第20話 「影の動きと、試される信頼」
評議会が成立して以降、「癒しの香」と村は外部の注目を集め続けていた。共同管理の枠組みは確かに村を守る盾となりつつあるが、その存在が逆に“利用価値”を高めてしまった面もある。セドル率いる〈銀の秤〉は表面上の攻勢を弱めたものの、裏では執拗に別の手を動かしていた──情報戦、影の取引、そして“人心の揺らぎ”をつくる工作だ。
ある雨上がりの朝。橘花はいつものように店先で草木に水を撒きながら、村の様子を眺めていた。メイは看板の周りに新しい小さな花を植え、リーウは評議会事務の書類を整理している。ルークは朝の見回りから戻って、まだ湿った草の上を踏みしめた。外は落ち着いているように見えた。
だが夕方、見慣れない客が現れた。黒いケープに白い襟、年の頃は二十代前半の若い女性だ。手に小さな箱を抱え、目は少し疲れているが、物腰は柔らかく整っている。
「はじめまして。私はシルヴィアと申します。王都の外れにある薬草店で働いておりましたが、上司の都合で家を離れることになり……旅の間の宿と仕事を探しておりまして」
最初は単なる旅人の求職のように見えた。橘花はいつもの優しさで応対する。
「今は村の手伝いも歓迎です。薬草に関する知識は少しだけあります。もしよければ、お手伝いさせてください」
メイは目を輝かせ、すぐに彼女に店内の作業を頼みたがった。リーウは慎重な表情でシルヴィアの手元にある箱を覗き、箱の中に古い地図の切れ端と、紙片が入っているのを見つけた。紙片にはいくつかの学術的な走り書きのような文字があった。リーウは眉を寄せる。
「旅の途中で古書店からもらったものです。読み方がわからなくて……」とシルヴィアは言う。彼女の声には本当に疲労と不安が滲んでいた。村は人手が欲しかったし、評議会に守られている今、素性のはっきりしない若者をすぐに拒む理由も薄い。結は穏やかに受け入れを勧め、メイも歓迎した。
だがルークは、村に来る者全員を無条件で信用しない。彼は小さな注意を口にした。
「用心はした方がいい。評議会の動きで、商会が最近、雇い主を通じて“人員”を差し向けることもあるって話だ。表向きは手伝いだけど、調査や情報収集が目的の可能性もある」
橘花はルークの言葉を受け止め、しかしそのままシルヴィアを追い払う気にもなれなかった。彼女は自分の“おもてなし”の範囲を信じていたし、誰かに希望をあたえることが、自分の始まりでもあった。だがリーウと結には、ある簡単な条件を頼んだ。
「まずは、短期で店の手伝いをしてもらいましょう。綴に関すること、また評議会の資料には触れさせません。村の合意で決めた手順を尊重していただけるなら、一緒にやりましょう」
シルヴィアは深く礼をして、働き始めた。彼女は器用で、茶の葉の扱いも丁寧だ。村の人たちともすぐに打ち解ける。数日が過ぎると、メイは彼女をすっかり妹のように可愛がるようになり、客たちもその穏やかな物腰を好んでいた。橘花自身も、彼女の淹れる簡単なブレンドに小さな才能を見るようになった。
──だが、夜のあるとき。ルークが巡回中に、村の外れで不審な影を見かけた。灯りを頼りに近づけば、複数の人間が密やかに話をしている。会話の内容は遮られてよく聞こえなかったが、銀の秤商会の紋章が入った袋の存在をルークは確かめた。帰村してから、彼は仲間に報告した。
「やつらは手を変え品を変え動いてる。シルヴィアが本当に偶然なのか、調べる価値はある」
次の朝、橘花はそっとシルヴィアに話をした。問いかけは直接的ではなく、ただ日常の会話の延長であるように装った。
「シルヴィアさん、ここの村で何をしたいの? あなたが望むことを聞かせてほしいの」
シルヴィアは一瞬、目を伏せた。やがて静かに言った。
「私、薬の道具や古い書物が好きで……でも上の人は商会と関わりがあって、研究の名目でいろんなことをやってました。私は、ただ自分の好きなことで、生きていきたかったんです。ここでは、ただ静かに働きたくて」
橘花はその言葉をじっと聞いた。彼女の胸に、前世での自分の孤独や、ここで見つけた小さな居場所の記憶が重なる。だが同時に、仲間たちの警告が鳴る。信頼は育てるものだが、守るべきものはある。彼女は決断し、リーウと結に提案した。
「しばらく彼女を小さな課題に就かせて、監督下で仕事をさせましょう。けれど、綴や評議会に関わる書類には一切触れさせない。外部との接触はルークが把握して、定期的に報告を」
リーウは頷き、結は静かに安心したように笑った。ルークも渋々同意し、シルヴィア本人もその条件に従った。しばらくは、その取り決めで調子よく進んだ。
