第09話 儚く散る花びらのように―”Rosia”―
#9
「た…立ってください! “女王“!」
「……ッ!」
シオンの檄に、顔を上げた麗句の眼前に、鋭利な斬撃が閃き、頬の柔肌を切り裂く――。
憔悴に囚われていた麗句へと、瞬時に距離を詰め、指先に顕現させた骨爪を鮮やかに舞わせた”誘愛者“は、飛び散る鮮血の中、紫紺に塗られた唇を妖艶に歪めていた。
シオンの檄で、身を起こし、かわしていなければ、麗句の首と胴は、即座に切り離されていたに違いない――。
「あら……綺麗な顔に傷をつけてしまったわ。剥製にして飾ろうと思いましたのに」
「クッ……」
麗句は半ば反射で“誘愛者“の腕を蹴り上げ、後退。
“誘愛者“は、蹴り飛ばされた骨爪から滴る血を、艶やかな唇で舐めとり、麗句の顔をまじまじと見据える。
「“聖女“にも成りきれず、“魔女“に堕ちる事も出来ない――。貴女の顔、どうしようもなく“人間“そのものね……」
「…………」
憐れむように覗き込む、”誘愛者”の瞳の奥に潜む“冷徹“を感知し、麗句は抱えていたアルの身体を大地に下ろす。
「う……ん……」
「……」
地面に寝かせた少年が僅かに身を捩り、微かな声を漏らす。
――この子を巻き込むわけにはいかない。
その意識が、麗句の憔悴と混乱に蝕まれた精神に、僅かな闘志の焔を灯していた。
「……ふぅん、やっぱり聖女の自分も棄てられないんだ。これは八つ裂きにしなきゃ、救えそうにないですねぇ」
「……それが人間だと、さっきお前が言ったろう」
鳴り響く金属音。
麗句の応答を切り裂くように閃いた“誘愛者“の骨爪を、手にした短刀型の『鎧醒器』で受け止め、麗句はその唇で戦端を開く――。
「『鎧醒』ッ‼」
奇蹟の顕現。
言霊の発声と同時に、現実空間を硝子のように叩き割り、出現した黒の鎧装が、麗句の全身に、瞬く間に装着される……!
「ボロボロの身体で……よく足掻きますこと」
損傷に罅割れた翼は、羽搏たく度に破片をばら撒き、鷹を模した仮面は歪に裂け、内部の感覚強化器官を露としていた。
……満足に戦える状態ではない。むしろ瀕死の状態といえる。
その惨憺たる様を見据え、フェイスレスは深い嘆きに、言葉を乗せる。
「……憐れなものだ。人間とはその善意故に、奈落に己が足を繋ぐ雛鳥。 羽搏く事も出来ず、種としての幼年期も越えられぬ――憐れな”神”の失敗作だよ」
疼く己が”顔”を諌めるように、右頬を押さえ、フェイスレスは、鳴動する三本の”逆十字”によって響を捕獲し、油断なくそれを注視する”処刑者”へと、その目線を移す。
「……どうだ、”処刑者”。”救済”の下準備は順調か?」
「……順調とは言い難いな。”麗鳳石”の回収は見ての通り、すぐに済みそうだが、他はそれなりに厄介だ」
”処刑者”の左目が、仮面のスリットの中をグルりと背面まで移動し、背後に立つ”破壊者”を見据える。
道化師を模したかのような仮面の意匠のためか、その挙動はひどく滑稽でありながら、不気味だった。
「最難関は”賢我石”だ。”現実”にはまるで気配がない。観念世界へ逃げ込み、別の世界に転移した可能性がある。場合によっては、我等の管轄外の”幻想世界”や、”機晶世界”という事も考えられるな」
「……ドクトル・サウザンドか。成る程、あの男ならば有り得る話だ」
”生き汚いと言うべきか、策謀に長けていると言うべきか”。
フェイスレスは呆れたように、感嘆したように呟き、”畏敬の赤”が円輪を描く両眼を細める。
倒された”もう一人の自分”とある程度、記憶を共有しているのか、その言葉の端々に姿を消した”軍医”への評価と懸念が滲んでいた。
(こいつらは……)
鳴動する”逆十字”が放つ、特殊な音波に、全身の神経と精神を掻き毟られながら、響は淡々と”救済”とやらの進行に務める”疑似聖人”達を見据える。
……彼等は、”気にする素振り”こそ見せているが、その実、自分達を相手にしていない。
此処にいる自分達は、彼等にとっては路傍の石。
少なくとも、”難敵”と見なされていないのは確かだった。
生け贄を物色するような、出荷する家畜を選別するような、冷徹な眼差しだけが、響達の四肢に絡み付いていた。
そして、
「……たくよぉ。気持ちよく寝てたってのに、随分と騒がしいじゃねぇか、間抜け面」
「……!」
ユラリと身を起こした、新たな”生け贄”に、フェイスレスの両眼が動く。
唾のように血塊を吐き捨て、オールバックの金髪を掻き上げる凶漢は血走った両眼を、”救世主”へと向け、嗤っていた。
「ちょっと見ねぇ間に、ちと老けたんじゃねぇか? お前――」
「”毒蠍”……我羅・SSか」
不遜と不敬の塊のような、縛られぬ男が、犬歯を剥き出しにして吠えていた。
その様に、フェイスレスは己が右頬を撫で、己の中の情報と、眼前の無頼を照合する。
「……成る程、規格外の獰猛と奔放。お前のような男がいたのでは、”私”も計算違いの一つもするわけだ」
「ハッ……! 算盤弾きながら闘る奴に、俺が計れるかよ……」
フェイスレスの戯れ言を一蹴した我羅は、”処刑者”に捕獲されている響を一瞥。その口元を歪める――。
「……そこの男との決闘は、我ながらいい負けっぷりだったぜ。何の打算も、妥協もなくぶつかり合う。勝つにしろ、負けるにしろ、後腐れのない、議論の余地のねぇ決着ってのはいいもんだ。久々に気持ちよく眠れたぜ――」
”だってのによぉ”。
気怠そうに首の骨を鳴らし、我羅は『鎧醒器』であるバックル――”蛇蝎錠”を構える。
「余計な茶々入れてんじゃねぇぞ、シャバ憎どもが……ッ‼」
”鎧醒……!”
