第1章 不穏な関東
源頼朝が鎌倉に幕府を作り、政治の中心はそれまでの京から鎌倉へ移った。鎌倉幕府が倒れて足利尊氏が京に幕府を作ると、再び政治の中心は京に戻った。その時、鎌倉はどうなったのか? 頼朝が入る以前の寂れた漁村に戻った・・・私は漠然とそう思っていた。なぜなら、私が学んだ歴史の教科書には、その後の鎌倉の話が書かれていなかったからである。しかし、鎌倉は寂れた漁村に戻ったわけではなかった。室町時代になっても鎌倉は東国武士の都として栄え、政治上の重要性は些かも損なわれていなかったのである。
そんな重要拠点である鎌倉に足利尊氏は鎌倉府という役所を置き、長男の足利義詮を鎌倉府の長官である関東管領に任命して送り込んだ。その後、幕府の政務を一手に担っていたキレ者の弟・足利直義と争った観応の擾乱が勃発した為、尊氏は義詮を京へ戻して直義の代わりに政務を担当させ、新たな関東管領として次男の足利基氏を鎌倉へ送った。
鎌倉から京に戻った義詮は尊氏の後を継ぎ第二代将軍になったが、この義詮は至って凡庸な男だった。一方、鎌倉へ遣わされた弟の基氏は利発で才気溢れる有能な男だった。それゆえ基氏は自分に与えられた地位が不満でならなかった。
(なぜ義詮が将軍で、俺が関東管領なんだよ。あいつは先に生まれたというだけで、他には何の取り柄も無い単なる木偶の坊じゃねえか。あんな能無しが俺の上に立つのは我慢できない。だいたい関東管領という呼び名は何だ? 俺は細川や斯波や畠山のような足利家の執事じゃねえんだぞ。同じ父上の子供で同格なんだぞ。それなのに、これじゃまるで俺が義詮の家来みたいじゃねえか。ふざけんな。こんな呼び方は許さないぞ、絶対に)
基氏は自らを鎌倉公方と称し(関東公方とも呼ばれた)、最初のうちは入れ代わり立ち代わり人が変わったものの、最終的には上杉憲顕を関東管領に任命して、京の管領が将軍を補佐するのと同様に、鎌倉公方を補佐する役職とした。こうして京では義詮の子孫が将軍職を世襲し、鎌倉では基氏の子孫が鎌倉公方職を、上杉氏が関東管領職を世襲することになったのである。
関東管領職を世襲する上杉氏は下級貴族の家柄であり、鎌倉時代に宗尊親王が皇族初の将軍に就任した際、親王に従って鎌倉へ下向し、武家となった。当初は目立たぬ存在だったが、室町時代になると足利尊氏の生母が上杉家の出身であったため幕府内で勢力を伸ばし、関東管領という東国におけるナンバー2の地位を得るに至った。「京の将軍より俺の方が上だ」と考える基氏に始まり、歴代の鎌倉公方は何かというと幕府にたてつき、張り合う態度をとったので、関東管領には幕府と鎌倉公方との間の融和を図る役目が求められ、実際に関東管領はしばしば鎌倉公方の専横を諫めた。応永六(1399)年、西国の有力守護大名である大内義弘が第三代将軍・足利義満に反旗を翻した応永の乱が起きた際には、三代目鎌倉公方・足利満兼が義弘に呼応して出兵しかけたが、当時の関東管領・上杉憲定の諫止により断念した。このような事があったので、鎌倉公方側は関東管領を幕府の手先と見なし、両者の仲は険悪になっていった。
鎌倉公方と関東管領の対立が戦乱に発展したのが、応永二十三(1416)年に起きた上杉禅秀の乱である。四代目鎌倉公方・足利持氏が、当時の関東管領・上杉禅秀の家人・越幡六郎を些細な罪で処分し、その所領を没収するという事件が起きた。禅秀は持氏に抗議するものの聞き入れてもらえなかったので、怒って関東管領を辞職した。すると持氏は、すぐさま上杉憲基を新しい関東管領に任命した。
上杉氏は当時、犬懸、山内、扇谷、託間の四家に分かれていた。各家の屋敷が建っていた鎌倉の地名が名前の由来である。この中で禅秀の犬懸上杉家と憲基の山内上杉家が有力で、関東管領は両家から交替で選ばれていた。禅秀が辞意を表明するや一言の遺留も無しに、それどころか待ってましたとばかりに憲基を関東管領に任命した持氏のやり口は露骨な犬懸上杉家外しであり、持氏と山内上杉家による犬懸上杉家潰しの陰謀である事は明白だった。激怒した禅秀は公方御所を急襲した。持氏は駿河へ逃げ、普段の反抗的な態度はどこへやら、恥も外聞もなぐり捨てて京の幕府に救援を求めた。
