第09話 白と黒Ⅱ―人柱―
#11
「な、なにぃ……」
衝撃と激痛に痺れる身体に、崩れた壁の破片がふりかかる――。
自らを一気に壁へと叩きつけた存在に、ジャック・ブローズは引き攣ったような笑みを消し、呆けたように、それ、の異形を凝視していた。
――見惚れていた、といっても過言ではないかもしれない。
ホグランもこれを目にするのは、たったの三度目である。
できることなら二度と使わせたくはなかった能力。
ゲル状の物質が、響が纏う赤の戦闘服から染み出し、獣の、猟犬の形を作りだしている。
左右の肩に一つずつ、胸部に一つ、姿を現した禍々(まがまが)しき三つの頭。
――地獄の三頭犬。
そう呼ぶに相応しい黒々(くろぐろ)とした怪物が響という存在そのものを覆いつつある。
しかし、そのケルベロスすら飽くまで一形態に過ぎないのだ。
怪物の姿は無限に存在し、その果ては響自身、承知してはいない。
いまは彼がこの形態を選択し、顕現させている。戦うために。眼前の敵を、ジャック・ブローズを引き裂き、打倒するために。
――魔獣。もう一人の彼の姿が、此処に在る。
「くっ……うっ……おおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
響の喉をも裂いてしまうかのような、人ならざる咆哮。
額に巻いたバンダナの下で亀裂の如き手術痕が赤々とした光を放ち、ゲル状の物質をコントロールしているようにも見える。
そこに在るのはもう一つの自分である魔獣を制御する、言わば、“第三の眼”であろうか――。
「そうか……てめえは、てめえも! 只の強化兵士じゃねえってわけか! ――“人柱実験体”! 人という種を越え、人を支配し蹂躙する神をも喰らう、真の規格外品。行方知らずだった、そのロストナンバーにこんな辺境で出会えるとはなぁ!」
「人柱……実験体? 貴様、何を知っているッ!? 響の――何をッ!?」
魔獣が放つ瘴気と重圧によって、常人であるホグランにとっては立っているのもやっとな状況が続いている。
意識を失わないだけマシ……いや、それだけで賞賛に値するといってもよいだろう。
そんな状況下でホグランは、響の存在の根底に触れるジャックの発言に対し、叫ぶことを止めなかった。
――問い詰める。ホグランとジャックの力の差を考えれば、それはあり得ない行動であり、表現かもしれない。だが、それを成し得るだけの胆力と迫力がホグランの眼光からは感じられた。
響も殺意にはち切れそうな意識のなかで答えを求めているのかもしれない。ケルベロスの頭がゴムのように伸び、弾丸の如きスピードでジャックへと襲いかかる。
「ハッ! なるほどぉ! てめえが何に精煉されたかも知らずにいままで生きてきたってわけか! そいつは辛いよなぁ……まぁ、てめえがされたのは精煉つーより改造で、侵食で、陵辱だがなぁッ!」
ケルベロスの牙による一撃を、刀剣に変質した腕、いやそこからさらに斧の如く変化した腕で捌き、ジャックは嘲笑めいた奇声を上げる。
「ああ、そして俺は詳しいぜ……何故なら、俺も」
ジャックの眼が異様な光を放ち、赤々(あかあか)とした血管の如きエネルギーラインが彼の全身に浮かび上がる!
「その一人だからなああああああああああああッ!」
――“変身”。そう呼ぶに相応しい劇的な変化がいま、ジャックの身体に起こっていた。
短く刈り上げられていた頭髪が一気に腰のあたりまで伸び、蠢く皮膚が彼の貌を、鳥を想起させるカタチへと変えてゆく。
斧に変質した両腕はさらにその質量を増加させ、翼の如くジャックの両腕を飾り付ける。
その刃物で出来た翼の出来に満足したかのようにジャックは五指を鳴らし、“変身”によって衣服が弾き飛び、露になった胸部に、甲殻類の外骨格のような装甲を構築させた。その部分以外の体色は白すぎるほどの白。純白である。
“悪意のアルビノ”。
そう呼びたくなるほどに、その純白は悪意に満ち、汚れていた。
驚愕に目を見開くホグランとは対照的に、響は半身をケルベロスに預けたかたちでジャックの真の姿を凝視、観察していた。
ジャックのこの正体を本能で感じとっていたからこそ、響は己のなかの怪物を解き放ち、魔獣と化した。
自らを忌み嫌う彼にはわかる。眼前の敵のおそろしさと、おぞましさが。
それは自らと同種、なのだから。
「――破唖ッ!」
響の喉から発せられた快音とともに、三頭犬の三つの牙が取り囲むようにジャックへと飛びかかる。ジャックは両腕の“刃翼”を優雅に舞わせ、牽制。大型の刃である“刃翼”を重ね、盾のようにして三頭犬の攻撃を防ぐ。
響の肩と胸に存在した三つの頭は、響の右半身を覆うゲル状の物質で徐々(じょじょ)に自らの体を構築し、いまや地獄の三頭犬そのものの姿を形成しつつあった。
その前足が鋭利な爪とともにジャックへと躍動するが、室内の机やダンボールを粉微塵にした一撃はジャックの残像を捉えたに過ぎなかった。
強化兵士としての運動能力を完全解放したことによる超高速移動によって、分身したようにも視覚できるジャックの群れが響を四方八方から襲う!
