第一章 二本の木刀 ――始まりは、いつも静かだった
朝の境内は、いつも通り静かだった。
どこまでも綺麗に澄んだ青空。
どこでもある、穏やかな景色の中で、
今日も変わらない日を過ごしていた少女がいた。
少女の名は、御堂千昌。
少し変わった家庭に生まれた少女は、いつものように弟の部屋へ向かう。
「隼、いつまで寝てるの! 学校、遅れるわよ!」
朝が弱い弟、御堂隼人を起こすため、
部屋の扉を開ける。
「うるさいなぁ、千昌。もう少し寝させてよぉ」
いつものように、弟は二度寝を決め込む。
それもまた、当たり前の日常だった。
「あんたねぇ。今日は大事な日だって、分かってるでしょ。
さっさと起きて、支度しなさい!」
何気ない日常の中の、大事な日。
今日は……、母の命日だった。
朝に特別なことをするわけではない。
ただ、
その日だけは必ず仏壇に手を合わせ、
自分たちが元気でいることを報告する。
それが、この家の変わらない日課だった。
千昌と弟の隼人は、
いつものように並んでそっと座り、
静かに微笑み、
仏壇を見つめた。
「お母さん、見てくれてるかな。
私たちは元気だよ。
隼は最近ね、すごく剣術が上達してるんだよ。
ちょっと天狗になってるけど。」
「なんだよ、それ自慢か?
……それは千昌の方だろ」
二人は、
まるでこの場に母がいるかのように言葉を交わす。
何気ない会話が終わると、
千昌が仏壇に向かって、静かに話した。
「じゃあ、またね。お母さん。
今日も学校に行ってくるね。」
二人は笑顔を浮かべ、
そのまま仏壇から離れた。
玄関を後にし、見慣れた境内を背にして、
二人は学校へ向かった。
心地よい風が、
二人を包み込むように吹き抜けていく——
見慣れた境内を足早に歩き、千昌が声をかけた。
「隼、今日は模擬戦で鍛錬するから、
早く帰ってきなさいよ!」
隼人は、不服そうに顔をしかめて答える。
「えぇ、やだよ。
千昌、強すぎるからさ。
全然、勝負にならないし……」
「そんなこと言ってたら、
いつまで経っても強くなれないわよ」
「今の時代、
剣術なんて強くなっても意味ないよ。」
「文句言わない。
意味がないなんてこと……ないわよ。」
千昌は、どこか意味を含んだように言った。
「……はいはい、分かったよ。
学校が終わったら、いつもの境内だね」
隼人は、どこか理解しているかのように答えた。
いつもの学校での学び。
同級生や親友との、何気ないやり取り。
そうして今日も、変わらない日が過ぎていった。
日が暮れ始める頃、
隼人は急ぎ足で、
いつもの境内へと向かった。
境内には、
既に私服に着替えた千昌の姿があった。
暮れゆく太陽を眺めながら、
静かに隼人が来るのを待っていた。
「隼! 遅いわよ、もう。……準備はいい?
始めるわよ」
「ごめん。用があるって言ってたのに、
信二のやつがさ、
なかなか離してくれなくて……。
ま、走って帰ってきたから、
準備運動はもう済んでるよ」
「そう……、なら構えなさい!」
二人は、互いに一度、深く息を整えた。
そして、長年使い慣れた木刀を、
ゆっくりと構える。
一呼吸する刹那、隼人は思う。
——今日こそ……越える。
強い意思とともに、剣を仕掛けた。
しかし、その想いとは裏腹に、二撃、三撃。
千昌は、
まるで流れる水のように、
軽やかにいなした。
「隼、強くなったわね。
でも、その太刀筋では、私には届かないわよ」
千昌は強かった。
父に教わった剣術。
そして母から学んだ弓術が育てた、冷静な判断力。
それらが一体となり、隼人の剣を瞬く間に弾く。
——カンッ。
強い衝撃音と共に、木刀の先が折れる。
ダメだ……やっぱり、千昌は強い。
千昌を越えるには——……っ。
——ここだ。
いつも圧倒する千昌。
だが、剣を弾いた、その一瞬。
気が緩んだ、ほんの僅かな隙。
隼人は、強く地を蹴り、
——折れた木刀を全身で振り抜いた。
「えっ——速……!」
千昌の反応速度を、わずかに凌駕する一撃が、
その身を捉えかける。
——が。
かろうじで受け流すと、隼人は足が縺れ、転んだ。
千昌は即座に無防備の隼人に木刀を振り下ろす。
当たる寸前で止められた木刀が、勝敗を決めた。
「……まだまだね。もっと鍛練しなさい」
そう言いながら、千昌は、衝突で痺れた腕を、
そっと背に隠した。
「また負けたぁ。やっぱ、千昌は強すぎだよ」
隼人の素直な言葉を聞き、千昌の胸の奥で、かすかな喜びと
あの刹那で起きた動きに、不安が静かによぎっていた。
模擬戦を終えた二人は、
静かにと沈んでいく夕空を、並んで眺めていた。
「昔はここで、父さんに教わりながら鍛練してたよね」
千昌が、静かに口を開く。
「隼が教わる頃には、母さん……
座ってるのがやっとだったけど、
それでも、すごく優しかった……」
「うん」
隼人は、小さくうなずく。
「あんな状態だったのに、
ほんとに優しかったよな。
だからさ……千昌」
一瞬、言葉を区切ってから、少し強めに続けた。
「母さんみたいに、隠し事はするなよ。
無理は……絶対するな」
その言葉に、千昌は何も返さなかった。
ただ、沈みゆく空を見つめたまま、静かに息を吐く。
