第23話 「暴風の前触れと、心の籠もる決断」
秋の風が、森の縁を鋭く吹き抜けた。葉は舞い、遠くの空には低い雲が渦を描く。そんなある朝、カフェ「癒しの香」に差し込む陽の光は、いつもより細く、重たく感じられた。評議会が形になり、最初の研究段階も始まった――だが、その分だけ外部の関心は鋭く、村を取り巻く空気は次第に張り詰めていく。
橘花は朝いちばんに水をくみ、鉢の葉先を一枚ずつ確かめながら気配を探った。メイは看板の周りを掃き、ルークは静かに村の巡回に出る準備をしている。リーウは評議会の次回提出資料を校正中で眠れぬ夜を重ねていた。みな、それぞれに「来るべき嵐」を覚悟していた。
午前、森の道に一台の荷車が止まった。銀の秤商会の標章は見当たらないが、服装や物腰からただ者ではない気配が漂う。荷車の主は厚手の書簡を何枚も抱え、村長を名乗って話を求めた。
「王都からの申し入れです。評議会の協議案に対して、王都高位の一行が直接の会談を望んでいます。彼らは『国家的見地からの最終方針』を示すと申します――村の意志を尊重する、とも言っていますが、相応の報償と引き替えで、綴の取り扱いを一元化する提案も持参しています」
村長の顔が曇る。報償は魅力的だ。生活の補助、医療資金、村の基盤整備。しかしその「対価」が意味することは、綴の管理権や運用方向を王都の枠組みに寄せること――評価や運用の独立性が失われる危険をはらんでいる。リーウは書簡に目を通し、眉を寄せる。
「直接の会談……評議会を通じてではなく?」リーウの声は低かった。
「そうです。彼らは既に複数の評議会メンバーと接触しており、内通者を作る算段だという報告もあります」村長は慎重に言った。
橘花は瞬間、胸の奥が締めつけられた。外部の権力が“あたたかい言葉”を掲げて近づくとき、どんな顔であろうと、それはいつだって選択を奪う誘惑を含んでいる。評議会の折衝を通じて築いた「共有の守り」を、簡単に手放すわけにはいかない。
昼下がり、評議会の代表と村の主要メンバーが集まって臨時会議が開かれた。カイン教授やセレノ神官長は王都の“使者”と会う価値について意見を述べる。エレアン伯爵夫人は「会うこと自体は外交だ」と言うが、同行者の選定や条件を厳しくするべきだと提案した。
橘花は静かに聞きながら、最後に口を開いた。
「会うこと自体を否定はしません。対話は必要です。だけど“誰が、何を、どの場で”話すかが重要です。評議会で合意した『共同監査』『透明性』『村代表の同席』が守られない場で単独会談をするなら、それは交渉ではなく譲歩に等しい」
結は頷き、リーウは書類を整えて次のように提案した。
「王都側と会うなら、我々の条件を文書で提出し、守られないなら会談は行わない。相手がそれを受け入れないなら、我々は評議会を通じて法的措置も含めた対応を取る」
皆が合意し、王都側に公開の場での協議を求める書簡が送られた。だが送付とほぼ同時に、カフェの外に聞き覚えのある足音がした。メイが窓の外を見ると、シルヴィアが駆け込んできた。顔は青ざめ、息を切らしている。
「橘花さん! やっぱり……やっぱり商会が動いてます。私の前に、再び人が来て『王都側に働きかけてくれるように』と圧力をかけられました。私は断りました。でも、その夜、誰かが……」シルヴィアは言葉を詰まらせる。
彼女は勇気を振り絞って続けた。
「昨夜、村外の道で小さな焚き火を見たんです。近づいたら、商会の下働きの中に、評議会に有利な方向に動くような噂を垂らす人物がいました。目的は人の気持ちを揺さぶること、村の合意を割ること。私、黙っていられなくて、相手に詰め寄ったら逃げられて……」
橘花は黙ってシルヴィアの手を取り、メイは無言で肩を抱いた。ルークはすぐさま外へ飛び出して不審者の形跡を探しに行った。村の空気は一気に緊迫し、誰もが「暴風の前触れ」を肌で感じた。
その夜、評議会は夜通しの協議を行った。王都側の提案と商会の影、偽情報の拡散、村人たちの不安。議論は感情を帯び、時に激しくぶつかる。カイン教授は学術の価値を訴え、セレノは人の尊厳を守るべきだと主張する。エレアン夫人は外交的解決を望みつつ、外圧に屈しないための方策を練る。
