第二章 コトノハ
第二章 コトノハ
◇中学二年 春◇
「で、トランペットの席を賭けて、あの新入生代表と勝負することになったのか」
森島一樹は金色の光を放つホルンを手入れしながら呆れたようにつぶやいた。いぶかしげな視線が、俺に向けられている。
「いや、これは謀ったわけじゃなくて、本当に偶然だったんだ」
それでも、一樹は俺の言葉に耳を貸そうとはしない。
「なーんだ。お前が吹奏楽部に見学に来てるっていうから、ちょっとは期待してたんだけどなぁ。まさか女が目当てだったなんて幻滅したよ。なに? 俺とキャラ交代すんの?」
「ふざけんな。いまさらキャラチェンなんてできるか。誤解すんなって。俺は吹奏楽部に入るつもりは無いし、あの子のこともなんとも思ってない。あの子のことを気にかけてるのはお前のほうだろ?」
「俺? いや、俺は『隙あらば』って感じだけどさ、積極的にはなれないね」
「やっぱお前、狙ってんじゃねぇかよ」
部活の時間が終わって、俺たちは肌寒い風が吹く帰り道を共にした。日の入りは、だいぶ遅くなったように思えたが、夜が近づけばまだまだ冷え込みが厳しい。空気の匂いはもう春なのに、体の調子が狂いそうだ。
一樹は吹奏楽ではホルンを担当している。今日は船堀兄弟の和哉にホルンを教えていたようだが、あまりうまくいかなかったらしく何処か苛立たしそうに表情を歪めていた。それにしても、一樹がホルンを吹いているさまが予想以上に似合っていたことには驚いた。少しばかり地味だったことは否めないが。
一樹は凍える指先をいたわるようにしてポケットに手を突っ込むと大きく息を吐いた。
「で、結局、佑十は吹奏楽やらないん?」
「……」
俺はただ黙ったまま空を見上げた。先ほどまで見えた一番星は、雲に隠れて消えてしまっている。すぐ横を一台の車が通り過ぎていった。エンジンの音が、風に流されて遠くなる。
「佑十。お前、部活やれよ。もったいないぞ。過去のことで責める奴もいないんだ。どうせ何もすることがないのなら、ちょっとくらい楽器吹けるようになっとくのも悪くないだろ?」
一樹の言っていることはわかる。でも、俺は嫌なことから逃げてばかりいる根性無しだ。バドミントン部もテニス部も、自分にはついていけないと思っただけであっさりとやめてしまった。周囲の期待なんて、俺にはいらない。本当に欲しいのは、心が安らげる場所なのだ。そうして俺は、一人になることを選んだのだ。
「悪い。やっぱ俺には無理だよ。だって俺、そういう団体の中に身をおくと、いろんな勢力の板挟みになって、自分がわからなくなっちまうんだ。たぶん、どうせまた耐えられない。精神的に追い込まれて、投げ出すに決まってる」
沈黙。
分かれ道が迫ってきた。一樹はこのまま何も言わずに去っていくだろう。かつての俺は、この一年で死んだのだ。もう諦めがついただろ、一樹?
しかし、一樹は去り際にこんな言葉を残した。
「でも、お前は勝っちまうんだろ? その新入生代表に」
一樹は最後まで、俺を信じることをやめなかった。
◇高校二年 秋◇
水城夢羽に、大切な人ができたらしい。つくづく良かったと思う。俺の中で、何か張りつめた物がしぼんでいくような感覚がした。どうか、精一杯恋をして欲しい。結局、俺は最後まで彼女に対して距離を置き続けたけれど、今度の相手がそんな奴じゃなければ幸いだ。
星の奇麗な夜だった。
高校から家までの道のりは自転車でも一時間ほどかかる。俺は寒空の下、額に汗を滲ませながらペダルを漕いでいた。勢いよく回転する車輪が、落ち葉を踏みつぶす度に乾いた音を立てている。その音が気持よくて、俺は向かい風をあびながらも上機嫌だった。
家に帰ると、俺はこの先一ヵ月分の詳しい練習メニューを立てる仕事に移った。宿題は後回し。それも仕方がない。また勝手な成り行きで俺は吹奏楽部の部長を任されることになったのだ。全ての学校行事を把握し、全ての練習場所を確保し、全ての練習計画を的確に指示しなければならない。また、予定表も自分で作成、コピー、配布する。もはや顧問の先生など、たまに顔を見せる講師のようなものだ。個人的には、もっと積極的に介入して欲しいと思っている。このままでは、俺の体がもたない。
