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第12話 「綴の秘密と、刻まれた選択」

朝の光が、いつもより静かに「癒しの香」の窓ガラスを撫でていた。

橘花たちばなはカウンターに置かれた古い木箱を見つめながら、深呼吸をした。昨夜、ゆいから渡された小さな箱と短い巻物が、村中に小さな波紋を起こしている。だが今朝は、村人たちもいつものように日常を動かしており、店の中は穏やかな空気に満ちていた。


メイは勤勉に鉢植えへ水やりをし、ルークは外で木刀の手入れをしている。リーウは早朝から綴の断片を取り出し、慎重に広げて筆を進めていた。


「今日は、綴の中身を一緒に読みますよ」リーウが、少し興奮混じりに言う。

「ええ。全部を鵜呑みにはしないで。綴は古い時代の言葉で書かれているから、解釈が分かれるところがあるはずよ」橘花は手袋をはめ、木箱の内部をそっと覗き込んだ。


箱の中には、年代の異なる断片が折り重なるように収められていた。小さな札、布に包まれた押し葉、短い手記――。どれも年月を経て柔らかくなった紙の匂いがし、触れると慎重に指先が震える。


リーウがまず一つずつ解読を始める。学舎で学んだ技術を生かし、文字の形や語彙から年代を推定し、用語の注釈を付けていく。メイは橘花のそばで、時折顔を覗かせては「あ、ここ!」「これはこういう意味かな?」と目を輝かせる。外からは鳥の声が聞こえ、店内は静かに作業場と化した。


やがて、古い手記の一節が開かれた。筆致は荒々しく、勢いがある。タイトルのように見える一行——「マリエル、祭りの夜にて」。ページをめくるごとに、橘花の胸の鼓動は早くなった。マリエルという名は、日誌の中でも重要な人物として何度も登場していた。先日の古文書でその名を見つけたとき、橘花は不思議な既視感を抱いたが、今日、その筆跡を目の当たりにして、過去が少しだけ形を与えられるように思えた。


手記には、こうある。


「……人は痛みを忘れることはできぬ。だが、痛みの質を和らげ、記憶を優しく包むことはできる。私はそれを‘縫い直す’と呼ぶ。縫い直すは容易ならず。代償を伴う。代償は――思い出の色を一部抜き取ること。抜き取れば、人は楽になる。だが、失った色は戻らぬ。私はそれを恐れつつ、選んだ人々を救った。後に私は気付いた。救った者が、彼らの記憶を奪われることで誰かを忘れてしまうことがある――その罪を、私は永久に負う。故に綴に記す。『灯は道示す。炎は焼くなかれ』」


読み上げるリーウの声が、小さく震えた。文字どおりの翻訳だが、そこに込められた意味は重い。メイの小さな手がテーブルの縁を握りしめる。ルークは無言で呑み込み、橘花は目を閉じた。


「代償……記憶を抜き取る、ですって?」メイが震える声で言った。

「マリエルは、人を楽にするために“何か”を削いでいたらしい。けれど、それはただの緩和だけではなく、人の関係や歴史を削ることにもなり得る、ということだ」リーウの口調は丁寧だが、その目は真剣だった。


橘花はゆっくりと息を吐いた。前世での自分なら、こうした重いことを避けて布告に任せただろう。だが今は違う。自分の手で人を癒すことを選び、その責任を負っている。だからこそ、綴の真実は怖くもあり、必要でもあった。


「私がここでやってきたことと、どこが違うのか、を見極めないと」橘花は静かに言った。彼女の“おもてなし”は基本的には会話と安全な薬草での緩和だ。だが綴に書かれている“縫い直す”という概念は、深く人の記憶に手を入れるものだと解釈できる。


リーウはページをめくり、さらに記録を読み上げる。


「マリエルは続ける——『縫い直しには三種の鍵が要る。①同意の灯(意志の合図)、②代償の紐(失われるものを知ること)、③守りの輪(行為を制限する約束)』。鍵を欠けば、縫い直しは暴挙となる。私は愚かにも一つの鍵を忘れ、失敗をし、取り返しのつかぬ痛みを生んだ。綴を残すのは、私の罪を忘れぬため』」


