第23話 深淵―”abyss”―
♯23
「な……あ……」
衝撃が脳髄を駆け抜ける。
”君達、人類の価値観に合わせて語れば――神だ”。
”奇蹟”に”奇蹟”を重ねた”冒険”の果てに辿り着いた場所で、そんな言葉を放り込まれて、平静でいられるはずもなかった。
辿り着いた”観念世界”の底なる底。
屑鉄置き場の如き、”abyss”で遭遇した男が告げた言葉に、少女はその小さな唇をパクパクと動かしながら、自分が紡ぐべき言葉を探していた。
(神……様……)
紫紅色の髪に、地球時代の文化をまとめた書物で目にした事がある”歌舞伎衣装”のような、白を基調とした奇抜な衣服。
自分の中にある”神様”のイメージと合致するようで合致しない。
簡単に言うと――とても、”胡散臭い”。
自分の腰のバックルに収められた”創世石”が、男の言葉を肯定するように光り輝いていなければ、到底、信じられない言葉だった。
「あ? 疑ってる? 疑ってるね? まぁ、仕方ない。ただ顔を合わせただけの現状では、私は虚言癖のあるただの美男子さんにしか思えないだろうからね」
「え……?」
”スゥ……”と、男――"JUDA”と名乗った彼が、虚空を撫でると同時に、フワリと、一個のティーカップが、サファイアの目の前に浮かび上がる。
手に取ると、中に注がれた紅茶の香りが鼻腔をくすぐり、取っ手から伝わる温もりが、少女の凍えた指先に伝播する。
――緊張であまり認識できていなかったが、この空間は酷く寒い。
「あまり、お酒を嗜むタイプには見えなかったのでね。”畏敬の赤”が関わる総ての世界の茶葉のデータから、神が吟味し、神が淹れた、究極のミルクティーだ。長旅で疲弊した精神と身体も安らぐはずだよ」
「は、はぁ……」
目の前の手品じみた”奇蹟”に思考が追い付かず、呆けた声が少女の喉を鳴らす。
”胡散臭い”男による、”胡散臭い”秘儀ではあるが、カップから漂う香りは、抗い難い程に魅力的で、一気に飲み干してしまいたい衝動を、サファイアに抱かせるものだった。
それにどこか、アル達が買って来てくれた、あの紅茶の香りに似ている――。
その香りは、懐かしい安堵を、胸に抱かせるものだった。
「よっと……!」
「……!」
再度、”JUDA”が虚空を撫でるとともに、周囲の情景が、豊かな緑の芝生の上に、豪奢なテーブルと椅子を設えた庭園へと切り替わる。
情景の変化だけでなく、肌を撫でる日差しの温かさまでが感じられ、少女はまた目を丸くするしかなかった。
「ようやく”会えた”んだ。まずゆっくりと語り合おうじゃないか。君をここまで誘導するのは、実に骨が折れたからね」
「……! じゃ、じゃあ……!」
”観念世界”を漂っている時に、脳裏を擽っていた”呼び声”や、ヨゼフとの決着後、高濃度の”畏敬の赤”で自分を拉致した者の正体――それが、彼、”JUDA”だったという事か。
……確かに、状況から考えれば、それ以外の”解”はないのだが、実感を得るのはなかなかに難しかった。
それ程の”異能”を、この男が秘めているというのだろうか……?
「理解が早くて助かるよ。”証明”の為に大袈裟に力を披露して、あまり君達を驚かしたくはなかったからね」
「……!」
次の瞬間、サファイアはたまらず息を飲んでいた。
これまで対峙した、どの”脅威”をも凌駕する圧倒的な力。
それが、自分達の足の下で、脈打っていた。
その全長がどれ程になるのかは理解らない。
だが、確かに”畏敬の赤”の塊である”巨人”が、自分達の足元に実在する。
幻術めいた情景の切り替えは、これを”隠匿”す為のものか――?
