第42話 君と生きる、明日の為に―“Baby, you'll be loved”―
#42
“籠の中の翠の鳥”。
そんな憐れみとも陰口ともとれる自分への言葉を、ガブリエルは製造れて間もない頃から認識していた。
事実、彼女は“使命を果たすその時まで”ラ=ヒルカという籠に生きる事を強いられた、小鳥だった。
青く晴れ渡る空へ羽搏き、外の世界を見たいという願望が小さな胸を揺らしても、その名に相応しいような天使の羽根は、彼女の背には生えてはいなかった。
そして、“使命”という別離の果てに放逐された外の世界は、胸焦がす憧れとは裏腹に、彼女に優しくはなかった。
一人の少年の手の温もりが、その涙を拭うまで。
「ガブ……?」
極限の、“赤”の戦場の中、翡翠の少女に生じた異変に、アルの表情が強張る。
――あきらかに、空間を浮遊する“彼女の粒子”の総量が増加している。
悪い予感に足を止めたアルの様子に、“雷威我”に跨り、”神黎児“と相対していたブルーも、一時その目線を、ただならぬ濃度の粒子を放つガブリエルへと向けていた。そして、
「不味いな……」
「“破壊者”……?」
罅割れた虚空から響く、不愉快な“歌”に眉を潜めていた“破壊者”――フェイスレスの喉が懸念に満ちた、重々しい呟きを零していた。
その看過できぬ様子に、“処刑者”も襟を正すように、“破壊者”の目線の先へと、硝子細工のような眼球を向ける――。
同時に、思考に波濤する合点。
其処に在る翡翠の少女――“複製されし禁碧”と、その全身から溢れ出る粒子は、確かに尋常ではない“神威”を示していた。
あれが弾ければ……、
「……“処刑者”、遠隔地での遊戯は止め、あのラ=ヒルカの人造体を排除しろ。アレは、我等の“救済”に影響を及ぼす、明確なる脅威だ」
「煌都は煌都で切迫した状況なのだがな――。しかし、御身がそう言うのであれば従おう」
“――amen”。
その呟きとともに、また罅割れ、砕け散る“現実”。
物憂げな呼吸とともに、”処刑者“が指を弾いた刹那、彼等の背景の一部が砕け散り、“観念世界”に秘匿されていた“処刑道具”の異様が、人類の前に曝け出されていた。
“畏敬の赤”で赤黒く塗り固められた、“神幻金属”の機体が大地を揺らし、災厄の降臨を轟音と共に知らせていた。
――“赤月の奴隷兵。
其れが、“処刑者”により楔を解かれた災厄の名である。
「……おいおい、“切り札”ってのはカートンで用意されてるものなのかい!?」
「この期に及んで、まだ巫山戯た玩具を投じるか……!」
飄々としたシャピロの物言いに焦燥が滲み、感情を抑制されたブルーの声色にも、明確な苛立ちが刻々と浮かび上がっていた。
不快な機械音とともに駆動する赤黒い機体は、ガブリエル――そして、彼女へと駆け寄ろうとするアルへと躍動! ミキサーのように回転する鉤爪を容赦なく振り落とす!
「クッ――”雷威我“……ッ!」
【―――_――――――_――ッ!!!!!!!】
危機極まる、その刹那!
ブルーの音声指示に従い、“輝獣形態”の雷威我が、鉤爪を回転させる巨腕に喰らいついていた。
同時に、雷威我の背から跳躍したブルーの輝双剣が、“赤月の奴隷兵”の頭頂部へと突き立てられ、連携するシャピロの白輝槍が、赤黒い機体を蹌踉めかせる。
ニ輝士と一機が、迎撃を余儀なくされる脅威。
それが、差し向けられたという事実に、アルは、“ガブリエルがしようとしている事”の重大さを、否応なく実感していた。
喪失の恐怖が背筋を凍らせ、不安と焦燥が胸を掻き乱す――。
溢れ出し、噎せ返るような感情が、少年に少女の襟首を、乱暴に掴ませていた。
「やめろよ――何を、何をしようとしてたんだよ! やめろよ……みんな、頑張ってるじゃないか! みんな、すごく頑張ってるじゃないか……! お前が無理しなくてもいいじゃないか……!」
「アル……」
喉から搾り出される、嗚咽混じりの叫び――。
諦めぬ歌声は、罅割れた虚空からずっと響き続けている。
胸を震わせ、背中を押す、その“歌”に絶望、失望の余地は無いはずだ。
――だから、だから!
