ラチェットの手記 ‐19世紀・暴行罪の男の生涯‐
オレが生まれたのは、ウェールズの片田舎だった。炭鉱の町で、生まれた子どもの多くは親父の跡を継いで炭鉱夫になる。人生なんて、生まれたときから決まっている。そんな煤けた町だった。
七歳のときに兄が事故で死んで、八歳のときに姉が病気で死んだ。親父は仕事から帰るといつも酔っ払って、お袋を「躾」と言っては殴っていた。お袋はいつも顔を腫らして、オレは素顔を知らなかった。泣き喚くお袋をみて育ちながら、子ども心に「親父が言うとおり、お袋は出来が悪い妻なんだろう」と思っていた。
自分で言うのもなんだが、オレの容姿は悪くない。小学校や通学途中では、女子から好意の目を向けられた。運動はそう得意ではないが、勉強はよくできた。だけど炭鉱の町では、腕力のほうが物をいう。オレはいつも居心地の悪さを感じていた。
十歳になると、炭鉱夫ではなく、オレは教区牧師の雑用係になった。成績とこの容姿のおかげだろう、と思った。同級生たちは顔を真っ黒にして、一人前の男のように稼いでいた。彼らを横目で見ながら、オレは小ぎれいな服を着て、優越感と劣等感を同時に抱いていた。
牧師の屋敷は丘の上にあった。庭には花が咲いていた。緑の葉が生い茂り、赤い蕾が顔をのぞかせていた。その匂いを、オレは肺いっぱいに吸いこんだ。お茶の時間には、娘がピアノを弾いていた。牧師と妻はソファに寄り添い、旋律に耳を傾けていた。牧師は人のいい中年男だった。オレにも紅茶とケーキを出して、演奏を聴かせてくれた。その調べを聴いていると、腹の底がぽかぽかして、心が満たされた。狭くて小汚い、罵り声に溢れたオレの家とは別世界だった。
牧師が妻を殴っているところを、オレは一度も見たことがない。彼は躾が上手いんだ、と思った。なにしろ親父と違って、教養もあるし金もある。それに牧師の妻も、顔を腫らしたお袋と違って上品で美しかった。
オレも大人になったら、こんな家庭を持とう。
炭鉱の町をはなれて、腕力と暴力の世界からはなれて。
教養のある、上品な世界で暮らして。
オレの言うことをよく聞く妻と結婚して。
幸せな家庭を築いてやる。
オレはそう心に決めた。上流階級の屋敷で、美しい物を見ながら金を貯めよう。11歳になったオレは、親父の反対を押し切ってロンドンに向かった。
◆
最初の屋敷では、雑役係として働いた。それから二年後に転職して、今度はランプボーイになった。屋敷中の二、三百ある、ありとあらゆるランプを集めて、他の使用人の手を借りながらも、オレはひたすら毎日ランプを磨いた。その後はタイガーになった。お仕着せを着て、馬車の後ろに立つこの仕事は、少年ながらいい気分になった。
15歳で、ついにフットマンになった。ここからがキャリアの本番だ。オレが最終的に目指す役職は、執事だった。執事になって金を貯め、ホテルを経営しよう。使用人ではなく、オレが使用人を雇う立場になるんだ。そう思い、オレは転職を繰り返した。
使用人にとって転職は当然のことだった。一つの屋敷に勤めていても、昇給も昇進もまず望めない。それでも執事になるのは狭き門だ。そもそも執事を雇えるのは、金に余裕のある一部の貴族だけだった。しかも一度執事になった男は、なかなかそこから動かない。だから空きがない。一体いつまで、フットマンとして働き続けるのか。そう思うと、内心うんざりした。
女とは適当にあそんだ。相手は主に、ナースメイドやハウスメイドたちだった。あいつらは、甘い言葉を囁けばすぐになびいてきた。たぶん淋しくて、それに退屈なんだろう。赤ん坊ができたと言われた時は、さすがに困った。使用人は独身でなければ職がない。まだ結婚する気はなかった。フットマンのなかには、孕ませたまま田舎に逃げたり、産ませるだけ産ませて認知しない奴もいた。だがオレはそこまで薄情ではない。堕胎用の金を渡してやった。数週間後、女は「うまくいった」と報告してくれた。下剤を飲んだり、階段から飛び降りたり、辛子風呂に浸かったりしたらしい。ひと安心だ。それからは、避妊に気をつけるようになった。
