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音の雫  作者: ゆるいち
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第一章 音色

 この小説の無断転載を禁じます。

 第一章   音色

 

 ◇高校一年 夏◇

 

 彼女と別れてからというもの、俺は何かに取り憑かれたように勉学に励んでいた。

 

 高校受験は終わったというのに、毎日のように机にかじりついてコーヒーをすする。そして、聴き飽きた筈の歌を鼓膜に叩き付けながら、YとXのグラフを場合分けする。

 

 二年になれば、文系理系どちらかのクラスに進まなければならない。よって必然的に、一年の秋までにはどちらに進むか決めておくことになるのだが、俺はまだどちらを選択すべきなのか決断しあぐねていた。


 それでもとにかく、俺は『片方が苦手だから、もう片方のほうが……』という理由で進路を選ぶことだけは避けたいと思っていた。そんなことは、俺のプライドが許さない。自分が苦とするものから逃げる道をとるよりは、満足にどちらでも選べる権利を持って進むべき道を選びたいのだ。

 

 とはいえ、勉強すればするほど、俺は自分が理系タイプの人間であることに気付かされていく。昔から、文字を読み書きするのが大嫌いだったのだから、当たり前のことだと思う。

 

 しかし、このままの流れで理系に進んで良いものなのだろうか。英語嫌いの数学好きな人間が理系に進むのは極めて当たり前のように思えるが、言い知れぬ何かが胸の奥につっかえているような気がして、どうもスッキリしない。

 

 



 ある日、俺はルーズリーフが切れたことに気付いて机や棚の中をあさっていた。


 困ったものだ。これでは、来週までに提出予定のワークブックを終わらせることができない。

 

 苛立ちを募らせていると、ふと、棚の奥から一冊のファイルが飛び出した。俺は床にバラけた数冊のファイルを見て舌打ちをする。思わず、溜め息がもれた。全く、何をやっているんだろうね。

 

 しかし、それと同時に俺の探し物が見つかった。ファイルの中には、白紙状態のルーズリーフが束になって保存されていたのだ。

 

「こんなにルーズリーフをとっておいて、俺は何を……?」

 

 何気なく拾い集めていると、それらの中から文字のびっしり書かれたルーズリーフが現れた。それも、一枚だけではない。

 

 俺はそれらに目を通して硬直した。胸に込み上げる懐かしい痛み。心地好くて、温かくて、繊細な苦しみ。そうか、ずっとこんなところに……。

 

「今まで、すまなかったな……」

 

 無意識のうちに、謝罪していた。その謝罪が極めて滑稽なものであると知った上で、俺は謝らずにはいられなかったのだ。

 





 その日から、俺は勉強に逃げることをやめた。








 ◇中学二年 夏◇

 

 

 

「好きです。もし良ければ、付き合って下さい!」

 

 薄暗い教室の中に、俺の人生初となる告白の言葉が響いた。予想だにしなかった展開に、目の前の少女は瞳を大きく開いて「へ……?」と声を裏返す。

 

 やはり唐突すぎた。できるだけ自然体を目指そうと世間話から入ったのだが、どうもそれがよろしくなかった。話題の転換に落差がありすぎて、登るに登れず降りるに降りられずといった感じになってしまった。

 

 やばいやばい。もう死んでしまいたいくらい恥ずかしい―――

 

 

 

 今は放課後。同じ吹奏楽部の一つ下の後輩を好きになってしまった俺は、先輩方に背中を押されて彼女に告白することになったのだった。

 

 マラソンをした後のように激しく心臓が鼓動している。俺は緊張で震えそうになる体を何とか制御しながら、目の前の少女と向き合っていた。

 

 しかしながら、直視できない彼女の表情をどのように確認すればいいのだろうか。いや、物理的に彼女の顔を見ることは可能だ。だが、彼女の顔を見た瞬間、俺は石のように固まって思考を停止してしまう。それはもう、何を見ているのかもわからなくなるくらいに。

 

 彼女の名前は水城夢羽みずきゆめは。吹奏楽部で、テナーサックスを担当している。

 

 身長は百七十近く、決して小柄ではないのだが、足の先から頭の先まで非の打ち所が無いほど美しい。とはいえ、そこはまだ中学生。あどけなさの残る顔立ちと光に満ちた瞳は、彼女の純粋な心を象徴するかのようだった。

 