真っ直ぐに、そう訴える潤んだ瞳。
けれど、それに答えるのは、どこまでも儚く、優しい、翡翠の笑みであった。
「……優しいアル。理解ってしまうんだね、君と繋がる“創世石”は、私の源――“おかあさん”であり、私自身でもあるから」
「わかんないよ、ガブが言ってること、全然わかんねぇよ……!」
……嘘だ。”適正者“としての脳が、身体が、全部理解してしまっている。
詳細な報告書を読み聞かせるように、“創世石”はアルに彼女の状態、“しようとしている事”を、過不足なく伝達していた。
襟首を掴むアルの手に添えられた、彼女の右手、その体温は、軋む少年の心に染み入るように伝わり、彼の指を緩めてゆく――。
「……私、嬉しいんだ。君も、響さんも、ブルーさんという方も、私なんかの命を大切に思ってくれてる。その為に懸命に動いてくれてる――。それだけで“幸せ”だなっていま、思えるんだ」
「そんなの……そんなの当たり前の事だろ……! それを、幸せだなんて言うなよ……!」
健気に過ぎる少女の言葉を掻き消すように、アルは捲し立て、胸の奥からこみ上げる嗚咽を噛み殺していた。
頭の中に、砕けた硝子のように散らばる映像が胸を裂き、少年の心を散々に乱してゆく――。
「籠の中の、翠の鳥……」
「……!」
アルが口にした、彼が知るはずのない、“自分への憐れみ”に、わずかに表情を乱したガブリエルに、少年は涙でグチャグチャになった、泣き顔を向ける。
「……俺、見たんだ。“適正者”だから理解っちゃったんだ……! ガブの“これまでの”事――幸せな事なんて、幸せな事なんて、ほとんどなかったじゃないか……!」
「アル……」
そんな彼女の幸福を祈り、自分に託したサクヤの想いも背負いながら訴えるアルに、頑なガブリエルの心も一抹の揺らぎを、波紋のように伝わらせていた。
「……だから、お前はいままでのぶん、幸せにならなきゃダメじゃないか。お前は――」
「只の道具だな、“神の子”――」
「……!」
“アル……!”
悲痛な叫びが夜闇に響く。
刹那、懸命に言葉を紡ぐ少年の純心を、“破壊者”の黒革に覆われた五指が阻んでいた。
――この“破壊者”を前に、“畏敬の赤”による防護は意味をなさない。
万力で締め上げ、頭蓋を砕くような握力が、少年の脳髄に、痛ましい悲鳴を上げさせていた。
「ぐ……あぁ……!」
「……お前は“創世石”と現実を繋ぐ“門”だ。このまま頭を握り潰すのは容易いが、それを切欠に“創世石”が暴走する事も目に見えている――」
「あ、ああああああ……!」
底知れぬ“赤”の瞳が、アルを睨めつけ、更なる苦痛を“神の子”の頭部へと注ぎ込む――。
其れは、黒革に秘匿された表情に浮かぶ苛立ちが、俄に匂い立つような、陰惨な行状であった。
「“もう一人の私”のように、“予備電源”として遣ってやってもよいが、“救済”がここまで進んだ現状では、それも不要。……何の価値もない、“厄介なだけ”の存在だよ、お前は」
だが――、
この脅威の標的は、“神の子”ではない。