だがある夜、村の外の茂みで小さな炎が見えた。農地に放たれたのではないかと駆けつけると、幸いにも小範囲で鎮火できた。誰がやったのかは分からなかったが、その翌日、村人たちの不安は増した。商会が揺さぶりをかける中で、やり場のない怒りや恐怖が小さな行為として噴出したのかもしれない。
そんな時、シルヴィアが自ら現れた。顔は青ざめていた。彼女は手に一枚の紙切れを握りしめている。
「昨夜、私の上司の使いが来て、私に──『綴に関する情報を集めろ、君にはそれが向いている』と言われました」シルヴィアの声は震えている。「でも、私はここで……あなたたちに嘘はつきたくない。だから、今言います。私の出自は曖昧で、商会の下働きをしていたことは事実です。だけど、私は離れたくて、この村に来た。もし私が危険なことを持ち込む可能性があるなら、追い出しても構いません。でも……」彼女は嗚咽をこらえ、続けた。「お願いです。まだここに居させてください。私、自分で償いたい。ここで本当に、誰かの役に立ちたいんです」
その告白は村に静かな衝撃をもたらした。裏切りを恐れる者もいれば、赦しを求める者もいる。ルークは剣を握りしめ、怒りの表情を見せたが、橘花はゆっくりと手を伸ばし、シルヴィアの手を取った。
「ありがとう、言ってくれて。これが本当のことなら、あなたがどうするかが大事です。私たちはあなたをただ信用するわけではない。でも、あなたがここで何をするか、私たちと一緒に示してほしい。償いは言葉じゃなくて行動だよ」
村の人たちは議論した。結は古い慣習に基づき、試用期間を延ばす案を出した。リーウはシルヴィアがどの程度の情報を外に流したか、技術的に分析する準備を進めると申し出た。メイは泣きながらも「私が世話をする」と言って彼女を守ろうとした。最終的に、皆は合意した。シルヴィアは厳しい監督下で働き続けるが、もし故意に綴の情報を外部に流した証拠が出れば、即刻追放する。逆に、真摯に働き、村人の信頼を得れば、居場所を与える──それが今の村の意思だった。
シルヴィアは感涙にむせびながら、そして決意を新たに頷いた。彼女は次の日から、綴とは無縁の仕事で一所懸命に手伝った。茶葉の分別、客の応対、掃除──何もかもが新しく、しかし誠実だった。村は小さな社会だ。信頼は時間でしか回復しない。村側はそれを理解していた。
だが影はもっと巧妙に動いていた。数週後、評議会の一部文書が王都の市場に偽の写しとして流布された。綴の使用を巡る「便益のみ」を強調し、代償の記述を削った改ざん版だ。商会側の宣伝工作の一環とみなされ、王都でも論争を呼んだ。評議会側は即座に反証を出し、リーウとカイン教授の共同声明で真偽を暴いたが、情報戦の怖さはそこにある──どれほど真実を準備しても、偽りは別の速さで広がる。
橘花はカフェで静かに茶を淹れながら考えた。信頼は壊れやすく、回復は難しい。しかし、日々の積み重ねは人を変える。シルヴィアの窮状は、個人の償いと共同体の寛容がどれほど難しいかを示している。彼女の受け入れは、評議会の理想と現実の交差点でもあった。
ある夜、ルークが店の扉を開けると、外に小さな包みがそっと置かれていた。中には鉢植えの小さな草と手書きの紙。紙にはシルヴィアの字でこう書かれていた。
「ここで学びたい。あなたたちと一緒に、誰かの痛みを軽くする方法を選び続けます。信じてくれてありがとう」
橘花はその紙を胸にあて、芽吹いた草を窓辺に置いた。外では遠く、商会の別働隊がまた動き始めているとの報せが届いた。影は消えず、波は続く。しかし村には守る仕組みがあり、人々は互いに手を差しのべ続けることを選んだ。
夜が深くなると、評議会から短い知らせが届いた。文書改ざんの件を受けて、評議会側も情報の透明化と広報を強化する方針を決めたという。嘘は最初に広がるが、誠意もまた時間をかけて広がるのだと、橘花は信じたかった。
窓の外、月が雲の切れ間から顔を出す。小さなカフェの灯りは静かに揺れ、そこに集う人々の息づかいが聞こえる。影が動くとき、村は決して一人ではない。評議会、学者、教会、そして何よりも、日々の一杯を淹れる小さな手がある。信頼は試されるが、そこに応える者がいる限り、希望は消えない。
明日も、新たな試練が来るだろう。しかし橘花は静かに、いつもの声で言った。
「いらっしゃい。今日はどんな香りがよろしいですか?」
そしてメイの笑顔と、ルークの黙った守りが、答えとなってカフェの中に満ちていた。