 彼女の持つ存在感は他の人間のそれとは全く異なっていた。それは、どこまでも澄みきっていて、光に当たるとキラキラと反射するようなもので。彼女は、まるで陽を浴びた小川のような流動性のある空気をまとっていたのだ。

 

 さて。教室の中には、しばしの沈黙が続いていた。そのが、俺にとっては苦痛で仕方ない。これなら、インフルエンザの予防接種を受ける際の待ち時間の方がまだ気分がいい。

 

 やがて彼女は意を決したように深く息を吸い込んだ。

 

「少し……時間を下さい。一週間以内に、必ずお返事します」

 

 その言葉に、俺は一瞬凍り付く。この先一週間で、一体俺の体重はどれだけ減るのだろう。夏の大会を間近に控えたこの時期に告白したのは、明らかな計算ミスだった。

 

 

 

 

 ◇中学二年 春◇

 

 

 全てはここから始まる。

 

 俺の名前は大上佑十(オオガミユウト)。自分で言うのもなんだが、生真面目が売りの優良生徒だ。

 

 只今、入学式の真っ最中。俺は晴れて二年に進級し、こうして後輩達の面を拝むことになったのだ。今年の新入生の評判は、まずまずのものといったところだろうか。問題児がいないわけでもなく、だからといって取り立てて凶悪なわけでもない。


 今一番荒れているのは一つ上の三年生だ。俺らの学年は至って大人しくしているというのに、おかげさまでこの中学の評判は悪くなっていく一方である。

 

 そんなわけで、俺は前々から密かな野望を秘めていた。三年生がいなくなった時は、俺が生徒会長になってこの中学の汚名を返上してやろうと思うのだ。

 

 望んだわけではないが、俺は入学当初から一目を置かれる存在だった。理由は、新入生代表として入学式に代表挨拶を読み上げたから。自分でも感心するが、よくあんな面倒な役を引き受けたものだ。

 

 なぜ俺だったのか説明しろと言われても、それは俺自身にもよくわからない。ただ、「佑十にお願いしちゃおうかな」と担任の先生から頼られたのは悪い気分ではなかった。

 

 ま、それも結果的には良かったと言えよう。おかげで出だしから周囲の好感度は高くなったし、先生方には無条件で信頼されるし、まさに願ってもないような状況が整ったのだ。

 

 さて、そんな今年のラッキー野郎は誰なのだろうか。後輩のことなど、部活動に加入してないプー太郎の俺にとってすればどうでもいいことなのだが、とりあえず新入生代表の顔くらいは憶えておいて損は無いだろう。

 

 ……うむ。しかし、代表挨拶まで意識がもつかどうか危うい状態である。


 とにかく眠い。


 それもこれも、長々とお喋りしなすってらっしゃる来賓の方々のおかげだ。全く、彼らには加減ってものが無いから困る。どうせ仕方なく引き受けたのだろうに、どちらさまも誠心誠意あいさつしてくれるのだから御苦労なことである。

 

 ふと窓の方に目をやれば、冴えるような青空に白い雲が気持ち良さそうに浮かんでいた。加えて、こぼれるような日の光は俺のブレザーをポカポカと温めて、これまた一段と眠気を煽ってくれやがる。


 これはなんのつもりなんだ? 新手の拷問か?

 

 睡魔は留まることを知らずじりじりと俺を追い込んでいった。前方に垂れ始めた頭は、もう自力では持ち上げることができない。

 

 もういいじゃないか、少しくらい。どうせ生徒達は誰も祝辞なんて聞いちゃいない。なら、ここは時間を有効に有効に……。などという言い訳がましい考えが頭を鈍らせていく始末。

 

 やがて、俺は波に拐われるビーチサンダルの如く眠気に身を任せることにした。甘いまどろみの中で、ずるずると眠りの海の底へと引きこまれていく。


(これはもう……)

 

 しかし次の瞬間、俺はあっさりと眠りの淵から引き戻された。突如耳に届いた清らかな声に、どういうわけか俺は目を見開いて、ステージの上を凝視していたのだ。

 

 ステージの上に立っていた少女は、薄く引き延ばされた白いカーテンのような光の中で、純白の睡蓮の如き存在感を放っていた。耳をくすぐるような愛らしい声。聡明でおしとやかな喋り口調。美しく整った黒髪に、つぶらな瞳。その全てが、俺の心を揺さぶった。

