第9話 確執の果て
話は、満仲が摂津守として赴任した天祿四年(九百七十三年)に戻る。
摂津は瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある難波津が有り、津国と呼ばれた。
六百四十五年に孝徳天皇は難波に遷都し『大化の改新』と呼ばれる新政はこの地で行なわれた。また、摂津は、天武朝と聖武朝の二度、難波宮が置かれ、副都と成っている。国府の所在地は未だ特定されていないが、大阪市内の数ヶ所が推定されている。摂津には、現在の天満橋から北浜の南岸に渡邊津と呼ばれる港があり、当時盛んになった熊野詣の出発点として賑わいを見せていた。
「摂津は良き所であるな」
滿仲が満足げに漏らす。畿内で港を持つ豊かな土地柄である。受領として赴任するならこの地が良いと、満仲が兼ねてより目を着けていた土地である。出していた希望が通り、晴れて国守として着任出来たことに満足している。居心地が悪くなって来た都を離れ、気持ちを切り替えて、のんびりと蓄財にでも励むつもりになっていた。
「真で御座いますな。地味も豊かと見えます」
そう答えたのは、都で満仲に乞われて郎等と成っていた坂上頼次である。伝説の大将軍であり、大納言にまで上った坂上田村麻呂。頼次は、田村麿の四男・浄野の血を引いている。名門の血を引いていても、主流から外れてしまえば他家の郎等や家人と成らざるを得ない。
満仲自身、その代で貴族から外れてしまう運命にあったが、形振り構わぬ必死の努力を続けて、やっと貴族と成ることが出来たのだ。
頼次の人物に惚れ込み『他家の郎等と成るなら、是非、我が郎等と成って欲しい』と頼み込んで、郎等としたのだ。
子らに地位や財を引き継ぐ才覚を持ち合わせていなかった父を不甲斐無いと思う反面、満仲は哀れとも思った。形振り構わず出世しようとしたのは、父に対する複雑な想いが根底に有ってのことだったかも知れない。父のようには成りたく無かったし、他家の使用人に身を落とすなど真っ平だった。その想いが満仲を突き進ませた。他人に何を言われても気にならなかった。どの道、誰も助けてくれる訳では無いのだから。
地位が上がり財を成せば、人は勝手に寄って来る。反対に落ちぶれでもすれば、誰も相手にしなくなる。満仲はそう思っていた。かと言って、満仲が頼次を見下すことは無い。
満仲と言う男、悪評は多いが、反面、人情味が有ったり、人を見る目を持ち合わせていたりもするのだ。もし満仲が強烈な出世欲を持つことが無かったなら、案外、好人物として一生を送っていたのかも知れない。
出世欲も蓄財欲も、己が贅沢をする為では無く、或いは、兄弟達や子や孫に対する強い責任感から出ていたと言えなくも無い。
満仲が財を蓄えたことは有名だが、その財を使って贅沢をしたと言う逸話を知らない。公卿達との人脈を作ったり、郎等を雇い入れて勢力を拡大したりすることに使っていたのだ。いわば、将来に向けての投資である。
その後紆余曲折は有るが、経基流清和源氏の礎は、満仲に寄って築かれたのだ。
着任すると直ぐ、満仲は仕事に取り掛かったが、暇を見付けては国内をあちこち見回り、田や畑の様子を目視し、新田開発の可能な土地は無いかを見定めて回った。隠し田でも見付ければ、占めたもの。接収するにせよ、目こぼししてやるにしろ、どちらでも儲けになる。しかし、満仲はこの地を気に入り、ここに拠点を築きたいと思っていたので、極端に強引なことはやらなかった。むしろ、物分かりの良い面を見せていた。
だが、満仲の満ち足りた日々は長くは続かなかった。僅か一年で、『越後守に転出せよ』との命が下ったのである。当然、兼通の策謀と分かった。政界のどろどろした駆け引きから離れて素の自分を取り戻し掛けていた矢先だったが、相手はそうさせてくれなかったのだ。
兼通の立場に立って考えてみれば当然の措置と思い至った。
『こんなこと考えもしなかったとは、麿も焼きが回ったものだな。兼通を甘く見ていた』
