【1】出会い
空腹で萎んだ腹部に力を入れながら林の中を走る。
目の前の兎を逃したら倒れてしまう。
そんな焦りがわずかに残っていたからか、残った力を振り絞り必死に足を動かしていた。
視界がグラグラと揺れて立っていることすらもままならない。
意識が朦朧としていて、目を閉じたらそのまま気を失ってしまいそうだ。
聞こえる音はすべて遠く感じ、飢えに蝕まれて夜はまともに眠ることができなかった。
精神力も体力もとっくに限界を迎えている。
数日間なにも食べずに暮らしたのは初めてだ。
その上、水も十分に飲めていない。
皮袋に蓄えたわずかな水をここぞという時に摂取した。
その水すらも、もう時期、底をつく。
村を追われて四度日が落ちたが、村や集落は一向に見えてこない。
「……待って」
縋るような思いで呟き、兎に手を伸ばす。
兎との距離は開いていった。
このままでは逃げられてしまう。
この機会を逃したら次の獲物に出会えるのはいつになるだろう。
いや、そんな機会は一生訪れないかもしれない。
せっかく村を出て生き延びたというのに、このままでは空腹で野垂れ死んでしまう。
「止まった」
走るのに疲れたのか、それとも私の思いが通じたのか、兎がピタリと動きを止めた。
もぐもぐと口元を動かしたまま周囲を見回している。
チャンスだ。
ここで捉えることができれば飢えを凌ぐことができる。
服の内側に手を入れて刀を握り、足音を殺して忍び寄る。
兎は辺りを見回すばかりで逃げる気配はない。
一歩。
また一歩と距離を縮める度に、鼓動が激しくなった。
いける。
殺れる。
輪に指を通して持ち手を握り、すっと刀を抜いて振り上げる。
兎が私を見て足を動かしたがもう遅い。
この距離なら仕留めることができるはずだ。
「退いて!」
刀を振った瞬間、甲高い女の声が響き渡った。
脚が縺れて視線の高さがガクンと下がる。
刀が手の内から滑り落ちて、腰にずしりとした痛みが走った。
不意に肩を叩かれたような感覚だ。
恐怖と驚きから心拍が少しだけ速くなっている。
「……痛ぁ」
痛みを抑えようと腰回りに手を当てる。
頭にあった圧迫感がなくなっている。
どうやら転んだ衝撃で帽子が脱げてしまったらしい。
目の前には矢で射られた兎が倒れていた。
見事急所を貫いたようだ。
「ごめんねー驚かせちゃった?」
そんな声と同時に向かいの茂みから女が顔を出した。
背が高く、姿勢も凛としていて美しい。
肩よりわずかに下の位置で切り揃えられた髪がさらりと揺れていた。
清純な見た目とは裏腹に手には弓を携えていて、頬には泥が付着している。
ショートパンツの先からスラリと伸びた細い足にはいくつか痣ができていた。
服に付着した汚れから、彼女も長いことこの林を彷徨っているのだと予測する。
「大丈夫?」
「……はい」
差し出された手を握って立ち上がる。
私と女の視線の高さは頭ひとつ分離れていた。
「はい、これ」
「ありがとう……ございます」
帽子と刀を受け取り小さく頭を縦に振る。
刀を鞘に戻して帽子を被ると、だんだんと冷静さが戻ってきた。
額にぎゅっと力を込めて、通常はそこにないはずの目を閉じる。
「……あの。み、見ました?」
額に手を当てて、恐る恐る女に問う。
「見たってなにが?」
「その、額というか目というか」
言い淀んでしまったのは、それを見た誰しもがきみ悪そうな表情を浮かべるからだった。
まるで呪いのように生まれた時からそこにある。
それを見た人たちは私を化け物だと罵った。
友人からは距離を置かれ、歩いているだけで物を投げつけられたこともある。
村の中には私を悪魔だと呼ぶ人もいた。
私の額には三つ目の眼がついている。
その瞳は見える景色を残酷なものに変えて、人間の醜さをくっきりと写した。
「あぁ」
女は目線を上げて少し考えるそぶりをした後、
「うん。月みたいに綺麗な瞳だった」
笑みを浮かべてそう言った。
「……綺麗?」
「うん。隠しているのがもったいないくらいには綺麗な眼だったよ」
彼女の声音からその言葉が社交辞令ではないことがわかった。
女が後ろで手を組んだまま、一歩前に足を踏み出した。
ニヤリと笑いながら私の顔を覗き込む。
その表情からは今まで散々向けられた嘲笑は感じられない。
ただ反応に困っている私を見て楽しんでいる様子だった。
「ところであなた、名前は?」
女の青色の綺麗な瞳に私の顔が映り込む。
「……アイ。アイ・ルラレド」
帽子を深く被り、逃げるように視線を背ける。
大切な名前だが好きになることができず、自己紹介をするたびに笑われないかと不安な気持ちになった。
「珍しい名前だね」
「お母さんがつけてくれたんです」
まさかアイと名付けた子供がこんな見た目で生まれてくるとは思ってもいなかっただろう。
「そっちじゃないよ。ルラレドの方。初めて聞いた」
「そうなんですか……?」
私が首を傾げると、女は笑みを浮かべてリズムよく首を上下させた。
たしかに同じ姓を持つ人には出会ったことがなかったが、それほど珍しいとも感じていなかった。
「……あなたの名前は?」
「あたし? あたしの名前は……」
女が視線を下げて口籠る。
「アン。子供の頃はよくアンハッピーのアンって言われてた」
「なんですか、それ」
「あたしといるとみんな不幸になるの。凄いでしょ」
いたって真面目な表情でアンが言う。
「不幸?」
「うん。深く関わった人には必ず不幸が訪れるの。
ママが死んだのも育ててくれたおばさんが仕事を失ったのもぜんぶアタシのせい。
周りにいた人の人生には必ず酷いことが起こるんだ」
「不思議な話ですね」
「だからアイも不幸になっちゃうかも」
アンがこちらを試すように不適な笑みを浮かべる。
「……そっか。いいですね、不幸」
そんな彼女の意に反して、私の中に恐怖は現れなかった。
むしろその言葉に頼もしさすら感じている。
同じように私にも不幸が訪れれば、この醜く汚い世界と縁を切ることができる。
そんな期待さえ芽生えていた。
「なに? アイって見た目によらず変な子?」
「そうじゃないです。でもいいと思います。
不幸。私、この世界が嫌いだから。
それに幸せよりも不幸の方が居心地いいですし」
被害者でいる限り物事を深刻に考えなくていい。
間違っているのも卑怯なのも世界の方だ。
そう自分に言い聞かせて私は生きてきた。
「やっぱり変な子だね」
「変じゃないですよ。私は真剣に––––––––」
「いいね。あなたみたいな面白い人好き。仲良くなれそう」
アンが手を差し出す。
動揺しながらも手を握ると、アンはクシャッと笑って見せた。
心臓がどきりと跳ね上がる。
三つ目の瞳を見ても気味悪がらず、仲良くなれると言ってくれた人は初めてだった。
少しの嘲りも含まれていない純粋な笑みが輝いて見える。
掴みどころがないその性格がなぜだかとても心地よかった。