 

 自分は、かつてこれほどまでに女子に心引かれたことはない。しかも、一目見ただけでここまで衝撃を受けるなんて。きっと何かあるに違いないと、第六感が騒ぎ立てる。結局、俺は彼女の挨拶を一言一句逃さずに全て耳にしまいこんだ。

 



「おい佑十。見たか?」

 

 入学式終了後、各教室へと帰る生徒達の群れの中で、俺に話しかけてきたのは森島一樹(モリシマイツキ)だった。一応、彼は俺の無二の親友であり、小学校時代から共に幾多の事件を巻き起こしてきた仲間である。こいつがまた、この歳にして女癖が悪い。これまでに手にかけてきた女子の数は二桁を軽く超えるだろう。これがフィクションなどではなく事実だから困る。はっきり言わせて貰うが、一樹と俺はまるで正反対なタイプの人間だ。奴は先生方からも、ある意味で問題視されていた。

 

 そんな一樹が「見たか?」と質問してきたのだ。俺は長年の付き合いからその意味がわからない筈もないが、お決まりの流れなので聞き返す。

 

「何を、だ?」

 

「はぁ? 新入生代表の子に決まってんじゃんよ」

 

「見たさ。それがどうした」

 

「あれはかなり可愛かった。間違いなく、新入生の中でも五本指に入るAクラスの女子だ」

 

「出たよ。一樹お得意の美少女審査。ったく、何様のつもりだよ」

 

「んー? 随分と刺々しいなぁ。何かあったん?」

 

「いや。別に」

 

「ふーん……。ま、いいや。それにしてもあの子、あの顔で性格良かったら完璧だよなぁ。いや、きっといい子に違いない。あんなに可愛いのに、危険な香りがまるで感じられないもんな。大抵、あのぐらい綺麗な子には何か裏があるものなんだけど、不思議なもんだよ。少し調べてみるかな」

 

「お前、年下の女の子まで泣かせるつもりか」

 

「え? 俺がいつ女を泣かせたさ?」

 

「……今、数えるから少し待て」

 

「おいおい。そんなに多かねぇよ」

 

 と、そこでチャイムが鳴り響いた。いつの間にか廊下に取り残された俺達は、慌ててそれぞれのクラスへと散っていった。その去り際の一樹の表情の嬉しそうなこと。これはあまり関わり合いになりたくない展開が待っていそうである。

 

 授業が始まってからも、俺は例の新入生代表の少女を思い出していた。それは恋愛感情と呼ぶにはまだ希薄なものではあったが、彼女に幾ばくかの興味を引かれていたことには違いなかった。とにかく、一樹のようなアホの手に堕ちることのないように願うばかりだが、奴が本格的に動き出せば何が起こるかわからない。


 ふん。まぁ俺には関係のない話だけどな。


 後で思い返せば、この時の俺はとりあえずそう結論付けることで、胸の奥の奇妙な焦りを抑えようとしていたのかもしれない。




 その日の夜のこと。 風呂あがりにベッドで横たわってマンガを読んでいた俺のもとに、一本の電話が入った。もちろん、家の電話にである。携帯電話が中学生の間で爆発的に普及していくのは、あと一、二年先の話しである。

 

 妹が持ってきた子機を面倒そうに受け取った俺は、ふてぶてしい調子で挨拶をした。

 

「よう。どうしたよ突然? 話なら、学校でいくらでもできたろうに」

 

「やあ、うーちゃん。何だかつれないねぇ。お邪魔だったかい」

 

「いいや。そんなことは無いが」

 

 俺は脚を振り子のように使って勢いよく上半身を起こす。なんにしても、こいつがわざわざ電話をかけてくるのだから話の重要度は高そうだ。普段「のへへん」としている人間の真面目な話というものは、決まって何らかの転機をもたらす。それが、主体の望むと望まざるとに関わらず。

 

 彼の名前は船堀祐輝(ふなぼりゆうき)。一樹とは違って中学からの付き合いということになるが、俺の家まで遊びに来た回数で言えば、確実に祐輝の方が上である。祐輝は俺と同じく部活動などに所属していない。だから、平日の放課後は、しばしば俺の家でバトミントンをしたりテレビゲームをしたりと気ままに過ごしているのだ。

 

 ここで忘れてはいけないのが、祐輝の双子の兄弟であるところの和哉だ。彼らは所謂『一卵性双生児』なるものらしく、外見がそっくりなのだ。一年くらい付き合っている俺からすれば、シルエットだけでも十分に見分けることができるのだが、船堀兄弟と関わりの薄い人間が一目で彼らを区別するのは至難の業と言えよう。

 

「お前から電話だなんて一体何事だよ? 何か重要な相談?」

 

「まぁ。結構重要かもしれない」

 

「どれ。言ってみろよ」

  

 そして、祐輝はおもむろに提案したのだった。

 

「俺達、吹奏楽やってみない?」

 

 ……なんですと?

