第3話 満仲と千晴
『あの男以外には考えられない』満仲はそう考えていた。
武蔵から都へ送る下野藤原家の荷駄を横取りしようとしていた者達が、全て殺されたのだ。他に考えようが無い。
十五人全て殺されて、しかも、敵の死体は唯のひとつも見付かっていない。少なくとも二十人、或いは三十人くらいで襲ったものと思われる。草原は元より、下野まで人をやって、千常の郎等達の動きも探らせてみた。しかし、あの日、誰一人、武蔵や相模に入った様子は無い。
『東海道で目撃されているのは、千方と朝鳥と言う老臣の二人だけだ。あの二人だけでやるのは、どう考えても無理だ。他の実行部隊が居なくてはならない。それが何者で、どこから来て、どこへ消えたのか。それが分かれば、あの男をひっ括れる』満仲は、そう思った。
しかし、それが掴めなかった。いっそのこと、強引に捕縛して、痛め付けて吐かそうかとも思ったが、それは千晴の手前、さすがにまずい。本音では、満仲は、千晴がどう思おうと構わないのだが、私君・高明の手前がある。相模で満季の手の者達を襲ったのが千方達であると言う証を得られぬ儘、満仲は京に戻らざるを得なかった。
満仲も千晴も、共に源高明を私君とする言わば朋輩である。主の手前、角突き合わせて居る訳にも行かない。表面上は親しそうにやっているが、本音は水と油なのだ。
高明に対する仕え方も、性格も考え方も、両極端と言って良い。
まず千晴は、御所への行き帰りはもちろん、高明が外出する時は、牛車の|側に付いて、片時も離れない。そればかりでは無く、自らの郎等を指揮して、常に高明邸の警護に当たっている。
一方の満仲はと言えば、時々やって来ては高明の機嫌を取って行くと言う、至って気儘な仕え方をしているのだが、命じられたことは、どんな汚れ仕事であろうと、嫌な顔ひとつせず熟す。それでいて、藤原摂関家の公卿達の館にも平気で出入りしている。
そんな二人を、高明は両腕のように頼りにしているのだ。どちらが右腕で、どちらが左腕かは別として、忠勤に励む千晴同様に、高明はなぜ満仲をも同じように頼りにしているのか。それは、源氏の血である。
従二位・大納言・源高明は醍醐天皇の皇子であり、朱雀天皇、村上天皇の兄である。父を同じくする弟ふたりは相次いで帝位に就き、一方高明自身は、七歳の時に臣籍降下して源氏・朝臣の姓を賜り、臣下と成った。これは偏に、母方の祖父の身分の差にある。
高明の母・周子(醍醐天皇の更衣)の父・源唱は、正四位下・右大弁までしか上っていないのに対し、朱雀天皇、村上天皇の生母である中宮・藤原穏子の父は、『阿衡事件』を通じて天皇をも凌ぐ権力を見せ付けた、太政大臣・藤原基経である。
しかし、立場は変わっても、村上天皇は兄・高明を慕っており、また頼りにしていた。そしてふたりは、藤原摂関家から政を取り戻し、真の『帝親政の世』を作り上げようとする同志でもあったのだ。
帝を飾り物にして実権を握ろうとする藤原摂関家を排除し、源氏は真に帝を補佐する存在にならなければならない。そして、それが出来るのは、一世源氏である自分である。それが、高明の考えだった。かと言って高明は、摂関家を敵視して対立するような真似はしない。
摂関家に連なる朱雀、村上両帝の生母・藤原穏子の絶大な信頼を得ており、穏子は、高明が早く村上帝を援ける立場に上れるよう援助を惜しまなかった。また高明は、学問を通じて話の合う、藤原忠平の次男・師輔の三女を妻とし、その妻が二十八歳で早世すると、五女の愛宮を妻として迎えている。また、最初の妻は忠平の長男・実頼の娘だった。