絶句し、脚を震わせる少女に、”神”は悪戯を成功させた子供のように微笑む。
「ほぉら、”畏ろしい”だろう……? 最もこの”創世機神”の力は、私も容易く繰れるものではないけどね――」
そこは真の”適正者”でないと、ね。
”JUDA”は告げて、紫紅色の髪をくるくると指に巻き付けて見せる。
”真の適正者”――その言葉に、サファイアの胸が不穏に騒めいた。
「私が君に行った"誘導"を、不遜にも妨害し、”創世石”を奪おうとしたヨゼフとの”共繋”が君に何事かを伝えたのかもしれない――いや、君は気付いていたのかもしれないな。だからこそ、護ろうとした。可愛い”弟”君をね」
「……気付いてたわけじゃないです。ヨゼフさんの”共繋”でも、詳しくは見えなかった。だけど、アルのために――響や麗句さんが戦っているのは何となく理解できた。それで、もしかしたらって……」
胸の前で固められた拳が震え、青い瞳が湧き上がる感情に潤む。
「アル、なんですね。この”創世石”が選んだ本当の”適正者”は――」
「ああ、あの少年は巻き込まれた訳じゃない。むしろ、”創世石”の因果の中心にあった。……少なくとも”護られる”べき存在ではない。だからこそ、”創世石”と君を”観念世界”へと退避させた、麗句=メイリンの判断は正しかった。”紛い物”にも有利に働いているようだが、”希望”は此処に残ったのだから」
地上――”物質世界”で暗躍する”信仰なき男”を睨むように、”JUDA”は虚空へと顔を上げ、その指を銃のような形に構えてみせる。
”射抜いてやる”と言わんばかりに。
「……何より”天敵種”に喰われる事を未然に防げたのは大きい。もしアレが”創世石”を完全に喰らっていたなら、”総てが終わっていた”可能性が高いからね」
「天、敵種……」
”天敵種”。そうだ。その事も、ヨゼフさんとの”共繋”の中で、僅かに識る事が出来た。つまり、それは――その存在は、
「”天敵種”って……響の事ですか?」
「……その通り、そして今、君の肩から強引にカップのミルクティーを啜ろうとしているその”小さな怪物”もね」
「……! ギィ太くん!」
”JUDA”の言葉通りに、サファイアの肩に乗ったギィ太は、彼女が手にしたカップの中から芳醇な甘味を貪ろうと、そのゲル状の身体を一生懸命に伸ばしていた。
唇や舌を持たず、大量の牙しかないように見える口部では、飲むというよりは、カップごと噛み砕くくらいしか摂取方法が思いつかなかったが、その必死な姿はひどく愛らしかった。
まだ短い時間ではあるが、幾つかの危機と行動を共にした”仲間”への感情移入がそう感じさせるのあろうか。
「あの悪辣で、残忍な不定形生物が、ここまで人に懐き、人と行動を共にする――。にわかには、信じ難い事態だ。恐らくは、君を護ろうとする元の宿主――響=ムラサメの意志が、本体から分離した一部に染み込み、その一部が麗句=メイリンが君を保護する為に展開した”畏敬の赤”を摂取した事により、君の保護を存在理由とする不定形生物が生まれた……という流れなのだろうね」
禍々しい牙が敷き詰められた大口を覗き込みながら、”JUDA”は告げ、少女の澄んだ青い瞳へとその目線を移す。
「総て、君の善性が招いた事だ。誇るに値する事だと思うよ? 今の彼は言うなれば、人畜無害な超有害生物。そんなものを誕生させられるだけの想いを、君は人に抱かせたんだ」
「そ、そんな、ボクは……」
戸惑ったように、首を竦めたサファイアの頭をポンポンと叩き、自称”神”は人の好さそうな微笑を浮かべて見せる。
「……けどね」
「……!」
だが、その直後――本題に入るためのスイッチのように、”JUDA”は微笑みを浮かべた顔を、瞬く間に無機質な表情へと変えていた。
「だが、響=ムラサメの体内に巣食う”本体”は、現状では純粋な脅威だ。あの御し難い怪物を制御する方法もあるにはあるが、それを彼が”選択”出来るかどうか――」
「選択……?」
紡がれた言葉に不穏な印象を覚えた青い瞳が、自らを覗き込むのを察知し、”JUDA”はコホン、と咳払いとともに言葉を閉じる。
「……いや、よそう。地上の、”物質世界”での出来事は、我々には関わりのない事だ」
「か、関わりがない……? そんな……!」
突き放すように言葉と目線を逸らした”JUDA”に、サファイアは喰らい付くように、その身を”JUDA”の前に回り込ませる。
「関わりがないはずがない! ボクは、地上のみんなを助けるために……!」
「関わりがないとも。君が持つ”創世石”は、他の並行世界のものとは違う――”物質としての神”の本体と呼ぶべきものだ。それに問題が発生すれば、この惑星や”畏敬の赤”が関わる並行世界にも重大な不具合が発生する。だが、ここに在れば、”紛い物”の手が届く事もない。地上では最悪、彼の言う、”救済”とやらが発動するだろうが――それで人類がどうなろうと、惑星の存続は確約されている」
