第3話 乱を継ぐ者
千方が逃走したと知った満季は直ぐに追っ手を放った。しかし、相模に入られてしまった。こうなると、武蔵守の権限で捕縛することは出来ない。相模守に話を通せば良いのだが、そんなことをしているうちに駿河に抜けられてしまうだろう。取り敢えず数人が跡をつけ、行き先を確かめる段取りをして、他の者達は武蔵に戻る。
満季は悔しがった。忠常が出頭して来ていて、父・忠頼を通じて、豊地を喚問するよう願い出た。あわよくば、この機会に草原を己の影響下に置こうと企んでいるのだ。
『草原には手を出すな』との摂政・兼家の命が有るので、満季は一応兼家の了承を取ることにして、忠常の申し出を退けた。
村岡に戻った忠常は憤懣やる方無い。
「何と言うことだ。千方に逃げられた上に、草原には手を出すなだと? だから、受領など信用出来ぬと申したのだ」
そう喚き散らしているだけなら良いのだが、とばっちりを受けたくは無いと郎等達は思う。
「若、お父上のお立場もお考え下さい。こう言っては何ですが、民を斬ったのはこちらが先、若にお咎めが無かったのは、殿が武蔵介であればこそです。草原のことは、もうお忘れ下さい」
そう宥めようとするのだが、忠常はその郎等をキッと睨んだ。
「貴様、朋輩が殺されて口惜しくは無いのか」
宥めようとする郎等をそう問い詰めて来る。
「それは口惜しゅう御座いますが……」
郎等は『問題はそこでは無いだろう』と思うが、言い返したりしたらとんでもないことになる。
「だが何じゃと申すのか」
忠常は更に突いて来た。
「成り行き上、仕方無いかと」
と郎等は答える。草原の民を斬ってしまったのだから、当然、草原の者達は斬り掛かって来る。その斬り合いに負けたと言うだけの話だ。
「戯け! 下賎の者と村岡の郎等の命、引き換えられるか。引き換えるとすれば、豊地か千方の命じや」
忠常は尚も息巻いている。
「我等の命、そのように思って頂いていることは有り難く思います」
そう答えるしか無い。
「ならば、何か方策を考えろ」
「はっ」
そう言われても、武蔵守から手出しするなと言われている以上、どうしようも無いではないかと郎等は思った。
ひと月程して摂政・兼家から満季に返書が有った。やはり『草原には手を出すなとの沙汰である。但し、千方に付いては、召喚に応じず逃亡したと言うことであれば、武蔵守の面子に掛けて探索し、捕らえよ』と言うものであった。
千方の行方は知れなかった。東海道と言う一本道であるにも関わらず、跡をつけた者達は巻かれてしまった。駿河以降、千方らの姿は掻き消えてしまったのだ。どこかで間道に逸れたとしか考えられない。
報告を受けた満季は、又しても千方にしてやられたことに歯噛みした。あれこれと考えているうちに思い当たったのは、信濃と近江である。
信濃には千常の乱の時関わった、望月貞義が居る。又、近江の甲賀には、千方が上洛する前に立ち寄った望月貞義の伯父・甲賀三郎兼家の舘が有る。『その、どちらかだ』と見当を付けた。
早速双方に細作を放つ。信濃に千方らが現れた形跡は掴めなかった。近江からの報せは、まだ届かなかったが、甲賀に違い無いと睨んだ。何度も煮え湯を飲まされて来た千方の郎等達に加えて甲賀三郎の手の者達も邪魔をするだろう。追っ手には、それなりの人数が必要だ。だが、そんな多くの兵を近江まで派遣する訳には行かない。普通なら摂津の兄・満仲を頼る処だが、何をとち狂ったか、満仲は出家してしまっている。摂政の承認を受けていることなので、こう成ったら正式な申し文を送って、都から検非違使を派遣して貰う外無い。そうすれば、甲賀三郎も大っぴらに千方に味方して戦うことは出来まい。只、それでは、千方を殺すことは出来ず捕らえるのみとなる。吟味の結果、無罪、或いは微罪で済んでしまう可能性が有る。そんなことでは腹の虫が収まらない。満季は、この際、何としても千方を葬りたいのだ。
満季は、前検非違使介である。都から派遣されるのは、恐らく元満季の部下と言うことになるだろう。それが誰か分かれば、ひと工作出来る。武蔵から二十人程の郎等を送り、検非違使と共に行動させる。千方を殺す機会が有れば、検非違使には目を瞑って貰えば済む。そう考えた。
策は整った。後は、千方が甲賀に居ると言う報せが入るのを待って、工作を開始するだけだ。時を無駄にしない為に、鏑木に二十人の郎等を付けて、先に近江に向かわせることとした。
千方は反乱に突き進む道を回避し逃亡した。だが、後年大規模な反乱を引き起こす者が意外な所に居た。将門の妹を母に持つ平忠常である。
かなり先のことではあるが、四十年後の長元元年(千二十八年)、忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなくなっていた。その年の六月、忠常は安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こす。乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊は甚だしかった。
本来、上総国の作田は二万二千町有ったが、乱後、僅かに十八町に減ってしまったと言う。この乱は房総三カ国を疲弊させただけで、外には何も残さなかった。
そして、この乱を平定したのが、源満仲の三男であり、満季の甥に当たる頼信である。乱の鎮圧を切っ掛けに、坂東の兵の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となったのだ。歴史に於いては、正義が勝つ訳ではない。勝った者が正義として名を残して行く。
平忠常の乱は期間に於いて将門の乱を凌ぐものであったが、歴史的評価は低いし、世間の関心も薄い。それは、第一に、大義名分の無い反乱であったこと。第二に大規模な土地の荒廃以外に何も残さない反乱であったこと。そして何よりも、結末がだらしないものであったことが理由であろう。
この乱に因って漁夫の利を得たのは、奇しくも、満仲に寄ってその基礎が築かれていた清和源氏であったと言うことだ。
そんな将来が有るとは夢にも思わず、忠常は、まんまと千方に逃げられた満季を陰で罵倒し、郎等達に当たり散らしていた。




