第43章 不信
紫音が二人目の子供を妊娠した。沙代子を産んだ後、なかなか次の子供が生まれないことにやきもきしていた道灌は、娘の妊娠を心から喜んだ。
「よくやった、紫音」
江戸城に遊びに来た紫音を笑顔で祝福した道灌は、次に六歳になる沙代子の方を向いた。
「沙代子ちゃんも、いよいよお姉ちゃんだな」
道灌にそう言われた沙代子は恥ずかしそうに紫音の後ろに隠れた。沙代子は成長するにつれ沙羅に似てきた。小さな沙羅を見ているのではないかと道灌が錯覚するほど似ていた。性格的にも、幼い頃の活発さが次第に影を潜め、沙羅のようにおとなしく、思慮深く、外で遊ぶより室内で読書する方を好む、やや内向的な少女に変わりつつあった。そんな沙代子に和歌を教え、長男の鶴千代には剣術を教えるのが、この時期の道灌にとって最大の喜びだった。
「次は男の子かな? 女の子かな?」
道灌がそう言うと、紫音が笑った。
「父上は男の子を希望していらっしゃるのですね?」
「いやいや、そんな事ないよ」と、道灌は首を横に振った。「また沙代子みたいな可愛い女の子が生まれてくれば嬉しいよ」
「男の子が生まれたら、ご自分の後継者候補にするつもりなのでしょう?」
「うーん、やっぱりそうなるのかなぁ・・・」と、道灌は考え込んだ。「本当は資忠と資雄にぜんぶ任せるつもりだったんだよ。だけど、あいつらが死んじゃったから、太田家を継ぐのは鶴千代しかいなくなってしまった。万が一、鶴千代に何かあったら、どうなる? それを考えると、無意識のうちに男の子を求めていたのかなぁ? 紫音には申し訳ないけど」
「わたしだって太田家を潰したくありません」
「そうだろう? そうだよね? その為には紫音ちゃんに、少なくてもあと二、三人、がんばって子供を産んでもらわなくては・・・」
「そう言う父上の方は、その後どうなのですか?」
「え? 俺?」道灌は驚いて素っ頓狂な声を出した。「俺は無理だよ。もう年だもの」
「またまた」
「またまたじゃねえよ。真実そのものだよ」
「義母上さまに、よくお願いしとかなくちゃ」
「紫音、おまえ、自分の父親を殺すつもりか?」
「またまた」
「だから、またまたじゃねえって。ホント勘弁してよ、紫音ちゃん」
文明十七(1485)年三月、紫音が男子を出産した。道灌が大喜びしたのは言うまでもない。資忠の幼名と同じ亀千代と名付けた二人目の孫を抱いた五十四歳の道灌は、しみじみと人生の幸せを噛み締めていた。
(今この瞬間に死ねば、俺の人生はまずまずの出来だったと言えるのかな?)
しかし、道灌の周囲は良い事ばかりではなかった。このところ扇谷上杉家との関係がすっかり冷え切っていたのである。道灌が糟屋館を訪れても、当主の上杉定正は病気を理由に会おうとしなかった。それが偽りであり、面会を拒絶する本当の理由は自分への不信感にあると見抜いている道灌は何度か弁明書を送ったが、さっぱり埒が明かないので、旧知の間柄である曽我兵庫を糟屋館内の一室に呼び、定正への取り成しを頼んだ。
「兵庫の方からうまく言ってくれないか、俺には謀反の意志など無いということを」
「はぁ、わたしも家宰さまに限って、そういう邪な考えを持つはずが無いと申し上げているのですけど」
「おまえは俺の性格をよく知ってるだろう?」
「ええ、存じあげております」
「一時期はずっと一緒にいたものな」
「はい、二人して領内の新田開発に勤しんでいた頃が懐かしいです」
「そうそう、沙羅と初めて会った時も、たしか兵庫が一緒にいたんだよな?」
「ええ、若さまの顔がたちまち紅潮して、これは一目惚れしたな、とすぐにわかりました」
「その若さまというのはやめてよ。もう立派なジジイなんだから」
「あ、これは失礼いたしました」兵庫はペコリと頭を下げた。「つい昔の癖が出てしまいまして」
「とにかく俺の性格や人間性を知り尽くしている兵庫なら、お館さまを納得させられるはずだから、何とか頼むよ」
「はい、努力いたしますが、ただ・・・」
「ただ何だい?」
「念のために再度確認させて頂きたいのですけど、本当に謀反のご意志は無いのでしょうね?」