ところで、この頃になって、俺は小説を書き始めた。せっかく文系を選んだからには、何か文章を書く練習をするのも良かろうと思ったのだ。ぶっちゃけた話、そんなことするならコツコツと英単語でも覚えていた方が後々の試験に大いに役立つのだが、そこを俺は敢えて小説を書くことにしたわけだ。
しかし、構想ばかりが次々と思い浮かぶだけで、肝心の本編が書きあがることは一度としてなかった。そうしてあれこれ悩んでいるうちに、俺はあることを思いついたのだ。きっと、誰か読んでくれる人がいれば最後まで書きあげることができる。そして俺は、自分の小説を誰でも自由に読める場所に公開してみることにしたのだった。
◇中学二年 冬◇
その時の俺の気持ちと言ったら、この世に存在するものではとても比喩しきれないほど浮かれたものだった。とは言え、あまりにも突然のことだったので「これはドッキリ作戦なのではないか」と用心深く疑ったりもした。
それは、水城さんから俺への告白の手紙。
『気づいたら、先輩のことばかり考えるようになっていました。本気で、好きです』
この一節は、思わず俺を震え上がらせた。彼女は、俺のことをとんでもなく勘違いしているのではなかろうか。そうでなければ、きっと人違いか何かに決まってる。しかし、何度も目を凝らしてみても、手紙の最上部にはしっかりとした文字で『大上先輩へ』と書かれている。
これはとんでもないことになった。俺は一度フラれた相手に時間差攻撃を食らっているのだ。無論、俺はこの攻撃を避けない。真正面からぶつかって受け止める。もはや選択肢など存在しないのだ。
感極まって、いつの間にか走り出していた。
俺は我が家の愛犬“クッキー”に紐を繋ぐと、猛烈な勢いで散歩コースを爆走し始めていた。いつもは引っ張られてばかりの俺だったが、この日はクッキーを引きずる勢いだった。何だかもう、誰にも俺を止めることはできなさそうである。蒸気機関からハイブリットまで、まとめてかかってきやがれってんだ。今の俺にとってみれば、昨日までのことは何もかもが前時代的なことのように思える。
「よっしゃああああああ!!」
腹の底から、天に向かって叫ぶ俺。街中の交差点でこんなことをしていたら警察でも呼ばれそうなものだが、あいにくここは田園のド真ん中。
とにかく、俺の恋心は思いがけなく唐突に叶ったのだ。
それから日を置かずに、俺と彼女の文通は始まった。手紙は、たいてい第三者を介して受け渡される。一樹の世話になることがほとんどだった。やはり、ただの先輩と後輩という役柄を演じ続けながら直接手紙の交換をするのは難しかった。ここにきていま一つ釈然としないのが、俺と水城さんの関係だった。俺たちは果たして恋人と呼べる関係なのだろうか。ただ単に文通をして好き合っているだけの二人、とか? とりあえず、有りだとは思う。いや、これは有りだろ。
手紙の中で、俺たちは所謂“バカップル”じみたやりとりを繰り広げた。
『俺、水城さんの理想の男性が知りたい。少しでも近づけるように努力するから、教えて欲しい』
『え! 嬉しいです! でも、きっとそれは無理ですね……。だって、私の理想の男性は先輩ですもん!』
なんだこれは。ニヤニヤが止まらない。今、鏡を見たらさぞ気持ち悪い男が写って見えることだろう。
それでも彼女のコトノハは、いつでも破壊力抜群で、俺の冷え切った心をみるみるうちに燃え上がらせた。彼女の存在は、俺の力を無限に増幅させることができる魔法のようなものだった。
しかし、そんな夢色の日々にも黒いインクが滴り始める。
恐れていたことが、ついに現実となってしまったのだ。
◇中学二年 春◇
結局、俺は水城さんとの決闘に勝利した。
決闘のルールは至ってシンプルなものだった。互いに三日間の練習期間を経て、その上でトランペットを吹いたときに、より高くて綺麗な音を出せた方が勝ちとなる。急遽、船堀兄弟の祐輝も参戦するという大混戦であったが、俺はベストを尽くして勝利をもぎ取ったのだ。
いやいや、「もぎ取ったのだ」じゃないだろ。これで本当に良かったのか?
