確変の予兆②
男子生徒を追い返してしばらく。見知らぬ相手に脅迫された彼女をそのまま放置できるわけもなく。
「――すみません、こんなところにまで付き合わせちゃって……」
「別に気にしなくて大丈夫ですよ」
そんなわけできたるは我らが学校の癒し空間代表である保健室。
薬液のニオイがツンと鼻を突く。扉には『用がある生徒は職員室まで』というプレートが掛かっていた。養護教諭は不在。それならそれで構わない。事情を説明することなく悠々と保健室が使えるというものだ。
……しかし保健室に女子と二人とか色々と妄想しちゃいそうなシチュエーションだなあ。
だからといって別にいかがわしいことをしようなどとは欠片も思ってはない。いつかそんな相手ができたらいいな、と妄想することはあってもリアルに実行する度胸などないチキン君なのである。
いやそれ以前の問題として今の店長は恋愛に対して非常に消極的な性格だった。セックスはしてみたいが別にお付き合いまではいらない、みたいな関係に落ち着きたい、それくらい関係性がドライなくらいがちょうどいいのではないか、というのが店長の持論。
というのも、中学時代に割と本気で告白した時に「付き合ってください!」「ごめんなさい!」をノーモーションで頂戴して以来、恋愛に関心が向かなくなってしまったのである。
好きになった相手は一個上の先輩だった。あの時は本当に行けると思っていたのだ。相手との関係も良好だったし、なんなら向こうから積極的に会いに来てくれていたわけで……
月に何度かお弁当を作ってくれたりもしたし、学校行事のイベントで一緒に校内を回ったりしたこともある。校外でも二人きりで夏にお祭り行ったし年末年始の初詣にだって……いやここまでやって自分はなんで告白を断られたんだろうか?
今にして思うと本当に不思議でならない。それとも女子の男子に接する時の距離感ってそれが普通なんだろうか。いやそんなバカな。
女子、難しすぎ問題……
閑話休題。
「とりあえず落ち着くまで休んで行ったらいいと思いますよ」
「はい、そうします……本当に、さっきはありがとうございました」
「いえいえ……あ、そうだ」
店長は思い出したように制服のポケットを漁る。
「これ、もういっこ忘れ物」
取り出したのは、先日彼女が店から持って行こうとした試供品のチョコ菓子だ。ベイクドチョコなので溶けてはいないはず。
彼女はそれを見るなり「あ」と小さく声を漏らして顔を赤くしていった。
「あ、ありがとうございます」と、顔を俯かせてチョコ菓子を受け取る。
……さて、とりあえずあの男子をそのままにはできんだろうし、あいつになんとかしてもらうかな。
店長は不良幼馴染の顔を思い出してスマホのメッセージアプリを起動させる。
『犯罪者なう』
『なんとかして』
などとメッセージを打ち込んで送信。
今は授業中のはずだが、すぐに返信があった。
『なう、とか古っ』
『あんたいつの時代の人間よ』
お前と同じ平成生まれじゃい。
幼馴染のツッコミも無視して例の撮影動画を送り付ける。
『グロ動画注意』
『こいつのこと知ってる?』
今度は少し間があり、
『知らない。ちょい友達に聞いてみる』
『てかこれヤバ』
『ガチの犯罪じゃん』
怒り顔のデフォルメされたオッサンのスタンプが送られてきた。全然可愛くない。
『いや待って』
『この女子アタシの隣の席の奴じゃん』
同じクラスと言うのは知っていたがまさか席まで隣とは思わなんだ。
『てか彼女いま教室にいないんだけどさ?』
『もしかして一緒にいるとかない?』
そういえばここに来ることはまだ誰にも話していなかった。
『今は僕と一緒に保健室にいる』
『ちょっと休ませた方がいいと思ったから』
と、こっちは気を遣ったつもりなのに、
『とか言ってエロいことでもしようとしてたんじゃないの~』
失敬な。こちとら紳士の中の紳士だというのに。
『何もしてないよ』
『ていうか、知り合いなら次の休み時間に迎えに来てよ』
『なんか今の彼女を一人のするのも不安だし』
正直、まだあの男子生徒が彼女を狙っていないとも限らない。
この幼馴染は粗暴な言動の通り、腕っぷしもなかなかのものだ。護衛として付けるにはもっていこいの人材である。
『りょ』
『彼女にそこで待ってるように言っといて』
『あとあんたは昼休みに飲み物おごりな』
いきなりたかってくる幼馴染に苦笑しつつ、店長は『了解』と打ち込んでスマホをポケットにねじ込んだ。
保健室の時計を見上げる。授業が終わるまでまだ時間がある。今行けば半分は受けられるが、さてどうしたものか。
