第四章 音影
第四章 音影
◇中学三年 初夏◇
モノクロの世界で、彼女は眠っていた。
真っ白な花の中に埋もれたその体は、もう二度と動かないらしい。あまりにも唐突なできごとだった。偶然、通学路で起きた乗用車どうしの事故。夢羽は運悪くその巻き添えとなったのだ。
部屋の中は残酷なほど静かだった。空気は、昼なのか夜なのかわからないくらい無機質で、俺の感覚を麻痺させた。彼女の白い肌までもが、作り物のように思えてきた。
俺は夢羽の頬に手を当てて、その上を指先でなぞってみた。もしこれが芸術品だとしたら、ルーブル美術館に眠る作品をも凌駕するだろうなと思った。生前、触れることのなかった彼女のぬくもり。俺は一度として彼女の体温を知らないまま生きていかなければならなくなった。
次の瞬間、俺は音楽室にいた。グランドピアノの前に座った夢羽は、俺を見て悲しそうにほほ笑むと静かに演奏を始める。俺は彼女の傍らでその音に耳を傾けていた。演奏が終わって、閉じていた瞳をあけると、そこにはもう彼女の姿はなかった。最後に、囁くような声で「ごめんね」という言葉だけが聞こえた。俺は涙を流しながらピアノの鍵盤の上に倒れかけた。
そして、そこで目が覚めた。
「ちょっと、大丈夫? 疲れが溜ってるんじゃないの?」
目の前に立っていたのは梶原先生だった。俺は慌てて姿勢を立て直すと、膝から落ちそうになるトランペットを手にとって頭をかいた。
「あれ? もしかして俺、寝てましたか?」
「ああ。完全に、もしかしちゃってたよ。最近、修学旅行の準備でいろいろ仕事を任されてるんだって? 夜遅くまで頑張るのは結構だけど、あんまり頑張り過ぎるなよ」
「はい。すいません。不覚でした」
「今日は全体での合奏やめとくよ。帰ってもいいからね」
たっはっは、と笑いながら個室を出ていく梶原先生。俺はそんな寛大な先生に感謝しつつも、今しがた見たばかりの夢の内容があまりにリアルで鳥肌を立たせていた。きっと、先日二人で観に行った映画の内容が頭から離れずに残っているんだ。こんな夢はそうそう見れたものじゃない。異常なまでの恐ろしさだったので、今度手紙に書いておこうと思う。
『佑くんの夢の話を読んで、涙が出てきた。あぁ、やっぱり私たちは繋がってるよ。どこかで。だって、私もそんな夢を見たコトあるんだもん。本当に。佑くんがいなくなっちゃうんじゃなくて、自分が他界する夢。理由はわからないけど、何かで私が死んだの。それで、幽体離脱みたいな感じで、自分の葬式とか、周りの人の様子とかが見えたの。その中に、佑くんの姿があった。
佑くんは、放課後の音楽室で泣いていた。それでね、佑くんの肩に触れようとすると、手がスッ…て透きとおるの。声をかけても、思い切り叫んでも届かない。私の目にも涙が溢れたけど、それは床に落ちるとすぐに消えた。それでも、何度も何度も言葉をかけた。できるだけ明るい話をして、佑くんを励まそうとした。けれど、何もかも届かなかった。最後に、泣き崩れながら「ごめんね」って言ったの。そしたら、それが届いたのか、佑くんはこっちを見てくれた。佑くんは、謝り続ける私の頭を優しくなでてくれた。
「生きてるうちに、こうして欲しかったな」って私はつぶやいた。そしたら、佑くんが「生きてるよ」って言ってくれた。それで、「ありがとう」って言おうとしたら、部屋の天井が見えて起きたの。そしたら、私、本当に泣いてた! しかも、「ありが……」って言いかけてた! 妹に聞かれそうになって、本当に危なかったよ!
