第11話 「森の縁者と、遠い親戚」
ある朝、いつもと同じように「癒しの香」で湯を沸かしていると、表の小道に見慣れない荷車が止まった。荷車には帆布の荷物が幾つも積まれ、その脇に立っているのは、年の頃は四十代前後の女性だった。黒い布をまとい、顔には長い旅の跡が刻まれている。だが、その目は優しく澄んでいた。
「ここが……“癒しの香”さんで間違いないですか?」
メイが外へ出ていくと、その女性は深く頭を下げた。
「はい。旅の者ですが、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか。私は結と申します。遠い所の親類筋からの使者で――少々奇妙な頼み事を携えて参りました」
その言葉に、橘花はカウンター越しにゆっくりと顔を上げた。結の口元には控えめな笑み。だが帯びている雰囲気は、ただの旅人とは違った。
「親類筋……ですか?」橘花が訊くと、結はふと懐から小さな封筒を取り出した。封には古い家紋のような印が押されている。見ると、それは薄く剥げかけていたが、どこか見覚えのある模様にも似ていた。
「こちらの家は、昔から“薬を調える”家系だったと聞きます。私どもの一族もその片隅に連なっておりまして、昔の記録を整理していたら、貴女――タチバナ 橘花という名が、伝承の中に記されているようだと。正直、私も驚きました。ですが、村人の話、王都での噂を辿るうちに、貴女がその“橘花”ではないかと確かめたくなりまして――直接、お目にかかりたくて参りました」
言葉の重さに店内の空気が少し張り詰める。橘花は自分の名を、こうして誰かが遠方から呼ぶのを初めて経験した。胸の奥に、不思議な波紋が広がる。
「伝承に私の名前が……?」橘花はそっと封を受け取り、中の手紙を広げた。紙は古く、筆跡は整っている。内容は簡潔で、こう書かれていた。
「――我が一族、橘家の『癒し』は、血の繋がりのみならず、心に灯る“気づかい”を以て継がれる。橘の名を持つ者は遠くとも縁あり。もし縁があれば、橘家の古物——『緑の綴』を尋ねよ。調香師マリエルの名が記されている。伝えよ。」
ページの最後には、かすかな押し花と、古い印章の跡があった。メイが息を飲む。
「“緑の綴”……調香師マリエル……。あの古い日誌と関係が?」リーウが先に思いつき、表情が変わる。先日復元した“夜明けの調香”を記した日誌の名を思い出したのだ。
結は頷いた。
「そうです。古い家の蔵から紛れ出てきた一片がありまして、そこに“綴”の在処を示す暗号のような一行が。解読の結果、貴女の名と繋がる伝承に行き当たったのです。長く離れて暮らしていた遠縁の者が、貴女が“森の聖女”として人を癒していると聞いて、これは運命かもしれないと。――それで、直接手渡すために参りました」
橘花はふと、自分が王都に行って帰ってきてから、日々の暮らしがほんの少しだけ広がったことを思い出す。けれど、同時に「家系」や「継承」といった単語が持つ重みをどう受け止めればいいのか、分からない自分もいた。
「継承の話――私は、家柄や権威に縛られるつもりはありません。私のやり方は、ここで目の前の人を癒すことです」橘花は静かに言った。だが結は、逆に微笑んだだけで、急かすような様子はない。
「私どもも、そのことを恐れてはいません。伝承は道しるべであり、命じるものではありません。ただ、綴には“知”が詰まっています。貴女があの古い日誌の続きを求めていたなら、手がかりになり得ます。綴を見れば、先の世代が何を大切にしていたかが分かる。押しつけではなく、必要ならば分かち合いたい。それが私たち『縁者』の務めです」
結の言葉には、押し付けの色がない。橘花はその真摯さに心が和らぐのを感じた。しかしルークが腕組みして口を開く。
「継承って言葉は便利だが、そこから面倒も来る。権利とか称号とか、いらぬ期待もつく。それが商人を呼び、変なやつを寄せることだってある」彼の眼差しは橘花を守るようだ。
メイは真剣な顔で橘花を見上げる。
「橘花さん、どうするの? 綴があるなら、リーウさんともっと研究してみたい気もするけど……」
橘花は一瞬考え、自分の胸に手を当てた。外から来る“縁者”の好意も、ルークの心配も、メイの純粋な好奇もすべて自分の大切なものだ。決めるべきは自分の心だと気づいた。
「まずは、中身を見せてください」橘花はゆっくりと答えた。「でも、ひとつだけ条件があります。ここで繋がる人たち、村の人やお客さん、メイたちの“日常”が脅かされないこと。綴を調べるのは歓迎します。けれど、私たちのやり方を変えるような扱いはしないでください。それを守れるなら、一緒に見ましょう」
結は深く頭を下げると、封筒の奥から更に小さな箱を取り出した。木箱は小さな金の錠が掛けられており、側面には同じ家紋の刻印があった。結の手元が少し震えているのを、橘花は見逃さなかった。
「これは――?」メイが身を乗り出す。結は箱を橘花に差し出した。
「これが、蓄えられてきた断片の一つです。多くは焼失したり散逸しましたが、これは幸運にも残っていました。飾りではなく、日常で用いる道具です。中には拭き布や、古い調合の札、あと短い巻物があります。貴女が見て必要だと感じるなら、それは貴女のものです」
橘花はそっと箱の蓋を開けた。中には小さな布包みがあり、さらにその包みを解くと、古びた小さな銀のチャームが現れた。チャームは花の形をしており、表面には見覚えのある文様──マリエルの日誌に押されていた紋に似た刻みがあった。胸の奥が熱くなる。
結の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「これを遠い昔から伝えてきたのです。持ち主の心を映すような小さな印。もし貴女が“癒し”を続けるなら、これはお守りのように役立つと信じられてきました」
橘花はチャームを指先で撫で、やがて封筒に挟まれていた短い巻物を取り出した。そこには短く筆が走り、こうあった——
「綴は知を閉じ込める。ただし、知は人を照らす灯。灯は、道を示すのみ。炎を持つ者の胸を焼くなかれ。」
その一行を読んだ橘花は、静かに目を閉じた。力を持つことは責任を伴う。けれど同時に、与えられたものを守り方を選べるのも自分だ。彼女はゆっくりと顔を上げ、結に向き直る。
「わかりました。綴を見せてください。けれど、ここで交わされる全てのことは“癒すため”に使う、と約束してください。私たちのやり方を壊すための道具にはさせません」
結は深く頷き、そして笑った。その笑顔は安堵と期待が混じっていた。
「ならば、互いの“縁”を紡ぎましょう。遠い親類としてではなく、同じ目的を持つ者同士として」
夕暮れが森を金色に染める中、小さな木箱の中の古物は橘花の掌で静かに光った。外ではメイが新しい花壇の水やりをし、ルークは木刀の手入れをしている。リーウは既に綴の解読に没頭することを約束し、その夜は皆で小さな杯を交わした。
だが、橘花は知っていた。綴の破片がもたらすものは、救いだけでなく、新たな選択肢と責務をも呼び込む —— その種は既に土に蒔かれたのだ、と。