これは、実頼、師輔の兄弟が、当初、それほど権力に固執しておらず、村上帝に譲歩したこともあり、特に師輔とは馬が合う関係だった為である。だから、摂関家と高明が対立していると言う構図は無かった。摂関制度の廃止を高明が口にするのは、村上帝と二人きりで対話する時だけである。むしろ高明は、太皇太后・穏子や師輔の応援を得て出世して来たのである。
朝廷に於ける高明の環境は万全であった。ただ高明は、盗賊や、何らかの理由で自分に恨みを抱く者に襲われる危険が有ることを意識していた。そして、早くから兵と呼ばれる者達の存在に注目していたのだ。貴族達からは『血の穢れ』を持つ者として忌み嫌われ、蔑まれている兵であるが、それでいて貴族達は、彼等を汚い仕事に平気で使う。犬くらいにしか考えていないのだ。
その兵を、高明は武力として見た。大事を成し遂げる為に武力が必要となる時が来る。そう考えた。そこで、最初に目を付けたのが、同じ源氏の血を引く兵・源満仲と言う訳だ。
清和天皇の皇子・貞純親王の子・源経基が満仲の父である。源経基と言えば、将門・興世王・武蔵武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告し、事実無根が証明された為、一時、検非違使の置かれていた左衛門府に拘禁され『未熟者、臆病者』と笑われた男である。その後、将門が実際に謀反に走った為、名誉回復され昇進し、純友の追討に加わるなどして、最終的には鎮守府将軍まで努めた。
父・経基が臣籍降下した二世源氏なので、満仲は三世となる。血筋は良い。そこが気に入ったのか、高明は満仲を配下にした。千晴が従者と成るかなり前のことである。これで、朝廷内に於いても外に於いても、高明に死角は無くなった。その後、千晴が仕えるようになり、高明の身辺警護は、更に強化されることになる。
再三の上洛命令を無視し遂に上洛しなかった為、太政官は千晴の父・秀郷に、妥協案として嫡男の上洛を命じた。いわば人質である。最初、秀郷は、都に縁戚の有る千常を送ろうと考えたが、千常は、都と公家が大嫌い。坂東大好きという男で、千晴は都に強い関心を持っていた為、太政官の要求通り、嫡男・千晴を送ることになったのだ。
但し秀郷は、多くの郎等を千晴に付けて上洛させた。選んだ私君は、将門を討った功を決める詮議の席で、秀郷に有利な献策をしてくれた高明である。高明も受け入れてくれた。しかし、俸給を貰える訳ではない。大勢の郎等を連れて行くということは、大変な経費が掛かるということである。それは、下野藤原家全体で支えることとした。そこまでするのは、藤原摂関家に対する秀郷の強い警戒心からである。摂関家は、隙有らば秀郷を潰そうと、常に狙っている。秀郷には、下野に根を張っている限り、そう簡単には潰されない自信が有る。だから、断固として上洛を拒否して来たのだ。それで、千晴の上洛に際しても、万全を期すこととした。
摂関家の危険性に付いては、千晴も十分認識していた。だが、高明の従者である限りは、摂関家と雖も、千晴に手出しすることは出来ない。高明が政治的に千晴を守ってくれる以上、高明の身辺の警護をするのが自分の役目。そんな想いで、千晴は高明に仕えた。
面白く無いのは満仲である。千晴の忠勤振りが気に入って、高明は『小藤太、小藤太』と、何かに付けて千晴を頼りにするようになった。だが、満仲には千晴のような真似は出来ない。下野藤原氏と言う裕福な背景を持つ千晴とは、置かれた環境が違うのだ。
満仲の父・経基は二世源氏である。一世源氏である高明が十六歳で従四位上に叙せられているのに対し、経基は、記録として初見の承平八年(九百三十八年)に武蔵介として赴任している。長男の満仲が、二十歳を超える歳に成ってのことだ。