私、それ以外にも、何度も佑くんがいなくなる夢をみたことがあるけど、やっぱり夢でも耐えきれないよ…! だから、もう離さないで。お願い。ずっとそばにいて』
二人で映画を見に行った日は、あいにくの雨だった。俺たちは一本ずつ傘をもって歩いていた。どうしてわざと忘れなかったのだろう。そんなことを思った。
俺は常に夢羽の少し先を歩いていた。彼女は街中で知り合いに鉢合わせするのを恐れていたので、できるだけ誤魔化しが利くようにと配慮したのだ。でも、それだと全くデートをしている気分にはなれなかった。「せめて、手ぐらい繋げよな」。一樹の言葉が脳裏に蘇る。うるさい。黙ってろ。俺だってそのつもりなんだ。
それで結局、俺は彼女の手を取ることができなかった。
今なら、「天体観測」の歌詞の意味がよく理解できる気がした。
彼女に触れられなかったのは、恥ずかしかったからじゃない。また一つ何かが変わっていくことが怖かったからだ。
◇中学三年 夏◇
うだるような暑さが続く毎日。吹奏楽で最も熱い夏のコンクールが終わると、その勢いで夏休みまでもが通り過ぎていこうとしていた。
『一年の月日って、長いようで短くて、短いようで長いよね。本当に。一年前と比べて、自分は少しずつ成長したと思うんだ。それは自分の力だけじゃなくて、ほとんどが周りの人々のおかげだと思ってる。いろんな人に支えられ、いろんな人に教えられてきた。やさしさの意味、やりとげた時の喜び、物事をみるいろいろな視点。今思い返すと、些細なことがすごく大切だったような気がする。そして、本当に「私は一人じゃない」ということを知ったのは、あのXの事件の時……』
Xの事件というのは、今でも記憶に新しいことだった。
それは、俺が修学旅行で学校から姿を消している最中に起きたことだ。その二日目、夢羽は遠く離れた場所で、これ以上ないほどのダメージを受けていたのだ。
夢羽には、不登校になっている友達Xがいた。夢羽はこんな性格だから、そのXの相談に乗ってあげたり、できる限りのアドバイスをしてあげたりと尽力していた。それでも、XはXで、どうも大して努力をしているふうでもなかった。それどころか、どこか開き直ったようなところまであって、一生懸命に悩んでいる夢羽を困惑させることが多かった。
そんな時、Xはふらりと学校に姿を見せた。自分がどれだけ誘っても学校に来てくれなかったXが、こんなにもあっさり現れるなんて。夢羽はXのことが理解できないで苛立ちを覚えた。
『来たかったから、来たの』
Xは夢羽の励ましの言葉など大して関係なかったかのようにそう言った。悪びれる様子は全くなく、それはむしろ夢羽の反応を楽しんでいるようにすら見えたらしい。
夢羽は強い憤りを感じて、Xに挨拶なしに一人で帰った。どうしてXは私の気持ちを無視するんだろう。どうして私が苦しんで、彼女が笑っているんだろう。夢羽は自分のしてきたことが虚しく思えて、その悔しさに思わず涙した。
そして、夢羽のもとにトドメの一手が加わる。
夢羽がいつも通りピアノのレッスンを前に復習していると、一本の電話がかかってきた。電話の相手は、Xの母だった。
「Xが泣いて帰ってきたの。『夢羽ちゃんにシカトされた』って」
え……なに……? 私が、Xをシカト……?
それはおそらく、声をかけずに帰ったことだった。Xは夢羽に声をかけてもらえなかったことを恨んで、そんなことを言い出したのだ。
「私、シカトなんてしてません」
「でもね、Xがそう言ってたの。『シカトされ―――』
「してません!」
夢羽は強く否定した。すると、彼女の中で何かの糸がプツリと切れた。夢羽は受話器を持ったまま、泣き出してしまう。しかし、Xの母は構わずに続けた。
「Xはね、やっと部活に行くようになったの。親としてはとても嬉しいの。だから、優しくしてあげて。夢羽ちゃんだけが頼りなのよ」
……は?『優しくしてあげて』って?『夢羽ちゃんだけ』って?
夢羽は声をあげて泣き出した。Xの母はまだ続ける。
「泣かないで。Xももうすぐ元気になるから。一緒に頑張ろう。ね」
―――何を言ってるの? この人は、何を勘違いしているの?
