第10話 白と黒Ⅲ-鬼影-
×××
(なんだ……ここは……)
闇に飲み込まれ、粉々に砕かれた意識のなか、響は無数の硝子片が飛び散り、プリズムのような輝きを乱舞させる奇妙な空間を認識しいた。
硝子片のなかに映っているのは、過去の記憶、その映像である。……“奴”のなかに集積されてきた記録かもしれない。母体である自分を観察し、いつか完全に支配するための。
自分の目だけがそこに存在し、飛び散った硝子片のなかに映る過去の記憶を見ているような感覚――。死ぬ間際に“走馬灯を見る”とはこのような感覚なのだろうか。
泥に塗れ、血に穢れ、唾を吐きかけられ、奈落の底へ転げ落ちるように生きてきた少年時代。
自らを精煉し、化け物へと変えた施設を脱走し、文字通り泥を喰って生きてきた忌まわしい記憶が、硝子片に絶え間なく映し出され、響の精神をジリジリと発狂寸前にまで追い詰める。
(やめろ、やめろ、やめろ……ッ!)
壊音。奴の意志を感じる。響という男のなかに培われた人間性という名の響きを、完膚なきまでに破壊する黒の猛獣。
何故、自分に魔獣、骸鬼と複数の固体識別名が与えられたのかわかる気がする。
奴はあまりに無軌道に、無尽蔵にその姿を変える。
作った連中もこれが何で、何を成すのか知らなかったのではないか。だから、自分を処分しようとした。だからこそ、失敗作として抹殺を試みた。
人柱実験体とはなるほど、言い得て妙だ。捧げられた人柱の屍の上に、連中の求める“完成された一体“が立つのだろう。
あのジャックという男がその一体なのかはわからないが、失敗作である自分の危険性には遠く及ばない。
(サファ…イア…)
硝子片に映し出されていた血塗れの映像が、赤い髪と透きとおるような青の瞳を持つ彼女のそれへと移り変る。
獣のなかに生まれた人間性を繋ぎ止めるように、青年の人間性を破壊せんとする獣を抑えこむように、彼女はその白い裸身を無数の硝子片のなかに映し出していた。
優しく微笑む彼女の頬へと、ぼんやりと感覚を取り戻しはじめた響の手が伸びる。だが――、
(ナ……ッ!?)
――その刹那、響の手は醜悪な獣の手へと変異していた。彼女の肌を引き裂いてしまうような、鋭利な爪を持つそれに。
【殺せ殺せ殺せ殺せ……犯せ犯せ犯せ犯せ……!!】
猛烈な殺意の波動が響の脳を揺らす。
最初、眼しか認知できなかった肉体のパーツが、凶悪な衝動とともに、先ほどの手の如く一つずつ回復してゆく。
だが、そのどれもが皮膚を食い破るようにして生える刃のような突起に覆われ、流れた血で己が身を赤く染めていた。
(これは……コイツは……ッ!?)
この侵食は壊音からのものではない。“覚え”のある感覚だった。
これは、力を解放する度に己の憎悪、殺意を増幅させ響を誘惑、同時に壊音を制御してきた忌むべき半身である妖刀、触れるもの全てを切り裂く、血塗れの刃の禍々(まがまが)しき声――。
(村雨、かッ!?)
村雨によって増幅された殺意が、深淵なる闇に突き落とされた響の意識を表層まで引きずり上げる。妖刀は告げる。貴様は所詮、俺と同じ刃。
刃であれば――切り裂け!!
