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木漏れ日のカフェで、もう一度

作者: 久遠 睦

第一章 静かな心のさざなみ


朝の光がリビングに満ちる。それが、一日が始まる合図だった。 「ママ、お弁当ありがとう!」 小学一年生の息子、そらが元気な声でランドセルを揺らす。夫の健司は「行ってきます」と優しく微笑み、由美ゆみの肩を軽く叩いた。 「いってらっしゃい。二人とも、気をつけてね」 玄関のドアが閉まり、家の中に静寂が戻る。明るく、あたたかい、誰もが羨むような家庭。33歳の由美にとって、この穏やかな日常は宝物だった。けれど、その宝箱の隅で、何かが少しずつ色褪せていくような、漠然とした焦りが胸を占めるようになっていた。

家族を送り出した後の時間は、由美だけのもの。しかし、その時間はいつからか、ため息と無力感で満たされるようになっていた。パソコンを開き、求人サイトを眺めるのが日課だ。画面には無数の仕事が並んでいるが、そのどれもが由美を拒んでいるように見える。正社員の募集は、数年のブランクがある彼女には縁遠い世界。パートの求人に絞っても、見えない壁が立ちはだかっていた。

昨日も、近所のスーパーの面接で落とされたばかりだ。丁寧な言葉遣いの裏で、面接官の目は「子供が小さいと、急に休まれたりして困るんですよね」と語っていた。夏休みや冬休みはどうするのか、子供が熱を出したら誰が見るのか。その質問の一つひとつが、母親であるという事実が、社会ではリスクとして扱われるのだと突きつけてくる 。

「子供が小さいと、難しい」

何度も言われ、何度も心の中で反芻した言葉。それは社会からの拒絶であると同時に、由美自身の自信を少しずつ削り取っていくやすりのようだった。専業主婦として過ごした数年間で、世の中はすっかり変わってしまったのではないか。パソコンのスキルも、ビジネスマナーも、もう通用しないのではないか 。家事と育児は完璧にこなせても、社会では何の評価にもならない。誰にも認められない労働を繰り返すうちに、かつて仕事にやりがいを感じていた自分は、どこか遠い場所に消えてしまったようだった。

この壁は、社会が作ったものなのか。それとも、自分自身が作り出してしまったものなのか。答えの出ない問いが、静かな部屋に重く響いた。


第二章 開かれた扉


いつものように、希望のないスクロールを続けていたある日の午後。小さな広告が、ふと由美の目に留まった。個人経営らしきカフェの、控えめなスタッフ募集。時給や勤務地よりも先に、ある一文が彼女の心を捉えた。

「お子さんが小さくても大丈夫です。勤務時間、ご相談ください」

その言葉は、まるで由美個人に語りかけているかのようだった。ブランクを問いません、と書かれた求人は他にもあったが、ここまで温かく、明確に寄り添ってくれる言葉は初めてだった 。吸い寄せられるようにクリックすると、素朴だが美しいウェブサイトが現れた。

カフェの名前は『こもれび』。 サイトに並ぶ写真には、古い民家を改装したであろう、木のぬくもりに満ちた空間が写っていた 。大きな窓から差し込む陽光が、 mismatched な椅子やテーブルを優しく照らし、穏やかな空気感を醸し出している 。メニューには、季節の野菜をふんだんに使った「Vegeプレート」や、手作りのフルーツタルト、ガトーショコラが並び、添えられた可愛らしい食器が目を引いた 。駅からは少し歩く、住宅街にひっそりと佇む隠れ家のようなカフェ 。

「ダメでもともとだよね……」 由美は自分に言い聞かせ、震える指で応募フォームに情報を打ち込んだ。どうせまた、面接で同じ質問をされて終わるのだ。そう思いながらも、心のどこかで小さな希望の芽が顔を出すのを止められなかった。

数日後、面接のために訪れた『こもれび』は、写真で見た以上に素敵な場所だった。ドアを開けると、コーヒーの香ばしい匂いと、焼きたてのケーキの甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。 「いらっしゃいませ。お待ちしていました」 カウンターの奥から現れたのは、快活な笑顔が印象的な40代前半の女性だった。オーナーの灯里あかりさんだった。