「な……!」
”JUDA”は食い下がる少女を突き放すように告げ、紫紅色の髪を物憂げに搔き上げる。
「いや……君という地球人類が残存しているなら、君が新たなイブとなる事で、地球人類の種子を宇宙に残す事は可能だ。うん、つまり、これが最適解。この状況こそが、”勝利”なんだ」
「そ、そんな……!」
噴き出す絶望が、焦燥を掻き乱す。
――まるで、相手にしてもらえない。自分の”感情”が相手に届かない。
サファイアはおぼろげではあるが理解する。自分が会話をしている相手は人間ではなく、飽くまで”物質としての神”を管理するシステムそのもの。
その反応がどんなに感情に満ちていたとしても、彼は正しい解答を計算し続けるだけの機械に過ぎないのだ。
だからこそ、少女も強く拒絶しなければならなかった。
その解答を人間として、”創世石”と共に歩いてきた”サファイア・モルゲン”として。
「そんな事……認められません。それが正解なんだとしても、ボクは、此処にはいられない。此処にみんなを救う”術”がないのなら、ボクはみんなのところに戻らなきゃ……!」
そうだ。立ち止まらず進むと、この心は既に決めているのだから。
例え、”神様”相手にだって、曲げるわけにはいかない。
しかし、
「うーん、思考がガチガチに固いなぁ……胸はこんなに柔らかいのに」
「胸はって……ひゃあっ!?」
胸元に走った”いやらしい”感覚に、少女の喉は途端に素っ頓狂な声を漏らしていた。
何と言えばよいのだろう。マジックハンドのような玩具じみた手が、サファイアの胸元で蠢いていた。
簡単に言えば、弟がやるような悪戯の極みだ。
「な……なにするんですかぁ!」
「げふっ!?」
頬を紅潮させたサファイアの跳び蹴りが、打点高く”JUDA”の顎先を捉える。
派手に吹っ飛んだ”神(自称)”を、怒りに潤んだ青い瞳が睨んでいた。
「もうっ! 一方的に答えを押し付けた上に、こんな事するなら、ボクは完全に帰ります! いやむしろ戻して! 地上に戻しなさい!」
「酷い事するなぁ……私は、張り詰めた空気を和ませようとしたついでに私欲も満たしただけなのに」
「……私欲?」
「……すいません、もうしません」
前言撤回。
これは機械などではない。
もっと――”酷い”ものだ。
"創世石"を介在しても伝播される"神(自称)"の邪念に、青い目をつり上げた少女がもたらす重圧は、"神(自称)"の表情を神妙なそれに変えるぐらいには強力だった。
「ギィ……」
ギィ太は、その迫力に、元の宿主……響=ムラサメが”叱られる”事を心底恐れる少女の一端を知る――”コワい”。
「ああっ、もう……! こんな事してる場合じゃないのに……!」
胸の奥から噴き上がる焦燥に、少女は爪を噛み、地上に戻る道筋を探るために、その青い瞳を左右に忙しなく動かす。
自分達をこの”abyss”へと運んできた筒状の施設の場所は、幻術めいた庭園の景色で上書きされ、まるで見当が付かなくなってしまっていた。
見つけたところで、アレを動かす術はきっと目の前の”神(自称)”にしかわからないのだろうが――、
「はぁ……」
深々と溜息を吐き、少女は観念したかのように、この最果ての主である”JUDA”の顔を見据える。
いまは、皆のところへ行くための情報を集めるのが最優先。そう判断した。
何となく腹立たしいが、いま頼りになるのは、この”神(自称)”しかいないのだ。
いまは知りたい事を、知らなくてはいけない事を、一つ一つ整理しなくてはならない。
そうだ、そもそも――、
「あの……」
「……?」
少女は、この事態の根本にある疑問を、初めて言葉とする。
どうしても、識らなくてはならない事だった。
「……”創世石”って何なんですか? 大事なものなんだって事は理解ります。怖ろしいものだって事も。だけど、地上で懸命で生きているみんなの生命より大事なものなのかは、ボクには理解できない。ううん、むしろ、これは――」
腰のバックルの中で毒々しくも神々しい光を放つ石を撫で、少女はその真っ直ぐな眼差しを”創世石”の管理者たる”JUDA”へとぶつける。
「これは……みんなを救うための、より良い明日を掴むための”力”なんじゃないんですか? ガブ君の故郷もこれを護る為になくなってしまった……だけど、それはこの”創世石”がより良い明日へと繋がる事を信じての事だったと思います。だからこそ、ボクはこの”創世石”を託された。前に、進むために――」
だからこそ、自分は対峙する者達から”救世主”と呼ばれた。
足掻いて、足掻いて、自分にしか救えぬ自分を、みんなを救うために。
ヨゼフさん達、”先輩”達にも誓ったのだ。”畏敬の赤”の因果、その先に進むと。
だから――、
「ここで引き籠っていい”力”ではないと思うんです」
澄み切った青空のような青い瞳に迷いはない。ここまでの経験を糧とした、確信を持った解答が、少女の喉を鳴らしていた。