「じゃあ、他の二人には悪いけど、トランペットは大上くんってことになりました!」
「トランペット以外にも素敵な楽器はたくさんあるよ。良く見てまわって、自分に合ったものを選んでね」
先輩二人の締めくくりを受けて、俺たちは最後に握手をして別れることになった。俺の頭の中は「この現状をどうやって親に説明したものか」ということでいっぱいだったが、水城さんの手に触れたとき、それらの不安は全てどこかに吹き飛んでいった。
その手は、まるでしっとりとしたパンケーキのように柔らかく、指先は絹のように繊細な感触をしていた。そして何より、彼女に触れた瞬間に、俺は彼女の特異な存在感を改めて再認させられた。それは、静かな湖の畔。あるいは澄み切った星空。さざ波の白い泡。もはや悪徳といえるほど洗練された輝きは、人の目には優し過ぎて見ることができない。それが、彼女の持つ美しさだと思った。決して華々しく煌びやかなわけではなくて、それでいて揺るぎようのない美がそこにあったのだ。
「先輩。トランペット、頑張ってください」
その言葉に、俺は言葉を失くしたブリキの人形のように首を上下に振った。これで吹奏楽部に入らないなんてことをした日には、かなりの確率で、俺は彼女を愛する神々に八つ裂きにされてしまうだろう。
翌日、俺が入部届けを提出したことは言うまでも無い。
◇中学二年 冬◇
そして事件は起きてしまった。
その日は職員会議が長引くということで顧問の先生が来られず、当初予定していた全体合奏の練習は二年生の指揮で行われることになっていた。しかし、約束の時間になっても音楽室に後輩の姿は一人としてなかった。どうやら、なんらかの情報伝達のミスで詳しい予定が伝わっていなかったようである。
二年生の中核メンバーは、これにしびれを切らして怒り心頭。予定よりも早く部活を切り上げて、一年生を別室に残したまま音楽室を出て行った。
失意のうちに廊下を歩む二年グループ。みんなの疑心暗鬼は深まるばかりだ。「一年グループは、きっと自分たちに反抗するつもりでいる」それは彼女たちにとっては耐えがたい屈辱であり、何が何でも許すまじき行為だった。
そこには、俺の知らない過去があった。俺たちの代が一年だったころ、この学校では上下関係による束縛がピークに達していた。どこの部活に入っても、容赦ないシゴキが俺達を待っていた。たとえそれがどんなに不条理な言葉でも、先輩の言葉であればそれがルールになる。きっとみんな、そのことが忘れられないで、今度は自分たちが後輩に対してどうあるべきかわからずに、とにかくナメられないようにと神経質になっているのだと思う。
そうして、無言のまま階段にさしかかった時だった。みんなのキリキリした心へと追い討ちをかけるようにして、一年生が練習しているはずの教室から楽しげな雑談と笑い声が聞こえてきた。それで、全てが終わったと思った。一年生への信頼が、跡形もなく崩れ去っていく。その崩壊の音が、俺にははっきりと聞こえたような気がした。
ついに女子の一人が我慢の限界に達してしまう。彼女は俺たちの中から音もなく抜け出すと、その賑やかな教室の扉を思い切り蹴飛ばしたのだ。扉は大きく振動して、ティンパニーのように唸りをあげた。教室から響いていた声は一瞬で消え、不気味な静寂だけが後に残る。
女子たちは何事もなかったかのように階段を下り始めたが、俺を含めた一部の男子は緊迫した空気の中に張り付けにされたように動けなくなってしまった。女の修羅は恐ろしい。怒っているはずなのに、その表情はどこまでも静かで、何も語らない。とりあえず、正面衝突だけは避けてくれて助かった。一年の数は十人に及ばないが、二年の数はその約二倍だ。この場は、彼女たちが冷静になるまで接触を避けておきたい。
だが、事態は悪化の一途を辿ることになる。
先ほどの衝撃で外れかけていた扉が、嫌な音をたてながらスライドした。中から現れたのは、一年グループのリーダー格である男子、西田匠と、水城夢羽の二人だった。水城さんは俺の姿を見ると、少し動揺したように身じろぎする。するとその隣の西田が、俺に向けて鋭い視線を向けた。
「今、扉を蹴ったのは誰ですか」
その口調から、彼が怒っていることは明らかであった。
「もう階段を下りて行ったよ」
俺が正直に答えると、二人は顔を見合せて教室の中へと姿を消した。俺も思わず一樹と顔を見合せて溜息を洩らす。
