眠る眠る僕
今日も僕は学校に通う。
それは、高校生という立場上仕方の無いことなのだろうけれど、しかし、本心を晒してしまえば、決して高校なんかには行きたいとは思わなかった。親のご機嫌を伺う為だけに電車に乗って校門をくぐる。それが習慣となっていた。
学費やそれに連なってかかる金銭的なものの始末は全て親がしてくれているから、無論親の目前でそのようなことを話すのは気が引けるけれど、しかし、それが僕の正直な気持ちであることには、一切の疑いようは無かった。
苛められているわけでもなければ、学校に居づらい明確な理由があるわけでもない。
ただ、嫌だった。
いつ陰口を叩かれるかもしれないような空間にその身を置くことが、陰口を叩かれているかもしれないことが、友達に裏切られるかもしれないことが、好きな人に彼氏が出来てしまうかもしれないことが、とてつもなく嫌だった。
平日の朝、目が覚めてしまうのが嫌だった。
休日の夜、目を閉じてしまうのが嫌だった。
そんなことを考えているうちに、僕は夜、いつしか眠れなくなっていた。
悪い想像だけが頭の奥底にこびりついて、悪い想像だけで脳髄が満たされていく感覚。
眠れないうちに、眠れないことが発展して、学校での評判が悪くなるのではないか。また、足りない分の睡眠を学校でとっているうちに、みんなの話題についていけなくなるのではないか。
そう考えて、眠れない夜は続く。悪循環だった。悪循環は続いて、状況は明らかに悪くなっていき、それを止めることなんかは出来ない。そう考えて、やはり眠れない夜は続く。眠りたかった。でも、眠れない。それが永遠に繰り返されて、延々と眠れない夜は続く。そう考えて眠れない。眠れないから、僕はとうとう手を出した。
始まりは一ヶ月前だった。
僕は学校からの帰り道、ふいに意識が朦朧とし、視界が揺らぎ、そして、平衡感覚が狂い始めた。ゆらゆらと肢体は揺れ、それに伴って思考も揺れる。冷静になって考えてみれば、考えるまでも無く、それは寝不足のせいだったのだろうけれど、しかし、そのときの僕には冷静さなんかは見当たらなく、見つからなかった。
結果として僕は、都合悪くその場にあった階段を、転がり落ちることになった。
それでも、不幸中の幸い。
僕の体に幾つかの擦り傷が生まれただけで、それ以外には、不調と呼べるような不具合が無かった。少しだけ、制服が破けてはいたものの、ほんの些細なもので、別段気にする必要はないように思えた。親に無用な心配をかけるべきではないなと思い、擦り傷から流れ出る血液が制服のワイシャツにつかないように気を遣いながら、再び帰路につくことにした。衝撃を受けたからか、朦朧としていた意識も、普段と変わらないようなものに戻った。
途中、絆創膏を買おうと近所のドラッグストアに寄った。そこで、絆創膏を探しているうちに、僕の目は釘付けになった。
睡眠薬。
急に目の前が照らされたような錯覚。
突然空が晴れ渡ったかのような感覚。
全ての不運が僕の味方で、全ての幸運が僕の友達になったかのような、
悪魔の手助けや天使の励ましが総じて僕に向けられているかのような、
そんな充実感。
僕は急いでレジへと向かった。途中、絆創膏を見つけ、荒々しくそれも手にとって、レジへと差し出した。
きっと僕の表情は言い表し難いものになっていたのだろう、店員の顔つきが明らかに不審がるものになっていた。しかし、そんなことはどうでもいいことだった。僕は受け取ったスーパー袋を抱え、自宅への道を走り抜けた。
その日の夜は久々に、気持ちのいいものだった。
睡眠薬を明記されている通りに服用し、そして、いつものように布団の中へと潜り込んだ。
僕はそこから、間もなく意識を失った。
久々に感じる睡眠の暖かさに溺れ、悶えていた僕は、そのとき、夢を見ていた。
そのときだった。
僕の眼前には、僕が心密かに思いを抱いていた少女に酷似した少女が、確かに存在していた。