面接は、これまで経験したものとは全く違った。それは尋問ではなく、対話だった。灯里さんは、由美の経歴よりも、彼女の不安や葛藤に耳を傾けた。 「私もね、下の子が小学生になるまで、どこも雇ってくれなかったのよ」 灯里さんは、自身の過去を笑いながら話してくれた。子供が小さいという理由だけで社会から断絶される悔しさ。自分の力で何かを成し遂げたいという焦り。それは、まさに由美が今、感じていることそのものだった 。

灯里さんは、自分と同じような思いをしている女性が、安心して働ける場所を作りたかったのだという。資金繰りの苦労や、お客様が来ない日々の不安を乗り越えて、このカフェをオープンしたこと 。だから『こもれび』の採用基準は、スキルや経験だけではない。「もう一度、頑張りたい」という気持ちを何よりも大切にしているのだと。

由美は、この数ヶ月で初めて、自分の弱さや不安を正直に打ち明けていた。灯里さんの共感に満ちた眼差しに、張り詰めていた心の糸が、ふっと緩むのを感じた。 「採用です。一緒に、このお店を盛り上げていきましょう」 その場で告げられた言葉に、由美は自分の耳を疑った。自分を雇ってくれたのは、ただの偶然ではない。灯里さんが過去の自分と同じ痛みを知り、その痛みからこの場所を創り上げたからこそ、今の自分を見つけてくれたのだ。それは、世界を変えようとする、小さな、しかし確かな意志の連鎖のように思えた。


第三章 新しい始まりの香り


初出勤の日。緊張でこわばる体で『こもれび』のドアを開けると、灯里さんと二人のパート仲間が笑顔で迎えてくれた。お店は灯里さんとパート3人の計4人で回し、基本はオーナーとパート一人の二人体制だという。

その日は、情報の嵐だった。 覚えるべきことは、山のようだった。ドリンクやフードのメニュー、その材料、アレルギー表示。注文を受けるためのPOSレジの操作。そして、カウンターの奥で威圧的な存在感を放つエスプレッソマシン 。灯里さんが手本を見せてくれるが、豆を挽き、タンピングし、ショットを抽出する一連の流れは、まるで魔法のように複雑に見えた。

ランチタイムのピークは、まさに戦場だった。次々と入る注文、鳴り響く伝票のプリンター音。由美は頭が真っ白になり、簡単なオーダーミスをしたり、お客様を待たせてしまったりした。そのたびに灯里さんが冷静にフォローしてくれるが、自分の不甲斐なさに落ち込むばかりだった。

一日が終わり、家にたどり着いた時には、心も体もぐったりと疲れ果てていた。足は棒のように痛み、頭の中ではメニューとレジの操作がぐるぐると回っている。「私に、本当にできるんだろうか」。あの壁の内側に戻ってしまったような、弱気な自分が顔を出す。

「おかえり。大変だった?」 リビングに入ると、健司が夕食の準備をしながら迎えてくれた。空はもうお風呂を済ませ、宿題をしている。夫のその行動が、言葉だけの「お疲れ様」よりもずっと心に沁みた。仕事と家庭の両立には、見守るだけでなく、共に担うパートナーの存在が不可欠なのだと、この時ほど強く感じたことはなかった 。

食卓で、由美は今日の失敗談をぽつりぽつりと話した。健司は黙って耳を傾け、すべてを話し終えた由美に言った。 「初日なんだから、当たり前だよ。新しいことを始めるって、そういうことだろ。由美が挑戦してること、すごいって思うよ」

その夜、由美は久しぶりに深く眠った。体の疲れは、心地よい疲労感に変わっていた。それは、専業主婦の日常にはなかった、心と体を使い果たした証だった。エスプレッソマシンの蒸気が上がる「シュー」という音、焼きたてのキッシュの香ばしい匂い、お客様の笑い声。五感がフル稼働した一日の記憶は、疲労と共に、確かな充実感を運んできていた。この痛みは、停滞していた自分が再び動き出した証なのだ。