これまでの流れからすると、小憎らしい鎌倉公方なんか見殺しにして関東管領の方を援助するのが、幕府の方針であったはずである。しかし、今回はそうならなかった。この時の将軍は、第四代・足利義持。この人は室町幕府の絶頂期を築いた偉大な父である第三代将軍・足利義満の業績をすべて否定した将軍であり、義満が建てた北山第は金閣を除いて取り壊し、将軍家の金づるだった勘合貿易もやめてしまった。どうしてそうなったかというと、義満が異母弟の足利義嗣を溺愛し、義嗣に将軍職を譲ろうとしたからである。もし義満が急死しなかったら、おそらく義持は廃嫡されていたであろう。そんな憎っくき義嗣が、禅秀それに南朝の残党と組んで幕府転覆の陰謀を企んでいたのである。こうなると幕府としては関東管領の側につくわけにはいかない。義持は逃げていた義嗣を捕らえさせて処刑し、持氏のところへは駿河国守護・今川憲忠率いる援軍を送った。禅秀は討ち死にし、乱は終息した。それと共に犬懸上杉家は没落し、山内上杉家が関東管領職を独占するようになり、扇谷上杉家がその補佐役として頭角を現してきた。
上杉禅秀の乱を幕府と鎌倉公方が協力して鎮圧したことにより、両者の関係が好転するかと期待されたが、そうは問屋がおろさなかった。義持のあとを継いだ第五代将軍・足利義量が子供の無いまま他界したので、持氏は「今度こそ俺の出番だ。俺が第六代将軍だ」と大いに期待した。ところが、実際に選ばれたのは、義持の弟の足利義教だった。それも、あろうことか、籤引きで選ばれたのである。
(籤で将軍を選ぶくらいなら、最初から俺にすれば良いじゃねえか。俺ほどの適任者は他にいないのだから。それなのに俺は籤引きの一員にさえされなかった。幕府は最初から俺を将軍にする気が無いんだ。ふざけんな。そっちがその気なら、こっちだってやってやんぞ)
憤慨した持氏は、永享十一(1439)年、憲基の息子で当時の関東管領だった上杉憲実を襲った(永享の乱)。しかし、今回は幕府転覆の陰謀など無かったし、しかも将軍は「万人恐怖」と恐れられたほど情け容赦の無い義教だったので、幕府はすんなり憲実に味方し、哀れ持氏は自害に追い込まれた。持氏の死により鎌倉公方という存在は消滅し、関東の地は関東管領が治めることになった。その関東管領である憲実は、主家である足利持氏を自害に追い込んだ事で深い罪の意識に苦しむようになり、幕府に辞任を申し出て出家し、隠遁生活に入った。贖罪の念に取り憑かれた憲実は、自分の子供にあとを継がせる事さえも拒否した為、憲実の実弟・上杉清方が、最初は代理という名目で関東管領職を継いだ。
一年後、持氏の遺児である春王丸と安王丸を擁立した結城氏朝が、関東管領の支配に対して謀反を起こした(結城合戦)。昔から関東に根付いている武士の中には、源氏の名門・足利氏に支配されるのは許せるとしても、京の公家あがりの上杉氏に主人面されるのは我慢ならないと考える者が多かったのである。この反乱も幕府と関東管領により鎮圧されたが、鎮圧までに一年もかかっている。それだけ上杉氏に対する関東武士の反感が根強かったのであろう。結城氏朝は討ち死にし、春王丸と安王丸は処刑された。ただ、持氏のもう一人の息子・万寿王丸(後の成氏)は、京で将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱が起きた為、そのどさくさに紛れて信濃の大井持光に預けられ、命が助かった。
文安元(1444)年、関東管領・上杉清方が亡くなった。先の関東管領・上杉憲実が相変わらず自分の子供に関東管領職を継がせるのを拒否していたので、何と関東は鎌倉公方のみならず関東管領までもがいなくなるという異常事態に陥った。
このように、京で応仁の乱が起きる約五十年前から、関東では幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領が対立し、ずっと大混乱に陥っていたのである。混乱状態は応仁の乱が終わった後も続くことになる。そして、関東管領側を実際に主導していたのは、山内上杉家と扇谷上杉家の家宰(江戸時代の藩における筆頭重臣である家老に該当する役職)、すなわち長尾氏と太田氏であった。長尾氏は桓武平氏の流れをくむ一族で、上杉氏が京から鎌倉へ下向した際に家臣として従い、やがて山内上杉家の家宰に抜擢された。太田氏は以仁王と共に平清盛に対して挙兵した源三位頼政の後裔で、やはり上杉氏に従って鎌倉へ下向し、扇谷上杉家の家宰に取り立てられた。
この太田家に、永享四(1432)年、本作の主人公である鶴千代(元服後は資長と名乗る)が誕生した。後の太田道灌である。鶴千代は扇谷上杉家の家宰・太田資清の長男として鎌倉で生まれた。先ほど述べた永享の乱が起きる七年前のことで、持氏と幕府そして関東管領の関係が、じりじりと沸点に向かいつつある時期の誕生だった。