“破壊者”――フェイスレスの赤を湛えた瞳が、夜闇に煌めく、“翡翠の生命”を捉える。
「……忌まわしきラ=ヒルカの“遺物”。賢しい貴様の行状は看過できぬ。この“救済”に仇をなすなら、私手ずから処理させてもらおう――」
「ガ、ガブ……!」
視線と言葉が示す、明確な照準。
アルの頭蓋を五指に掴んだまま、慈悲なき“破壊者”はガブリエルへとその黒衣を前進させていた。
――彼等、“疑似聖人”はその異能が強大すぎるが故に、“救済”への影響を懸念。自らの行動を規制している。
にもかかわらず、“動いた”。
その殺意に満ちた事実に、頭蓋を締め付けられる以上の激痛が、アルの心に走る――。
だが、
「……“疑似聖人”。貴方たちも、籠の中の鳥ですね」
「何……?」
ガブリエルは毅然と、迫る脅威と対峙していた。
その不遜なる無礼に、フェイスレスは、虚無にも似た表情とともに、彼女を睨めつける――。
「“救済”という目的だけに生きて、“救済”という籠の中で悲しく囀る小鳥――私には、そう見えます」
「ほう……語るではないか、人工物」
尚も言葉を撃ってみせるガブリエルに、フェイスレスは僅かに目を細め、黒革に覆われた口を開く。
「だが、貴様はその籠すら失っている。ラ=ヒルカは既に滅び、口を開かぬ」
「…………」
訪れるわずかな沈黙。
フェイスレスは、その様を観察しながら、ガブリエルの額を指差す――。
「……故に貴様は、素知らぬ顔で飛び去る事も出来る。であれば、その憐れな羽搏き、見逃しても構わぬ――」
「……」
それは降伏の勧告か、あるいは温情か。
まったく――有無を言わせず排除すべき局面で何を話しているのか。
己の酔狂に、フェイスレス自身も自嘲の息を零していた。
(……憐れんでいるのか、この娘を)
底知れぬ虚無の底の底に蠢く、そんな感傷を認知し、“破壊者”は微かにその目線を落としていた。
だが、
「……いいえ、私はもう、その籠の中にはいません。私は私の意思で、すべき事をするのです」
対峙する少女の眼差しも、言葉も、そのような憐憫を必要とはしていなかった。
同情を、救いを求める事もなく、彼女は毅然と、畏るべき“疑似聖人”と対峙していた。
「この“歌”は、籠の外の、私の知らない世界の“歌”です。この世界が、どんなに汚れて見えても、残酷でも――私には、この“歌”かとても美しく思える」
罅割れた虚空から響く“歌”に耳を傾けながら、少女は自らの結論を告げる。
「人間には、未来があるって思えるんです」
「……憐れな。人の都合で作られ、人に都合のよい希望に酔う――。そこまで人に寄り添うか、人工物。まったく……笑えんな」
正しく、その“守護天使”の名の通りに、か。
己を射抜く翡翠の眼差しに応える、“破壊者”の物言いにはやはり、瑣末な感傷が含まれていた。そして――、
「おおおお……!」
「……!」
刹那、衝撃が黒衣を揺らす。
瑣末な思考の乱れに、フェイスレスの五指が緩んだ刹那、拘束を逃れたアルの拳が、黒革に覆われた頬を、強く撃ち抜いていた。
(触れた……? 私にか?)
