英雄特別篇Ⅸ 勇者—”hero”—Ⅱ
#EX9
「ヨゼフ、さん……」
”救済”という”本能”に突き動かされる、あまりに痛ましい怪物の姿に、少女の声が悲痛に歪む。
肌を粟立て、精神を朦朧とさせるような血臭が鼻孔を突くとともに、怪物が鎮座する祭壇の如き舞台以外の景色が歪み、砕けてゆく――。
(これは……)
全てが”終局”へと向かっていた。
この”虚無”と、歪な”奇蹟”に満ちた”鮮血神殿”における、僅かな”現実”までが砕け散り、消滅しつつある。
サファイアに、その身体を支えられた英雄は、その状況を装具の”電子解析装置”で確認し、まったく"予断を許さぬ"その状況に、息を呑む。
「奴の体が生成する”畏敬の赤”の濃度は、この”鮮血神殿”の許容値を越え、いまや自らが生んだ、”己自身の世界”さえも破壊しようとしてる……つまり」
震える英雄の言葉を、少女が引き継ぐ。
「……いま、彼を止めなければ、止められなくなる。そういう事ですね」
ヨゼフが己が目的の為に、”畏敬の赤”を濫用し続ければ、自分達の足場となっている”現実”は確実に崩壊し、総てが”無”となる。
その”無”の中で生き残る可能性があるのは、飽くまで”人間”であり、一個の”生命”であるサファイア達ではなく、限りなく”概念”に近い存在であるヨゼフだろう。
そうなれば、彼の”救済”を止める者も、止める手段も喪われる――。
”創世石”によって詳細に解析され、脳内に直接伝達されたたその”情報”に、握り締めた少女の拳に汗が滲む。
彼をここで止めなければ、斃さなければ、英雄の世界も、少女の世界も――”総てが終わる”のだ。
「刑事さん……!」
「ああ……ッ!」
”血戦”が始まる。
意を決した二つの鎧装は、ヨゼフの用意した決戦の舞台に降り立ち、その身体を真っ直ぐにヨゼフへと突撃させていた。
「はああ……っ!」
「チュウ……ッ!」
それぞれの鎧装のエネルギーを全開放し、ヨゼフ……”人類の可能性を殺す獣”へと躍り掛かった二人を、怪物の背部から無数に射出された荊状の触手が迎撃……! 続け様、その巨腕と、蹴撃が容赦なく、二人の鎧装を砕き、その破片を宙に舞わせる――。
「足掻くな……”英雄”、”救世主”! 何も救えぬ、何も変えられぬお前達が、”私”を斃せるはずがない……! お前達が成し得る事など何もない……! ここで”赤”の藻屑と化すがいい……!」
「……確かに、俺達はあらゆるものを救える程、万能じゃない。”神様”なんかじゃない……」
だが、
「俺達は誰の生命も、未来も、諦めちゃない……!」
「……!」
襲い来る荊の触手を潜り抜け、閃かせた英雄のブレードがヨゼフの頬を掠め、その一瞬の隙に、”賢者の石片”を連結させたサファイアの右腕部鎧装が、”畏敬の赤”の爆裂と共に、全霊の拳をヨゼフの分厚い胸へと叩き込む……!
搦め手を使う必要もなく、その純粋な性能だけで、”人類の可能性を殺す獣”は、英雄と少女を凌駕していた。
だが、”性能”は劣っていたとしても、彼等には譲れぬ願いがある。
届けなければならない想いがある。
――膝を折れぬ理由がある。
振り降ろされたヨゼフの巨腕をその細い両腕で受け止めながら、少女はその脚を一歩、踏み込ませる。
「伸ばした手が届かない事も、報われない事もある。……ううん、生きていたら、そんな事の方が多いのかもしれない……!」
仮面の下で、青い瞳が逃げる事も、退く事もなく、己を凝視する怪物の澱んだ眼を見据える。
己が歩んできた軌跡を――これから歩んでいく道を示すように。
「だけど、ボクは諦めない。大好きな人達と、これから出逢う人達と、笑って生きていたいから……!」
それは、彼女の変わらぬ願い。
生きとし生ける、総ての人達が抱く想い。
そして、
「貴方にも……笑っていて欲しいから!」
「ヌゥ……!?」
想いとともに、白銀の鎧装の”三位一体の魂石”が輝き、細い腕がヨゼフの朱鎧、その巨腕を押し返す。
乾坤一擲。
次の刹那、彼女が腕部鎧装を展開し、閃かせた”聖翼の光剣”と、英雄が振るうブレードが、二人の攻撃を阻害していた荊の触手を斬り裂いていた。
「「はああああああああっ!」」
「グッ……!?」
続け様、同時に跳躍した二人の跳び蹴りが、流星のようにヨゼフを撃ち抜き、朱鎧を”畏敬の赤”そのものと呼べる体液とともに、飛び散らせる……!