「あの……」
「うん?」
不意に話しかけられて視線を向ける。
「すみませんでした……その、昨日に引き続き、ご迷惑をお掛けして……」
「大丈夫。気にしてないから」
面倒ごとに巻き込まれ感は否めないが、自分から首を突っ込んだことだ。
「でも、なんでそのお菓子を……その、こっそり持って行こうとしたのかな?」
「…………」
「ああ、別に話したくないなら無理には」
「ちょっとだけ……」
「ん?」
「その……あの人には否定しましたけど……わたし、ちょっとだけ、悪い子になってみたかったのかもしれません」
なんとなく真面目な雰囲気を感じて店長は聞きの姿勢に入った。ベッドの傍にハイプ椅子を広げ、彼女と対面する。
「お菓子を持って行くことが、悪いことなの?」
「だって、あれは一人一個までって……」
「ああ、うん。確かにそう書いてあったね」
などと言いつつ、実際にそのルールを守ってくれる人はお客の半々だったりする。
特に小さい子供など、地元の小さな商店とバカにしてか「もーらい!」などと言って一気に持って行かれたこともあるくらいだ。
まあそうでなくとも、アレはもうすぐ消費期限もギリギリだったので、もうそろそろ廃棄目前で個数制限もなくそうと思っていた。
「まぁ、確かにちょっとだけ悪いことかな……でも、なんで悪い子?」
「その……私って、昔からずっと周りから『いい子だね』って言ってもらっていたんです。いつも、どこに行っても『いい子だね』って、褒められて」
「うん」
別にそれで何か悪いことがあるとかそういうことではない。よい子であることは大抵の大人から求められることだ。
「でも、なんでなのか、自分でもよく分からないんですけど……最近、ちょっと『いい子』に疲れちゃって……」
頼まれごとをすればいつも笑顔で引き受けて「助かったよ~」と一言もらって、なにか困っていることがありそうな人を見かけたら、声を掛けたり手助けしたり……「いい子」と言われてその通りに振る舞って、ずっと「そういう自分」を、望まれるままに見せてきた。
教師から「いつも悪いな」とか、クラスメイトから「サンキュー」とか……同じ言葉を貰い続けて……そんなある日、
『あんたさ、なんでいつも周りのパシリになってんの?』
「ちょっと前、クラスの子からそう言われて……そしたら、ふと考えちゃったんです」
誰かの役に立って、頼まれたらいやな顔をしないで引き受けて、いい子になって……それって、ただ周りにとって都合のいい存在というだけで、本当に自分は、そういう人になりたかったのだろうか、と。
「たぶん、周りからしたら、私の悩みなんてありふれていて、とってもくだらないことなんだと思います。でも、私にとってはちょっと衝撃が大きかったみたいで……それで……その……」
言葉を飲み込んでしまった彼女。
店長はその先を代弁するように言葉にする。
「もしかして、だから悪いことをして、自分を変えてみようと思った、っ感じかな?」
「そう、かもしれません……」
「それで試供品を二つ持って行こうと」
「ほ、本当にごめんなさい!」
「うん、まぁ……うん」
悪いことのレベルが可愛い、なんて言ったら不謹慎かもしれないが、おかげであの男子生徒に必要以上に付け入る隙を与えずに済んだ。もしも本当に彼女が万引きをしていたら、庇えるものも庇えなかった。
……確かに、話を聞いた感じだと、そこまで深刻になる様な内容には思えないけど。
しかし、それは他人事であるからこそそう言えてしまうことであり、当人からすればいかに些細なものであったとしても、重大な事として感じてしまうというのはよくある話だ。
……でも彼女の場合、なんとなく解決の糸口っていうのが明確な気がするんだよねえ。
「あのさ、たぶんなんですけど。そのモヤモヤって、君がいい子いることを、周りが『当たり前』みたいに接してくるから、そういうがストレスになって出てきたんじゃないかなあ……って、思うんですよね」
袖振り合っただけの他人。それでも話を聞いていると、なんとなくそんな気がした。
「僕さ、親がいないんだけど……最初の頃は『一人で頑張って偉いね』みたいな感じだったのが、いつの間にか『親がいないんだからしっかりしないとね』みたいな言葉に変わって、親がいないこと前提の上で、頑張るのは当然、みたいな感じのことを親戚に言われて、さすがにムッとしたんですよね」
いつだったか、確か両親が亡くなってから七回忌を迎えた頃だったか。ちょうど叔父から個人商店を任されるようになってきた頃、親戚から言われたのがその言葉だった。