上流階級の女も、何度か相手をした。この場合、主導権は女にあった。使用人に襲われたと言われれば、オレの立場がない。誘われれば応えてやり、無理強いはしなかった。それでも別れる時には金品をもらえたし、貴婦人を鳴かせられるのは、まあ、悪い気分ではなかった。
◆
25歳のとき、ある未亡人に雇われた。死んだ夫は公爵家の三男で、近衛連隊に籍を置いていたらしい。未亡人の生家は豪商で、結婚時には莫大な持参金が用意されたそうだ。そんな使用人たちの噂に違わず、裕福な女だった。ひとり息子がオクスフォードにいて、まさに悠々自適といった暮らしぶりだ。この女とは、その年の秋から初冬にかけて、二ヶ月ほど相手をしてやった。高慢そうに見えて、どこか怯えた目をするところが、なかなかそそる女だった。
二ヶ月が過ぎて、関係が終わった。未亡人は、オレを他家の従者に推薦した。従者は主人に仕える、執事と並ぶ上級職だ。惚れていたわけでもないし、願ってもない昇進だった。オレは女の意向にしたがった。
新しい雇用主は、上流階級の跡取り息子だった。未亡人のひとり息子と、同級生だという。見目のいい、マイペースの、いかにもお坊ちゃんといった男だった。この男は、あの未亡人の若い愛人でもあるようだ。よくもまあ、息子と同じ年頃の男に抱かれようという気になるものだ。オレは呆れたが、それはまあいい。この男の家は、爵位こそないが、古くからの地所があり、縁戚には伯爵もいて、職場としては悪くはなかった。
年明けすぐに、主人の供で、公爵家の屋敷に滞在することになった。あの未亡人の夫の生家である。これまで幾つか爵位をもつ家で働いたが、公爵家は初めてだった。どんな美しい調度品や規律に満ちているのかと、興味があった。それに美人のメイドもいた。オレは期待に胸を躍らせた。
残念なことに、公爵家は期待外れだった。大階段を見下ろす絵画や、廊下に飾られたタペストリーや磁器は一級品だが、使用人たちは馴れ合いの温床だった。上級使用人と下級使用人の区別も曖昧で、そもそも使用人の数が極端に少ない。せめて美人のメイドと親しくなろうと、近寄ろうとすればいつも邪魔が入った。オレは思った。
おかしいな。
なんでオレが、フットマンの愚痴を聞いて、
ハウスキーパーに用事を頼まれなければならないんだ。
……まあ特段忙しいわけでもないから、手伝ってやるが。
あの美人のメイドは、目が合うといつもオレを睨んできた。オレは思った。
なぜだ。
それまで、どの女もオレと目が合えば、嬉しそうに笑っていたのに。
特に従者になってからは、羨望の目を向けられていたというのに。
……ただのハウスメイドのくせに、生意気な女だ。
だけどその挑戦的な目が、オレは今でも忘れられない。
◆
公爵家には、当然のように以前の未亡人も滞在していた。主人の愛人だから仕方がない。別に未練があったわけではない。もう関係は終わっている。会えば気まずいだろうと、なるべく顔を合わさないようにしてやった。そんなある日、主人が、あのメイドを舞踏会に連れていくと言いだした。よりによって、オレが気に入ってるあの美人のメイドを、だ。上流階級の男なら、自分の階級に見合った令嬢や娼婦とあそべばいいだろう。未亡人と、あのメイドと、オレが目をつけた女を二度も取られると思うとムッとした。どうせ責任も取らず、適当にあそんで捨てるくせに、と。
苛立ちまぎれに、未亡人に密告した。ついでに、もう一度抱けないかと誘ってみたが、あっさりと断られた。……別に傷ついたわけではない。