夢羽は心の中で叫んだ。
私はXが学校に来ない寂しさで泣いているんじゃない。Xと、Xの母が、私とはあまりにも違っていることがわかって、やるせない気持ちになって泣いているんだ。被害妄想を膨らませるのは勝手だけど、私のことを理解したつもりになるのだけはやめて。私はあなた達のこと、理解できてない。「分かり合える者どうし、頑張りましょう」だなんて思わないで。私に、これ以上何を押し付けるつもりなの?
夢羽はボロボロになるまで泣き続けた。自分の気持ちを真っ向から踏みにじられたような深い傷が、心に残った。
『あのXの事件で、私はいろんな人に支えられた。私は一人じゃないんだって、心から感じることができた。佑くんの「弱くなっていいんだよ」っていう言葉、今でも覚えてる。遅れたけど、お礼を言うね。ありがとう。私も、大切な人を支えられる自分になりたい。今より、もっと』
誰かを理解するっていうのは、本当に骨の折れる作業だ。まず、自分の中にそれだけ大きな器がなければいけない。
でも、人間ってのは、普通、自分を理解するだけでもその器を使いきってしまうようにできているものだ。だから人は皆、まずは相手を「理解する」ことは保留して、「知る」ことから始める。知ることだって簡単な作業ではないけれど、理解することよりはまだマシなものだ。
だとしたら、俺は夢羽のことをどれだけ知っているだろう。俺には自信がなかった。西田のこともある。俺は夢羽に関しての思い出や記憶の量では、確実に西田に完敗だった。彼女のことを誰よりも大切に思っているはずの自分が、こんなことでどうするんだ。俺は改めてそんな焦りを感じることが多くなった。
『あのね、佑くん。確かに、「私は佑くんの全てを知っている」とは言えない。言うと、嘘になってしまう。佑くんもそうでしょう? だけど、私は佑くんの全てを知らなくても知っていても、佑くんのことが好きだよ。だって、今知らないコトはこれから知ることもできるし、たとえ知らないままでも気持ちは変わらないもん。私のすべてを知っているのは「わたし」。佑くんの全てを知っているのは「佑くん」。だから、苦しむことも悲しむこともない。知らないことは伝えればいい。聞いて、確かめればいい。知っていることも、知らないことも、私は全てを信じてる。全部ひっくるめて、佑くんが好き。本当に。たとえどんなに距離があっても、私たちにはそれをゼロに変える魔法の気持ちがある。だから、信じる。私は佑くんを信じてる』
◇高校三年 夏◇
俺が信じてきたものは、いつだって形のないものばかりだった。
蝉の声がけたたましく鳴り響く公園の遊歩道を、自転車で駆け抜けていく。時折、顔に当たる木漏れ日が、俺の気持ちを急かそうとしているような気がした。
その日は、珍しく図書館を利用することになった。無論、受験勉強のために、と言いたいところなのだが、それは違った。久々に、あいつから連絡があったのだ。
「よう。こうして会うのはいつぶりだったっけ?」
「さぁ。お互いに忙しかったからな。よく覚えてないや」
一樹は畳の間で待っていた。そこが俺たちの小学時代からの指定席だったのだ。一樹の横には、すでに大量の漫画本が占有されていて、その状況から彼が大学受験を控えた高校生だとは到底思えなかった。
一樹は俺と適当な挨拶を交わすと、おもむろに碁盤をもってきて五並べをしようともちかけた。またこれだよ。俺は昔からこういった類いのゲームが苦手だった。
しぶしぶ碁盤に向かいながら、世間話を始める。
「で? 一樹は、もう進路決まったのか?」
「いいや、まださ。ただ、このままの成績だと、近くの私立、福祉医療大学になるかも」
「そうか。じゃあ、地元に残ることになるのか」
「佑十は? 地元か? やっぱ、U大とか?」
「さて。どうだろうな。担任には、T大かS大を狙えと言われてる。だけど、俺にはそんな気はないんだ。第一、一人暮らしさせてもらえるほど、うちは裕福じゃないんだよ」
「金の問題はどこだってそうさ。今の時代、みんなギリギリのところで何とかやってるんだ。でも、問題は自分の意志だよ。お前はU大で満足なのか?」