 

 当時流行っていた言葉を借りれば、それは完全に「想定の範囲外」の提案だった。

 

 




 

 ◇高校一年 冬◇

 

  

 最近、現代社会の時間で『心の防衛機制』という題のついたページを読んだ。これが、割とおもしろい。人間は、欲求が満たされない時に様々な方法でそれを乗り切ろうとする。資料では、恋愛を例に挙げて九つの防衛反応を紹介していた。その中で、最も自分に当てはまると思ったものが『昇華』と呼ばれる反応であった。

 

 思い返せば、俺は精神を学問や創作活動に注ぐことによって、胸の中の甘酸っぱい苦しみを活用していた。それは、高校受験で彼女に会えなかった時期もそうだったし、彼女にフラれてしまった後もまたそうだったと思う。俺はいつでも勉強にばかり打ち込んでいて、彼女が遠ざかれば遠ざかるほど大きくなる切なさと力に酔ってしまっていたのだ。

 

 馬鹿な男だと思う。フラれてしまっては、そこにはもう『距離』などは存在しないのだ。川の向こう岸で彼女が微笑んでいないのなら、そこには川など存在しないに等しいのである。

 

 こうして客観的に自分の行動を捉え直してみると、当時の自分に憐みのようなものを感じてしまうからいけない。一時の病のために、人生を大きく左右されているとも知らずに、随分と呑気なものだった。それでも、そこに二人がいた証を残したくて、俺は一人で勝手に焦っていたのだと思う。それは、俺自身にはどうすることもできない衝動だった。だから、後悔はしていない。そういうことにしておきたい。

 

 昼休み。窓の外に広がる重たい曇天を眺めていると、わずかに雪がチラつき始めた。凍りついたように静止したグラウンドには、誰の姿も見られなかった。雪に気がついている人間は極わずかだ。どうせ、この雪も積もりはしない。山の方から風に乗ってきた雪が、たまたまここまで届いただけの話である。

 

 ベランダに出て、そっと手を差し出してみた。掌に乗った結晶は、みるみるうちに形を変えていく。このままでは、数秒で水に戻ってしまうだろう。俺は一切の温かさを失った瞳で崩れた結晶を凝視すると、その手をギュっと握り締めて白い息を吐き出した。

 

 




 

 ◇中学二年 春◇

 

 その日の放課後、俺と船堀兄弟の三人は音楽室へと向かった。昨日の電話で、俺は祐輝の一方的な主張に押されて見学に同行させられることになったのだ。はっきり言って、俺は吹奏楽というものが何なのかよく知らない。知っている楽器を言ってみろと言われたって、トランペット、サックス、クラリネット、フルート、くらいなものしか挙げられない。だいたい、俺は楽譜など読んだことがないのだ。小学校で習ったリコーダーやメロディオンだって、友達の姿を見よう見まねでやっていただけである。要するに、俺は音楽に関するキャパや知識をほとんど持ち合わせていなかったわけだ。

 

「だからよぉ、俺はあまり気が進まないって。俺のモットーは、『上手であるからこそ好きになる』なんだよ。才能がないと思ったものには手を出さない。それが世の中を渡っていく上では一番傷つかずにすむ方法なんだ」

 

 そんな俺の言葉など全く耳に入っていない様子で、船堀兄弟は俺の腕を引っ張っていく。

 

「だからって、いつまでも帰宅部のままでいるわけにもいかないでしょう」

 

「そうだよ、うーちゃん。せっかくの中学校生活も、このままだと何も残せないまま終わっちゃうよ?」

 