それから数日後、今度は未亡人から呼びだされた。あのメイドと結婚しろと命じられた。どうやら若い愛人が、メイドに執心してご立腹らしい。まだ結婚する気はないと答えたが、ホテルの開業資金を援助すると言われた。なるほど。一足飛びに夢が叶って、そのうえ気に入った女と結婚できる。オレは未亡人の命令に飛びついた。未亡人は、領地の丘にある望楼でふたりで夜を明かせと命じた。男と一夜を過ごした既成事実をつくれば、メイドは結婚するしかなくなるだろう、と。だが季節は真冬だ。石造りの望楼は寒い。どうせ結婚するのなら、手を出しても構わないだろう。オレがそう確認すると、未亡人は迷う様子を見せたがうなずいた。あと少しで、メイドはオレの妻になるはずだった。
◆
メイドを抱こうとしたら、抵抗された。諦めが悪い女だ。今夜抱かれなくても、あと数日後にはオレの妻になるというのに。生意気な態度を取ったので、二、三発平手打ちした。それでも叫ぶから、一発殴ったら大人しくなった。オレはできるだけ、殴りたくはない。でも最初が肝心だ。夫に逆らうのはいけないことだと、よく分からせなければならない。妻の躾は、子どもや家畜のそれと同じだ。大人しくなったので抱こうとしたら、オレの主人がやってきた。
オレは主人に蹴られ続けて、嘔吐して、殺されかけた。
メイドが主人を止めて、オレは一命を取り留めた。
翌朝、オレはロンドン警視庁に連れていかれた。メイドへの強姦ではなく、主人への暴行という名目で起訴された。主人がメイドに配慮したらしい。強姦! 強姦? あれが強姦になるというのか? オレは未来の妻を抱こうとしただけだ。未来の夫が、未来の妻に行使できる当然の権利じゃないか。夫の求めを、妻に拒否する権利はない。妻は夫の財産なのだから。自分の所有物について、どうして他人に指図されなければならないのだ、と。だがオレは諦めた。オレはただの使用人だ。なにを言ったところで、オレの言葉に重みはない。未亡人に伝言を頼んだが、返事はなかった。オレは見限られたのだろう。
三年間の服役を終えて、オレは地元のウェールズに帰った。主人から「イングランドに戻れば殺す」と脅されていた。いや、脅しではなくて本気だろう。オレも戻るつもりはなかった。将来の夢も、積み上げたキャリアも崩れた。なんだか……すべてが虚しかった。
◆
17年ぶりに実家に戻ると、親父が蒸発していた。若い女と米国に行ったきり、音信不通なのだという。お袋は新しい男と暮らしていた。笑うと顔中にしわができる、陽気な男だった。
お袋はまるで別人だった。あの牧師の妻と同じぐらい、いやそれ以上に、美しい女が目の前にいた。オレはそれまで、腫れたお袋の顔しか知らなかった。お袋は泣きながら、オレを抱きしめてくれた。オレはその背中を抱きしめることが、できなかった。この家にはもう、顔を赤黒く腫らした女はいない。あれは……なんだったんだ? 殴らなくても、お袋はこんなに優しくて、聞き分けがよくて、美人じゃないか。だったら……親父はなんでお袋を殴っていたんだ?
オレは二晩泊まったあと、お袋と男に全財産の半分を渡して、家をでた。
駅への道を遠回りして、牧師の屋敷を眺めにいった。これまで勤めた貴族たちの屋敷と比べたら、随分ちっぽけに見えた。庭の緑が、赤い蕾が、石造りの壁が、ぼやけて滲んでいった。
ちっぽけでいい。
オレもあんな家が欲しかった。
教養のある穏やかな夫と。
きれいで優しい妻と。
愛らしい子どもたちと。
美しい庭と調度品にかこまれた家が。
オレはなにも間違ってない。
偉い奴だって言ってるじゃないか。
女は快楽と慰めのための存在だと。
理性的でも聡明でもない女たちを、
躾けてやるのは、男の責任なのだから。
新聞だって言ってるじゃないか。
女はよき妻となり、家庭を守り、夫を助けて、従順であるのが美徳だと。
周囲の奴らだって言ってるじゃないか。
「俺の靴だ」「俺の仕事道具だ」「俺の馬だ」「俺の子どもだ」「俺の妻だ」
それらは全部、等しくその男の財産なのだと。
それでも、オレは気晴らしに女を殴ったり、どこかの犯罪者のようになぶり殺したり、いたずらに加虐したりはしなかった。
それなのに、なぜだ。
どうしてオレだけが、こんな目に遭わなければならない?
