第22話 「搬出の夜、そして守りの証」
評議会の合意のもと、最初の「段階的パイロット研究」がいよいよ始まる夜が近づいていた。外は冬の端の冷たさを含んだ空気で、森の葉は静かに震えている。橘花はカフェの灯を低めにし、いつもの茶葉と道具を整えながら、胸の奥で重く澄んだ緊張を感じていた。
「今日、搬出が行われるのね……」メイが震える声で言う。手のひらを擦り合わせるその姿に、橘花はそっと笑いかける。
「ええ。けれど私は、ここにいる人たちの声が届くことがもっとも大事だと思う。それを守るために、私たちは準備をしてきた」
ルークは玄関の鍵を何度も確かめながら答えた。外の見張りは倍増し、夜間の巡回ルートも再確認されている。リーウは王都派遣の学者チームと連絡を取りつつ、計測用の器具や記録媒体の配置を最終チェックしている。結は古い儀式の節を静かに繰り返し、地域の代表たちと最後の打ち合わせを行っていた。
今回の搬出は、評議会が定めた条件に従い「最小単位」で行われる。綴から取り出される断片は、護貝に保護され学術用の包みに封印される。搬出には村代表一名、学術局の監査官一名、教会の監視官一名、そして評議会の中立監察官が付き添う。さらに、搬出前後のあらゆる作業は公開アーカイブ用に記録され、個人情報は匿名化される取り決めだ。
だが何より慎重を要したのは“被験者”の選び方だ。村では数週間にわたる説明会とカウンセリングを経て、希望者の中から志願制で慎重に選定した。最初の被験者として挙がったのは、近郊の製材所で働く若い父、サイムであった。彼は継続的な疼痛と、幼い娘の火傷事故の記憶に苦しみ、日常生活に支障を来していた。彼自身が「もしリスクを知った上で軽くなれるなら試したい」と申し出たのだ。
「私は、自分の娘のことは忘れたくない。ただ、火の匂いと音が四六時中ついてくる。仕事もできなくて、家族に迷惑をかけている。娘を思い出せなくなるのは怖いけれど、今のままだと娘にも笑顔を見せられないんです」サイムはそう語り、木工の荒い手を見せながら固く頷いた。
橘花はサイムの手を取り、優しく言った。
「あなたの選択を尊重します。私たちはあなたをひとりにはしません。もし何かあれば、全員で補助します」
その日の夕刻、共同監査チームが到着した。カイン教授を中心に、王都から派遣された中立監察官と数名の研究者、そして教会の監視官、評議会事務局の職員が揃う。みな疲れた表情だが、表情の端に覚悟がある。イザークは今回も証人として同行し、外部の圧力を見張る役を買って出た。
「全ては公開記録に残します。透明性が最良の防御です」リーウが穏やかに告げ、機材のスイッチが一つずつ入る。録音機、象徴的な映像機材、そして生体の簡易測定器……村の古い会堂の一室が、静かに実験室へと変わっていった。
夜が深まる前、結の主導で「守りの式」が執り行われた。村人たちが外周に並び、古い歌の節を低く歌う。歌は「過去を抱き、未来を共に紡ぐ」ことを唱う内容で、綴を扱う際の「共同の誓い」を改めて確認する儀式だ。儀式の最中、橘花はふと自分がこの村とどれほど繋がっているかを噛みしめた。ここで交わされた声と顔が、あらゆる法的書面よりも強い証だと感じる。
やがて搬出の時刻が来た。綴の保管箱は慎重に開かれ、学者の手によって保護フィルムに包まれた断片が提示される。断片は思ったよりも小さく、破れた巻紙のかけらに近かった。表面には淡い染みと、いくつかの筆記が残るのみだ。それでも、その断片が持つ重みは皆の胸にずっしりと伝わる。
「こちらが搬出対象の断片です。私たちはこれを王都の研究所で精密分析します。分析により、作用のメカニズムの手がかりを得られるかもしれません。だが本実験は、人体に直接何かを施すものではなく、まずは文献の照合と化学的成分解析から始めます」カイン教授が説明する。だがその後に続くのは、サイム本人の同意の確認だ。既に文書での同意は得ているが、手続きに則り最後の口頭確認と第三者の立会いが行われる。