腕組みをして考え込んでみたが、結局、命に従うしか無い。摂津を離れなければならない悔しさが込み上げて来る。
『いつか、きっと戻って見せる』
そう決心して、怒りを鎮めた。
越後守として前任者の残りの任期を勤め上げると、今度は四国の伊予に飛ばされた。
満仲が伊予守として赴任した貞元二年(九百七十七年)の十月、都で異変が起きた。兼通が病に倒れたのだ。
千方に目撃された後も、兼通は度々発作を起こした。噂はどんどん広がって行く。治療法も無かった当時、内臓の病は死に繋がる可能性が非常に高い。もし、晴明が推測した通り兼通の病が腑の病だとすれば、公卿、公家達の関心の的は、兼通の後、誰が権力を握るかである。
序列から言えば、当然、左大臣・藤原頼忠が後継筆頭となる筈である。しかし、頼忠は外戚では無い。帝の大叔父である兼家が躍り出る可能性も有るのだ。当然、密かに兼家を訪ねる者の数は増えて行く。
体の不調は不安と焦燥感を増して行く。一番気掛かりなのは、もちろん、兼家の動向である。兼通は密かに見張りを立て、誰が兼家を訪ねるかを探らせたりしていた。もし、自分が倒れたりしたら、兼家が何を仕掛けて来るか分からない。何か手を打たねばならないと思う。憎っくき弟ではあるが、その策士振りは侮れない。自分亡き後、兼家の時代と成ることだけは避けたい。子らがどんな仕打ちを受けるか分からないからである。
長男の顕光は参議に列するにとどまっているが、四男・朝光は権大納言に上っている。これは、朝光の才気を見てと言うことも有るのだが、太皇太后の手紙を親筆と証言した、尚子・藤原登子の娘を妻としていたことも大きな理由であった。
だが、自分と兼家の関係を省みて、弟が兄の上に在るのはやはり拙いと思い、貞元二年(九百七十七年)四月二十四日、まず、顕光を権中納言に引き上げた。そして、近いうちに更に引き上げるつもりでいた。後は、子らの将来を守る為にも、頼忠に権力を引き継ぐ道をしっかりと着けて置かなければならないと兼通は思った。
権力を掌握してから凡そ五年。あっと言う間であった。背中の痛みを感じ始めてから不安に襲われた。体の外側の痛みに違いない。時が経てば癒える。そう思い込もうとした。だが、時が経つ程に痛みは強くなり、発作が起こる頻度も増えて行く。死の予感を感じた。とてつもない恐怖を感じると同時に、たった五年しか権力者で居られなかったのかと思うと執着を断ち切る術が無い。だが、覚悟しなければならないと思う。
この権力を兼家にだけは渡してなるものかと強く思う。幸い頼忠とは昵懇なのでその辺の意思疎通は取れている。頼忠に譲り、子らの将来を託そう。そう心に決めた。
貞元二年(九百七十七年)十月に入って、発作は頻繁になり、もはや政務を執ることが困難になった兼通は、関白・太政大臣の職を辞すことを上表し勅許が下りる。十一月に入ると兼通の容態は更に悪化し、床に伏すようになった。急激な発作ばかりで無く、鈍痛が収まることが無い。
東の方で先払いをする声がする。
「どなたで御座いましょうか」
痛みが少し収まり、静かに横になっている兼通に、侍女が言った。
「誰ぞ見舞いに参ったのか。会うのは億劫じゃ。丁重に断っておけ」
「畏まりました」
その時、家人が一人、慌ただしく入って来た。
「お静かになさいませ。御前様のお身体に障ります」
と侍女が家人を嗜める。
「東三条の大将殿がいらっしゃいます」
「何、兼家が?」
俄には信じられなかった。しかし、長年の確執が有るとは言えやはり兄弟だ。兄の容態が悪いと知って、見舞いに来る気になってくれたのかと、兼通は思った。
疑り深い兼通のこと。普通なら、そんな風には考えなかったであろう。命の終わりが近いことを悟り、心細さから気弱になっていたのだろう。
「長年仲が良く無いままでいたが、いよいよ容態が思わしく無いということを聞いて、見舞いに来てくれたのか。これ、その辺の見苦しいものを片付けよ」
と言ってその辺を片付けさせ、一度起き上がって身形を整え、兼家を迎え入れる準備をした。