だが、響の眼は、左から来た一匹をギロリと睨みすえ、左手に握った村雨の鞘でジャックの“嘴”を容赦なく殴りつける!
「噛み殺せッ!」
強烈な一撃にグラりと揺れたジャックの身体に、響は間髪入れず三頭犬の牙を殺到させた。
だが、針の如く硬質化したジャックの髪が、三頭犬を構築していたゲル状の物質を切り裂き、液状の肉片を四散させた。
それでも牙から完全に逃れることはできなかったのか、ジャックは異形の肉体に削り取られたかのような傷痕を残していた。
「お前は……許されない罪を犯した。戦場に居ない者を傷つけ、殺め、踏み躙ったッ!」
「ぬ……ッ!?」
そして、響の視線はジャックに後退を許さない。四散した三頭犬の液状の肉片がジャックの足に絡みつき、その動きを封じる――。
「戦いの為に生まれたのなら、戦いのなかでのみ力を振るえ! それを忘れたものは兵士でも人間でもない、ただの化け物。道を踏み外した、単なる外道だ」
響の顔の血管が浮き立ち、半身を覆うゲル状の物質がそれに絡み付くように響の内部へと染込んでゆく。もともと響の肉体から染み出てきたものではあるが、それはより強固に彼と結び付き、侵食している……そんな印象を見るものに与えた。
「貴様は……死んで償え。俺が――引き裂いてやる」
切り裂かれ、三頭犬の姿を損傷させたゲル状の物質は、響の“殺意”とともに巨大な腕へと変貌。剣の如き鋭さと大きさを有する爪を持つその巨腕は、一直線にジャックへと突進する。
巨人のそれのごとく相手を叩き潰すように。
猛獣のそれのごとく相手を引き裂くように。
「おおおおおおおおおおッ!」
しかし――、
「――響」
「ッ!?」
それはジャックを叩き潰す直前で静止していた。引き裂く直前で静止していた。
……鳥のように変異したジャックの顔の一部に、“彼女”の顔があった。その顔は、確かに響が知る“彼女”の声で囀っていた。
悪意に満ちた、汚らわしい模造品。本物でないことなど百も承知である。
だが、できない。彼女は――響が破壊することを禁じ続けた対象、自らの忌々(いまいま)しい本能から守り続けるために、自ら遠ざけもした存在。
――サファイア・モルゲン。彼女は響が守り続けると、けっして傷つけないと誓った存在。獣に過ぎなかった自分に人としてのぬくもりを預けてくれた存在。
ずっと、いつも、常に、想い続けてきた存在。
破壊することなど、できるわけが、ない。
「哀れだねぇ、真面目すぎて読み易かったぜ、お前」
「……がッ?」
ザンッ!
「響……響ッ!!」
ジャックの腕の刃――“刃翼”が響の胸を突き刺し、抉る。大量の出血とともに響の体は前のめりに倒れた。ジャックの“卑劣”に倒れた響に、血相を変えたホグランが駆け寄る。
だが――、
「ぐっ……あああああああッ!?」
「なっ…!?」
その刹那、倒れていた響が電流に弾かれたかのように立ち上がり、獣の如き絶叫を響かせた。
全身に血管が浮き立ち、黒いゲル状の物質は統制を失くしたかのように暴れ狂っている。
「貴様……何をしたッ? 何を……俺に!?」
驚愕に見開かれ、焦燥に震える響の瞳に、ジャックは嘲笑を漏らした。
「戦・闘・薬。戦場にいた強化兵士なら懐かしいだろぉ? 俺たちの理性をふっ飛ばし、戦闘衝動のみの怪物に変える魔法の粉。材料さえありゃあ体内で精製できる体質でねぇ。ぶっ刺したときに血液に直接、流し込んでやったってわけさ……」
駄目、だ。そんな事、を、すれ、ば。
「やめろ……みんな、みんな死んじ……」
決死の抵抗。頭のなかで遠ざかってゆく何かを掴もうと、響は必死に手を伸ばす。
だが、プツン――と、その瞬間、テレビの電源を切るかのようにあっさりと、響の理性は消滅した。
四方八方へと暴れ狂っていたゲル状の物質は一気に一箇所へと収束し、球体となって響の全身を包む。
ひどく冷え切った静寂が室内に広がり、得も知れぬ悪寒がジャックの、そして、ホグランの背を撫でる。
“そこ”に響の意志はない。たった一つの響きさえそこにはない。
圧倒的な静寂がその球体を支配し、あらゆる意志の介入を許さない傲慢さ、尊大さとともにそれは存在していた。
――壊音。それが物質の、響の内側に潜む怪物の名であった。
「へっ……なんだ、こいつは拍子抜けだぜ、てんでおとなしいじゃねぇか……」
正体を現した敵に対し、ジャックは軽口を叩いてみせる――。
だが、その声はわずかに上ずっていた。
“本能”が察するのだろう。眼前に在る“壊音”の異常性……秘めたる力を。
そして、風が吹いた。
冷たい、殺戮の風が。
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