×××
蹂躙。蹂躙に次ぐ蹂躙であった。
室内で原型を留めている物体はほぼ皆無といっていい。ジャック・ブローズは息を継ぐ間もなく殴り倒され、突き刺され、切り裂かれ、さらに殴り倒されていた。
響の心身を、その存在すべてを覆い尽くし、“封印”した黒の球体は呼吸でもするかのように、標的であるジャックをいたぶり続けていた。
球体の一部が、元来ゲル状のそれが、拳を、剣を、槍を形作り、ジャックへと絶え間なく襲い掛かる。
暇をもてあました子供が玩具を弄ぶような、そんな無邪気さまで感じさせるような暴虐であった。
「くっ……響……ッ!」
そして、その球体――壊音が狙う者はもう一人存在した。
響が投げ捨てた妖刀を球体に突き立てるホグランの四肢に、壊音は針の如く尖らせた自らの一部を小刻みに突き刺し、激痛を与えることで牽制していた。
ホグランに対し、暴虐にはしらないのは、ジャックという同種の標敵があるからなのか、それとも、球体のなかに眠る響の意識の欠片、それの成せる業なのか――。
「目を、目を覚ませ、響ッ!」
この刀が響の殺意を増幅させるというのなら、それを媒介として響の意識をこの“糞ったれの球体”の奥底から引っ張り出すことができるかもしれない。
アイツは、こんな程度のことで自分をなくしちまうようなヤワな男じゃあない!
壊音の針による痛みを噛み殺させているのは、胸のなかで猛り狂う、響へのそんな熱情だろうか。親心、とでも呼べるのかもしれない。
いま、壊音にいたぶられているジャック・ブローズは好き勝手言っていたが、誰にも彼を侮辱する権利などない。
人々を破壊する衝動を抱えながらも、蔑まれながらも、黙々と人を護り続けてきた彼の痛み、苦しみは、保安組織ヴェノムを設立し、育ててきた自分が一番、よく知っている。
自分以外の誰にも彼を嘲らせも、踏み躙らせもしない。
「畜生ッ! ざけやがって、てめえ……もう容赦しねえぞッ!」
怒髪天を突く。腰まで伸びていたジャックの針金のごとき髪が逆立ち、激情とともに球体へと、“白鴉”の個体識別名を持つ変身態を突撃させる!
憎悪と怒りに半狂乱となったジャックの眼は、自らの血液に濡れ、標的を正確に捉えぬままに腕を滅茶苦茶に振り回す。
「ぐっ……?」
ジャックは壊音の作り出した“拳”によって吹っ飛ばされたが、彼の半ば無差別な“刃翼”の動きがホグランの肉を裂き、その膝を確実に折らせようとする。
だが、折るわけにはいかない。この刃をいま地に落とせば、二度と響を目覚めさせることはできないかもしれないのだ。
――彼はこの自治区の希望。追い出そうとしておいて虫の好い話だが、彼を失うことは耐え難い。
彼はもっと素晴らしい、光射す未来を掴めるはずだ。
弟とともに血生臭い戦場を渡り歩き、人を殺すための兵器を整備して糧を得るしかなかった自分にも、この自治区や“彼等”という宝が与えられたように。
弟は自分たちが整備した兵器によって両親を失った少女を養女として引き取り、償いを続けている。
ならば、自分の償いは兵器として作られてしまった彼等を人とし、まっとうな暮らしをさせてやることではないか――強化兵士でありながら真っ直ぐすぎる心根を持った彼等に出会ったとき、ホグランの罪の意識はそう呟き、そう決意させた。
それが親心に変わりはじめたのはいつ頃だっただろうか。
もはや償いではなく、彼等は自分の一部、だ。
だからだ、だからこそその瞬間――、
「はやく目を覚まさんかッ! この馬鹿息子が――ッ!」
(爺……さんッ)
――球体の内側から、確かな力が、伸ばされた掌が村雨の刃を掴んだ。壊音のゲル状の肉を巻き込み、コーティングした状態とはいえ、刃を直接、手にした掌は血に塗れ、肉を裂かれる痛みで響の意識をはっきりと覚醒させた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
村雨の刀身を球体の内部に引きずり込み、その柄を握り直した響は完全に我が物となった意識とともに球体を、己を覆い尽くす壊音を真っ二つに切断する!