橘花はひとり、窓辺で熱い茶を飲みながら考えた。前世の自分――朝も夜も働いて、声を持たぬまま消えていったあの日々。あのときの絶望が、もし彼女を追っていたなら、それは今ここで「人の意思が踏みにじられる場面」だ。彼女は目を閉じ、心の底の静けさを探した。答えは外にあるのではなく、ここにある。小さな日常と、そこから生まれる確かな信頼だ。
やがて彼女は立ち上がり、評議会の席で静かに話した。
「私たちは守るためにここにいます。守るとは、綴を箱に閉じ込めることだけではない。人々が選び、痛みと向き合うための権利を守ることです。王都が良い意図を持って来るなら――条件を厳格にして公開の場で会いましょう。だけど、もし相手が裏で別の力と繋がって、村を分断しようとするなら、私たちは断固として拒絶します」
リーウが補足した。
「我々は文書を整え、王都代表と公開でやり取りする。もし彼らが条件を呑まないなら、評議会と学術・教会の署名入りで王都に公開の抗議を掲げる。情報は我々の側から先に出し、偽情報の空間を塗り替えるのです」
結は短く囁いた。
「そして、村の力を示すために、共同の行事を開催しましょう。人々が顔を合わせ、声を出す。連帯は紙よりも強い」
皆が同意し、翌日には村全体で「綴の守りの集い」を催すことが決まった。準備は急だったが、村人たちは結束して旗を立て、鍋を囲み、歌を練習した。小さな子どもたちも含め、誰もが集えば声を上げることができる――それが最も原初的な防御なのだと、橘花は確信した。
集いの当日、村は賑わい、広場には人が溢れた。鍛冶屋の夫婦が祭壇代わりの小さな台を作り、年配者が古い歌を唱え、子どもたちは手に小さな旗を持って行進した。メイは橘花の隣で歌詞を静かに囁き、ルークは背後で警戒を緩めずにいる。評議会の代表たちも並び、集いはひとつの声明のように村の意思を外へ向けて示した。
集いの最後に、橘花は皆の前で話した。言葉は平易だが力強く、村人の声がその後に続いた。
「綴は私たちのものでもあり、誰かの痛みを扱うための道具でもあります。私たちはそれを売り物にはしません。私たちは、選ぶ権利と、選んだ後に支え合う責任を守ります。どこから来ようと、その約束を壊すことは許しません」
その場にいた人々は口々に承諾の声を上げ、集いは大きな拍手で締めくくられた。広場の拍手は、王都にも届くような力を持っているとは限らない。だがそれは確実に、村の内側からの「盾」になった。
夜、橘花はメイと二人で片づけをしながら話した。メイの目はまだ熱い。
「橘花さん、私は怖かった。でも、みんなと一緒に声を出したら、少し安心したよ」
橘花は小さく笑って言った。
「声は力よ。そして声は、共有するともっと強くなる。だけどこれからも、私たちは一つの決断をし続けなきゃいけない」
その決断は、評議会の運用を守り抜くこと、偽情報に対抗する情報発信を続けること、そして個々の痛みと向き合う選択肢を絶やさないこと――それらを日々選び取ることだった。暴風は去ったわけではない。だが村は嵐に立ち向かうための器を少しずつ養っていた。
数日後、王都からの正式な返答が届いた。書簡には「公開会談の希望と、我々の側でも透明性を担保する用意あり」とある。しかし同時に、書簡の裏には「綴の価値を国益として検討する」旨の注書も見えた。王都の姿勢は表向きは柔らかく、だがその奥には国家規模の思惑が見え隠れする。
橘花は封を握りしめ、深く息をついた。選択は続く。だが今は一つだけ確かな気持ちがあった――自分は小さなカフェで湯を沸かし、目の前の人に寄り添い続けることをやめないと。そこから先に広がる道は、仲間と評議会と村の声で切り拓いていくのだ、と。
窓の外、森の影が揺れる。暴風はいつか来るかもしれないが、村はもう以前のような孤独な小屋ではない。評議会という新しい網が風に耐えるために編まれ、村の声は一つに纏わりつつある。橘花は湯気の立つカップを両手で包み、静かに天を仰いだ。
「さあ、またお茶を淹れよう。明日も誰かが来るはずだから」
その声は、森に柔らかく落ち着く。嵐の前触れはあっても、人の心の籠もった決断は村を守る小さな灯となって確かに輝いていた。




