第15話 「選択の代償と、新たな絆」
春の朝は、これまでになく清々しく感じられた。森の緑は深まり、カフェ「癒しの香」にはいつもどおり客のささやかな笑い声が響く。だが、橘花の胸には重い問いがあった――綴に書かれた力を、どこまで使うべきか。使うならば、誰のために、どのように。
その日の昼過ぎ、店の扉が静かに開いた。来客は、見慣れた顔ではなかった。村外れに住む中年の男――名はガルノ。彼は数年前、山火事で妻と家を失い、それ以来、笑顔を見せなくなったという。人々は彼を哀れみ、いたわりながらも距離を取ってきた。
「橘花さん、お願いがあります」ガルノは声を震わせて言った。
彼の眼差しは澄んでいたが、そこには深い影があった。手には小さな黒い布包みを抱えている。
橘花は席を立ち、静かにカウンター越しに手を差し伸べた。
「ゆっくりでいいですよ。どうしましたか?」
ガルノは布包みをゆっくりと開けた。中には焦げた端が残る小さな護符が入っている。側には、夜ごと夢に現れるという、鮮やかな燃えさかる火の記憶の断片を語る紙切れがあった。
「あの夜から、火の匂いが消えないんです。夢でも現実でも、あの音、あの声、妻を抱いている手の熱さ……。何度も何度も、目を覚ます。眠れないんです。仕事もできない。村のみんなに迷惑をかけている」
ガルノの声はかすれ、唇が震えた。
メイがそっとガルノの手に触れた。
「お茶を飲んでから、話しましょう。ここでゆっくりしていってください」
橘花はガルノの話を最後まで聞き、黙って古い綴のことを思い出した。マリエルの記述――“縫い直しは代償がある”。だが同時に、綴は「同意の灯」を強く求めている。それは、望む者自身が熟慮のうえで選ぶ行為でなければならないという戒めでもある。
リーウが控えめに言った。
「学術的には、火のトラウマの深度と記憶の構造を調べれば、可能性はあります。ですが、代償(失われる記憶の一部)は避けられない。失われる“色”の選定が肝です」
ルークは腕を組み、真剣な表情で天井をみつめた。
「もしやるなら、俺は外で約束を守る。誰も無理強いはさせない。ガルノ、お前の意思だ。お前が決めるんだ」
ガルノは一度、目を閉じた。呼吸を整え、ゆっくりと橘花を見た。
「私は、あの夜の記憶の全てを消してほしいとは思っていません。ただ、夜ごと戻ってくる熱と匂いだけを、消してほしい。妻の顔さえ消えるのは怖い。でも、あの“火の痛み”を、もう抱えたくないんです」
橘花の胸は締め付けられた。綴に書かれた“代償の紐”――失われるものを明示すること――を、ここでどう説明するか。彼女はゆっくりと頷き、ガルノに優しく話しかけた。
「ガルノさん。綴の力は、痛みの“色”を薄くすることができます。ですが、その代わりに一つ、小さな記憶の結びつきが薄れることがあります。例えば、痛みと同時にあった匂いの印象や、燃えた木の音の具体的な断片など……。私たちは、何が残り何が薄れるかを完全には制御できないかもしれません。だから、あなたの“同意”が必要です。そして、私たちは必ず立会い、記録し、保証人を立てます。もし、それでもあなたが選ぶなら、私は最善を尽くします。でも、あなたの意思以外で、誰かの記憶を奪うことはしません」
ガルノはしばらく沈黙し、目に小さな光が戻ってきたように見えた。
「わかりました。…やってください。ただし、誰かが私の記憶を奪うことで、私が大切にしている別の何かを失うようなら、その事実は知りたい。全部、知ったうえで決めます」
橘花は深く礼をした。
「約束します。全てを記録し、あなたに説明を尽くします。使うのは、私たちの合意した“夜明けの調香”の一節です。使用に際しては、リーウが判定を行い、結が古の儀式的な“守りの輪”を為し、メイと私が実務を行います。ルークは、外の安全と同意書の証人をお願いします」
合意は正式なものになった。メイは村の写しを取り、リーウは記録用紙に細かな読み取り事項を列挙した。結は古い言葉で簡素な守りの式を唱え、村の代表がその場で見守った。外部からの圧力を防ぐために、イザークが仲介証明を記し、村長も文書に署名した。手続きは、綴のために決めた約束どおり――口頭と書面、第三者の立会いが整えられた。
その夜、橘花は慎重に準備を整えた。海霞=翠の花の露を夜明けに集めるには時間があるため、今回は“心の安寧”を促す既知のブレンドで前処置を行い、深い誘導状態に入れることを避ける段取りにした。リーウが逐一データを計測し、結の詠唱が静かに響く。メイは震える手で杯を差し出し、ルークは戸口で外の見張りを続けた。