損傷を負った怪物は後退し、四方に裂けた口顎から醜怪なる”呻き”を零す――。
傷付き、後退る”人類の可能性を殺す獣”が纏う気配はあまりに脆く、”不穏”だった。
その気配に、何故か少女の肌は粟立つ。
「お前達が……どう足掻こうと、どう喚こうと、変わらぬ……一つの”事実”がある……」
「え……?」
その”呻き”に滲む”執着”がいま、牙を剥く。
「”創世石”は、”私”を選ぶ」
「……!?」
その刹那、少女達を、凄まじい”圧”が襲った。
もはや”ヨゼフ・ヴァレンタイン”そのものといえる壮絶な”執着”が、再度、”創世石”に干渉し、白銀の鎧装の挙動を抑制・遅滞させていた。
以前のように制御を奪われる事はないが、ヨゼフの意志が、”物質としての神”の力、その末端にまで絡み付き、鎖で縛り上げるように少女の動きを封じていた。
「その”加護”も――返してもらう」
「むぅ……!?」
ヨゼフがその掌を英雄へと翳した瞬間、英雄の”銀の装具”と連動し、彼を”強化”していた”畏敬の赤”の加護が掻き消える。
”鮮血神殿”を吹き荒れる”概念干渉”を制御していた”加護”を失った英雄の身体は、崖を滑落するように虚無の中へと落ちていく。
そのブレードを、”畏敬の赤”の大地へと突き立てる事で、英雄は首の皮一枚、決戦の舞台にその身体を踏み止まらせる。
英雄を護っていた”加護”の霧状の残滓は、大きく開かれた”怪物”の口顎に残らず吸い込まれ、咀嚼・吸収されてしまっていた。
「刑事さん……!」
「まずは忌々しいお前との因縁から断ち切ってやる――現在の”私”なら、お前の”加護”を吸収するだけでなく、わが物とする事すら出来る。いまの”丸裸”の貴様など、造作もなく屠ってくれよう……」
怪物の、”人類の可能性を殺す獣”の脚が大地を蹴り、英雄を”嬲り殺す”べく、その黄金の爪を躍動させる。
激情のままに殴り付け、ゴムボールのように蹴り飛ばす。
荊の尾で弾き飛ばし、大樹のような巨腕で薙ぎ倒す。
四方に裂けた口顎で噛み砕き、踏み躙る。
あらゆる暴虐が英雄を襲い、銀のコンバットスーツから流れ出した血液が、血溜まりを”畏敬の赤”の中に作っていた。
だが、
「そんな……もの、か……」
「何……?」
その血溜まりの中で、銀の鎧は立ち上がる。
胸の”次元調整装置”が七色の光を放ち、銀の鎧がより眩く、力強く輝く。
「お前の、お前の無念は、こんな”八つ当たり”で晴れるのか……? お前の絶望は、こんな事で晴らせるのか……ッ!?」
電光一閃。
”怪物”が咆哮とともに吐き出した”衝撃波”が、英雄のブレードによって払われ、周囲に四散。それは”畏敬の赤”の大地を爆散させ、舞い上がる粉塵が、英雄の背後に吹き荒ぶ。
”畏敬の赤”の加護ではない。
彼は、確かに自らの力で”概念干渉”を克服し、そこに立っていた。
「刑事さん……!」
「な、何故だ……何故動ける!? 貴様に与えられた加護は既に……!」
そう問い掛けるヨゼフの声には、確かな狼狽と動揺があった。
在り得ない。在り得るはずがない……!