刃ならば、切り裂け。そう告げた、“忌むべき半身”の言葉どおりに。
「はぁっ……くっ、はぁっ……」
切り裂かれた壊音がゲル状の肉片を跳ね飛ばしながら、響の肉体に収束していく。独自の意志と習性を持っているといっても、元来、自分の一部であるものだ。
破損したダメージは当然、自分へと跳ね返ってくる。神経を直接引き裂かれたかのような激痛に全身が痺れ、思うように体を動かせない。
「ぐぅあああああああッ! 貴様ぁぁぁ――ッ!」
そして、宿主の覚醒に活動を停止した“壊音”――自らに屈辱を与えた響=ムラサメへと、ジャックはその異形の体躯を疾走させる。
響は痺れる指で村雨の柄をふたたび握り直し、迎撃しようと体を起こした。だが、
「くっ……」
全身の神経が麻痺してしまったかのように痺れ、機能を失った五指は半身たる妖刀の重さを支えることができず、村雨の柄は響の指を離れ、無様に床へと転がる。
忌まわしく自分を突き動かしていた衝動、その元凶がいまは彼の肉体を縛り、膝を折らせている。
己の一部であるはずの“壊音”を傷つけた罰――だとでも言うように。
(ふざけるな……お前が刃なら、俺が刃ならっ!)
己の眼に、突き刺さるように映し出されるジャックの刃翼を凝視しながら、響は不甲斐なく、ままならぬ己自身へと叫ぶ!
(奴を斬り裂く前に――折れるんじゃないッ!)
「死ねや、ファッキン化け物ゥゥゥゥゥッ!」
動きを封じられた響へとジャックの刃翼、その凶刃が荒々(あらあら)しく突進する。自他ともに認める怪物である己自身が恐怖した“怪物”の息の根を止めるために。
自身の心に芽生えた、“恐怖”を否定するために。
響にその一撃を避ける術は、ない。
「響――っ!」
ホグランの絶叫が響き、鮮血が、飛び散る。飛散し、窓から差し込む月明かりを吸った血液が宝石のようにきらめきながら宙を舞い、壁に付着した血糊が流れ落ちる。
そのおびただしい血流に響の表情は蒼白となる。自らの頬を濡らすほどのそれは即座に死を連想させるものだ。しかし――、
「きょ、う……」
しかし、それは響の肉から流れ出た、飛散したものではなかった。
血は――そのおびただしい血は響の視界をその大きな背中で覆い、ジャックの眼前に仁王立ちする男の肉から迸っていた。響の盾となり、凶刃を受け止めたジーン・ホグランの肉から。
「な、なにしてやがんだ、てめええええええええッ!」
「爺さ…爺さんッ!」
眼前の事実を受け入れる前に、響の本能がスパークした。
暴発したに等しい、響の感情の爆発が、破損した壊音を再度活性化させる。
血を流すホグランをさらに切り裂かんとするジャックへと躍動する響の拳を、ゲル状の物質が覆い、鎧のように硬質化させていた。
麻痺していた神経、筋力に壊音の“力”が侵食するように満ち、響の肉体に暴力的な瞬発力、運動能力を付加する。
村雨に増幅されるまでもなく、臨界点を突破した響の自身への怒り、激情は壊音を束ね、制御し、ジャックへと叩きつける! その様は壊音と共鳴しているかのようでもあった。
「あああッ!」
唸りを上げる響の拳がジャックの胸部を一撃し、甲殻類の外骨格の如き装甲を破砕する。
――刹那、一撃の手応えとは別の電流が響の脳裏に走った。
パズルの最後の一ピースが見事に嵌ったかのような感覚。
自らの腕を覆い、鎧の如く硬質化した壊音を見つめながら、響は惑う。
鬼の骸のような禍々(まがまが)しさを持つ漆黒の鎧は、奇妙な既視感とともに完成された一つのイメージを、響の脳内に映し出し、焼き付ける。それは――、
(まったく――女王の御心を知らぬ、愚か者どもが)
「!?」
そして、建物の窓、壁、天井をバターのように切り裂き、新たな侵入者は現れる。
「こんな辺境に人柱実験体が二体……騒がしいことだ」
青い髪、青い瞳、青い衣服。現れた美青年は衣服と一体となった青い布を宙に浮かせたまま、響とジャック、その両者を凝視していた。
青年の“念動力”によってコンクリートすら切り裂く“刀剣”と化した布は、鎌首をもたげた蛇の如く響とジャックを牽制する。
「女王はお嘆きだ。無駄に血を流す貴様らのやり方に」
「邪魔するんじゃねぇ、ブルー=ネイル! これは俺の任務だッ! てめえの――」
その瞬間、ジャックの抗議は遮られ、握りつぶされた。
ジャックの全身を青い布が絡めとり、きつく、締め上げたのだ。苦悶の咆哮を上げるジャックをそのまま地面に叩きつけ、ブルー=ネイルはその頬を踏み付ける!
