第21話 「評議会の攻防と、内なる葛藤」
評議会が形を整えてからしばらく、外では情報戦が続き、内側ではもっと繊細な揺らぎが芽生えていた。王都の学者や教会の代表が表明した共同管理の枠組みは、多くの支持を生んだが、逆に「どう動くべきか」を巡って、評議会内部の意見の差が露呈してきたのだ。
橘花は朝の茶碗を拭きながら、静かにその兆候を感じていた。評議会の会合が王都で行われるたびに、彼女のところへは報告や懸念が持ち込まれる。リーウは文献と証拠の整理に追われ、結は村のしきたりと評議会の決定を擦り合わせ、ルークは外の安全を固める。だが、カイン教授やセレノ神官長、エレアン伯爵夫人たちの間にも、わずかな意見のずれが生じ始めていた。
「学問は可能性を探る。研究は先へ進める価値がある」——カイン教授はそう言って、より柔軟な実験的利用の枠組みを主張する者たちに理解を示した。彼は綴に記された技術が、人類の苦痛を軽くするヒントを持つならば、慎重な条件下での研究を進めるべきだと考えている。
一方で、セレノは慎重を重ねる。
「どれほど学術的意義があろうとも、人の記憶と心は他人が気軽に触れるべきではない。共同管理の原則は、第一に『人の尊厳』を守ることであり、例外を増やすことは危険を招く」——その立場は明確だ。
その綱引きは、評議会の中で「透明化か秘匿か」「治療優先か慎重監視か」という形で現れ、会議ごとに議論が長引くようになった。さらに商会は、外部の学者を味方につけて「研究のための一時搬出」を求める書面を送りつけるなど、圧力の形を変えて強めてきた。
ある日、評議会からの急信が届いた。王都で評議会の補助委員会が開かれ、そこに学術局の一部が「緊急研究許可」の素案を提出したという。素案は、限定的な条件を付けるものの、綴の特定の断片を王都の研究所で分析することを許す内容であった。提出者の中には、カイン教授の名も含まれているという。
その知らせを聞いた橘花は、胸の奥がざわつくのを覚えた。良かれと思って進められた案が、村の意思とは微妙にずれる危険性がある。彼女はすぐにリーウ、結、メイ、ルークを集めた。
「王都の委員会が、綴の一部を搬出して研究する素案を出したそうです。しかもカイン教授の名が……」リーウが資料を広げながら説明する。彼の顔は憂いを含む。
結は静かに目を閉じてから言った。
「もし搬出が行われるなら、村は必ず立ち会う条件を明記しないといけない。『立ち会う』というのは実務的だけでなく、村の声を現場で提示すること。それがなければ、綴はただの学術物にされてしまう」
ルークは手で軽く拳を握った。
「でも、研究が正しく行われて、誰かの苦しみが本当に軽くなるなら、選択肢を増やすことも悪くないと思う。問題は、誰がその研究を監督するかだ」
シルヴィアは店番の合間に聞き入っていたが、そっと割って入った。
「私も王都で見たことがあります。研究は理想を掲げるけど、資金や圧力に弱いことが多い。私みたいに、下働きで送られてくる人間は、知らないうちに結果に利用される危険がある」彼女の声には、かすかな傷が残っていた。
議論は白熱した。賛成派は「限定搬出で得られる知見は、今後の安全な運用に欠かせない」と主張し、反対派は「たとえ限定でも搬出は先例となり、のちに商業化や独占の口実に使われる」と反論する。評議会内部でも票を割る可能性が生じた。
その夜、橘花は眠れなかった。彼女の心には二つの責任があった——一つは「苦しんでいる人を救いたい」という気持ち。もう一つは「この村と、綴をこの場で守る」という責任。どちらも捨てがたく、どちらかを選べば必ず誰かを傷つける可能性がある。
翌朝、評議会の小会合が「癒しの香」で行われることになった。外部の代表の何人かが村を訪れ、村の空気を直接感じてから決めたいという理由だった。カイン教授、セレノ、エレアン夫人、そして評議会事務局の役人が木の長机を囲み、橘花とリーウ、結、ルーク、メイが席を埋めた。村の人々が小さく見守る中、議論は再び始まった。