”現実”を受け入れられず、咆哮する怪物に、英雄は、己が銀の胸を血に塗れた拳で叩き、告げる。
「俺のコンバットスーツには、宇宙を乱す”悪”と戦い続けてきた俺の、後輩達の、”経験”が、その”戦闘記録”が、データとしてインプットされている……! 例え、”畏敬の赤”の加護がなくとも、お前と戦えるだけの情報が、”悪”を許さぬ正義の血潮が、このスーツには流れているんだ……!」
英雄の言葉を証明するように、”次元調整装置”が七色の光を強め、橙色の眼が歪められた”概念”を解析。
コンバットスーツが、英雄が躍動すべき軌跡を、この歪んだ世界を疾駆する自由を、彼に示し、確かに与えていた。
「俺は……決して、”悪”には屈しない……!」
「”悪”だと……!? お前は”私”を”悪”と断じるのか……!」
「”悪”だ……! 己が目的の為に、多くの意志を、生命を犠牲とし、踏み躙る。それは、俺が生涯を賭して斃すべき”悪”だ……!」
ヨゼフを真っ直ぐに見据え、断じた英雄は、握るブレードに己が指を添え、告げる。
「そして――俺が生涯を賭して救うべき者だ」
(あ……)
あまりに美しく、正しく、雄々しい。
その姿に、少女の中で電流のように蘇る”記憶”があった。
パズルのピースが全て揃ったかのような感覚があった。
自分が英雄に抱いていた”信頼”と”懐かしさ”の源泉。
それは――、
「お嬢さん、いくぞ……!」
「はい……!」
熱くなる胸が、声を震わせ、白銀の鎧装が、銀の輝きと並び立つ。
「……レーザーブレード……!」
「『双醒』……!」
英雄の指が刀身をなぞると同時に、ブレードが烈光を帯び、白銀の鎧装が、”蒼”の追加鎧装を纏う。
両腕には十字を模った大型の盾、”蒼醒の十字盾・極”が構築され、導師服、あるいは陣羽織のような、光を透過する素材で編まれた布状の装具が、鎧装の上に羽織られる。
”蒼の護壁”。
麗句を救う為に、生み出された鎧が、いま再びヨゼフを救う為に、その”蒼”を輝かせていた。
「届けえええええええええッ!」
サファイアがヨゼフへと腕を伸ばすと同時に、盾から迸った十字型の光が、ヨゼフが全身から、視界を覆い尽くす程に射出した荊の触手を弾き飛ばし、疾駆した英雄のブレードがヨゼフの黄金の爪と鍔迫り合う……!
「理解らないな……何故、お前達はそこまで……!」
「理解らない、か……なら解答は一つしかない」
光を帯びたブレードが、黄金の爪を砕き、凶暴に躍動した左腕を斬り落とす……!
「それは、俺達が人間だからだ……! 人を愛す事も、笑って生きる事も諦められない――唯の人間だからだ……!」
瞬時に左腕を再生させ、襲い来る怪物の攻撃を躱しながら、英雄はその橙色の眼光を、ヨゼフの虚ろな眼へと向ける……!
