えようとしても抑え切れぬ、他者への深い情念。
……間違いない。錯乱も自我の喪失もない。彼は、確かにそこにいる。彼らが愛する、そんな頼もしくも繊細な青年のままで。そして、
「ジェイク、ミリィ――」
短い沈黙。その後に、響の憔悴を振り切ったかのような、澄んだ赤の瞳が二人を見据える。
「――案内してくれ、“爺さん”のところに」
「……!」
安堵に緩みかけた空気が、青年の一言で一気に強張る。
それは抜き放たれた刃に等しい。安堵の中、二人がいまだ触れず、無意識ではあっても、これまで切り出せずにいた事柄へと真っ直ぐに切り込んだ青年は、静かに身を起こし、ベッドから下り、用意してあったブーツを手早く足にはめた。
そして、傍らに畳まれていたヴェノムの制服に袖を通すと、彼は壁に立て掛けられていた己が分身――村雨をその背に携える。迷いなく、澱みないその所作は流麗なほどで、二人の部下はほとんど見惚れていたといっても過言ではなかった。
だが、故に、それ故に、部下たちは惑う。
「隊長、長は……」
「俺はあの人に……伝えなくちゃいけないことがある」
言い切る声は、掠れることも、震えることもなく、室内に涼やかに響き渡る。
満身創痍にして疲労困憊。立つことすらままならないはずの男の背中から滲み出る強靭な意志が、言い澱む部下達に息を飲ませ、頷かせる。
先ほど確認したように、眼前の青年は錯乱などしていない。彼は全てを飲み込み、その上で“あの人”との対面を望んでいる――。そう理解し、先を導くべく、退室した部下たちを追って、青年の足はゆっくりと、だが確実に最初の一歩を踏み出す。
(爺さん……)
昏睡のなか、まさぐっていた過去の情景によって研ぎ澄まされた一つの“決意”。
それは傷だらけの肉体と精神を支える支柱となり、魂の奥底からとめどなく湧き上がる多くの“想い”に満たされたその瞳は真っ直ぐ“現在”を見据えていた。
青年は歩む。焦燥も、悔恨も飲み込んで。
託された意志と、護りたい、護るべきものの為に。
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