“畏敬の赤”の防護を突き抜け、久方ぶりに――否、“初めて”感知した痛覚に、“赤”を湛えた瞳が見開かれる。
――一時的にせよ、この少年が放つ“赤”の総量は、“疑似聖人”の長たる“破壊者”のそれを超えた。
そういう事になる。
「勝手に……」
そして、拳の主たる少年は、全身に荒れ狂う激痛を噛み殺すように、肩を上下させながら、漆黒の“破壊者”を睨み付けていた。
「勝手に……話すすめんなよ。ガブは、お前たちなんかと違う……!」
「何……?」
駆け寄った、翡翠の少女を間に置き、“神”に選ばれた者と、“神”に産み落とされた者の視線が交差する。
「ガブは……この街で、暮らすんだ。俺達と一緒に! ずっと、ずっとな……!」
「アル……」
ガブリエルを護るようにフェイスレスの前に踏み出した少年の手が、ガブリエルの右手を優しく握り締める。
「姉ちゃんの美味い飯を食って! 気の抜けた、味の薄い炭酸水飲んで! ちょっと物足りないけど、大事な、大事な毎日を俺たちは過ごすんだよ!」
「………」
“赤”に張り詰めた空気を震わせる、淀みなき声。
その言葉に、蒔かれた嘆きの種が憤怒の花を咲かせるように、明確な殺意が“破壊者”の全身から匂い立つ――。
「何だ、其れは……“神の子”として語る言葉がそれか。この局面で切る啖呵がそれか! “適正者”としての解答がそれか……! そのような巫山戯た――」
「当たり前だ……ッ!」
「……!」
だが、真に怒りに震えていたのは、少年のほうだった。
真っ直ぐな怒りが、”畏敬の赤”の粒子を剣のように硬質化させ、フェイスレスを、世界全体を震撼させる。
鋭利な“赤”は、現実を無茶苦茶に切り裂き、フェイスレスが密かに怖気を覚える程に、その領域を拡げてゆく――。
「確かに世界全体から見たら、アンタらから見たら、小さなものかもしれない、ちっぽけな事かもしれないけど、みんな、その小さな世界を一生懸命生きてんだよ! “畏敬の赤”なんか関係なく、みんな一生懸命に……!」
「ヌ゙……ゥ゙……」
「ガブには、その幸せを生きる権利がある! 使命だとか、役割とかじゃなく、自分の幸せを生きる権利があるんだよ! それを護る事以上に、大事な事なんかあるかよ……!」
涙に濡れ、炸裂する感情。
――その時、“赤”が破裂した。
※※※
「ねぇ、アルはどのぐらいがいい? 大っきく切る?」
「……!」
突然、切り替わった視界と、耳朶を撫でる優しい声に、ガブリエルの翡翠の瞳が、ぱちぱちと瞬いていた。
(嘘……)
鼻腔を擽る、甘酸っぱい芳醇な香りに、ガブリエルは思わず息を呑む。
目の前には、見覚えのある木造りのテーブル。
そして、目線を奥の部屋に泳がせれば、本棚に入りきらず、踏めば軋む床の上に積み上げられた書物。棚いっぱいに詰められたレコードの数々が雑然とガブリエルの瞳に飛び込んでくる。
――信じ難い、信じ難い事だが。
目の前で、アップルパイを切り分ける少女は、間違いなく、“彼女がよく知る少女”だった。
「ガブくんのも大っきく切る? 食堂のオーブンを借りられたからね。特大サイズで作っちゃった♪」
「え、えぇと……!」
思考がまとまらず、曖昧な言葉が口を衝いて出る。
先程までの緊迫と焦燥を掻き消し、包み込むような優しい笑みが、ガブリエルの胸に染み入り、彼女が“サファイア・モルゲン”その人なのだと実感させる。
幻なんかじゃ、ない――?
