第21話 鏡乱―”mirrors”―
#21
出逢いの記憶はいまも鮮明だ。
あの日の事は、いまもハッキリと覚えている。
仄かに鼻腔を擽った香水の香りさえ、思い出せそうな気がする。
「……何だ、”同胞”が一匹増えたと言うから見に来てみれば、随分と可愛らしい坊やじゃないか」
そう告げたのは、まだ少女の面影のある黒衣の美貌だった。
"組織"に拉致同然の勧誘を受け、虚空に浮かぶ”移動要塞”にボロボロの旅装束のまま"入城”した少年時代のシオンに、彼女は特段愛想もなく、かといって無関心な訳でもない独特な温度で話しかけ、その身なりやあどけない顔立ちをまじまじと観察していた。
「貴方は……」
「”麗句=メイリン”。お前と似たようなものだ。組織では”麗鳳衆”を預かっている」
甘い香りが近付けられた黒髪から仄かに漂う。
間近で己の顔を見つめる美貌に息を呑む少年に、手にした袋から、その美貌には不釣り合いな揚げ菓子を口へと放り込みながら、麗句は告げる。
「……食うか? いま酒を止められているんでな。コレが心の友だ。塩分が心を落ち着けてくれる」
「はぁ……」
酒にも色事にも疎い少年である。
呆けたような、曖昧な声を返答とせざるを得なかったが、”世界の転覆・再編を目論むテロ組織”の本拠地とはどこまでも不似合いな、”買い食いをする女学生のような”その気安さは、暗鬱と塞ぎ込んいた少年にとって有り難いものだった。
それが、目の前の少年が、自分と同じような”悲劇”を抱えていることを察しての気遣いであったのか、彼女自身の素直な発露であったのか、あえて確認した事はない。
だが、この出逢いはこれまでのシオンの血に塗れた足跡の中で、紛れもなく救いであり、忘れ難い記憶だった。
そして――、
「麗句……メイリン」
いま青年の眼前で、”再醒”する禍々しくも美しき鎧装。
新たに構築された銀翼の羽搏きとともに、”畏敬の赤”の粒子が舞い散り、黒の鎧装に添えられた紫紺のラインが循環するエネルギーを示すように眩く発光していた。
”断罪の麗鳳・不死”。
己に縋り、共鳴した”醒石”と、己を選び、共に歩んできた”麗鳳石”の異能を重ねて、再構築された新たなる鎧装。
腕部・脚部・背部に銀の追加鎧装を纏う事で、鎧を染め上げる”黒”が新たな輝きを獲得。鷹を模した機械的な仮面からは、銀のコードが髪のように伸びており、彼女の鎧装が持つ”美”の要素を艶やかに強調していた。
「『双醒』……その現象は、”移動要塞”から観測していましたが、よもや貴女がそれを体現するとは……」
己を迎え撃つ”戦支度”を整えた、麗句の容貌を見据えながら、シオンは告げ、物憂げな溜息をその喉奥から吐き出す――。
「成程。あの少女が、貴女に残したものは、私が思う以上に大きいようだ。少し……妬けますね」
だが、
「……それでも、本来の貴女には遠く及ばない」
「……!」
軽く踏み込んだシオンの手から放たれた数十もの斬撃が、黒の鎧装を絶え間なく撃ち、麗句の脚を僅かにグラつかせる。
抜刀した瞬間も、鞘に納めた瞬間も、観測する事が出来なかった。
峰で打たれたと思われるその重い一撃は、黒の鎧装を難なく砕き、麗句の骨の芯にまで響いていた。
”畏敬の赤”を帯びているとはいえ、『鎧醒』を果たしていない人間の一撃としては、規格外の業と言える。
出逢ったあの日から積み重ねられた、狂気の域に達する修練と研鑽が、無垢な顔をしていた少年を現在の”剣鬼”へと変えていた。
過ぎ去った年月への感傷が、麗句の声音に物憂げな音色を帯びさせる。
「……やはり、お前も充分に”怪物”だな、坊や」
「揶揄わないでください、”女王”。貴女の状態は、笑えない程に深刻だ」
シオンの眼光は、それだけで喉元を裂かれるような鋭さと、喉笛に剣の切っ先を突き立てるかのような”圧力”に満ちていた。
真摯な、澱みない感情が、”剣鬼”の鍛え抜かれた身体を、”女王”の間合いへと、さらに一歩踏み込ませる。
「本来ならば、この程度の太刀筋で貴女の鎧装は砕けない。今の貴女では、”素”の私の一撃すら受け切る事が出来ない。いかに外面を取り繕うとも、所詮、その鎧はボロ板の上に泥を塗り固めたようなもの。”選定されし六人の断罪者”……この”剣鬼”を前に、通用するものではありません」
青年の瞳が、”あの日出逢った少年”のような無防備な感情を晒して告げる。
「降伏してください、”女王”。貴女は我々が”変えた”世界に生きるべき人だ。貴女には私の刃の先でなく――」