「諦めが悪く、欲深い――だから、お前を止める事も!お前を救う事も!やめられない……!」
それが、
「それが人間だ……!」
「グ……ウ……ァああああああああああああああ……ッ!」
様々な感情が入り混じった、混沌とした絶叫が、”鮮血神殿”を揺らし、ヨゼフの周囲を、膨張した”赤”の大地が覆い閉ざしてゆく。
全てを拒絶する頑な意志が、解ける事のない絶望が、怪物を覆い、防護していた。
だが、
「届ける……! 必ず……! ボク達が進む未来には……!」
どんな絶望が待っていたとしても。
どんな理不尽が、心を砕いたとしても。
この手を伸ばした先には、
「掴む”希望”があるはずだから……!」
それは、”人間”を、自分を信じ続けるという誓い。
人間に絶望し、”救済”という”終焉”へと逃げた、ヨゼフへの解答。
「いっけええええええええええええええ――っ!」
少女の両腕から、眩い蒼の輝きとともに、十字型の盾が射出され、それは膨張した”赤”の壁へと、ロケットのように突撃する。
着弾と同時に、展開した盾の内部から放射された光が、壁に亀裂を生み、道を切り拓いていた――。
【”SHINING ARROW”――発動承認】
「はああ……」
”創世の新星”の”力”が、いま解放される。
腰を落とし、蒼の追加鎧装を分離した、”白銀の鎧装”がバックルから迸らせた”赤”の光が、亀裂を突き崩し、”風孔”を開けていた。
それは、あらゆる因果を越えて、標敵へと辿り着く必中の光。
あらゆる障害を、絶望を貫く蹴撃。
「刑事さん……!」
「おう……!」
少女が跳躍し、発動させた”SHINING ARROW”の軌跡に、銀の輝きが続く。
それは、決着を告げる黎明の光。
その輝きを見据えた、ヨゼフの目が僅かに細められる――。
「SHINING――」
「ダイナミック……!」
光速の跳び蹴りが、”人類の可能性を殺す獣”の朱鎧を貫き、裂光を帯びたブレードが、その巨躯を両断する。
夜が、明ける。
怪物を構成していた、”畏敬の赤”の結合は完全崩壊し、粉々に爆散していた。
舞い上がる粉塵とともに、着地し、ヨゼフへと振り返った二人の鎧装は、掴み取った”希望”に眩く輝く――。
「あ……あああ……」
悲痛な声が響く。
己の存在を繋ぎ止めていた”畏敬の赤”を失い、消えゆく怪物の残滓が、一人の青年の、人間に傷つき、絶望した、一人の青年の容貌を形成していた。
「駄目だ……出来なかった……成し遂げられなかった……”私”は、僕は、何も……」
涙が青年の頬を流れ落ちていた。
以前、少女を誘惑した蠱惑的な青年の姿はもうない。
そこには当たり前の、ごく当たり前の青年の姿が、疲弊し、摩耗しきった若者の姿があった。
「……諦めたはずだった。何も欲していないはずだった。なのに……」
涙に濡れた顔が、自身を嘲るような表情を浮かべ、自らを打ち倒した二人を視る――。
「お前達の輝きに、何かを期待してしまう……”希望”を見てしまう……」
そう告げる彼の表情は笑っているようにも見えた。
その答えに傷つきながらも、満ち足りた。
そんな表情だった。
「それが、”人間”という事か。救われ、ないな……」
「ヨゼフ……」
青年の輪郭が崩れ始め、宙を仰いだ彼の手が、虚ろに天へと伸ばされる。
”物質としての神”でも救えぬ人間への救いを、天へと求めるように。
全てを、諦めるように。
それが、ヨゼフという青年の結末。
そう思えた。
だが――、
「待って……!」
「……!」
その虚ろに伸ばされた手を、掴む手があった。
消えゆく青年を呼び止める少女の声があった。
「……ごめんなさい、ボクには、ボクには、こんな事しかできない……」
「サファイア・モルゲン……」
ヨゼフが声の主へと視線を向けると、そこには涙でグチャグチャになった少女の顔があった。
さっきまで自らを殺そうとしていた者のために泣く、少女の顔が。