オレは運が悪かった。
あのメイドが逆らったせいだ。
オレはそう思おうとした。すると、きれいなお袋の顔を思い出した。殴られたお袋はいつも泣き喚いていたが、あの男は殴らなくてもお袋を笑わせている。オレも親父と同じで、躾が下手くそなのだろうか。あのメイドも、オレでなければ、例えばあの主人が相手なら、従順に振る舞ったのだろうか。オレは……なにか間違えたのだろうか。
そうして考えていると、信じていたものが足元から崩れそうになった。オレは気分が悪くて吐き気がした。考えるのが嫌になって、ふらふらと港に立ち寄った。そのままオーストラリア行きの船に乗って、グレート・ブリテン島から去った。
◆
オレは数人の移民たちと一緒に、西オーストラリア州でビール醸造所を立ち上げた。事業は上手くいき、幾つかの醸造所と合併して、オレは共同経営者になった。30歳になったとき、結婚もした。それから五年後にはゴールドラッシュが始まり、投資でさらに裕福になった。
妻は無口で控えめな女だった。自分の意見は言わず、いつもオレの言葉どおりに行動した。口答え一つしたことがない。だからオレは、一度も妻を殴ったことがない。結婚して二年目に、娘が生まれた。妻に似て器量のよい娘だ。でも性格は誰に似たのか、すぐに泣くし怒るし、気性が激しい。口答えだって平気でする。ムッとして手を上げそうになったことが、何度もあった。だけど叩けなかった。娘のギラギラとした目を見る度に、オレはなぜかあのメイドの顔がうかんだ。それに……(機嫌がいいときは)天使のような、この愛娘に嫌われるのが怖かった。
連れ添って十年が過ぎた頃、妻は思い出したように、自分のことを語るようになった。子ども時代、ずっと両親から虐待を受けていたのだと言う。殴られるのが怖いから、誰にも逆らわず、いつも笑うようにしていたと。こんなに善良な妻を、彼女の両親がどうして殴っていたのか理解できない。彼女の実家とは絶縁している。妻が怯えているし、彼女を虐げた人間たちと交流する気になれなかった。妻は今でもオレに反抗することはない。だが、妻がもし生意気な態度を取ったとしても……オレはもう彼女を殴れない。オレは……この女が愛しい。彼女が笑うと嬉しいし、欲しい物があれば買ってやりたいし、喜ぶことなら何でもしてやりたい。もしも妻が他の男と結婚していて、そいつに殴られていたら? そんな想像をするだけで、腸が煮えくり返った。妻が今、オレの所有物だからか? いや……違う。オレは妻が泣き喚く姿を見たくないのだ。自分のなかにこんな感情があることを、初めて知った。このとき、オレは理解した。
親父がお袋を殴ったのは、お袋を愛していなかったからだ。
オレがあのメイドを殴ったのは、あの女を愛していなかったからだ。
愛しい女を殴ることは、できない。
もし殴りながら「愛している」と言えるなら、それは初めから愛ではない。
お袋には定期的に送金して、年に数回手紙を交わしている。お袋の男からも何度か手紙が届いた。オレが牧師の雑用係になった理由を、その手紙で初めて知った。それはオレの成績でも容姿のためでもなく、お袋が懇願したからだった。二人の子どもを亡くして、お袋はオレを死なせたくなかったらしい。炭鉱夫は短命で、いつも事故と隣り合わせだ。別の道を与えようと、必死に牧師に頼みこんだという。当然、息子が炭鉱夫になると信じきっていた親父は、気を悪くしただろう。お袋が殴られていたのは、オレのせいでもあったのだ。オレはあまり運動神経がよくない。力仕事も得意ではない。十歳で炭鉱夫になっていたら、本当に死んでいたかもしれない。オレはお袋に守られていたのだ。出来が悪いと蔑んでいた……あのお袋に。それを知って、オレは泣いた。
◆