”隣に立っていて欲しい”。
そう語るシオンの手は、後戻りの出来ない決断を下すため、自らの『鎧醒器』へと既に伸ばされている。
”その『鎧醒器』を使わずに済む”事を――その手は願っている。
だが、
「……言いたい事はそれだけか、坊や」
「……!」
鉄と鉄が擦れ合い、軋むような駆動音とともに、右腕部の追加鎧装が展開。鎧装と鎧装の間隙から”畏敬の赤”の粒子が火花の如く舞い散り、歪に開かれた銀の追加鎧装から紫紺の粒子が大量に溢れ出す。
”紫毒の偽腕”。
その麗句の新たなる武装は、明確な戦意を持ってシオンの前に立ち塞がっていた。
それは触れれば、肌を裂く薔薇の棘。
体内に廻れば、死に至る毒の塊。
生半可な覚悟で挑めば、腕の一本、脚の一本は確実に奪われる代物だ。
「私は曖昧な覚悟で此処に立っているわけではないぞ……? ”剣鬼”。お前があの少年を斬ると言うのなら、私は命を賭してお前を斃すだろう。そうする事が――違える事の出来ぬ”私の道”であるが故に。それが……”彼女”の為に果たすべき誓いであるが故に」
「……ッ!」
揺らぐ事のない、”麗句=メイリン”そのものである解答に唇を噛んだ青年は、苛立ちにその整った歯牙を激しく鳴らしていた。
合わせ鏡のように、己の理想を映し、慕った女性は、どうしようもなく”そうであるが故”に、いま、どうしようもなく――”己の障害”だった。
「……何故! 何故です……! 理解るはずだ……! ここであの”赤い柱”を、”創世石”の加護の源であるあの少年を斬らぬ限り、フェイスレスを止める事は出来ない……! 彼を止める事が出来なければ、総てが…総てが終わる! そんな事は貴女も理解っているはずだ!」
「……理解っている。だがな」
麗句の脳裏に、あの悲劇の夜に、自分の為に幼い命を散らした弟の笑顔が過ぎる。
「あの子が、あの子のような子供が理不尽に死なずに済む世界。それが私が望み、”変える”世界だ。その前提は、例え”神”でも覆す事は出来ない……! そうだ。あの子を斬った先に在るのが、お前や組織が望む世界なら――そこに私はいない……!」
”……すまんな”。
短く告げたその呟きが、鎧装の軋みに飲まれ、鷹の貌を模した機械的な仮面の両眼が”畏敬の赤”の輝きを漲らせる。
その両眼の先に在るのは――二人が”殺し合う”現実だけだ。
悶えるような咆哮が、青年の喉から吐き出され、その手は柄に”鬼哭石”を埋め込んだ小剣型の『鎧醒器』を逆手に構える。
「そうですね……貴女は正し過ぎる。美し過ぎる。だからこそ……」
自らの”理想”を映す鏡であった貴女の美貌は――、
その、理想は、
「もうこれ以上、貴女の”悲劇”は、見るに堪えない……!」
「……!」
罅割れた鏡に、もう”理想”は映らない。
その手を穢すと覚悟した青年の意志と連動するように、鞘のように『鎧醒器』を覆っていた安全装置が排除され、その剥き出しとなった剣先が、シオンの左腕の腕輪状の装具、その龍の顎を模したと思しき箇所へと差し込まれていた。
柄を掌で押すようにして龍の顎ごと回転させた『鎧醒器』が、”畏敬の赤”の粒子の噴出とともに虚空を斬り裂き、”物質世界”と”精神世界”の狭間にある”観念世界”から、”神幻金属”で編まれた自らの黒の鎧装を召還する。
「……『鎧醒』……ッ!」
”現実”を砕き、”奇蹟”を召ぶ言霊の発声とともに、シオンの全身を強化皮膜が覆い、黒の鎧装が装着されていく。
研ぎ澄まされた刃剣の如き装甲版が短冊のように並べられた、大型の肩部鎧装が噴き出す蒸気に揺れ、黒兜の中に映える、白の機械的な仮面の左眼のスリットには、涙のように黒と赤のラインが添えられていた。
【”暗夜往く剣鬼”――起動完了】
「……手加減をするつもりはありませんよ、”女王”。僕は、確実に目的を遂行する――」
鎧装に覆われた両の掌が鞘から自動射出された柄を握り、引き抜かれた二刀の切先が、月明りと”畏敬の赤”に乱反射する。
記憶に鮮やかなあの日に戻る事は出来ない。
感傷に終止符を打ち、大地を蹴った黒の鎧装が、”畏敬の赤”を撒き散らしながら、慕い続けた同胞を斬るべく躍動していた。
認め難く、避け難い死闘が、幕を上げる。
”赤”に滾る鎧に覆われた、彷徨える二人の心を、蒼い月夜が斬り裂くように照らしていた。
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