物怖じもせず、躊躇いもない。
仮初ではあるが、威風堂々とした”適正者”の振る舞いであった。
だが、
「うん……君の言う事も最もだ。……だからこそ、性質が悪い。性質が悪いよ」
「え……?」
いつの間にか、庭園に設えられた椅子に座っていた”JUDA”は、頬杖を突いたまま、つまらなそうに”批評”する。
「”創世石”は純粋な”力”だ。君の言う通り、善なるものとして良い結果を齎す事もある。だが――そうでない場合もある」
気が付けば、”JUDA”の衣服が、部屋着のようなラフなシャツに変わり、ズボンすらジャージのような地味なものに変わっていた。
己の神秘性を削ぐかのような衣替えとともに、”JUDA”は”創世石”を指差し、語るべき本題へと斬り込んでいく。
「これの根源は、神秘や奇蹟ではない。これは、人類よりも高位の知的生命によって造られた”願望機”。”道具”だ。この”造物主”に関しては、碌な記録が残されていないが、恐らく人類から見れば、それこそ”神”のような存在だろうね。彼等がどのような意図で、こんなものを宇宙に放置したのかは定かではない。試練のつもりだったのか、福音のつもりだったのか――それこそ”神”のみぞ知る、だ」
差し出された”JUDA”の掌の上に、この惑星の歴史を示す立体映像が煌々と浮かび上がる。
それは、サファイアも知識としては知っているが、その瞳では初めて見る場面――地球人類の難民船が、この惑星に辿り着いた際の映像だった。
「君達、人類がこの惑星にやって来た時、この惑星は自らを”地球と同様の自然環境”に調整し、君達を迎え入れた。君達の地球へ戻りたい、新天地に辿り着きたいという願望に反応して、ね。このような事象は何度も繰り返されてきた。君達、地球人類が来る前にも、何度も何度も――」
「人類が来る前、にも……?」
嫌な予感が、悪寒が、サファイアの背を擽る――。
「……そうだ。聡明な君ならもう理解できたはずだ。何度も繰り返されたのなら、何故、以前に訪れた者達は此処にいないのか。何処へ行ったのか、どうなったのか。君達人類は、先住民の遺跡を発見し、その技術を手に入れたとしても、先住民そのものがどうような生物であったかは知らない。その痕跡が一切残されていないからだ。そう……彼等は”力”に飲まれ、”消失”したのだから」
「消失……?」
「この”願望機”……正確にいえば”現実改変機”は、使い方を誤れば、それ程の災禍を招くという事だよ。君達の現実は、いままさにその瀬戸際だ」
自分が無意識に息を呑む音が、鼓膜を震わせる。
飲まれるな。向かい合え。内なる自分を叱咤し、少女は口を開く。
「け、けど、そうさせない……そうさせないように選ばれるのが”適正者”なんじゃないんですか……? ボクは”仮初”だけど、アルならきっと、そんな使い方は……!」
「……いや、残念ながら”適正者”は”創世石”を正しく使うものを指す言葉じゃない。”適正者”はこの惑星という”願望機”を進化させる程の度し難い”業”を抱えるもの。実例として君は此処に来る途中で、他の世界の適正者と遭遇したのだろう? そうだ。”創世石”はね、そもそも”とんだイカレ野郎”向けだって事だよ」
「んなっ……」
「特にアル・ホワイトはまだ心身ともに幼い。迂闊に取り返しのつかない引き金を引いてしまう可能性がある。混沌とした現状だからこそ、”創世石”はお預けにしておいたほうが安全なんだよ」
”JUDA”の撫でるような手の動きとともに、”創世石”が明滅し、熱を帯びる。
この男が語る事を肯定するように。彼が自らの管理者である事を示すように。
「”紛い物”が幅を利かせてる現状は特にね」
”畜生め”。
”JUDA”は吐き捨てると、何処からともなく出現させた杯に満たした、ワインのような液体を一気に呷る。
「だから……まずはじっくりと語らい、地上に干渉するタイミングを探ろうじゃないか。現在・過去・未来、総ての時空の”適正者”から、”最も業深き者”として選抜される”管理者”である”神”とね――」
「あ……」
脳髄に急激に注ぎ込まれた情報の数々に、頭が熱暴走している。
返す言葉が見つからず、少女はただ絶句し、沈黙するしかなかった。
”神”だと名乗る男が語る、”神”に等しい存在が生み出した”物質としての神”の物語。
ここまでの一連の事態を体験する前であれば、荒唐無稽、奇妙奇天烈な法螺話と、一笑に付していたかもしれない。
だが――いまの少女には、それを肯定し得る体験と情報がある。
無視できない経験の集積がある。
やはり、向き合わなければならない。
眼前の”神”と。”創世石”という現実と。”畏敬の赤”という物語と。
地上の皆に手を伸ばす為に。
その”業”を、光射す未来へ繋ぐ可能性を見出すために――。
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