 二人の説得は理解できるが、俺は一向に気分が乗らない。とりあえず見学だけなら付き添ってもいいが、二人が既に入部する気でいるのは問題である。俺は今までの生活に何の不満も無かったのだが、この二人には何らかのわだかまりがあったのだろうか。しかし、そんな気配は感じたことがなかった。やはり人間、なにを考えているかなんてことは本当の所わからないものである。

 

 音楽室の中に入ると、ちょうど演奏会が始まるところだった。床に段差のある構造になっている音楽室は、楽器を持った生徒が並ぶと本当にコンサートホールのように感じられた。まばらに人が座っていた客席の適当な場所に腰を下ろした俺達三人は、しばらく演奏に聞くことになる。

 

 なるほど吹奏楽とはよく言ったものだ。その楽器のほとんどが、息を吹き込んで音を出すタイプのものらしい。弦楽器は一つも見られないようであるが、吹奏楽とは相いれないのだろうか。それとも、人数が増えれば、また少し編成も違ってくるのだろうか。よくわからない。

 

 演奏曲目は、誰もがよく知っているポップス系の曲が多かった。もっとお堅いイメージがあったのだが、きっとそれも学校ごとに特色のようなものがあるのだろう。この学校の吹奏楽部は、本物の『吹奏楽』を究めようというわけではなく、吹奏楽器を使って有名な曲を演奏する方向に熱が入っているのかもしれない。

 

 演奏はほどなく終わった。十人弱の拍手が音楽室の中に響いた。やがて、指揮を振っていた三年生らしき女子が振り返って、おもむろに挨拶を始める。

 

「こんにちは。今日は吹奏楽部に見学に来て下さってありがとうございます。私は、ここの部長を務めている吉田と申します」

 

 栗色の髪を揺らして和やかに話をする部長さんは、白雪姫を連想させるような美しい肌をしていた。一目で、面倒見の良いお姉さんであることが感じ取れた。彼女の表情からは、その心の温かさが滲み出ているようだった。

 

「演奏は、まだまだ拙いものですが、夏のコンクールに向けて精一杯頑張ろうと思っています。どうか、皆さんと一緒にステージに立てることを願っています」

 

 この部長に言われると、何を言われても不思議と抵抗する気が湧かなくなりそうだ。俺も、この流れで入部しなかったら間違いであるような気がしてきた。


 いやいや、そう簡単にいくものか。俺だってプー太郎ライフに未練が無いわけではないんだ。

 

「これから、楽器体験の時間を設けさせていただきたいと思います。最初は奪い合いになるかもしれませんが、フェアにお願いします」

 

 奪い合い? フェア? 本当にそんなことになるのだろうか。少なくとも、俺には関係のない話だ。みんな、勝手に頑張ってくれ。俺はこれといって目的の楽器があるわけではないから、のんびりさせてもらおう。

 

 しかし、これが飛んだ勘違いだったことに気付かされるまでに、さほど時間はかからなかった。

 

「では、よーいドン」

 

 柔らかな微笑みを浮かべながら掌を合わせて合図を出す吉田部長。すると、その合図と同時に、静かに着席していた部員達が一斉に立ち上がって客席に押し寄せた。その目は、獲物を狩る猫のようにギラギラと光っている。奪い合い? フェア? 部長の言葉が頭の中で反復した。

 

 バーゲンセールに出された70%オフの洋服のごとく引き抜かれていく見学者たち。気づけば、客席はあっという間に空っぽになっていった。俺はなんとか脱出を試みようと必死だ。

 

「おい、カズ、オユ! ここはいったん引いた方が―――」

 

 しかし、先ほどまで隣にいたはずの和哉と祐輝の姿はもうなかった。なんてこった。長いあいだ共に闘ってきた二人には悪いが、俺は戦線を離脱させてもらうぞ。お前らの死は、無駄にはしない!

 

 針を縫うようにして隠れながら出口へむかう俺。しかし、あと一歩のところまで来て、俺の腕は力強く引っ張られた。どうやら、二人がかりで引きずられているらしい。抵抗も許されぬまま、個室の中へと連れ込まれてしまった。やばい。なんだろうこの人たちは。なんというか、かなり手慣れている……!