そして、
「ガブ、遠慮するなよ……! なくなったら姉ちゃんにまた焼いてもらえばいいんだからさ!」
「アルぅ……! まったく君はろくに手伝いもしないで……!」
自分の隣に座るのは、栗色の髪のままの、アル本人。
彼女が出会った時のままの、無邪気な少年その人であった。
姉に額を小突かれて、おどけて舌を出す少年の笑みが、翡翠の瞳に眩しく映し出される――。
その在り様、空気はどこまでも和やかで、どこまでも尊い。
「あー! 響も素手で千切ろうとしないで! ちゃんと切り分けて配るからさ!」
「す、すまん……」
鼻腔と食欲を刺激する、芳醇な香りに我慢できなくなったのか、熱々のアップルパイに直接触れた響の手を、パッとサファイアの手が掴み、押し下げる。
響の指を濡れた布巾で拭い、火傷がない事を確認した彼女は、“しょうがないなぁ”と笑み、大きめに切り分けたアップルパイを彼の前に置いていた。
――ガブリエルが知る、“英雄”の響とは違う、困ったような、照れ臭そうな、その彼の表情は、疲弊していたガブリエルの心をあたたかく和ませた。
(そっか……お二人は)
空からの彼女の声への、響の誓いを思い出し、ガブリエルの胸に熱いものがこみ上げる。
――当たり前のように、いま目の前にある、この情景は、当たり前にずっと存在して欲しい、あって然るべき情景だった。そして、
「食べてみろよ、ガブ……! 姉ちゃんのは滅茶苦茶に美味いぞ!」
「アル……」
あって然るべき情景はもう一つ。
年相応の、無邪気な顔で笑う少年の姿もまた、同様にあって然るべき――ガブリエル自身の心に強く焼き付いた、尊き情景であった。
彼は、あてなき放浪に凍えた心を包み込み、温もりをくれた、かけがえのない存在――。
そんな彼の言葉に頷き、ガブリエルは小さな手にフォークを握り締める。
「ぅん……」
味覚の上を走り抜けるのは、爽やかな感動――。
熱々の生地をフォークに刺し、口元に運んだそれを、おそるおそる頬張ると、豊かな甘味と心地よい酸味が舌を撫でた。
信じられない。
自身の機能を維持させる以外の意味を持たなかった、いままでの食事とは異なる、味わった事のない、温かさと“幸福”が、その一口には満ちていた。
「なっ! 美味いだろ? 少しシナモンかけ過ぎな気はするけど」
「うん! うん……!」
夢中で口に運ぶたびに、不思議と涙が溢れた。
飲み込みきれず、咽た彼女に、サファイアは琥珀色の液体が入ったグラスを、微笑みとともに差し出す――。
「はい、飲み物! アルが前に買ってきてくれた茶葉で淹れたアイスティーだよ。ストレートで物足りなかったら特製シロップもあるからね!」
「は、はい!」
グラスにたっぷり入れられた氷が、カランと溶ける音色がとても綺麗で、ガブリエルは思わず、うっとりとしてしまった。
口に含めば、喉を流れる冷たさと、アップルパイの芳醇な甘味を包み込む、品の良い苦みに、さらなる至福がガブリエルの胸を埋め尽くした。
「でも、シナモン多いかなぁ? ボクの好みだとこれぐらいが適量なんだけど――」
「姉ちゃん、最近味付け濃いんだよなー。誰かの影響受けた?」
仲睦まじい姉弟の会話が、心地よく胸に響く。
すべてを忘れて没入したくなるような美しさが、穏やかさが、目の前に満ち満ちていた。
もし、これが“現実”ならば、もう他に何もいらないと思える――。
でも、
「……ありがとう、アル」
「…………」
でも、彼女は気付いている。
これは“現実”であって“現実”ではない。
――いま、少女の言葉に背中を震わせる、心優しい少年が見せてくれた、遥か遠い“可能性”なのだ、と。
姉との会話に弾んでいた少年の声は、その瞬間、必死に嗚咽を噛み殺す吐息に変わり、その小さな背中は、抑えきれぬ感情に小刻みに震えていた。
夢のような情景は、次第に崩れ始め、そこかしこに“赤”い地肌を晒し始めていた。
「……“創世石”の力で見せてくれたんだね。遥か遠い何処か、別の世界線であったかもしれない景色を。……私と君が生きた“かもしれない”明日を」
「……こんな、こんな事しか思い付かなかった。俺はガブに、ガブにこんな事しかしてあげられない――」