我羅の腹腔から吐き出された言霊が、現実空前を叩き割り、鎧装を召喚……! 我羅の狂暴な意志が、咆哮とともに、喰らうようにそれらを纏わんとする。
だが、
「――騒がしいな、童」
「……!」
聖骸布を脱ぎ捨て、立ち塞がった一体の”疑似聖人”が、一発の正拳で、我羅の鎧装を”観念世界”へと叩き返していた。
周囲の障害物を破砕せしめる『鎧醒』の力場の中で、鎧装に直接攻撃を加えるなど、尋常の業ではない――。
「てめぇ……」
『フッ……惚れ惚れとするような、反骨の凶相。貴公、それなりの地獄を見た手合か……」
灰を基調とした鎧装を纏う、その”疑似聖人”は、何処となく気品を感じさせる声音で告げ、我羅と対峙する。
深紅の仮面があらゆる表情を隠し、同じく深紅の胴当て、肩当て、肘当てが、灰の鎧装の中で攻撃的に煌めいていた。
そして、余分な意匠や機能を削ぎ落とし、格闘戦に特化させたかのような、その鎧装のシンプルな造りが、鎧装の下にある、鍛え抜かれた男の筋骨を浮かび上がらせる――。
匂い立つ”猛者”の気配に、我羅の脳はとめどなくアドレナリンを噴出させていた。
「ハァ……地獄なんざ、大概見飽きたぜッ‼ 糞野……」
”畏敬の赤”の粒子を、鎧装代わりに纏わせた右脚が、凶暴に躍動するが、蹴りが貫いたのは、”疑似聖人”の残像だった。
背後に突き立てられた、尖った気配に我羅が振り向くと、そこに”疑似聖人”の深紅の仮面があった。
「野郎……」
「……焦るなよ、悪童」
”疑似聖人”は二本の指で、軟質素材で編まれた仮面のスリットを抉じ開け、開けた視界で我羅の凶相をまじまじと見ていた。
標的の顔を、網膜に焼き付けるように。
「――眠れ、パライソに」
「………ッ!?」
衝撃が、我羅の脳髄を貫く。
視線が絡み合った瞬間、”疑似聖人”の巨体が、我羅の体を支点に逆上がりのように回転! その勢いのまま、我羅の頭蓋を大地へと叩き付け、その意識を奪っていた。
虚脱した我羅の身体を乱雑に放り投げ、”疑似聖人”はフェイスレスへとその深紅の仮面を向ける。
「……これで”羅剛石”は確保だ、”破壊者”。騒がせたな」
「ふっ……自ら動くとは珍しいな、”叛逆者”。その男の”毒”にあてられたか……?」
フェイスレスが”叛逆者”と呼んだ”疑似聖人”は、束ねられた銀の髪を風に揺らしながら、応える。
「フッ……どうだかな。俺が飲み干すに値する”毒”か。計る間もなかったものでな」
――戦力差は明らかである。麗句も、シオンも、我羅も、”獣王”ですらも、極限の死線を潜り抜け、かろうじて命を拾った状態である。
万全以上の力を持つ”模造されし背信の九聖者“を、まともに相手出来る状況ではない。
「はぁ……揺れて、揺れて、貴女達は、本当に哀れな命ですねぇ」
「くっ……!」
嘲るように、憐れむように、“誘愛者”の甘い声音が吟う。
“誘愛者“の両肩に浮かぶ、翼の如き大型の機甲が、拳のように握られ、麗句の黒鎧を容赦なく弾き飛ばしていた。
破片は散る。花びらのように。
そして、地に散った花びらのように、命運は儚く、踏みにじられる。
幕を開ける”救済”の中、”疑似聖人”達の侵攻は、いよいよ本格化しつつあった。
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