 

「やったやった! 男の子ゲットだぜ! なんちゃって」

 

 はじけるように笑いながら歓喜したのは、割と小柄な感じの三年生だった。柑橘系の甘い香りを漂わせながら大はしゃぎする彼女の横で、もう一人の三年生が呆れたような表情を浮かべている。

 

「喜んでる場合じゃないでしょ。重要なのはここからだよ」

 

「おー。そだねー。インポータントなのはネクストだよねー」

 

「変なふうに言い直さないでよ」


「どう? 頭よさそうに見えた!? 頭よさそうに見えた!?」


「いいから、早く楽器を用意して」

 

「アイアイ!」

 

 俺は、鼻歌を歌いながら楽器の準備を始めた先輩の後ろ姿を呆然と眺めていた。ゴムでまとめたショートヘアーがチョコンと飛び出しているのが印象的だった。ぱ、パイナップル……とでも形容しておこうかな。


 するとそこへ、穏やかな方の先輩が戻ってきて、俺の座るイスを用意してくださった。彼女の黒髪セミロングは、風もないのにサラサラと揺れている。

 

「あ、どうも、ありがとうございます。」

 

「いいえ。こちらこそ、こんな誘拐まがいのことしちゃってごめんね。でも、このくらい本気じゃないと、他のパートに取られちゃうからさ。ここのパートは、うちらが二人引退したら継承者がいなくなるから、必死なの」

 

「ここのパートって……。え? ここは、何の楽器を?」

 

「あれ?さっきの演奏で、うちらの吹いてた楽器わからなかった?」

 

 と、そこへ楽器の準備が整えていた先輩が乱入。

 

「ほい! じゃあ、とりあえず吹けるものなら吹いてみな! むっふっふー」

 

 先輩が目の前に差し出してきた楽器は、吹奏楽未経験の俺でも見慣れた形をした楽器だった。そうだ、確かこの楽器の名前は、トランペット。

 

 こうして、俺は人生で初めて金管楽器に触れることになったのである。

 

 



 

 

 ◇中学二年 夏◇

 

 

「私は、大上先輩のこと、好きです。でも、それは恋愛感情とかじゃなくて、先輩として尊敬しているという意味なんです。ごめんなさい。これからも、後輩としてよろしくお願いします。」

 

 そんなわけで、うん、まぁ、撃沈。

 

 中学二年の夏、俺は人生で初めて女の子にフラれた。でも、気持ちが落ち込むようなことは全くなかった。むしろ、清々しい。

 

 帰り道、冴えわたる青空を見上げる。胸の中が、ピカピカに磨き上げられたお椀のようにスッキリしていた。ここまで爽快だと、なんだかまるで本当は俺が彼女と付き合いたくなかったみたいだ。なんて、その可能性は全否定するけど。

 

 とにかく、俺は解放されたのだ。もう、彼女のことを思って苦しむ必要はない。雑念は振り払って、また新たな気持ちで練習に打ち込めるじゃないか。


 それは、悪いことではないはずだった。俺の失恋を聞いて心配してくれていた先輩たちも、俺がますます真剣に練習に励むようになったのを見て胸をなで下ろしていた。


 そうだ。すべては問題なく過ぎ去っていったはずなのに。

 

 それでも、どうしてだろう。気がつけば、俺の視線は彼女の姿を追っていた。

 

 



 ◇高校二年 夏◇

 

 

 この間、久しぶりに中学時代の恩師と連絡を取った。彼女の名前は梶原由三(かじわらゆみ)。俺の中学時代は、まさにこの先生なしでは語れない。それほど、彼女と俺の親交は深かった。

 

 梶原先生は、俺たちが三年になったときに音楽教師として赴任してきた。顧問不在で部活動崩壊が危ぶまれた吹奏楽部は、梶原先生の登場により救われたのだ。

 

 ただ、梶原先生には吹奏楽の専門的知識があまりなかった。それでも、彼女にはそんなものを問題としないほどの熱意と指導力があったのだ。俺たちはすぐに打ち解け、梶原先生を信頼した。プライベートな話でも、互いにいろいろと意見を交換することが多かった。

 

 夢羽の名前は、いつも梶原先生の口からそれとなく出てくる。俺の気持ちを考えてのことなのかどうかは知らないが、世間話をしているうちに自然と出てくる名前は、いつでもだいたい決まっていた。

 

「そういえば、夢羽は北高で頑張ってるようだよ。毎日、夜遅くまで練習しているとかって」

 

「北は強豪ですからね。あまり熱を入れすぎて、勉強に支障が出るようなことがなければいいですが。なんて、水城さんにはそんな心配する必要はないッスよね」

 