まったく――、
緩む己が口の端を、ヨゼフは確かに認識する。
「でも、人間の手は温かいんだって、人間と人間の手は繋げるんだって、忘れないで欲しいから。人間を――信じて欲しいから」
少女の涙が、握られたヨゼフの手に零れ、その温もりが消失の痛みを和らげる――。
残念ながら、認めざるを得なかった。
「ありがとう」
そうだ。
いま、伝えよう。
自分は――、
「嬉しいよ――」
”救われた”。
「……!」
青年を形作っていたものが灰となって、完全に消滅する。
同時に”鮮血神殿”が眩い白に飲み込まれ、少女と英雄の身体は、瞬く間に転送されていた。
――戦闘は終わり、世界は確かに救われたのだ。
※※※
【オーイ! ”…………”! お嬢さん……!】
「ギ!」
爽やかな風と、騒がしい声が耳朶を撫でる。
「……! ミリーさん! ギィ太くん!」
気が付いた時、少女と英雄は、草木が生い茂る雄大な草原の上に立っていた。
ヨゼフに虚無へと落とされた宇宙船も、無事、その空間に転送され、その内部で奮闘していたミリーがギィ太を連れ、元気に騒々しく、二人の元へとやって来ていた。
ミリーは英雄の肩にとまり、全快した様子のギィ太は少女の胸に飛び込む。
【しかし、どうなってるんだ!? ”観念世界”にこんな安定した空間が出現するなんて、前例がないぞ!?】
「……もしかしたら、ヨゼフが最後の力で造ってくれたのかもしれないな。俺達が無事に、この”観念世界”から脱出する為に」
英雄……男はそう告げ、瑞々しく青々とした草原に目を凝らす。
あの”鮮血神殿”の荒涼とした大地とは異なる風景。
それがヨゼフからのメッセージであるように、男と少女には感じられた。
しばしの感慨という名の沈黙の後に、男はその景色から共に戦い抜いた少女へと、その目線を移す。
「君のおかげで目的を果たす事が出来た。ありがとう」
「い、いえ……! ボクは何ていうか……刑事さんには助けられてばっかりで……!」
差し出された大きな掌を握り返し、少女はその頬を林檎のように紅潮させる。
嬉しかった。
彼の言葉が。
”こんな事があるんだ”と、胸が熱くなり、高鳴っていた。
「さて……! 後は君を元の世界まで送り届けるだけだが、ミリー?」
【ウン。ヨゼフが彼女の”創世石”を通じて、彼女の世界を観測した事で、道筋は出来ているようだ。後は船に残存する”畏敬の赤”の加護がもつかどうか、だな――】
「え……?」
宇宙船に宿る”創世石”の加護は、幸いヨゼフに奪われる事はなかった。ただ、”限り”はある。
もしかしたら、”畏敬の赤”の源である”創世石”を持つサファイアが乗船していれば、”加護”が尽きても、”観念世界”を航行する事に支障はないのかもしれない。
だが、もし彼女が自分の世界に戻り、艦を降りたなら――、
「ま、待ってください! ボクをボクの世界に戻した後、あなた達は……!」
「ん~? まぁ大丈夫! 何とかなるさ。元々一か八かで飛び込んだ部分もあるからね」
「そんな……!」
生真面目な少女が、それを認めるはずがなかった。
詰め寄る少女をなだめるように、男が”まぁまぁ”とその両手を翳した時、”聴き慣れぬ”声が響く――。
(困るなぁ……そんな事をされたら……)
「……!」
突然、また”赤”が溢れた。
ヨゼフとの戦いの中で、幾度も訪れたその”異変”は、少女を”畏敬の赤”で包み込み、何処かへと誘おうとしていた。
彼女が抜き差しならぬ事態にまた飲み込まれていると感じたのか、ギィ太が、”ギギ!”と、ゲル状の身体を絡ませるようにして、彼女の身体をよじ登る。
【マママママ!? マジか!? ヨゼフどころじゃない、その数千倍近いエネルギーがその”赤”には漲っている! こんな数値、こんな数値を叩き出せるものなんてないぞ!? あるとすれば、それこそ……」
”神”……?