ガラス越しの木から、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。空にはゆったりと流れていく雲の影があった。今日は夕方にスコールがあるらしい。まずいな。パソコンのコンセントを抜いてこなかった。
俺は鞄に入っていたペットボトルのお茶に手をかける。
「おい。ここ、飲食禁止」
一樹が俺を咎める。しかし、俺は聞かない。
「今日は、いいんだ。そういうの」
互いに無言になる。ただ、黙々と碁石を打ち続け、気だるい時間だけが流れた。
結局、俺は一樹に全敗した。
「お前は相変わらず弱いな」
「うるさいわ」
負けても、悔しくなかった。それがお約束になっていたし、一樹に対してプライドを保持することがいかにバカバカしいことか俺は知っていた。
「でも……」と一樹が続ける。
「でも、お前とこういう勝負してると、飽きないよ。なんっていうか、佑十には何を考えているか全然わからないところがあるから、怖い。普通こういうのって、相手が何を考えているのかを読み合いながらやるけど、佑十に対してはそれが通用しないんだよな。たまに、全く的外れなことをし始めるし、ほんと、意味不明だよ」
「はは。俺は単に天の邪鬼なだけさ。常識にのっとったプレイスタイルが嫌いなんだ。それで、なんだかわけのわからないことをして、相手の反応を見て楽しむ。俺にとって、ゲームなんてそんなものだ。勝ち負けの前に、どれだけ相手を驚かすことができたか。どれだけ相手を楽しませることができたか。それが面白いんだ」
「そんなものか」
「そんなものだ」
結果とは、常に副産物でしかない。
でも、結果は目に見えるよりも遥かに強い正体として人の心を支配する。だから、俺たちはいつでも見失ってしまうんだ。その結果に辿りつくまでにあったはずの、もっと大切な何かを。
また、これは余談だが、結果をいつまでも結果のままにしている人間は、いつまでたっても進歩しない。結果は結果であると同時に、次の結果につながる原因にもなるのだ。それを忘れてはいけない。
「そんなものか」
「そんなものだ」
俺と一樹はのんびりとペダルをこぎながら帰路についた。遠くで、雷の唸る音が聞こえる。今日のところは、これで解散だ。今度会う時は、梶原先生や船堀兄弟も誘ってカラオケなんてどうだろう。
「さて、いつの話になるやら」
「結構長いこと、女子の顔も見てないんだよね。どんなふうになったか見てみたい気もするけど」
「前に会ったのって、高一の時にやった江ノ島観光の時だよな」
「うわ。めっさ懐かしいな」
「俺たちも随分と老けたもんだ」
「あの時と比べて、何が変わったわけでもないけどな」
「人間、そうそう変われたら苦労しないさ。少年漫画みたいな成長のしかたは、かえって体に毒だ」
遠慮がちに降り始めた雨が、俺の頬をかすめていった。
◇中学二年 晩春◇
その日は、少し汗ばむくらいに暖かかった。
近頃では放課後になっても風が冷たくなることはなくなって、外でランニングをする運動部員たちの表情も快適そうに見える。とはいえ、授業をする先生方にとっては、生徒の眠気を誘う春の心地よさは恐ろしいほどの大敵なのかもしれない。
俺は雨期を迎えたマングローブのような快調な心持ちで廊下を歩いていた。気分がいいのには訳がある。今日は、先日行われた「少年の主張」とうい作文コンクールの表彰伝達式がある。とりあえず入賞を果たした俺は、その席にお呼ばれをいただいているのだ。
ぶっちゃけた話、俺は作文が大の苦手なのでまさか入賞するとは思っていなかった。文章力が無いのなら、と音読の練習を精一杯頑張ったかいがあったようだ。ただ、明らかに俺よりも秀作と思われる作品がノミネートされなかったことには心が痛む。本当にあんなので良かったのだろうか。とりあえず、ここは素直に喜んでおこうと思う。
しかしながら、伝達式なんてわざわざ時間をとってやらなくてもいいんじゃなかろうか。正直、俺は表彰状がもらえればそれで大満足だ。部活の時間が削られるのは誰だって嫌だろう? それに、「おい、お前どうして遅れたんだよ?」「いや、ちょっと表彰状をもらっていたんだよ。HAHAHA!」なんて会話、自分でも腹立たしい。だいたい、俺はトランペットの練習がしたいんだ。もう、行くのやめようかな。部活の方に行っちゃおうかな。