「そりゃあ、夢羽は頑張り屋さんだから、学生の本分を疎かにはしないだろうさ」

 

 水城夢羽はそういう人間だった。ただ、そこがアダとなることもあった。彼女は、自分でも気づかないうちに、自分自身を追いこんでしまうような危なっかしい一面を持っていたりもした。何度かハラハラさせられたこともあったと思う。なるほど。寝起きが弱いのだと嘆いていた彼女が、パンをくわえながら玄関を飛び出してく姿はなかなか絵になるのではなかろうか。しかし、現実にはそんな彼女は存在しなかった。

 

「……先生。俺、もう彼女の顔がどんなだったか、少しずつ記憶が削れてきてるんです。ほら、コンクールの時にとった写真とかあるじゃないですか。俺が持っている唯一の彼女の写真なんですけどね、俺、この間久々にあの写真見て、『あれ?』って思ったんです。そこにいたのは、自分とは全く別の存在であるところの大上佑十と、その俺を好きだと言ってくれていた水城夢羽でした。なんか、俺、知らない連中を見てるような気分になって、驚きましたよ。結局、水城夢羽を好きだった俺は、今の自分とは別人なんですよね。これって面白いと思いませんか? 当時の俺が『俺』であったことを完璧に証明することはできない。でも、確かに俺は彼を背負って生きているんですよ」

 

 こんなことを言って、また先生には呆れられただろうな。俺は高校二年にもなって、心的レベルは三年前から何も変わっていない。いつまでも中学二年生のままでは、とんだ笑い物だ。

 

「佑十。それだけのことが言えれば、あんたはまだ大丈夫だよ」

 

 受話器から、先生の独り言のような声が洩れた。


 

 

 

 

 ◇中学二年 秋◇

 

 

 運動会が終わった。

 

 この頃になると、先輩たちの様子が明らかにピリピリとしてきた。当たり前だと思う。運動部の先輩たちは、もうとっくに引退して受験勉強を始めているというのに、吹奏楽部の先輩は十一月の文化祭まで引退できないのだ。

 

 そうして、先輩方の空気に対応するように、後輩たちも気を引き締めた。まぁ、それでも部員同士が喧嘩を起こすような事態に陥ることはあり得なかった。例の朗らかな部長の細かい気配りや、部員に能天気なキャラが多かったことも手伝って、このまま何事もないまま文化祭までもっていくことができそうだ。

 


 そういえば最近、気になり始めたことがある。

 

 運動会の後になって、水城さんと視線が合うことが多くなってきたような……そんな気がする。

 

 

 

 

 ◇中学二年 春◇

 

 

「え? なんですかこれ? 壊れてるんじゃないですか?」

 

 俺は、いくら息を入れても音のでないトランペットに難しい視線を送りながら文句を垂れた。しかし、先輩方は愉快そうに微笑むだけで何も教えてはくれない。……なんだか悔しいな。

 

「一体、どうやったら音が出るんです?」

 

 すると、先輩はおもむろに自分のトランペットを取り出して、いとも簡単に音を鳴らしてみせた。俺はその様子に目を凝らしてジッと観察をする。どうやら、ただ息を入れるだけでは音は出せないようだ。唇をつけて、振動させているのだろうか。

 

 俺は先輩の真似をして唇を振動させるようにして息を送り込もうとした。しかし、一瞬だけ音が出そうになったのだが、先輩のようにはうまく続かなかった。これは相当な練習を踏まなければならないようだ。うまくなれるかどうかというより、まず音が出せるかどうかが問題である。

 

「トランペットがこんなに難しい楽器だったなんて全く知りませんでしたよ。興味が湧きました。ぜひ教えてください。自分は、大上佑十といいます。よろしくお願いします」

 

「はいはーい! あたし、鈴本美香(すずもとみか)ね。よろしくー!」

 

「私は須渡ゆかり(すどゆかり)。それじゃ、さっそく解説しよう」

 

 そんなわけで、俺は面白いほどあっさりと二人の策略にはまってしまった。もう、すっかりトランペットをやる気にさせられている。


 ただ、しばらく話をしているうちに、須渡先輩が気になることを口走った。

 

「でも、どうしようか。トランペットだから、やっぱり男の子にやってもらうのもいいんだけどね。昨日の子もなかなか筋が良かったんだよなぁ」

 

