第35章 南関東での戦い
紫音から初孫の誕生は翌年初夏の予定と聞いて、道灌は新しい年が来るのを今か今かと待ちわびた。
年が明け、文明九(1477)年になった。
五十子陣では、山内上杉家の当主で関東管領の上杉顕定、山内上杉家の家宰・長尾忠景、扇谷上杉家当主の上杉定正ら両上杉家の人間および両上杉家に従属する国衆らが一堂に会し、新年を祝う行事が連日に渡って執り行なわれた。ただし、扇谷上杉家の家宰である道灌は病気による体調不良を理由に欠席した。自分の意見に耳を貸さない首脳陣にむかっ腹を立て、仮病を使ったのである。ただ、そのままでは謀反の意志があると疑われかねないので、代わりに道灌の父親で扇谷上杉家の前家宰である道真が出席した。久しぶりに公の場に登場した道真は上機嫌で酒をグイグイ飲んでいた。
新年の行事が無事すべて終わって、集まった国衆たちがそれぞれ自分の領地へ戻り、顕定、忠景、定正、それに道真だけがわずかな家臣と共に居残っていた、正月気分がまだ抜けきれていない、のんべんだらりんとした雰囲気の五十子陣に、十八日の早朝、長尾景春率いる二千五百の兵が襲い掛かってきた。不意をつかれた上杉側は大慌てで防戦したものの、なにしろ残っていた兵の数が少なく、しかも相手は五十子陣を知り尽くした景春であるから、難攻不落と謳われた城塞もわずか一日であっけなく陥落し、顕定、忠景、定正、道真の四人は命からがら北の白井城へ逃げていった。
景春が五十子陣を占領したという知らせが届くと、江戸城に緊張が走った。
「とうとう恐れていた事態が現実になったか」
こうなると道灌も仮病で寝ているわけにはいかない。
「この先、どうなるのでしょう?」
厳しい表情を見せる明子に、道灌は疲れたような笑顔を向けた。
「俺が何とかするから心配するな」
「この場合、早さが勝負の分かれ目になると思いますが」
「俺もそう思う」
道灌はすぐに出陣しようとした。しかし、道灌を自らの野望を阻む最大の障壁と捉える景春は、その動きを封じる策を予め用意していた。
江戸城と扇谷上杉氏の重要拠点である河越城を結ぶ線の途中、ちょうど現在の東京都豊島区あたりを支配していたのが豊島泰経・泰明兄弟であり、それぞれ石神井城と練馬城を根城にしていた。泰経の妻が景春の妹であるため両者の絆が強かった上に、もともと隣地の江戸とは領地をめぐって諍いがあったので、景春が挙兵するや豊島兄弟もそれに呼応して兵をあげた。これにより景春はまず江戸城と河越城の連携を絶つ事に成功した。
さらに景春の昔からの仲間である溝呂木城の溝呂木正重、小磯城の越後五郎四郎、小沢城の金子掃部助、小机城の矢野兵庫が反乱を起こし、扇谷上杉家のお膝元である相模国を混乱に陥れた。
これらの仕掛けにより道灌を南関東に縛り付けておき、その間に北関東すべてを自分の支配下に治めようというのが、景春の立てた作戦だった。
「小癪な。そんなもので俺が止められるかよ」
景春の企みが手に取るようにわかる道灌は、ひとまず景春のもとへ和議の使者を送り、また景春のもとから派遣されてきた使者を江戸城で歓待してダラダラと時間稼ぎをしつつ、相模国から援軍を呼び寄せて最初に豊島兄弟を攻撃しようとした。ところが、間の悪いことに多摩川が氾濫し、援軍が江戸に来れない状況になった。
「そんなら作戦変更だ。相模から片付けよう」
臨機応変な対応が信条の道灌は、三月、糟屋にいる資忠に溝呂木城を攻撃させた。いつものように長男の資雄を伴って出陣した資忠は、たちまち溝呂木城を落とし、その勢いのまま小磯城も落とした。
「さすが資忠だ」
道灌は今更ながら頼りになる弟の働きを賞賛した。
多摩川の氾濫が収まったので道灌が資忠に合流し、二人は小沢城を攻め始めた。しかし、小沢城は守りが固く、簡単に落とせそうになかった。そこで道灌はいったん引き、河越城が小机城の矢野兵庫に攻められる危険があったので資忠を救援に向かわせ、自分は豊島兄弟討伐のため江戸に戻った。
四月、相模国から三浦氏らの援軍を得た道灌は、江戸城を出発して豊島兄弟への攻撃を開始した。練馬城に押し寄せた太田軍は城に向かってさんざん弓を放ち、城が落ちそうにないと見るや、城下に放火して逃げていった。
練馬城主・豊島泰明は燃えさかる城下を目にして、
「道灌の奴、汚い真似をしやがって」
と怒り狂い、兄の石神井城主・豊島泰経に連絡して一緒に太田軍を追撃しようと持ちかけた。承諾した泰経は豊島家に代々伝わる家宝である金の乗鞍を付けた自慢の白馬に跨り、意気揚々と出陣した。太田軍を追って豊島軍が江古田原にさしかかった時、待ち受けていた伏兵が急に襲い掛かってきた。練馬城下に放火して退却したのは、豊島兄弟を誘い出す道灌の罠だったのである。豊島軍は大混乱に陥った。その中にあっても泰明だけは、
「逃げるな! 戦え! 敵を殲滅せよ!」
と大声で味方を鼓舞しながら奮戦し、一人で十七名もの太田軍兵士を討ち取ったが、最後は力尽き壮絶な討ち死にを遂げた。泰経の方は命からがら石神井城へ逃げのびた。
ちなみに、この江古田原の戦いの時、道灌を救った黒猫の伝説が伝わっており、東京都新宿区西落合の自性院に今も猫地蔵が祀ってあるが、本作では取り上げない。
休む間も無く太田軍は石神井城を取り囲んだ。
「もはやこれまでか・・・」
泰経は降伏を申し出た。道灌は降伏の証しに石神井城を自ら破却せよと言い渡した。
(先祖代々受け継いできた城を自ら破却しろだと?)