本当に幸福にしてあげたいのに。
忸怩たる想いに、どうにもならない自身の無力に、少年は血が滲む程に唇を噛み締める――。
アル自身にとっても、いまだ理由のわからない“神の子”としての異能。
その中から必死に探し出し、選び取った解答。
それが、この“可能性”の世界だった。
現状のアルの力では、“現実”として固定させる事は出来ない。
――その息吹、幻像だけが此処に在る。
「……十分だよ。君は、私に、私たちにこんな未来があるんだって示してくれた。世界を、総てを意のままにも出来る、暴力そのものの力で、こんなにも優しい奇蹟を見せてくれた。それで――十分だよ」
「十分なもんか……! 十分なもんかよ……!」
理解ってしまっているのだ。
ガブリエルの決意が揺らがぬ事も、その“行動”が必要な事も。
だから、だからこそ、アルはその“現実”を変えたかった。
此処とは違う未来へ、彼女を招きたかった。
だけど、
「アル」
声を震わせる少年の背に、翡翠の少女は顔を埋め、その残された右手で、固く握り締められたアルの手を包み込む。
「――君のこの温かな手は、この優しい未来に繋がってる。君の選択は、それを示してるんだよ。君が見せてくれたのは、幻像なんかじゃなく――君が生きる明日そのものなんだ」
煌めく黄金のような、可能性の景色が消え、2人だけになった世界で、ガブリエルは睦言のように、感謝を、祈りを紡いでゆく――。
「私は、その明日を護りたい。君の手が、この希望を掴む力になりたいんだ。――私の生命もその未来に繋がってる。君と、一緒にいるんだよ」
……サクヤさんがその想いを、君に託す事で、ずっと傍にいてくれていたように。
私の想いは、君という”未来“と共にある。
幼子のように泣きじゃくる少年の身体を、ガブリエルは残された一本の腕で優しく抱き締める――。
「……駄目だよ、いかないでよ。いかないで――」
「泣かないで、アル――。君の笑顔が、私を救ったんだから」
振り返る事も出来ず、肩を震わせるアルに、ガブリエルは花のような笑顔で告げる。
彼の胸に降り注ぐ痛みを拭い去るように、彼の未来を照らす希望を集め、託すように。
嗚呼、私はなんて――、
「――ありがとう、私の優しい“救世主”様」
※※※
「ガブ……! ガブリエルぅぅぅ――っ!!」
「ぬ、ぅ――」
其れは、未来を想う、命の光。
言葉にならぬ絶叫が、“赤”を震わせた刹那、“解き放たれた”翡翠の奔流が、罅割れた虚空へと到達――。
その光は、虚空の罅を修復するように、抱擁するように、“現実”全体に伝播していた。
それは、抵抗するフェイスレスの“赤”を塗り潰しながら惑星を覆い、その残滓を、天使の羽毛のように舞い散らせる――。
「ガブ……リエル……?」
「なっ……」
地上へと降り注ぐ、天使の羽根の中で、響達も悟る。
いま、惑星全体を抱く、温かな光が、あの小さな少女の命――“そのもの”である事に。
「馬鹿……野郎……」
響が忸怩たる想いとともに呟いた刹那、挙動に異常を生じた円盤群が、次々と“墜落”を開始していた。
地上の人類を見下ろしていた、無数の“傲慢”はいま、その機能を失墜。
――一人の少女の命に、明確な敗北を喫したのだ。
「天使の……羽根……?」
そして、諦めぬ“歌”を紡いでいた人々も、祝福のように降り注ぐ、翡翠の羽根の中で、その奇蹟を目撃していた。
使命ではなく、一人の少年の未来を想った、小さな命の光を。そして――、
「あぁ……あぁぁぁ……」
――いま、背を丸めて泣きじゃくる少年の腕の中にも、その光は強く輝きを残していた。
その光を、己に勝利した翡翠の残滓を、“赤”を湛えた瞳で一瞥し、フェイスレスは翡翠に染まった空を見上げる。
「“複製されし禁碧”……いや、“ガブリエル”か」
“……真の危険因子は貴様だったのかもしれんな”。
自らの口が漏らした、対象への敬意を拭うように、顔面を秘匿する黒革をなぞり、フェイスレスは蹲るアルへと、その黒衣を一歩前進させる。
闇に、穴は穿たれた。
哀切と別離の痛みの中、“救済”を巡る戦闘は、また新たな局面に突入しようとしていた。
NEXT⇒第43話 その命に誓って―“All for one”―