「昨日の子、といいますと?」

 

 首をかしげる俺に、今度は鈴本先輩が答える。

 

「昨日ね、ちょこっと見学に来た子がいたんだよ。その子、トランペットが希望なんだって。今日も来ると思うんだけど、まだ来ないのかな」

 

 それを聞いて、俺はようやく我に返った。そんな、わざわざ自分からトランペットをやりたいと思っている人がいるのなら、その人にやってもらった方がいいに決まっている。所詮、俺は偶然の成り行きでここまで連れてこられただけだ。本気で楽器をやろうだなんて、はじめから考えていなかったわけだし。

 

「あの、先輩。それなら俺、別に―――」

 

 それなりの暇つぶしにもなったし、そろそろ帰ろうかと考えた時だった。個室の扉が開き、まだ記憶に新しいあの声が飛び込んできたのだ。

 

「こんにちは。遅くなってすいません」

 

 彼女は行儀よくお辞儀をすると、顔をあげて俺の姿を不思議そうに眺めた。完全な不意打ちだった。まさか、こんなことになろうとは。

 

 すぐさま須渡先輩が紹介に入る。

 

「えっと、彼女が昨日きた水城夢羽ちゃん。とりあえず、ライバルってことになるけど、仲良くしてね」

 

 それは間違いなくあの新入生代表挨拶を読み上げた少女だった。そしてたった今、彼女は俺のライバルになったらしい。それでいて、先輩からは「仲良くしろ」とのお達しである。


 俺は硬直したまま、彼女からほとばしる気合いのようなものに気圧されてしまった。これは、確実に精神的なところで既に負けている……。

 

 

 

 ◇中学二年 冬◇

 

 文化祭を終えて、ついに三年生の引退を迎えた吹奏楽部。言わずもがな、問題になるのは、誰が部長と副部長に就任するかということである。


 一年遅れて入部した身分の俺には何の関係もない話だと思っていたが、それがどうも知らん顔できなさそうな雰囲気になってきた。俺はただ一心不乱に練習をしていただけだったのに、俺を副部長に推したいという声が高まってきたのだ。


 しかし、先輩方も含め皆にはよーく考えてもらいたい。俺は過去に二回も部活を投げ出しているのだ。とても責任感のある人間だとは言えない。とりあえず、責任感のありそうな顔に生まれてきたことを俺は呪いたいと思う。

 

 で、そんな呪いの儀式をやっている暇も無く俺は副部長につくことになった。極めつけに、顧問の先生は俺を呼びつけてこんなことを囁いた。

 

「実は、大上くんは部長候補としてもかなり得票数が高かったんだよ。トップとの差、たったの一票だったの。どうか、新部長と力を合わせて頑張ってね」

 

 俺は皆の持つ「人を見る目」を疑いたくなった。何故、こんな適当で大雑把な男を選ぼうとするのか。何故、こんな意気地なしの無責任男に票を集めるのか。俺はそこまで価値のある男ではないし、物事に白黒はっきりつける勇気もない。おまけに、優柔不断でプライドだけは一人前。こんなダメな人間に自分の所属団体の中枢になって欲しいなんて、俺なら絶対に思えない。

 

 それでも、任されてしまったものは仕方ない。俺はなるたけ裏方に徹して、先回りと後片付けに気を配っていよう。おいしいところは全て部長と部員達に任せて、俺はあくまで防御役に回るのだ。

 

 

 しかし、物事はそんな思ったように簡単にはいかないもので。新生吹奏楽部に暗雲が立ち込めはじめたのは、まだ先輩が引退して一か月にもならない頃のことだった。

 

 ここ最近、一年生が浮足立ち始めたことは俺も薄々感じていた。なんというか、三年生が引退してから急激に存在感を増したというか、なんとなく二年生の視線に鈍感になっていたことは確かである。傍から見ていても冷や冷やさせられることは幾度となくあった。

 

 ほんの些細なことの繰り返しが、次第に、二年生にとっての目障りなものとして槍玉に挙げられるようになっていく。定期的にこっそりと開かれた二年生会議でも、日に日に過激な発言が飛び出すようになった。ここまでくると、もう誰にも止められない。

 

 そして、そんな危なげな空模様が続く師走の上旬に、俺は一つの転機を迎えることになる。その引き金となったのが、ある一通の手紙だった。

 

 

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