さすがに泰経も、そこまでの恥辱は受け入れられなかった。そんな情けない真似をして生き恥を晒すくらいなら、石神井城と共に滅亡する道を選ぶしかなかった。道灌も泰経が石神井城を破却するとは思っていなかった。しかし、反逆者に対してはことさらに厳しい態度をとらないと、また次の反逆者が現れるおそれがあるので致し方ない処置だった。
石神井城と共に滅ぶ道を選んだ泰経は、城内に残っていた女子供ら非戦闘員を城外へ逃がした。泰経には照姫という男まさりの気性の激しさを有した美しい娘がいたが、彼女は「父上、わたしは逃げません」と泰経に宣言した。
「最後まで父上のお供をいたします」
「しかし、おまえ・・・」
「生き残って反逆者の娘という汚名を着るくらいなら、死んで道灌の非道さを世に訴えてやります」
「本当にそれで良いのか?」
「ええ、道灌のクソ野郎に、われら豊島一族の誇りと肝っ玉を見せてやりましょう」
道灌は泰経が一向に石神井城を破却しようとしないので降伏の意志なしと判断し、総攻撃を開始した。たちまち石神井城に落城の時が迫ってきた。泰経は金の乗鞍を付けた白馬にまたがり、
「さらばじゃ」
そう言い残すと、太田軍の兵たちが見守る中、城の背後にある崖から白馬もろとも三宝寺池に飛び込んだ。続いて照姫が
「父上、お供いたします」
と叫ぶや、泰経のあとを追って三宝寺池に身を投げた。赤い羽織がひらりひらりと可憐に空中を舞った。それはまるで絵巻物の一巻のような、芝居の一場面のような美しさだった。二人の最期を見届けた太田軍の兵たちは、みな感極まって涙した。
石神井城が落城した後、照姫の話を聞いた道灌は最初「可哀想なことをした」と痛ましい思いを抱いたが、やがてそれが
「それにしても実にあっぱれな娘だ。俺の負けだな」
という称賛の気持ちに変わった。
(同じ状況になれば、たぶんウチの紫音も、照姫のように身を投げるだろう。紫音はそういう気性の女だものな)
他人事と思えなくなった道灌は、三宝寺池のわきに照姫を弔った塚を築かせた。この塚は現在も姫塚と呼ばれて現存している。
なお、照姫の話は明治時代の作家・遅塚麗水による創作らしいが、本作は歴史書ではなく小説なので、もともと中身は作り話だらけであるという事を、念の為お断りしておく。
さて一方、資忠が救援に向かった河越城だが、予想通り小机城の矢野兵庫率いる軍勢が攻め寄せてきた。
(河越城には少数の兵しか残っていないはずだから、奴らは外へ出ず、籠城戦を選ぶだろう)
矢野兵庫はそう予想して不用心に接近してきた。しかし、資忠は敵の裏をかき、途中の勝原に伏兵を忍ばせていた。そうとは知らず勝原を悠々と通過する矢野軍に突如、待ち構えていた資忠の伏兵が一斉に襲い掛かった。
「それ、皆殺しだ!」
この奇襲で大混乱となった矢野軍はたちまち多くの兵が討ち取られ、矢野兵庫も大怪我を負って小机城へ逃げ戻った。
この後、残していた小沢城も太田軍の再攻撃により落城した。わずか三ヵ月ほどで南関東の反乱を鎮圧した道灌は、降伏した兵を自分の傘下に収めたので、太田軍は一挙に膨れ上がり、大軍勢となった。事実上、南関東を支配する大名である。下剋上の申し子・伊勢新九郎なら、この段階で独立していたであろう。しかしながら、頑なに上杉家の家臣であるという立場を崩そうとしない道灌は、五月に入ると上野国へ逃げた上杉勢を救出すべく、北へ向かって進軍を開始した。
(まさかこんなに早く兄上が北上してくるとは)
想定外の事態に景春は動揺の色を隠せなかった。