「貴様の本来のターゲットであるジーン・ホグランは既に致命傷を受けている……。ここに居る理由が任務というなら、それは既に完了している……」
「なん……だと……」
――そして、ブルーの言葉に真っ先に反応したのはジャックではなかった。
ブルーが視線を移せば、血が滲むほどに拳を握り締める若者――響=ムラサメの赤々(あかあか)とした瞳がブルーを捉え、睨んでいた。獣のように歯を剥き、響は来訪者へと吼える。
「ふざけるな――ッ! 土足で他人様の土地を踏み荒らして……何が任務だ、“致命傷”だッ! お前らにこの人の何がわかる。この人の……っ!」
自分でも、声がどうしようもなく震えているのがわかる。自分の足元を流れる血の量が何を意味しているのか、狂おしいほどに理解できる。
だが、認められない――認めるわけにはいかない! 俺は、俺はッ!
「この人を……爺さんを死なせるものかあああああああああああッ!」
響は床に転がっていた村雨を拾い上げ、ジャックを捕縛するブルーへと突撃する!
その一瞬、ブルーの瞳に憐れみのようなものが閃いた。
そして――、
「じ…爺さん……」
次の瞬間、すべて……終わっていた。
血で血を洗うような “戦闘”という嵐は過ぎ去り、室内には恐ろしいほどの静けさが満ちていた。決着は一瞬だった。
響の村雨はブルー=ネイルの青い衣服を紙一重で切り裂いたものの、ジャックとの戦闘と壊音の破損で疲弊した響の肉体はブルーが操る青い布、その乱舞によって叩き伏せられ、憎き敵であるジャック・ブローズはブルーによって拉致されたも同然に撤退していた。
――情けない。口内を支配する血の味が“敗北”の二文字を心に刻む。
「くそっ…たれ…」
響は傷ついた体を引きずるようにして、重傷を負い、壁にその身を預けるホグランの側へと向かう。ホグランは不敵に笑んでいた。
信じ難いことに煙草まで咥えている。……冗談はやめてくれ。響は焦りを拭い去るように汗を指で弾き、震える掌をホグランの肩に置く――。
「爺さん、いま医者を呼ぶ。すこし、堪えていてくれ……」
「ふ、なんだその顔、おもしれぇ。いつもの仏頂面でいろよ、似合わねえぞ」
あきらかに狼狽し、いまにも泣き出しそうになっている響の表情に、ホグランは心底可笑しそうに笑っていた。
不覚にも安堵すら感じてしまいそうな、穏やかな表情であった。
その生命の灯がいまにも消えそうなほど、事態は切迫しているにも関わらず。
「か、からかうなよ。それにいまは喋らないでくれ……頼む」
「医者もいいがな。飯でも……頼むか。カミラの店も、もうそろそろ開く頃合だ……」
「め、飯なんかいいっ! 血を止める。何かないのかっ、包帯でも布切れでもなんでもいいっ!」
響は必死だった。呼吸が荒くなっているのを自分でも感じる。
目の前の男の――この人の生命を繋ぎ止めるためなら、俺の腕一本や脚一本……俺自身の生命だってなんだってくれてやる!