その記述に、店内は重苦しい沈黙に包まれた。誰もが想像していたよりも、マリエルの技術は深く、そして危ういものであった。


「つまり、使うこと自体が悪ではない。だが、使い方を誤れば“人”を傷つける可能性がある——ってことね」メイがぽつりと呟いた。幼いながら、彼女の理解は正確だった。


橘花は机に手をつき、仲間たちの顔を見渡した。リーウの瞳には学者としての好奇心と、倫理家としての警醒が混ざっている。ルークは盾のように彼女を見守り、メイはまだ震えているが、傍らにいることで支えになろうとしている。


「これを、どう扱う?」ルークが率直に尋ねた。

「隠すべきか、公開するべきか」リーウが続ける。「学問的には価値がある。だが、人々の個人的な歴史に触れる“鍵”を、どう管理するか――それが問題です」


橘花は窓の外に目をやった。森の木々は穏やかに揺れている。遠くから子どもの笑い声が聞こえ、日常が無邪気に回っている。彼女の胸には、ある確信が芽生えていた。


「私は、誰かの記憶を勝手に変えるようなことはしたくない」橘花の声は静かだが揺るがなかった。「でもね、もし誰かが自ら“痛みを和らげたい”と望み、そのリスクを理解して、それでも選ぶなら、向き合ってあげたい。綴が示すのは方法だけど、使うかどうかを決めるのは人の意志だと思うの」


リーウはページの余白に細かな注釈を付けながら、頷いた。

「同意の灯、か。学問と倫理の一致だ。書き残すべきだし、同時に厳格な規約が必要だ」


メイは瞳を輝かせ、小さな声で言う。

「私、綴のこと、ちゃんと覚えておいて、お客さんに説明できるようにする。誰かに使う時は、必ず話して、同意をもらってからにするって決めよう!」


ルークは肩をすくめて笑った。

「お前らしいな。でも、守るって言葉を聞くと安心するぜ。俺は、外の安全は任せとけ。お前が中の心を守ってくれりゃ、俺は外の盾になる」


橘花は小さく笑みを返し、床に置かれた綴の断片にそっと手を重ねた。過去の誰かが抱えた罪と後悔が、ここに記録されている。だがその記録は、ただ恐ろしいだけではない。マリエルが残した戒めも、また道標なのだ。


「じゃあ決めましょう。綴の知識は公開する。だが使用には三つの約束を設ける。第一に“完全な同意”—口頭と書面、第三者の立会いを入れること。第二に“代償の明示”—何が失われ得るか、可能な限り説明すること。第三に“期限と保存”—一度使った技術は記録し、再利用を慎重に検討すること」橘花が静かに言うと、四人は声を揃えて頷いた。


それは小さな誓いだったが、村の小さな茶店から始まる倫理の一歩でもある。リーウはその約束を学術的な文書として整え、メイは客に分かりやすく説明するための短い言葉を作り、ルークは必要ならば外からの干渉を防ぐための協力を誓った。


夕刻、橘花は綴の一片を箱に戻し、鍵をかけた。結はその様子を静かに見守っていた。彼女は深く礼をすると、また旅の行程に戻ると言った。


「綴は返しません。共有を望むなら、また来ます。あなたが望むなら、我々はいつでも援助をします」結の声には温度があった。橘花はうなずき、深く感謝を述べた。


夜、店の明かりが温かく揺れる中、橘花は窓辺に座り、今日決めたことを反芻した。権威や名誉に流されず、しかし知識を閉ざすことなく。人の心と向き合う責任を選ぶということは、優しさのための線引きだった。


遠く、森の向こうに風が走る。綴の断片は箱の中で静かに眠り、橘花の胸には小さな灯がともった。それは、過去の過ちを忘れずに、でも同時に未来の選択を恐れないための火だ。


翌朝、橘花はいつものようにカモミールをほぐし、湯を沸かした。今日も誰かがやってくるだろう。綴の知識がどこへ導くかは分からない。しかし彼女は確かに一つ決めていた——「癒し」は人のために、そして人と共にあるべきだと。


小さなカフェの扉が開き、新しい客が一歩を踏み入れる。橘花は静かに微笑み、いつもの声で言った。


「いらっしゃい。どうぞ、お入りください。今日はどんな香りがよろしいですか?」

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