大国・武蔵の介の位階は正六位上。スタートからして高明とは六段階もの差が有るのだ。その上、世の中を斜めに見るようになっていた。将門追討軍に副将として加わり、手柄を立てようと張り切ったが、秀郷らが先に討ってしまった為、虚しく戻るしか無かった。その後、藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に乱は小野好古に鎮圧されており、純友の家来・桑原生行を捕えるに止まった。
何をやっても上手く行かない。天皇の孫として我が儘に育った男である。遂には、臣籍降下させられたことを恨むようになる。せっかく武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任しながら、蓄財に励むことも無く大して財は残していない。そんな父・経基を満仲は情けなく思っていた。
王と呼ばれる身分だった者が帝の臣下に降り、その子は家臣(貴族)の家臣、即ち陪臣となってしまう。皇族が増え過ぎ、国家財政で養えなくなってしまった為、平安時代の初期に始まった臣籍降下だが、降下した者の多くが、次の代には庶民の身分にまで落ちて行くことになる。
母の実家からは、他家の家臣となることを強く勧められた。だが満仲は、それを拒否し続けていた。その結果居づらくなり、一人父の許へ移っていた。猟官のため無報酬で、その上貢物まで贈り続けて仕えている主に五位の貴族の子弟と違って、朝廷が認めた家臣であれば僅かながら俸給が貰える。家計のことを考えれば当然そうすべきなのだが、満仲は貴族への道を諦めたくはなかったのだ。将来得るであろう子や孫への、己の責任を感じていた。一旦他家の家臣となってしまえば、子や孫もそこから浮かび上がることは出来ないだろう。
『このまま終わってたまるか!』満仲は強く思った。だが、現状は最悪だ、打開の道は無い。そんな中でもがき苦しんでいた満仲に、幸運は突然訪れた。将門が実際に謀叛を起こしたのだ。
経基が訴えた時には、将門に謀叛の意思など全く無かった。常陸の国衙を襲い謀叛に踏み切った事件とは、全くの別件なのだ。ところが、経基は許され、解き放たれたばかりでなく、昇進し、従五位下と成った。貴族である。当然、満仲にも貴族の嫡男としての道が開ける。将門が謀叛を起こしたことに寄って救われた一家が、ここに確実に存在した。正に、『将門サマサマ』である。
五位の者の嫡男は、蔭位によって、二十一才になると従八位上に叙せられることになっている。だがそれは、飽くまで建前であって、五位の者の子弟が実際に官位官職を得ることは容易ではない。大臣の曾孫まで官職に就いてしまうので、貴族としては最下位となる五位の者の子弟が、実際に官職に就くには大変な努力と出費が伴うことになるのだ。
陪臣とならずに済んだ。しかし、一生、下級官人で終わるつもりも、満仲には無かった。『何としても、己の力で貴族に上って見せる』そう決意した。
父・経基が更に出世すれば、黙っていても、満仲が五位に上れる機会は近付く。当初、父・経基は張り切っていた。解き放たれたことと、続いての叙爵の沙汰に訪れる客も増え、経基の周りに人が戻って来た。来訪者の中には、満仲が頼った時、居留守を使った者、すげなく断った者も多く含まれていた。
「いや~良かった。実は麿もな、命の解き放ちに付いては、兼ね兼ね、さる公卿にお願いしておったのよ。だが、思いがけぬ成り行きで、解き放たれたばかりで無く、叙爵となって、本当に良かった。我がことのように、喜んでおりまするぞ」
やってもいないことを恩着せがましく言う。父は父で、
「思いがけなくとの仰せですが、麿には、いずれこうなることは分かっておりました。あの、将門と言う男が叛意を持っていることは、とうに見抜いておりましたからな。武蔵では、麿が都に向かったのを知って断念したので御座いましょう」