このとき、俺たちは言葉に出さずとも互いの言わんとすることが理解できた。
そして、ほとんど暗闇に近い階段を下り、女子たちのいる昇降口へ。昇降口の明かりは消えていて、自分の靴を探すのにすら大分手間取ってしまった。さぁ、今日のところは早く帰ろう。もう、こんな空気はゴメンだ。本当に息がつまりそうだ。
しかし、この緊迫感は収まるところを知らず、その直後に一気にピークに達した。
「待ってください」
そこに現れたのは、先ほどの西田と水城さんの二人だった。二年生の視線が、彼らに集中する。しかし、積極的に前衛に出てきていた西田の表情には、恐れが全く感じられなかった。こいつは将来、確実に大物になるだろう。
「何?」
二年女子の中の一人が冷めた声をあげた。一度は集まった彼女たちの視線は、次の瞬間には西田のことなど相手にしていないかのようにバラバラの方向へと向けられていた。
西田は揺るぎない口調で続ける。
「どうして扉を蹴ったんですか?」
しばらく、妙な間が空いた。
「は? 蹴った? 知らないけど」
「じゃあ、どうして扉からあんな大きな音がしたんですか?」
「そんなの、自分で考えれば?」
気がつけば、水城さんの姿は消えていた。できることなら、俺も消え去ってしまいたいものだ。髪の先がチリチリと音を立て始めてもおかしくないほど張り詰めた空気に、もう窒息死寸前である。
やがて西田は「わかりました。もういいです」とだけ言い残して去っていった。しばらく無言のままだった俺たちは、やがて誰からともなく解散し、家路についたのだった。
『いつかこうなるんじゃないかとは思ってたけど、とんでもないことになったね。俺は二年の気持ちもわかるし、一年の気持ちもわかる。だから、何もできない。本当に無力で、情けない』
『昨日のことは、私も辛かった。というか、怖かった。西田が本気で怒ってたのもそうだけど、なんだか悲しくなっちゃって。私、途中で我慢できなくなって、隠れて泣いてたの。どうしてこんなことになちゃったんだろうって……。それに、私のせいで先輩の立場を危ぶめていたらと思うと、いたたまれない気持ちになる。どうか私には構わず、先輩は自分の意見を貫き通して下さい』
後日、俺達は顧問の先生の立会のもとで話し合いをすることになった。今度は、冷静に、かつ相手の立場を尊重して、じっくりと意見を交換した。それでも、一年生が二年生の思いを完全に理解することはできていないように思えた。やはり、あの一年間の苦しみを経験したことのない人間には、この複雑な心境を分かち合うことはできない。俺にはそれがこそばゆく思えて仕方なかった。
今の一年は、どう考えても安穏とした部活動生活に身を浸している。俺たちには、彼らが羨ましくもあり、また、妬ましくもあった。そんなわけで、自分たちの後輩にはあれ以上つらい思いはさせたくないという気持ちと、先輩の前ではいつでもキビキビしていて欲しいと願ってしまう心がぶつかりあって、自分でもどういう形をとれば一番満足できるのかわからなくなってしまっているのだ。
最後まで二年生のことを誤解している一年もいたようではあったが、とにかく、二年生が単純にわがままをいっているわけではないこと、精一杯苦しんでいることを感じてもらえたなら、今回の会議は成功だったのではないだろうか。
人間は、どうして自分と違うものに対して排他的になるのだろうか。どうして、最初に相手の立場に立って本気で理解しようとしないのか。どうして、よく知りもしないもののことを簡単に非難できるのか。どうして、それが自分自身の枠を縮めてしまっていると気づかないのか。どうして、気がつけば相手を通して自分を傷つけているのか。挙げていけば切りがないほどの疑問が、俺の頭の中に渦を巻いた。俺も、少しは成長できたのだろうか。わからない。
とにかく、最終的に一年と二年は和解することができたのだ。それで今回はおおむね良しとしようではないか。
その後、吹奏楽部にはさらなる危機が訪れることになるのだが、それらを乗り越えるたびに、俺たちを結ぶ絆は深まっていった。とはいえ、どうしてこんなに厄介なことが続くのだろうと頭を抱えていたことは否定しない。