呟かれたミリーの言霊に、男の背筋に悪寒が走る。
この異常は人知を超えた、明らかな”危機”だ。
彼の長年の勘が、人を救い続けた、人を救い続ける手を真っ直ぐに差し出させる。
「お嬢さん……! その”赤”から今すぐ飛び出すんだ! 今なら……!」
「…………」
だが、少女の考えは違った。
彼女はこう思った。
これが、”ボクの道だ”、と。
これが、いま、自分が進むべき、乗り越えるべき”運命”だと。
「……刑事さん、ごめんなさい。ボク、行きます。この先に――”創世石”を託されたボクの、ボクにしか出来ない事があると思うから」
「お嬢さん……」
少女の頑な意志を悟り、男は伸ばした手を降ろす。
―—そうだ。この娘は前に進むと、斃れたヨゼフの為にも、”畏敬の赤”の因果の先へと進むと決めたのだ。
それを、強引に振り向かせる事は出来ない。
「……残念だよ、君のような勇敢な子に、自分の名も伝えられない事が」
「刑事さん……」
名乗ったとしても、”世界の干渉”によってそれが彼女の耳に届くことはない。
些細な事かもしれないが、男はそれが無性に残念だった。
名無しの男ではなく、一人の男として、彼女を見送ってやりたかった。
だが、
「大丈夫ですよ、刑事さん……!」
「え……?」
僅かに肩を落とした男に、少女の微笑みが応える。
溌剌とした声だった。
頬を紅く染め、瞳を潤ませた彼女の表情に”悲壮”はなく、どこまでも広がるような、”憧憬”だけが溢れていた。
「実はボク、知ってるんです。刑事さんの、名前。……ボクの世界にもちゃんとあなたはいてくれたから」
「俺が……?」
男の言葉に少女は頷き、遠い記憶に思いを馳せるように宙を仰ぐ。
あの遠い夏の日。
おばさんと出かけた大きな本屋さん。
……日に焼けた”あの本”の匂いまで鼻腔の奥に蘇ってくるようだった。
「ボクが子供の頃、おばさんがボクのために、なけなしのお金で買ってくれた絵本。……男の子向けの絵本だったけど、すごく面白くて、楽しくて――格好良くて。小っちゃな弟や妹達とポーズを真似したりして遊んでると、辛い時も、悲しい時も、ひもじい時も平気だった。だから……いつからかボク、こう思うようになったんです」
何度も読み返した大好きな頁をめくるように、少女は万感の想いを告げる。
「この”英雄さん”みたいに、人を元気にして、助けられる人間になりたいって――。そう、絵本に描かれた貴方の活躍に励まされて、元気をもらったから、ボクはここまで生きて、歩いてこれたんです」
「あ……」
男にとっては突飛な話だっただろう。
まさか別の世界に、自分が”絵物語”として存在しているなんて、想像だにしない話だろう。
けれど、
「だから、ボクにとってあなたは大切な、永遠のヒーローなんです。”…………”さん」
嬉しかった。
聞こえずとも、彼女の告げた名は自分の名なのだと確信できた。
疑う理由など、何一つなかった。
彼女の礎に自分がいた。その事が嬉しかった。
己を包む”畏敬の赤”の濃度が更に上昇した事を感知し、別離を予感した少女が頭を下げ、踵を返す。
「ありがとうございました! また……何処かで!」
「ああ、元気でな! お嬢さん……!」
”――――――、ですよね!”
最後に少女から贈られた言葉に、男は頷き、右手の親指を立てて応える。
それは絵本の最後の頁に記されていた言葉。
かつて、男が若者へと贈った言葉だった。
「…………!」
吹き荒れる烈風。
その瞬間、少女を包んでいた”畏敬の赤”が爆裂し、周囲の大地ごと、彼女を何処かへと連れ去っていた。
事件は完全に終結し、穏やかな草原には、宇宙刑事とその相棒だけが残されていた。
【行ってしまったな……本当に止めなくて良かったのか? ”…………”】
そう告げるドロイドの声はどこか寂し気で、男を責めるような気分もあった。
彼女の行き先にあるものが、”並み”のものでない事は、彼が観測したデータが立証していた。
「いや大丈夫……! 彼女ならきっと大丈夫さ……!」
男は祈った。
人間に傷つきながらも、人間を愛し、人間を想う彼女の旅の無事と、その”幸福”を。
その願いが、”畏敬の赤”の因果に負けず、凛と花開く事を。
「……よろしく勇気!」
彼女の瞳のような、青空を仰ぎ、男は言葉を贈る。
かつて自分が若者へと贈り、彼女から贈られた言葉を。
その言葉はきっと、少女の心に届き、生き続ける。
眩く輝く、銀の英雄の姿とともに――。
英雄特別篇—”no one can Fake my blood”— FIN
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