などと考えているうちに、俺は会場である会議室の中に入り、指定された位置に腰を落ち着かせていた。さぁ、やるならさっさと終わらせてくれよ。そうでないと、また皆に差をつけられてしまう。
しかし、伝達式は予定の時間になっても始まらなかった。よく見れば、用意された椅子のところどころに空席がある。どうやら、時間になっても現れない不届き者がいるらしい。なんたるゆゆしき事態だ。このままでは部活に出られなくなってしまうではないか。
時計に目をやる。刻々と進む秒針に、俺の焦りと苛立ちは募るばかりだ。まったく……遅れてくる奴の顔が見てみたい。そして、油性マジックでその額に「時は金なり」と書いてやりたい。でも、「時は金なり」って、なんで「金」なんだ? 「時」は「金」じゃ買えないだろ。じゃあ、やっぱり「時」は「時」じゃねえか。よし、「時は時なり」って書いてやる。さぁ来い。かかってきやがれ。目にもの見せてやる。
と、一人で悶々とアホなことを考えていると、ついにその人物は姿を現した。
「遅れてすいません!」
扉をあけて慌てた声をあげた彼女は、いそいそと頭を下げながら移動すると俺の隣の席に座りこんだ。俺は一瞬にして凍りつくと、まるで郵便ポストのように物言わぬ物体と化してしまう。
え? な、なんで? まさか、彼女が遅れてくるなんて夢にも思わないじゃないか。っていうか、彼女がくるなんて聞いてないぞ。やべ。冷や汗かいてきた。何でもいいから早く終わってくれ。
「あ、こんにちは」
しかし、俺の隣に座っておいて、知らん顔をしているような彼女でもない。彼女は俺の顔を見ると、柔らかくほほ笑みながら挨拶をしてくれた。
俺も至って冷静を装いながら「こんにちは」とさりげない挨拶を返す。大丈夫か、俺? 今、クールに言えていたか? おい、こんなのありかよ。誰が作ったシナリオか知らないけど、こんな時に緊張感高めるなよ。
近頃、俺は彼女のことを、水城夢羽のことを目で追うようになっていた。
式は滞りなく進行し、最後に適当な雑談の時間となる。テーブルには紙コップが用意され、どこの予算から出ているのか知れないようなジュースが注いで回られた。こんなヘンテコな表彰式をやっているのは、全国探しても、この学校くらいじゃないか? ま、物好きな校長からのささやかな祝杯ってことで受け止めておこう。
しかし、雑談といっても、いい、い、一体何を話せばいいんだ? 水城さんに笑ってもらえるような面白い話……面白い話……。くそ、全然思いつかない!
死にたくなるほどの無力感を覚えていると、そのまま彼女とは何も話ができないまま表彰式は終りを迎えた。最後に、紙コップが回収される。俺はため息をつきながらコップを集め始めた。とりあえず、早く部活に行こう……。
と、その時、水城さんが反対側から紙コップを集めて回してきた。俺はその上にコップを重ねようとして、軽く手を差し出す。すると、彼女も俺の紙コップの上に重ねるつもりだったらしく、俺の手に軽く接触した。慌てて手を引っ込める二人。互いの紙コップは上下に右往左往して、ようやく重なりあった。
「ごめん」
俺が照れ笑いを浮かべると、水城さんもつられて笑った。その時の笑顔の愛らしさといったら、まるでタンポポがそよ風にくすぐられて揺れているようだった。そして、その暖かい表情に触れたとき、俺の中で何かが弾けたような躍動が起きた。
この甘酸っぱい感じは何だ? 苦しくて、切なくて、でも、なぜか心地よい。
その衝撃はあまりにも大きかった。ずっと前から、こうなることが決まっていたような、そんな気がした。俺は運命というものを信じている。人は、誰しも出会うべく人に出会って成長していくものだ、と誰かが言っていた。漠然とした言葉だったのでその時は理解できなかったが、今になってそれが真に理解できた。
俺はどうやら、水城さんに心を奪われてしまったらしい。つまり俺が言いたいのはそういうことだ。