サイムは深く息をつき、ゆっくりと頷く。メイがそっと彼の手を握り、結が古言で守りを唱える。ルークが外の見張りを二重にすることを報告し、イザークは外部の監視役として近隣へ回覧を出す。すべての条件が整い、断片は厳重に包まれて専用の鞄に収められた。
村代表のサイン、教会監視官の印、評議会の記録係の署名が一つの書類に揃う。リーウがそれを読み上げ、カメラが記録する。橘花は胸が張り裂けそうな思いで、その光景を見つめながら、やはり一つの確信を抱いていた。透明性を尽くし、共同で守ること──それが、綴の扱いで唯一の「守りの証」なのだと。
馬車は音を立てずに出発した。月光に銀色の帯が走り、王都へ向けて夜道を進む。綴の断片を乗せた箱は村の人々の見守る目の先を通り抜ける。その間、サイムは橘花の側に座り、手を握って感謝の言葉を繰り返した。
「ありがとう。本当に、ありがとう……」彼の声は震えていたが、その瞳には光が戻っているように見えた。
搬出が無事に行われたことは、村にとって小さな勝利だった。安堵の波が広がる一方で、毛布のように重い不安も残る。解析の結果は数日から数週間かかるだろうし、そこで出る知見がどのように使われるかはまだ分からない。だが橘花たちは、この夜の透明さが将来の不正やごまかしを撥ね返す証になると信じた。
数日後、王都の学術局から初期解析の簡易報告が届いた。断片は有機質の混合物を含み、一定の芳香成分と微量の金属イオンが結合した痕跡が見られる──といった、専門家の冷静な記述だった。即効性の「魔法」のような説明はなく、むしろ「化学的・象徴的な組み合わせ」が人の情動に影響する可能性を示す控えめな見立てだった。
もっとも重要だったのは、解析過程と結果が逐次公開アーカイブにアップロードされ、誰でも参照できる形になったことだ。改ざんの隙間を減らし、商会のような勢力が秘密裏に利用する余地を小さくする――評議会の全員がこれを重視した。リーウは解析報告を読むと、さらなる検証手順の案を教授側に提出し、共同で研究計画を練り直すことを申し出た。
サイム本人の状態は、村で丁寧に観察・ケアされた。彼は初期の数日間、夢の強度が低下したと報告し、昼間の作業に徐々に集中できる時間が増えたと語った。ただしその代償として、妻が作ってくれたある小さな歌の一節を思い出しにくくなったと、彼は素直に告白した。村の仲間たちは彼の告白を受け止め、失われた断片を無理に取り戻すのではなく、新たな思い出や日常を一緒に作っていくことを選んだ。
橘花はその夜、カフェの縁側で小さな茶碗を磨きながら考えた。代償は存在する。完全な救いはないかもしれない。だが透明な手続きと共同の決定は、少なくとも「誰かに勝手に決められる」恐怖を取り除く。彼女は目の前にいる人を見て、できることをやることが、自分の「聖女」と呼ばれる所以だと改めて思った。
評議会の枠組みは、まだもろく、そして不可避の試練が続くだろう。商会の影は消えない。だがこの夜、搬出は「守りの証」として村の歴史に刻まれた。透明性と共同の監督が、ただの制度上の紙切れでなく、誰かの選択を支える現実の力になったことが何よりも大きかった。
夜が更け、森の風が静かに通り抜けていく。橘花は茶碗を戸棚にしまい、窓の外に立っていた仲間たちの姿を見やる。ルークの背中は変わらず頼もしく、リーウの肩には疲労が刻まれているが目は澄んでいる。メイは小さな笑顔で店の明かりを見つめる。
「きっと、これからも難しい日々が来る。でも、私たちはやるべきことをやった。透明性と共感で、誰かの選択を支える。これが私たちの答え」橘花は小さくつぶやき、カフェの扉を閉めた。
月明かりは綴の断片を載せた馬車の行方まで届かないかもしれない。だが村の小さな光は、遠くの王都にも届き始めている。その光が希望に変わるかどうかはまだ分からないけれど、誰かが選び、誰かが守る——その事実が、この世界を少しだけ優しくしていることは確かだった。