それはまるで、すがりつくような想いだった。目の前から立ち去ってしまいそうな親にすがりつく、幼子のような。
「結局……お前らとは一緒に飯を食うこともできなかったな。親代わりが笑わせる。まったく俺はガサツで、だらしが……ねえな」
ホグランの表情が遠い過去を悔い、懐かしむように歪み、いま眼前にある、いまにも泣き出しそうな“息子”の顔を見つめる。
「……こんな俺でも親代わりになれるチャンスが巡ってきた。そう……勘違いしちまった。お前らと付き合ううちに、気持ちが――一線を越えちまった。懸命なお前らが非難され、差別されることを耐え難く感じるように……なっちまった。街の皆ともしょっちゅう怒鳴りあったが、強化兵士を忌まわしく思う皆の気持ちもわかる。いつも話は平行線、解決には至らなかった……」
ホグランは震える手で煙草に火を点け、煙を吸い、吐き出す。咽ながらも、それはひどく美味そうだった。気が緩んだのか、ガクッと崩れ落ちそうになったホグランの身体を響が抱きかかえる――。
「……お前らの為を思ってなんてのは言い訳だ。俺は結局、お前たちが差別される様を見たくないがゆえに例の話を煌都に打診したのさ……。親なら、身を粉にしても守り抜かなきゃならなかったのにな。お前の言うとおりだ。面倒を省くために、俺は……」
「ち、違う。そうじゃ……」
必死に口を動かしても、うまく言葉がでてこない。不器用すぎる自身を呪うように唇を噛む響の頬を、ホグランの大きな掌が撫でる。
「俺は親失格だったが……お前は、お前達は間違いなく自慢の息子であり、娘だった。手のかかる四人兄妹だが、俺には過ぎたご褒美だった。あいつらにも伝えてやってくれ。愛して、いたと」
ホグランの視線がブルーによって破壊された壁面から除く夜空へと流れる。
「息子に抱かれて逝ける……まったく、俺に似合わずいい人生じゃないか。まったく勿体ねぇ、勿体――」
「爺さん……?」
“自治区を頼む”
その瞬間、そんな言葉とともに、何か、あたたかな風が吹き抜けた気がした。
そして、そこで響は気付いた。動きを止めた“心臓”に。失われつつある“体温”に。
そもそもあれだけの言葉を搾り出す体力が彼のなかに残されていたのだろうか。
見れば、火が点けられていたはずの煙草にも火は点いていない。どこまでが現実であったのか。いま自治区の未来を託し、息子たちへの愛を説いたあの声は、ホグランそのものの声。
彼の“魂”、そのものの声ではなかったか――。
「おい、爺さん……いい加減にしろ」
いや、そんなわけはない。
そんなはずがない!
彼が逝ってしまうはずがない――!
響は失われた“それ”を呼び戻すようにホグランの体を揺さぶりながら、叫び続けていた。その現実を拒絶するように、思いの丈をぶちまけていた。
嘘だ、嘘だッ――と、胸の内で繰り返しながら。
「ふざけるなッ! アンタの……アンタの我侭はもうたくさんだ! 愛してるだと? 俺たちもだッ! 勝手なことばかり言いやがる。俺たちだって……アンタを、アンタを……」
溢れる涙が言葉を飲み込んでしまい、激しく咽る。もう、声にもならないような、ただの嗚咽だった。
それでも響は殴りつけるようにホグランの襟首を掴み、噛み付いてしまいそうなほどの近い距離で呻いた。
「ダメだ……ダメだよ、爺さん。いかないでくれ……側にいてくれ」
俺たちには――アンタが必要だ。子供には、親が、必要、なんだ。
「 “父”さん――」
ずっと告げたかった言葉が響の喉から搾り出され、それと同時にその喉が破裂したかのような嗚咽が鳴り響いた。響はホグランの胸に頭から崩れ落ち、泣きじゃくっていた。
――彼はいま父を得、永遠に失ったのだ。
「うあああああああああああああああああああああ――っ」
響の悲しみと呼応するかのように、彼の全身から黒々(くろぐろ)とした“壊音”の肉片が染み出し、室内を侵食してゆく。
そして、父の遺骸を守るように、その父を護れなかった宿主を蝕み、苛むようにその黒の絨毯は響を、ホグランの遺体を覆い尽くし、やがて建物の外にまでその領域を広げていった。
青年の慟哭は、この事態を引き起こした者たちへの、そして、自分自身への激しい憎悪と混ざり合い、哀しい咆哮を夜の虚無に響かせる――。
深い悲しみによって捻じ曲げられた、歪な覚醒がそこに在った。
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