「やあ、どうだい。久しぶりの休息は」
少女は笑いながらに言った。
「人の三大欲求の一つなだけはある。実にいいもんだね、人が無意識のうちに追い求めるのも今なら分かる気がするよ」
僕も笑いながら、そう返した。
夢の中だからか、違うのか、定かではないけれど、何故だか今に限っては、彼女に対してごく自然に接することが出来た。いつものように緊張することも無く、声が裏返ることも無く、焦ることも無く、毅然たる態度で接することが出来ていた。
そこから僕と少女は、僕の目が覚めるまでの間ずっと、他愛も無い話からそうでない話まで、色々なことを語り合っていた。それがとても楽しく思えた。
そして目が覚めた後、僕には幸せの余韻と、虚しさだけが残っていた。僕はすっかり彼女に恋心を抱いていた。
その日の夜も、彼女に会いたいという一心で睡眠薬を服用した。彼女は、その日も僕の眼前に現れた。
それからというもの、僕は学校に居ても家に居ても、ただ睡眠をとることだけに腐心するようになった。体重は一ヶ月の間に十キログラム減り、酷く細くなった気がした。休日もずっと布団に篭っているため、友達付き合いが悪くなったと言われる様にもなった。けれど、僕は夢を見るたびに現れる少女と話しているときだけが楽しく思えていたし、その時間こそが至福だった。
とうとう睡眠薬を常備するようになった。暇さえあれば睡眠薬を服用し、そして意識を失くす。それを繰り返していた。
学校にも行かなくなった。一日中布団の中に潜り込んでいるようになった。起きては食事をし、そうしてはまた寝る。それだけだった。
いつからか、明記されている以上に睡眠薬を服用しなければ寝付けないようにもなっていた。
そんな日々が続いていた、ある日。
どれだけ睡眠薬を飲んでも、眠れなくなった。一回に何錠服用しても眠れない。何をしても、何をしなくても眠れなかった。僕は依存していた。睡眠薬に、なにより、彼女に。彼女に会えない。そう思うだけで、陰鬱な気分になった。一日中、彼女の面影を思い描くようになっていた。それでも物足りず、満たされない。彼女に会いたい。彼女に。彼女に会いたかった。
そういえば。
学校に、彼女に酷似した少女が居ることを思い出した。
そうだった。なにも夢に拘らなくとも、彼女はこの世界にだって居るのだ。ならば、無理に睡眠をとる必要は無い。身支度を済ませ、僕は学校へと向かった。
彼女も僕と会いたいに決まっている。だって、僕たちは相思相愛なのだから。
彼女も僕と話がしたいに決まっていた。だって、互いにそのときだけが至福だったのだから。
気づけば、既に学校の前まで来ていた。
時刻は九時半。生徒全員、登校は済んでいる時間帯だった。
彼女に会える。その気持ちだけで心が満たされていた。
彼女に会える。その気持ちだけが脳内にあふれていた。
階段を急いで駆け上がる。ただ久々に体を動かしたから、既に節々が悲鳴を上げていた。けれどそんなことは、気にするまでも無い、些細なことだった。
いよいよ、教室の前に辿り着いた。
呼吸は乱れに乱れ、鼓動は更に速さを増し、全身には程よい痛みが回っていた。教室のドアに手をかけて、そして、
思い切り、開け放った。
混乱に包まれる教室の中に、彼女の姿を捉える。
彼女は変わらず、麗しかった。ずっと、眺めて居たかった。目に焼き付けて居たかった。
しかし、けれど。
僕の心は抑えきれない気持ちで一杯だった。
僕の脳内は制御できない衝動で一杯だった。
僕は、彼女に、声をかけた。
ずっと言いたかった言葉を、
ずっと伝えたかった思いを、
喉を震わせて、告げた。
「やあ、久しぶり。眠れない夜を越えて君を迎えに来たよ。さあ、僕と一緒に行こう――君は、僕の夢なんだからさ」
以上、掌編です。
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※作中に登場する『睡眠薬』は、一般に言う『睡眠改善薬』のことです。