第16話 「遠い便りと、試練の兆し」
朝霧がまだ森を包んでいる薄明の時間、橘花はいつものようにカウンターに立ち、湯を沸かしていた。メイは花壇の水まきを終え、ルークは裏庭で木刀の手入れをしている。リーウは書見台に向かい、綴関連の注釈を書き足していた。外は静かだが、その静けさの奥に、どこか張り詰めた気配が漂っているのを橘花は感じていた。
「ねえ、メイ。今日はお客さん、遠くから来るって聞いてるの?」橘花がぽんとメイの肩を叩く。
「ううん、特には。でも、昨夜の見張りでルークさんが何か、不穏な人影を見かけたって……」メイの声が小さくなる。
午前の常連客が一息ついて帰ったころ、表の小道に馬車が一台、ゆっくりと停まった。白い布張りの軽い車。中から降りてきたのは、見慣れない細身の男で、腰には薄い紋章入りの帯が見える。
「王都の巡察使、かしら……?」リーウが目を細める。
男はカフェの前に腰掛けると、真っ直ぐ橘花を見据え、小さく頭を下げた。
「タチバナ橘花殿か。わたしは巡察使のセレン。王都の名において、貴店と綴に関する事情を聞き取りに参りました」
言葉は丁寧だが、その声には公式文書の冷たさが含まれていた。橘花の胸に一瞬、緊張が走る。リーウの顔にも影が差した。王都の巡察使。彼らが来るとき、必ずしも祝福だけが来るわけではない。
「どうぞ、入ってください。あたたかいお茶でも」橘花は平静を装いながら案内した。だが心の中では、村での合意式や公文書、イザークの告発文書など、あらゆる資料が頭の中を駆け巡る。
セレンは一口お茶を含み、目を細める。彼はすぐに本題に入った。
「王都より、〈銀の秤〉商会からの申し立てがありました。彼らは綴の所有権と、綴の管理権を巡って、法的な調査を求めています。換言すれば、綴が“文化財”や“学術遺物”として王都の監督下に置かれるべきだ、と──」
その言葉は、まるで冷たい風の矢だった。村で結んだ誓いや、共同体による管理は、外部の法的権威を優先する枠組みとぶつかる可能性がある。セドルが金をちらつかせた理由、カイロンが甘い言葉で揺さぶった意味が、ここに繋がる。
「我々はまだ何の決定も下していません」と橘花は静かに答える。「綴は、ここにいる人々の生活に深く関わるものです。私たちは使用について厳しい条件を定めました。外部の監督は理解しますが、村の合意と尊厳を踏みにじる形は望みません」
セレンは書類を取り出し、慎重にページをめくる。そこには〈銀の秤〉による届け出書、王都側の初期受理印、そして公的な検査の手続きに関する注記がある。
「商会は法的手続きを進めています。まずは形式的な聞き取りを行い、必要ならば資料の一時保全と鑑定を王都の学術局に委託することになります。正式な差し押さえ令状はまだ出ていませんが、手続きが進めばその可能性はあります」
リーウが素早く割って入った。
「我々は既に記録と誓約を整え、署名も取り交わしています。これはただの“村の小さな合意”ではなく、共同体が責任を持って管理するための公的な書類です。王都の鑑定を仰ぐなら、同等に我々の証拠も提示させてください」
セレンは頷くが、どこか物足りなげだ。
「当然です。だが申立側に強力な財力と利害がある場合、公的機関は中立的な鑑定を優先します。こちらとしては、双方の資料を慎重に扱いたい。可能ならば、綴は一時的保全のために王都へ送る手続き――これを避けたいとお考えなら、法的にも説得力のある根拠を示していただく必要があります」
話し合いは続いた。セレンは平静で、しかし冷徹に手続きを提示する。橘花たちは自分たちの誓い、村の合意、イザークの告白、綴の由来と使用規約を書類にまとめて提出した。メイは震える手で村人の署名を重ね、結は古い儀式の写真や解説を添えた。リーウは学術的観点から、綴の危うさと管理の慎重さを論じた。
夕暮れが近づくころ、セレンは一枚の紙をテーブルに置いた。そこには「仮保全申し立ての予告」と赤い印が押されている。正式決定ではないが、王都の法的ルートが実行に移る前の段階だと説明されている。
「正式な差し押さえが出る前に、地方裁判所での審査が入る可能性が高い。三日の猶予を採る――その間に追加の証拠や申し立てがあれば、手続きに反映します」セレンの言葉は冷たいが、公正さを装っている。
橘花は深く息を吐いた。村の合意や仲間の誓いが、果たしてこの機械的な手続きにどれだけ通用するだろう。だが彼女は諦めなかった。ここで守るべきは「綴そのもの」ではなく、「綴が示す倫理」と「村の人々の暮らし」だ。法を無視するつもりはない。だが、法の元で人権と意思が軽んじられてはならない。
「三日間で、外部に対する説明と証拠を整え、可能ならば王都側にも理解を求めたい」と橘花は言った。「私たちは逃げない。綴の安全と、ここで生きる人々の尊厳を守り抜きます」
セレンはその覚悟を見て、静かに頭を下げた。
「では三日後、地方裁判所での予備審が行われます。貴方たちの資料も、正当に扱います。だが覚えておいてください――外部からの強い圧力は、時に法を動かす。備えよ」
巡察使が去った後、カフェには重い空気が残った。メイが膝をつき、嗚咽を堪える。リーウは既に資料の補強にとりかかっている。ルークはすでに村の見張りを再編し、夜間の巡回を厳重化する旨を伝えた。結は若者たちとともに村の伝統行事を催し、共同体の結束をあらためて確かめる準備を進める。
橘花は深夜、窓際に立ちカモミールの香りを嗅いだ。心の中には恐れもある。だがそれ以上に、静かな確信があった。ここで守るべきもののために、彼女は仲間と共に立ち向かえると。
「三日後か」ルークが背後から静かに言った。「俺は外で盾になる。だけど、あんたの言葉と証拠も必要だ。王都の人間に、綴の本当の意味を伝えよう」
「うん。リーウと結とでまとめる。メイは村の声を集めて。ガルノも含めて、あの日の事例や合意の記録を整理する」橘花は答え、深く頷いた。夜は深いが、皆の動きには明日のための規律と温かさがある。
三日後の予備審。それは単なる書類のやり取りではない。綴をめぐる世界観と倫理、商会の力学と村の暮らし。その狭間で、橘花たちは自分たちの選択がどんな代償を求められるのかを知ることになるだろう。だが彼女には一つだけ揺るがぬ信念があった。
「癒しは、奪うものではなく、選ばれるもの」──それを、誰にでもわかる形で示してみせる。
森の夜はふたたび静かに戻り、カフェの灯りはいつもより強く、穏やかに揺れていた。遠くで商会の影が動く。ただ、それを恐れるだけではなく、橘花たちは準備を整え、仲間の手を固く握っていた。
三日後——小さな村が法廷の場に立つとき、何が勝つのかはまだわからない。しかし、橘花は知っている。自分たちが守るべきものを言葉にして示すこと、そして人々の意思を声にして伝えること。それがあれば、たとえ試練が訪れても、きっと道は開けると。