しかし、俺はその都度じぶんに言い聞かせた。これはきっと、これから先に待ち受けている最高の瞬間に辿り着くために必要なことなのだ、と。そして、実際にそれは正しい考えだったのかもしれない。俺たちが試練を乗り越えて成長していなければ、やがてこの物語に鮮烈な登場を飾ることになる彼女には到底ついていけなかっただろうからである。
春になって一つ進級した俺たちの前に現れた新任の音楽教師は、とてつもない魅力と人間性に富んだ人だった。それが、梶原先生の初めての登場となる。
◇中学三年 春◇
梶原先生が生徒たちと打ち解けていくのに、さほど時間はかからなかった。いかに問題視されている生徒でも、彼女の言葉には素直に耳を貸す。梶原先生の魅力は、やはり伝えるべきことを見誤らずにきちんと説明してくれるところである。その上、彼女からは教師として最低限の“おごり”も感じられなかった。生徒に威圧的な空気を放つようなことは一切なく、くだらないことも何でも聞いてくれた。
さて、そんな梶原先生が俺と水城さんの噂を耳にするのは時間の問題だろう。あの一樹まで手なずけた彼女の前に、もはや情報戦において勝てる人間などいない。とにかく、誰よりも彼女の信頼を得なければ。もしも味方になってくれるとしたら、彼女ほど頼もしくて友好的な教師は他に存在しなかった。
そこで、俺は梶原先生とサシで話をすることにした。水城さんとの関係もいずれは誰かから知れることなのだし、そうなる前に先手を打って自ら話しをしておいた方が面白いだろう。
土曜日の昼下がり。休日出勤した彼女に、俺は「相談がある」という名目で話をする機会を得た。
通されたのは、普段はあまり立ち入ることのない一室だった。文化祭などでしか使われることのない機材の類がしまわれているらしく、どこかでみたような道具や書類がそこここに散乱していた。カーテンからは穏やかな風。明るい室内に、二つのコーヒーカップから立ち上る香ばしい香りが漂う。
梶原先生はカップに手を伸ばし、自然と会話を切り出した。
「さてと。今日は何やら面白い身の上話を聞かせてくれるんでしょう? 楽しみにしてたんだよ。大上くんには、少し興味があったからね」
「それは光栄です。しかし、一体なぜ?」
「ほら。私の新任式のとき、あなたが生徒代表で挨拶をしてくれたじゃないの? そのときの印象が残ってて、それで」
俺は「ああ」などと感嘆しながらコーヒーに手を伸ばす。
生徒会で副会長の役職に就いていた俺は、この頃、なんだか知らないがやたらと仕事を回されるようになったていた。それこそ、会長の影も薄くなってしまうほどだ。
生徒会担当の先生は何を考えているのやら。その度に原稿を考えるはめになる俺の身にもなってほしい。だが、とりあえず今回は感謝しておこう。おかげさまで、梶原先生には好印象を与えることができた。
しかし、俺がしめしめと余裕の笑みを浮かべていられたのも束の間、なんと先手を切ってきたのは梶原先生の方であった。
「私が今、一番に聞いておきたいことがあるんだけど、いいかい?」
「……ええ、はい? 結構ですよ」
「水城さんとはどうなってるんだい?」
「な……!?」
あまりにも弩直球なその質問に、俺は思わず硬直するほどに驚きをあらわにした。まさかそちらから突っ込まれようとは……。
「……いやはや、耳が良すぎるっていうのも、楽しみが減りますよ?」
「あいにく、私はそんな心配なんてしたことがなくてね」
「まったく、頭があがりませんよ」
おおよそ、一樹の奴がペラペラと得意げに喋り散らかしたのだろう。いや、どうやらこの先生に対して先手を打とうということ自体が浅はかであったようだ。
それから、俺は水城さんとの関係も含めて、この半年の間に吹奏楽部で何が起きたのかをありのままに説明した。梶原先生が新しく吹奏楽の顧問になるのであれば、たとえ過去のことであってもどのようなトラブルがあったのかは絶対に知っておくべきだろう。
全てを話終えて、いつしか先生はコーヒーを飲む手を止めていた。深刻な話もいくつかあったが、彼女は決して表情を曇らせることはなかった。それどころか、静かな瞳で俺を見て、こんなことを言ったのだった。
「私は、この吹奏楽部を受け持つことができて嬉しいよ。みんなは、私が教える以上のことを既に知っているかもしれない。私も吹奏楽に関しては素人だけど、みんなのことを信頼してガンガンやっていくよ。今日はいろいろ話してくれて本当に助かった。ありがとう」
こうして俺たちの吹奏楽部は、新たなステージへの幕明けを迎えたのだった。