今にして思えば不謹慎が過ぎる発言だったと思うが、当時は色々と一杯いっぱいでそこまで頭が回らなかった。しかし、店長はその言葉に小さく反感を抱いたのは間違いない。
「すみません。悲しいことを思い出させてしまって」
「別にそれはいいんですよ。もう過ぎたことですし、叔父夫婦がいつも僕のことを気に掛けてくれているので」
あの二人には本当に感謝しかない。本当は一緒に暮らそうと提案もされていたのだが、両親の思い出が残る家を、がらんどうにはしたくなった。
「あなたがいい子でいるのはあなたの努力があってこそですよ。ずっとそうあるべき、と頑張って来たのに、さもそれが当然、みたいに言われたら誰だって反発したくなりますよ」
「で、でも……それじゃ私はどうしたらいいですか?」
「うう~ん……じゃあ」
店長はおもむろに彼女の隣に移動して、
「いい子いい子、してあげましょうか?」
などと、ちょっとばかり冗談めかして言ってみた。さすがに冗談、きっと彼女は恥ずかしがるか怒るみたいな反応をするに違いない。
そしたらそのあとで「っていうノリで、頑張ってるんですから誉めてください、みたいに言ってみればいいんじゃないですか」と続けようとしたのだが……
「じゃ、じゃあ……その、お願いします」
「え?」
すると、彼女はそのまま恐る恐る頭を店長の膝の上に乗せて、「ど、どうぞ」と視線だけ振り返りながら口にしてくる。
「……冗談のつもりだったんですけど」
「え、ええっ!? す、すみません! わ、わたわたわたっ!」
「まあ、お許しが出たみたいなので遠慮なく」
女子と触れ合える機会があるなら逃がさない。よく見れば眼鏡越しに見える彼女のお顔はなかなかに愛嬌がある。小動物ちっくで庇護欲をそそられるとでも言えばいいのか。
「よしよし……」
「あ、あうあうあう……」
わざと声を発しながら少女の髪を撫でる。普通はすんごく嫌がられる行為のはずなんだが、自分からOKを出した手前、なすがままの彼女である。こういうところも周りに頼みごとをされてしまう要因なんだろう。
「いつもいい子でいるの、疲れちゃったんですよね」
「は、はいっ」
「でも、辛いと感じても、誰かのためにいい子でいたんですよね」
「はい……」
「それ、きっと誰でもできることじゃないですよ。僕なら絶対に無理です。すごいです」
「そう、でしょうか?」
ガチガチに緊張していた少女の体から、力が抜けていくのを感じていた。
「すごいですよ。もっと自分を誇っていいんじゃないですか。だって、そんなの当たり前にできることじゃないんですから」
「……はい。いつも私、周りのこと、いっぱい気に掛けてるんですよ」
「観察力があるんですね」
「困ってる人がいた時に、声を掛けるのって、ちょっと怖いんですよ」
「それでも話しかけられるのは勇気の証ですね」
「でも、助けても感謝がおざなりなんじゃないかな、って最近感じちゃうんです。私って、わがままですか?」
「周りの皆は感謝が足りませんね。してもらえることは当然でも当たり前でもないのに」
だんだん愚痴っぽくなっていく彼女の頭を、店長はしばらく撫で続けた。
彼女のしてきたことは、当然でも当たり前でもなく、彼女自身がいつも周りを気に掛け、声を掛ける勇気を持ち、いい子であることを努力したからだ。
世の中は、適度に息を抜いて、ちょっとくらい悪い子でいた方が楽だ。
全てをいい子でい続けるのは、むしろ愚かと嗤う者もいるだろう。
だが、今はそれを諭す場面じゃない。必要なのは、ただ受け入れてあげることだけ。
かつて、両親が亡くなって自暴自棄になりかけていた自分を、叔父夫婦がただそのまま受け入れてくれた時のように。
「私、いい子ですか?」
「はい」
「私、頑張ってますか?」
「とっても」
「私、悪い子にならなくてもいいですか?」
「いいと思いますよ。息抜きが必要になったら協力しますから」
「今だけ、甘えてもいいですか?」
「好きなだけどうぞ」
頑張っている人にはご褒美を。
とりあえず、今は自分がそれになろう。
結局、授業が終わるまでの間、店長は会ったばかりの子を褒め続けたのだった。
――それからしばらくした後。
具体的には彼女と出会ってから1週間後に起きる出来事である。
「あの、このクラスに『店長くん』はいますか?」
彼の教室に、これまでほとんど目撃されることなく、言葉を聞いた者さえいないと言われていた……『激シブのたわわさん』が店長を訪ね、教室の中を騒然とさせることになるのだが、それはまだ、少しだけ先のお話。