第四章 自分のリズムを見つけて


日々は、小さな成功体験の積み重ねだった。 最初は恐怖の対象でしかなかったエスプレッソマシンから、初めて安定したクレマのあるショットを抽出できた日。スチームミルクの泡立てに成功し、ぎこちないながらもラテの表面にハートを描けた日。灯里さんからの「上手になったね!」という一言が、かつて会社で受けたどんな評価よりも嬉しかった 。

ある日、灯里さんが急な電話で席を外した隙に、ランチのピークが訪れた。一人で注文を取り、ドリンクを作り、料理を運ぶ。パニックになりそうだったが、体が自然に動いた。気づけば、混乱もなくピークを乗り切っていた。戻ってきた灯里さんに褒められた時、由美は確かな自信が芽生えるのを感じた。

仕事に慣れるにつれ、由美は働くことの純粋な喜び、やりがいを見出していった 。カウンターをピカピカに磨き上げた時の達成感。常連のお客様の顔といつもの注文を覚え、「ありがとう、由美さん」と名前で呼ばれた時の温かい気持ち。誰かのために、美味しいものと心地よい時間を提供する。そのシンプルな行為が、由美の心を豊かに満たしていった。

パートで得られる収入は、家計を劇的に潤すほどではない。けれど、自分で稼いだお金で好きな本を買ったり、家族にささやかなプレゼントをしたりできることが、由美に精神的な自立と誇りを与えてくれた。

家庭の空気も、明らかに変わった。由美が外の世界を持つことで、家族の会話は豊かになった。健司と仕事の話を共有し、空は「カフェのママ、かっこいい!」と目を輝かせる。家にいる時間が短くなった分、家族と過ごす一瞬一瞬が、より愛おしく、かけがえのないものに感じられた。自分の人生が充実しているからこそ、母親として、妻として、より優しく、大らかでいられる。それは、由美にとって大きな発見だった 。


第五章 満開のとき


季節がひと回りした頃、由美はすっかり『こもれび』に欠かせない存在になっていた。 新しく入ってきた年下のパートスタッフに、由美はかつて灯里さんが自分にしてくれたように、根気強く仕事を教えていた。焦る彼女に「大丈夫、私も最初はそうだったから」と声をかける自分に、少し驚く。優しさと共感は、受け取った人から次の人へと手渡されていくものなのだ。

ある晴れた休日、健司と空がサプライズでお店にやってきた。 カウンターの中で、常連客と楽しそうに笑いながら、手際よくカフェラテを作る由美の姿。それは、健司がしばらく見ていなかった、生き生きとした輝きに満ちた表情だった。 「あれ、ママだよ!」 空が誇らしげに、隣の席の客に指をさす。健司は、そんな息子と妻の姿を、深い愛情と少しの誇らしさを込めて見つめていた。彼女が再び輝きを取り戻せたのは、彼女自身の力だが、その挑戦を支えることができた自分たちの家族のあり方を、彼は誇りに思った。

その日の営業が終わり、一人で後片付けをする。西日が大きな窓から差し込み、店内の埃をきらきらと光らせる。まさに「木漏れ日」のような光景だった。

由美は、この一年を静かに振り返る。 社会という壁に怯え、自分の価値を見失いかけていた日々。小さな広告から始まった、ささやかな挑戦。それは、失った自分を取り戻すための旅だと思っていた。でも、違った。新しい自分に出会い、世界を広げるための旅だったのだ。

仕事も、家庭も、自分自身も。何かを手に入れるために何かを諦めるのではなく、すべてが繋がって、自分の世界をより大きく、より豊かにしてくれる。

カウンターを拭く布を止め、由美は窓の外に広がる夕暮れの空を見上げた。胸に満ちるのは、穏やかで、確かな幸福感。

木漏れ日のカフェで、由美の人生は、もう一度、色鮮やかに花開いた。


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