などと強がりを言って、会ってもいない将門の人物評価までしている。
『人とは、所詮こんなものか』
満仲は覚めた目で、そんなやり取りを見ていた。
その経基、最初のうちこそ張り切っていたが、将門追討の機会を逸し、更に、純友追討に於いても大した手柄を立てられなかった為、すっかり意気消沈してしまった。
『災難に遭ったようなもの』と他人に吹聴していたが、実際は自業自得なのである。
『興世王の儲け話に乗ったのが受難の元』
そう考えて、強引なことはやらず、無難に過ごすことのみを考えるようになった。何か問題を起こして、せっかく得た貴族の地位を失いたくは無かったのだ。元は皇族だけに、決して打たれ強くは無い。投獄されたことが余程堪えたと見える。その為、国司を歴任するも、余り財を残せなかった。
国許からの援助が得られる地方豪族の子弟と違って、満仲は自分で稼がなければならない。その上で、公卿達に貢物を贈って、猟官運動をする。まともなことをやっていたら、とても賄えるものではない。何でもやった。臨時の警護などは勿論のこと、或る公卿が『あの男、虫が好かぬ』とでも言えば、提案して、盗賊の振りをしてその男の牛車を襲う。襲われた方は恐怖の余り取り乱して烏帽子も脱げ、裸足で牛車から逃げ出す。それを陰から見ていた依頼主は、腹を抱えて笑い、『いやぁ、愉快、愉快』と満仲に謝礼を渡す。
荘園で揉め事が起きていると聞けば、出掛けて行って収めて来る。話し合いなどでは無い。大抵は脅しだ。公卿達に頼まれれば、どんな汚れ仕事でもする。そんな噂が、公卿らの口から口に伝わり、謝礼も結構集まるようになった。公卿達の秘密も色々と知るようになった。小悪党なら、それをネタに物をせびるような真似をするところだが、満仲はそんな真似はしない。いつ誰の前でも、全く知らない顔をしている。
それは、頼み事をする際にも同じで『アレをしてやったではないか』などと言う素振りは一切見せないのだ。勿論、己自信の保身の為にもそれは必要なことなのだが、公卿達にしてみれば、満仲なら後ろ暗いことでも安心して頼めると言うことになる。素振りは見せなくとも、後ろ暗いことを頼んだ方にはその意識が有るから、満仲の猟官運動も比較的順調に進むようになった。貸しが有ると思える公卿に対しても、満仲は常に下手に出て、貢物をせっせと贈る。汚く稼いで気前良く使う。それが満仲のやり方だった。そんな訳で、表向き満仲を悪く言う公卿は少ない。と言うよりも、脛に傷持つ者は悪く言えないのだ。
稼いだ財を使って郎等も増やし、都では並ぶ者の居ない兵へと満仲は成長して行った。そこへ現れたのが藤原千晴である。下野藤原氏の財力を背景に、大勢の郎等達を引き連れて上洛し、高明の従者となった。
満仲は、千晴のように、高明にだけ張り付いて無償奉仕している訳には行かない。まず、稼がなければいけないし、多くの公卿の許へ出入りして、出世の道を切り開いて行かなければならないのだ。『目障りな奴だが、当分、辛抱であるな』千晴に付いて、満仲は己にそう言い聞かせていた。
高明邸の庭。館に戻った高明が奥に姿を消すのを見送って、千晴が満仲の方に歩いて来た。
「いやー、いつもながら、大したお勤め振りでござるな、千晴殿。麿には真似が出来ぬわ」
満仲が、愛想良さ気に声を掛ける。
「いや、大納言様は、同じ源氏として満仲殿をいたく頼りにしておられる。麿に出来るのは、雑用くらいですから」
「ご謙遜召さるな。千晴殿の姿が見えぬと、小藤太は何処じゃ、と直ぐ仰せになるほど命を頼りにされておる」
「何の。満仲殿のご指導あってのこと。どうか、今後ともご鞭撻下さい」
高明邸の庭で、ふたりは屈託無さげに笑い合っている。