——いつかは、
隼人は、その背中を見つめながら、
まだ言葉にならない誓いを、胸の奥でそっと立てた。
「……冷えてきたし」
千昌が、いつもの調子に戻って言う。
「そろそろ、家に戻ろっか」
その声に、隼人は家の方へ軽く走り出す。
「今日はご馳走なんだろ? 置いていくぞー!」
「もう、焦らないの。ご飯は逃げないわよ」
無邪気なやり取りの中、
冷たい風とともに、
その日の時間は、静かに更けていった。
境内から家へと続く道の途中に、
ひときわ大きな岩があった。
見た目は、ただの岩。
どこへ行く時も、毎日嫌でも目に入る、
何の変哲もない岩だ。
二人は、いつものようにその岩の前を通り、
何事もなく帰路につく。
——けれど、その日だけは。
なぜか、千昌は足を止めかけた。
理由は分からない。
ただ、不思議とその岩に、
「見守られている」ような感覚があった。
「……どうした?」
隼人の声に、千昌ははっと我に返る。
「ううん、何でもない」
そう言って、歩き出す。
その岩が、
二人の運命の始まりであり、
終わりでもあることを、
——まだ誰も知らなかった。
そして二人は、
いつもと変わらない帰り道を、
家へと向かった——。
「おぉ、今日は思い描いてた通りのご馳走だぁ」
こういう時だけは、息がぴったり合う。
「「いただきます」」
祖父の作った料理を頬張りながら、
何気ない会話を交わし、
やがて食卓は静かに片付けられていった。
食事を終えると、順に風呂へ入り、
それぞれの部屋へ戻る。
一日の疲れを、
いつも通りの静けさの中で癒していく。
千昌は布団に横になり、
目を閉じる。
優しかった母の面影を思い浮かべながら——
その夜は、
何事も起こらないまま、
静かに更けていった。
翌朝、朝早くに千昌は目を覚ました。
昨日の模擬戦で疲れていたはずなのに、
身体は不思議なほど軽く、調子がいい。
「……お母さんのおかげかな」
そう感じながら、
余裕をもって、いつも通り学校の準備を始める。
すると、珍しく隼人も部屋から出てきた。
「隼がこんなに早く起きるなんて珍しいじゃない。
槍でも降るんじゃないの?」
千昌がそう言うと、
隼人は首をかしげながら答えた。
「なんかさ、身体が軽いんだよ。
おかげで自然に起きた。」
二人は、同じ感覚を覚えていた。
——その時だった。
キィィッ、という鋭いブレーキ音。
直後、地面が揺れた。
「きゃっ……なに?」
千昌が思わず声を上げる。
「今の音……
あの岩の方からじゃないか?」
隼人は一瞬だけ迷い、
「……ちょっと、様子を見てくる」
隼人は答えず、そのまま家を飛び出した。
「待ちなさい! 私も行く!」
千昌も、嫌な胸騒ぎを振り払えないまま、
すぐ後を追った。
先に出た隼人は、玄関先にたどり着くなり、
景色を見て唖然とした。
「……なんだよ、これ……」
そこには、いつもの景色の所々の空間が歪んで見えていた。
直感で、これは“ヤバい”と感じる。
「隼、どうしたの……えっ……」
すぐに追いついた千昌も、その光景を目にして言葉を失った。
だが、千昌はすぐに冷静さを取り戻し、周囲を見渡す。
(これは……どこにいても巻き込まれる。
この歪みの感覚……あの岩の方から広がってる
……行くしかない!)
千昌は決断した。
「隼、私は境内の、歪みが弱そうな空間を抜けて岩を見てくる。
隼は、岩から出来るだけ離れなさい!」
「なに言ってるんだよ!
千昌がすごいのは知ってるけど、
こんなのどうにかなるわけないだろ!」
「いいから、言うことを聞きなさい!
すぐに、ここから離れるのよ!」
そう言い残し、千昌は比較的安全そうに見える空間を抜け、
岩の方へ向かった。
――しかし。
思っていたイメージとは違い、空間に亀裂が走る。
(しまっ……これはマズい。
亀裂に……吸い込まれる……)
千昌は冷静に動いたつもりだった。
だが、人智を超えた現象は、無情にも彼女に牙をむいた。
「……うそ……だろ……姉貴――!!」
その瞬間、隼人は考えるよりも先に身体を動かしていた。
あり得ない速さで駆け出し、千昌の元へ飛び込む。
勢いのまま、千昌を引き上げた。
「えっ……隼……?」
千昌が空間から抜け出した、その反動で、
今度は隼人が引き込まれていく。
「くっ……ダメ! 隼!!」
千昌は必死に隼人の手を掴み、引き戻そうとする。
だが、引き戻せない。
(ダメ……このままじゃ、私まで一緒に……)
「姉貴……いつも、言うこと聞かなくて……ごめん」
「何、謝ってるのよ!!
今、引き戻すから!!」
「……本当に、ごめん。
でも……姉貴だけは……無事に逃げて!」
そう叫ぶと、隼人は――
自ら、千昌の手を離した。
「……うそ……嫌……隼……隼人――!!」
(姉貴……ごめん。)
隼人の姿は、空間の暗闇に飲み込まれ、消えた。
「隼人! 隼人ー!」
その姿を見た祖父、恒一が駆け寄り、必死に千昌を止める。
「だめじゃ! もう届かない! ここから逃げるぞ!」
祖父は千昌の腕を掴み、無理やり引き戻した。
「……嫌……嫌だ……隼人……」
その光景から逃げるように、
——千昌の意識は闇に沈んだ。