ところが、報告は家人の早とちりで、兼家の牛車は、その頃兼通邸の門前をとっくに通り過ぎていたのだ。
「申し訳御座いません」
「いずれに参ったのじゃ!」
家人を叱責するよりも、見舞いに来てくれたと思った自分の甘さに腹が立った。
「はっ。ご、御所に向かわれたものと思われます」
全身の血が逆流した。
「あ奴に仕える者達ですら恥じ入るであろう。兄に対する不敬を謝し改めるなら関白の位を譲っても良いと、一瞬たりとも思ったのが口惜しい。あのような心根であるから、長年不和が続いたのじゃ」
勝手なもので、兄・伊尹が危篤の際、兄の病状を案ずるより、権力奪取の為参内したことなどすっかり忘れている。
痛みが襲って来た。苦しむ兼通を見て、周りの者はおろおろする。一時の発作が収まると、
「参内する。起こせ」
と命じた。
「ご無理で御座います。お身体に障ります。どうぞお静かに」
「喧しい。起こせと申したら起こせ。従えぬなら暇を出す」
周りの者達は仕方無く命に従う。四人掛かりで兼通を起こし、身支度をさせる。
「急ぎ左大臣に使い致せ。申すことを書き取り届けよ」
兼通は頼忠に、急遽詮議を開くことを命じ、決すべきことを家人に書き取らせた。
「火急の場合じゃ。ひとりひとり意見を聞く必要は無い。左大臣が読み上げ、異の有る者は申せと問い、直ぐに決せよ。何か申そうとする者が有っても無視せよ。右大将を望む者が有れば与える。兼家は外すよう伝えよ。
急げ。出来れば、麿が参内する前に済ませと申し付けよ」
書き取った家人は、急ぎ走り出て行った。今で言う強硬採決を命じたのだ。
「牛車の支度をせよ。先導する者を呼び集めよ」
と兼通が命じる。周りの者達は、物の怪が取り憑き正気を無くしたのかと不思議に思って見ていた。
兼通は冠を被り、礼服を着ると、御所へ向かった。
参内すると左大臣・頼忠が待っていた。兼通が牛車で御所に向かっている間に、手早く詮議を済ませたのだ。
「ご指示通り決しました。右大将は済時が望みましたゆえそのように」
兼通は、息子の権大納言・朝光と権中納言・顕光に支えられながら進んだ。
滝口の陣から帝の御前へと参上する。昆明池の障子の辺りに進むと、昼御座で、兼家が帝の御前に居るのが見えた。
兼家は、既に兼通が死んだと聞いており、兼通に代わり自分を関白に任じて欲しいと、帝に奏上しようとしていたのだ。
兼通は、怒りに燃えてその場に立ち尽くした。まず帝がそれに気付き、兼家も兼通の姿を認めた。兼通は目を大きく見開き、息子二人の肩に寄り掛かって立っている。帝も兼家もその形相に驚きを覚えた。兼家は慌てて『鬼の間』の方へ逃れる。
兼通は支えられながら御前に進み出る。兼通の鬼気迫る表情に接し、円融帝も怯んだ。
「最後の除目を見届けに参りました」
「公卿らを集めると申すか」
『最早職を辞した身であろう』と付け加えたかったが、兼通の気迫に押され、それは口にしなかった。
「いえ、既に決しております。蔵人頭を呼べ」
と兼通は朝光に申し付ける。
「はっ。早速に」
と返事して、朝光は直ぐに下がる。
蔵人頭が駆け付けると、
「臨時の除目により決したこと、以下の如く奏上させて頂きます。
関白には左大臣・藤原頼忠を。大納言・藤原兼家が兼務する右大将及び按察使の職を解き、権中納言・藤原済時に右大将を兼務させる旨、御裁可を賜りたく太政官に於いて決したとのことに御座います。御裁可を賜りますよう」
と鋭く帝に迫ったのだ。
帝が一瞬言葉に詰まると、
「左大臣、それに相違あるまい」
と頼忠に問い掛け、
「相違御座居ません」
と頼忠が申し添えた。
兼通の越権行為ではあるが、それを理由に却下出来る雰囲気では無い上に、左大臣である頼忠からの奏上とあらば裁可せざるを得ない。
それから程無い十一月八日、兼通は薨去する。享年五十三歳。
兼家は兼通の怒りを買い、又も破れた。
これ以前、又これ以後にも、兄弟同士の争いは数々有った。しかし、この二人の争いほど陰湿、且つ醜い争いは他に無いのではないだろうか。