「え?」と、道灌は驚いて思わず体を後ろに引いた。「今までの話は何だったんだよ?」
「もちろん家宰さまの言葉を信じておりますが、わたしも今ではお館さまの側近として扇谷上杉家を支える身ですので、念には念を入れて確かめたいのです」
「相変わらず生真面目だね、兵庫は。マジで感心するよ」
「単なる情で動くわけにはいかないのです。しっかりとした確信がありませんと。なにしろ扇谷上杉家の命運がかかっておりますので」
「それじゃ、はっきり言うけど、無いよ。ぜんぜん無いよ」
「なぜわたしがしつこく確認するのかと申しますと、お館さまを含め皆がこう思っているからです」
「どう思ってるんだい?」
「俺が道灌だったら謀反を起こす、と」
「はぁ?」
「今や家宰さまはお館さまを凌ぐ実力をお持ちです。それなのに黙って扇谷上杉家に従属しているのはおかしい。理不尽だ。おとなしく家臣の地位に留まっているはずがない。いずれ主家を乗っ取るつもりだろう・・・誰もがそう考えているのです」
「ま、そう思われても仕方のないところはあるけど・・・」
「本当に謀反を起こす気は無いのですか?」
「だから無いって」
「なぜ無いのですか?」
「なぜって言われても・・・それは歴史とか、伝統とか、俺の性分とか、昔からの決め事とか、色々あって・・・」
「これまで謀反を考えたことは、ただの一度も無いのですか?」
「それは・・・」
兵庫の目が「ん?」と光ったので、道灌は慌てて答えた。
「無いよ、もちろん」
「あるのですね?」
「一切ありません」
「資忠どのが戦死した時も?」
「うっ」
「どうなのですか?」
「ありません」
「わかりました」そう言って兵庫は静かに立ちあがった。「家宰さまのことは、再度わたしからお館さまによく話をして、誤解を解くように努力いたします」
「・・・ああ、よろしく頼むな」
兵庫は一礼して退室した。
(あいつなら俺の事をちゃんとわかってくれていると思っていたのに、そうでもないみたいだな・・・兵庫も今は扇谷上杉家の人間だから仕方がないか・・・気の許せる相手でなくなったかと思うと、ちと寂しいな・・・)
そう思うと道灌は、しきりに昔が恋しくなった。
「うつし植ゑて 共に老木の 桜花 なれも昔の 春や恋しき」
文明十七(1485)年十月、道灌は相国寺の禅僧ながら歌人として著名だった万里集九を妻子共々江戸城に招いた。万里集九は江戸城内に滞在し、北宋の詩人・黄庭堅の詩の講義をおこなったり、道灌と共に歌会を主催したりした。道灌としては、文化的活動を熱心におこなうことにより、自分には謀反の意志など無いと世間に表明したつもりだったが、結果的には道灌の名声をさらに高め、定正からなお一層きらわれる羽目になってしまった。
この頃、兵庫から道灌に連絡があり、謀反の意志が無い証しとして、長男の鶴千代を元服させた上で、扇谷上杉家へ出仕させるよう要請された。早い話が人質である。
道灌は扇谷上杉家を自分の主家として大切に思っていたが、それよりも何よりも大切に思うのは家族であり、たとえ扇谷上杉家といえども、自分の家族の生命や安全を脅かす行為に出れば、容赦なく叩き潰す肚でいた。また、道灌が愛着を抱いているのは、あくまでも扇谷上杉家そのものであって、当主の上杉定正を個人的に敬愛していたわけではないし、それどころか逆に定正の人間性を疑っているくらいだった。それゆえ、大切な一人息子である鶴千代を扇谷上杉家へ出仕させるなど論外もいいところで、道灌としては絶対に認めるわけにはいかなかった。ただ、正面から断れば角が立つので、都鄙合体の証しに鶴千代を古河公方府に出仕させるという理由で断った。前公方の足利成氏は何十年も敵対した相手だが、人間的には定正などよりずっと信用できる、道灌はそう考えていたからである。
同年十二月、鶴千代は十歳で元服し、名を資康に改めた。息子の成人を喜んだ道灌だったが、古河へ送り出す際は別れのつらさに涙した。しかし、資康を守る為には、こうするしかなかった。資康を見送る道灌の目からは涙が溢れ続けた。