「私の意図は、研究で新たな安全策や代替手段を見つけることにあります」カイン教授は穏やかに語った。「我々が得た知見は、より良い‘同意のプロトコル’や副作用の低減に役立つでしょう。もちろん、村の代表の立会い、録音、透明性は前提です」
セレノは眉をひそめる。
「透明性を掲げても、現場に大きな権力差があることが問題です。村の人々が委縮してしまえば、口を閉ざすことになる。わたしたちはその心理的圧力へ対処する保証をどうするつもりか」
エレアン夫人は優しく手を伸ばし、村長の手を握った。
「私は王都で、村の声を繋ぎます。搬出するなら、エレアンの名で『共同監査チーム』を指名します。そのチームには我が屋敷の法務、学舎からの無記名代表、そして教会の監視官が入ります。外部の資金源は透明化し、資金提供者は資格審査を受けるべきです」
橘花は深く息を吸った。条件は幾つか整った。だが心の奥底ではまだ躊躇があった。彼女は静かに口を開く。
「私の迷いは一つです。綴を動かすことが、‘治癒’を進めるのか、それとも綴を‘物’にしてしまうのか。もし私がここで承認すれば、たとえ良い人々による監査だとしても、綴の扱いは王都の枠組みに組み込まれていく。そうなれば、後戻りは難しい」
その言葉に、会議の空気が一瞬張り詰める。メイは橘花の手をぎゅっと握り、励ますように目を向けた。リーウは書類をめくり、可能な保障条項を速やかに示した。結はふところから古い綴の写しを取り出し、慎み深くその頁を指差した。
「綴は使う者の心を問うている。その戒めを忘れてはならない。だが同時に、苦しみに向き合う手段を閉ざす理由にはならないわ」結の声は穏やかだが強い。村の古い歌の一節を思わせる彼女の言葉は、参加者の胸を打った。
議論は深夜まで続いた。結局、評議会は「段階的試験案」を採ることで合意を見た。主な要点はこうだ。
綴のそれぞれの断片については、搬出の前に村と評議会が共同で安全性評価を実施すること。
搬出は最小単位で行い、研究は短期のパイロット形式に限定すること。
資金と参加者は完全に公開し、外部資金は第三者の監査を受けること。
被験対象は自発的に応募した者のみとし、事前カウンセリングと長期追跡を義務付けること。
評議会は中立の監察官を任命し、研究中のすべての記録を公開アーカイブに保存すること(ただし個人情報は匿名化)。
橘花は、その合意文書に署名をするかどうか、深く悩んだ。最終的に彼女はペンを取り、ゆっくりと署名した。心の中で何かを手放すような重さがあったが、同時にこれは「守るための妥協」であると納得したつもりでもあった。メイがそっと肩を叩き、ルークが黙って頷く。
外へ出ると、夜空に星が瞬いている。評議会は次の局面へと進み、商会もまた別の手を打つだろう。しかし今は、村の意思を守るための枠組みが一つ作られた瞬間でもあった。
店に戻ると、シルヴィアが一杯の新しいブレンドを差し出した。塩気の残る翠の花を使わず、日常の温かさを重視したものだった。橘花はその香りを胸に吸い込み、静かに笑った。
「今日からまた、目の前の一杯を大切にしましょう」彼女はそう言ってカップを掲げた。メンバーたちもそれに倣い、互いの瞳を見て杯を合わせる。評議会の決定は完璧ではない。だがそれは、綴を守るために生まれた「暫定の歩み」だ。
翌朝、リーウは評議会事務局へと向かい、搬出の手順と公開アーカイブの準備を進める。結は村での説明会を催し、住民の不安を一つずつ拾う。ルークは見張りを更に強化し、外部勢力が不意打ちを仕掛けられないよう備える。橘花は朝の香りを整えながら、心に小さな誓いを新たにした。
――どんな選択にも代償はある。だが彼女は、誰かの痛みを少しでも和らげるために、仲間とともに考え、正しく管理し、そして何よりも「目の前の人」を守り続ける道を選んだのだ。
夜が明けると、評議会の一歩は確かに進んでいる。
だけど影は消えない。
だが灯りがいくつも灯る限り、村の小さなカフェはその中心であり続けるのだから。