今では、オレは地元の名士として知られている。町の奴らも、妻も娘も、みんながオレに尊敬のまなざしを向けてくる。娘は結婚して、州都パースで暮らしている。ときどき双子の孫を連れてきて、とても可愛い。家族のことを思うと、オレは腹の底がぽかぽかして、心が満たされる。あのピアノを聴かせて貰った子ども時代のように。この町では、みんながオレを善良な男だと信じきっている。真面目で優しく、仕事熱心で、教養もある男だと。まるで、あのウェールズの牧師のように。
だが、オレは犯罪者だ。
三年間、ニューゲイト監獄に収監されて、農作業に従事した。
メイドを自分の妻にしようと、騙して呼びだし、殴って強姦しようとした。
そのことを、家族も町の奴らも誰ひとり、知らない。
娘は好きな男と結婚した。オレが望んでいた男とは別の相手だったが、無理強いはしなかった。娘が幸せそうだったからだ。子どもも妻も、オレの所有物だ。でも彼女たちには、意思がある。あのメイドにも意思がある。あのメイドは、オレが嫌だったのだ。オレと結婚するのが嫌で、抱かれるのが嫌だったのだ。それでもあのメイドが従順だったら、主人が間に合わなければ、オレはあの女と結婚したかもしれない。あの女がオレに反抗する度に、殴って、殴って、躾けなければと殴って……そうして、女はオレを愛してくれただろうか。オレは女を愛しただろうか。いや、親父たちと同じ結果に終わっただろう。
女は愚かな生き物なのだろうか。分からない。妻は夫の所有物なのだろうか。そうだろう? でなければ、オレが彼女に責任を持たずに誰が持つんだ? では妻を躾けるために何をしてもいいか。いや……傷つけたくはない。妻や子どもの意思を無視してもいいか。分からない……だが、もし夫が愚かだったらどうだろうか。妻の両親のような人間だったら? オレの親父のような人間だったら? もしも妻や子どもの言い分のほうが、正しかったとしたら? 分からない。だが彼女たちの意思を無視することで、彼女たちが傷つくならば……それは嫌だと思う。
自分の妻や娘に味わわせたくないことを、他の女にもしてはいけない。それぐらいは、オレでも分かる。だから……あれは強姦だったのだ。オレはあのメイドの意思を、存在しないものとして扱った。それは間違いだった。あのメイドはオレを嫌がり、恐怖して、苦痛を感じていた。だからあの行為は、犯罪だった。オレは罪を犯したのだ。
この手記を書き始めたのは、オレに残された良心のためだ。女王もエドワード七世もすでに亡く、今はジョージ五世の時代を迎えている。オレもそのうち、この世を去るだろう。自分の罪を許されたくて、書いているわけではない。犯した罪は、たとえ許されても消えはしない。ただ、このまま死んでいくのは狡いと思っただけだ。家族や町の人びとが善良だと信じている男が、本当はどんな人間だったか。それを隠していられるほど、オレは恥知らずではない。
この手記は、オレの死後に公表するつもりだ。オレは恥知らずではない。だから自分がどんな恥ずべき行為をしたのか、知っている。妻や娘に蔑みの目で見られると思うと……怖くて耐えられない。そうだ、オレは狡い。生きている間は、せめて彼女たちに善良な男だと思われたいのだ。
オレが地獄にいくのか天国にいくのか分からない。だがオレは、この人生に感謝している。そして感謝すればするほどに、自分の犯した罪を思って、胸の重みが深くなる。
羊肉の焼ける匂いがする。夕食はラム・チョップだろう。
真っ赤な夕陽が、今夜も赤茶けた大地に沈んでいく。
グレート・ブリテン島から遠くはなれた、この大陸の彼方へと。
主人公・ラチェットは、連載中の長編小説に登場しています。
(公爵家のエピソードです)
『19世紀英国でメイドになったら、ツンデレ貴族と腹黒紳士に溺愛されてキケンです!』
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