ガルノは布団に横たわり、ゆっくりと眼を閉じる。橘花は彼の手を取り、いつものように温かいお茶を渡した。香りは柔らかく、ミントとカモミールの優しい混ざり合い。瞳が閉じられると、次第に呼吸は整っていった。
「これから、あなたの望みを尊重しながら進めます。もし途中で不安を感じたら、必ず合図をしてください」橘花の声は震えず、確かな落ち着きがあった。
行為は慎重に行われた。リーウの計測器の音、結の低く穏やかな声、メイの静かな手つき――それらが淡々と時間を刻む。橘花は海霞の処方を最後に加え、薄く香る塩気が部屋に満ちるのを感じた。ガルノの顔色は落ち着き、唇が緩んだ。やがて、深い眠りとも呼べる静けさが部屋を包んだ。
朝日が差すころ、ガルノは静かに目を開けた。最初はぼんやりとした表情だったが、やがてゆっくりと周囲を見渡し、手を自分の胸に当てた。
「……火の夢が、減った気がします。匂いも、あの熱さも……前ほど強くない」
ガルノの瞳には、ほのかな安堵が浮かんでいたが、同時に何かが欠けているような寂しさも見て取れた。
リーウが慎重にデータを読み上げる。心拍の変化、夢の頻度、主観評価の数値――処方は一定の効果を示していたが、ガルノは一つの変化を口にした。
「妻の笑い声の—一部が、思い出しにくくなっている気がする」
それを聞いた瞬間、橘花の胸が締め付けられた。だが彼女はすぐにガルノに優しく触れ、声を落とした。
「それは、我々が懸念した“代償”かもしれません。失われた色があるなら、それを蘇らせることはできませんが、忘れたものを補強することはできます。記憶を改変するのではなく、残る記憶に新しい時間を重ねていく。あなたには、これから新しい“妻との時間”を積み重ねてほしい。きっと、それが、新しい意味を持つはずです」
ガルノは深く息をつき、小さく笑って見せた。悲しみは消えないが、確かに重さは軽くなっている。彼は店の外へ出ると、夜露に濡れた小道をゆっくりと歩き、近所の鍛冶屋と話をしていた。村の人々は驚きと安堵の入り混じった表情で見守る。誰もが、橘花たちの選択と手順を支持したわけではない――だがその場にいた全員が、ガルノの「選んだこと」を尊重した。
数日後、ガルノは店を再訪した。彼はぽつりと語る。
「夢はまだ来る。でも、少しずつ頻度が減っている。妻の顔は時々、ぼやける。けれど、メイちゃんが作った花壇の前で、妻に話しかける自分を見つけた。昔の鮮やかさとは違うかもしれない。だが、それでも、彼女に話しかけられる自分を、私は大切にしたい」
メイは涙をこらえながら笑い、ルークは乱暴に肩を叩いた。リーウは記録に新たな注釈を加えつつ、橘花に向かって小さく頷く。結は静かに手を合わせ、森の神々に感謝するようにつぶやいた。
その日、橘花は店の片隅で、小さな茶碗をひっそりと磨きながら考えた。代償は確かにあった。忘れられた断片は戻らないだろう。だが、人は記憶を足がかりに生きるだけでなく、新しい時間を織り重ねて自分を再構築することもできる。彼女たちがしたのは、痛みに飲まれる人をそのままにせず、選択肢を与えたことだった――そして、その選択はガルノ自身のものだった。
夜、村の広場で簡素な宴が開かれた。村人たちが集まり、ガルノを囲んで暖かい食事を分け合う。笑い声が自然に上がり、橘花はいつもの席で静かにお茶を淹れていた。誰かがふと呟く。
「選る代償のない救いなんて、ないんだね。でも、選べるって大事だね」
橘花は頷き、静かに答えた。
「選べることと、選んだ後に共に生きること――それが、私たちの役目かもしれません」
その夜、ルークとメイ、リーウ、結、そしてガルノは、新たな絆を確かめるように杯を交わした。綴の力は恐ろしくもあり、助けにもなる。だが何よりも大切なのは、人が人として相手に寄り添い、選び、支え合うことだと、彼らは改めて知った。
外では、まだ遠くでセドルの影が蠢いている。商会はすぐには諦めないだろう。だが「癒しの香」には守るための誓いと、それを共にする仲間たちがある。橘花は窓越しに夜空を見上げ、小さく微笑んだ。
「これからも、きっと難しいことはある。でも、私たちは一緒に考えて、選んでいけばいい。誰かの痛みを奪って終わらせるのではなく、共に生きる力を育てること――それが、私の“おもてなし”です」
森の夜は深く、月は静かに二人の地を照らす。小さなカフェの灯りは、また一つ、温かく輝いていた。




