第19話 「評議会の成立と、綴の真意」
王都での手続きが一段落し、評議会の設立文書に複数の署名が刻まれた日、森にはしっとりとした雨が降っていた。木々が雫を揺らし、土の匂いが深く立ち上る。橘花はその朝、いつもより少しだけ丁寧に店を掃き、湯を沸かした。評議会の旗印は、まだ確定ではあるが、村と学術と教会が共同して綴を守る道筋が公式に認められたのだ。小さな勝利の静かな朝である。
「評議会が正式に認められるって、やっぱり心強いね」メイは花壇の土を手でならしながら言った。目の先には、村人たちが朝市の準備をする光景があり、いつもの日常がそこに流れている。
ルークは裏手で木刀を磨きつつ、短くうなずいた。リーウは評議会の運用案を最後の調整にかけており、結は村のしきたりとして評議会の立ち合い式を改めてまとめていた。橘花は湯気の立つカップを二つ用意して、自分にも一杯お茶を注いだ。
正午過ぎ、評議会の代表が馬車で到着した。カイン教授、セレノ神官長、エレアン伯爵夫人に加え、王都の学術局と文化局の数名の役人たち、そして村側の代表として村長と結、リーウ、橘花が並ぶ。評議会の設立にあたり、外部監査の方法、使用承認の手続き、緊急時の対応――細かな条項が一つずつ読み上げられ、参加者は慎重に確認した。
「綴の保全は、この共同監督の下で行われる。外部の研究者が携行する場合も、必ず村側の立ち合いを経ること。使用は原則慎重、だが利用の必要があり合理的に認められた場合、厳格な同意のプロトコルを踏むこと」カイン教授の声は穏やかだが、言葉には確かな重みがあった。
合意が交わされ、最後に橘花に向けてセレノが一言だけ付け加えた。
「あなたの“おもてなし”の精神を、制度が損なわないように気をつけよう。形式は大事だが、人の尊厳を最優先に」
橘花は静かに頷き、胸の奥で小さな灯がまた揺れた。評議会という形はできたが、本当に大事なのはその運用だ。ルールがあっても、運ぶのは結局は人の心である。
その夕方、評議会の初会合が「癒しの香」の一角で開かれた。正式な会場は王都にあったが、初回はあえて現場で──村の空気を感じ、住民の声を聞くために、評議会のメンバーがカフェに集まったのだ。湯気の向こう、木の匂いと薬草の香りが混ざる空間に、学者と神官、伯爵夫人、村の代表が一堂に会する。
「私たちはまず、綴の起源と意図を確認したい」リーウがゆっくりと切り出した。彼の手元には、日誌の翻刻と注釈、マリエルの手記の抜粋が整然と並べられている。手記の一文一文が、ここに来て生々しく響いた。
カイン教授はページに手を置き、考えるように目を細めた。やがて彼は口を開く。
「マリエルの記録は非常に誠実だ。彼女は効能を追究した研究者であり、同時に深い悔恨の念を持っていた。‘縫い直す’という表現は、彼女の心象を映した言葉だろう。科学的に言えば、特定の感情や記憶の定着に関わる神経・象徴的なトリガーを和らげる技術が存在した可能性がある。しかし重要なのは、技術そのものよりも、倫理的なフレームワークだ」
セレノが続ける。
「教会としての立場は明確だ。人の記憶は尊厳の一部である。綴を用いるときは、完全な同意と透明性が不可欠だ。だが同時に、苦しむ者にとって選択肢が存在することもまた慈悲である。我々はその均衡をどう保つかを、この場で示さねばならない」
話し合いは穏やかだが深い。評議会のメンバーは、綴を単なる資料ではなく「人に関わる知の集合体」として扱う必要を確認した。リーウは、実務的な運用案として次の三段階を提案した。
・相談段階──まず村で相談窓口を開き、綴を使う前に十分なカウンセリングと代替手段の提示を行う。
・同意段階──口頭と文書、第三者(学者・教会代表・村代表)の立会い下で同意を得ることを必須化。
・追跡段階──使用後の経過を長期的に追跡し、効果と代償を記録、必要ならば補助的なケアを行う。
全員が頷いた。結はその案に伝統的な節を加えることを提案した。「我らのしきたりで、綴を扱うときは共同体の歌を捧げ、周囲の者の理解を得る儀を入れたい」と。メンバーはこの文化的な要素を歓迎し、手続きはより人間味あるものになった。
会合の終盤、誰もが一つの疑問を胸に抱えていた――「綴は本当に何を意図していたのか」。マリエルの日記の言葉は、技術の記録であると同時に、制作者の苦悩の記録でもある。リーウが静かに最後のページを読み上げると、皆の顔が一瞬変わった。
「我々は他人の痛みを勝手に取る資格はない。しかし、ときに人はその痛みで崩れ落ちる。私が行ったことは救いでもあり、刃でもあった。誰かの胸に火を灯すつもりで始めたが、刃が無自覚に振るわれたことを、私は今も忘れない。」
その言葉は、評議会のメンバーにとっても戒めであり、指針となった。綴の真意は、ただ効能を残すことではなく、扱う者が自らの責任を自覚することにあったのだ。評議会の成立は、単に綴を守る枠組みを作るだけでなく、知を扱う者の倫理を再確認する場でもあることが明らかになった。
橘花は窓の外に目をやり、静かに言った。
「私たちは、ここで生きる人々の一杯を守りたい。それが誰かの救いなら、制度はその助けになる。けれど、どんなに制度が整っても、最後に大切なのは人と人の向き合いだと思います」
エレアン夫人は頷き、柔らかく微笑んだ。
「その言葉を、評議会の第一宣言にしましょう。知は人を助けるためにあり、人を支配するためになってはならないと」
評議会の初会合は、そうした合意で静かに締めくくられた。参加者たちは深い充足感と同時に、これから続く長い責務を感じていた。夜となり、メンバーが馬車に乗り込むと、村人たちは集まって見送った。雨上がりの空に、月がぽっかりと浮かんでいる。
その翌朝、橘花は店先に立ち、いつものように来客を迎えていた。ある年配の女性がゆっくりと歩み寄り、差し出した手に小さな包みを握らせた。中には古い焼き菓子が入っていた。女性は目を細めて言った。
「あなたたちがここにいてくれてよかった。綴がどうなっても、私たちはここで生活していく。だけど、これでようやく、外の人たちに私たちの声が届く気がするわ」
橘花は微笑んで受け取り、包みを棚に置いた。評議会の成立は終点ではない。これから続く日々の中で、約束が守られるか、選択が尊重されるかが試される。彼女の胸には不安と希望が混じっているが、何よりも確かなのは「日々の一杯」を届ける覚悟だった。
夕暮れ、橘花は小さなノートに今日の評議会の要点を書き留めた。マリエルの言葉を思い出しながら、そっと付け加える。
「知を使う者はまず、人であれ」――それが綴の真意に触れるための、橘花なりの結論だった。
夜、カフェの明かりの下で仲間たちが集い、ささやかな祝杯をあげる。評議会は形になったが、守るべき現実はまだこれからだ。橘花は窓の外の星を見上げて、静かに誓った。
「これからも、目の前の人を大切に。評議会の旗があるからと言って、人の心を見失わないように」
木々が静かに夜風に揺れる。評議会が守るものは、制度とルールだけではない。笑い声や不安、涙や小さな幸福――それらが綴られる日常もまた、守るべき宝物なのだと、橘花は改めて思うのだった。




