桜の苑
ぱっと薄い桜色の花びらが宙を舞う。千伽の手から放たれた春の芳香は、くるくる踊りながら広い寝台に散らばった。雪のような頭髪が、無数の桜の花びらに彩られる。
かの人は枕に頭を預け、まさに花の綻ぶよう微笑んだ。嬉しそうに、はにかんで。
「綺麗……」
その顔を見られただけで花びらを集めた甲斐があったというものだ。千伽はその低い臥榻の端に腰掛け、色白な幼馴染を覗き込む。少女と見紛うほど、可憐で病弱な少年の顔を。
骨のように細い指で桜の花弁を摘んでいる、この子の名は白狐。影家の儲君にして千伽の同い年の友人である。
つい先日十の誕生日を迎えた千伽に比べ、早生まれの白狐の何と華奢で幼く見えることか。慢性的な気管の病がその痩躯を衰えさせ、弱々しくしている。寒気がするほどの穢れなき白皙は、外界から守られ過保護に育てられた証でもあった。
白狐は生まれつき光に弱いことを理由に外へ出たことがない。太陽の光の届かぬ宮中に閉じ込められ外の景色を見ることも許されず、ただこの彼を神の如く崇拝する者たちの手によって、痛みも悲しみも苦しみも知らずに生きている。
同じ儲君という立場に生まれながら、この違い。千伽は己の父親の放任主義を思い出してはこの幼馴染が哀れに思えてならなかった。どんなに大切に囲われようが、崇められようが、本人の心が尊重されなければその扱いはただの人形と変わりない。
果たして転ぶ前に抱きとめてやるのが健全な子どもの育て方なのか、まだ少年である千伽には分からないのだが。
何にせよ、この幼馴染が春の陽気も、咲き乱れる花々も、睦み合う小鳥の歌も、若芽の瑞々しさも知らないままこんな陰気なところに籠っているのは実に勿体ない。春を迎えた外の世界はあんなにも生命の喜びに溢れているというのに!
千伽は朧家の君、すなわち東方の春の使者である。ゆえにこの白狐から桜吹雪なるものが見たいとせがまれたとき、“春宮”の名に恥じぬよう、そして滅多に望みを口にしない友人のため、張り切って散ったばかりの花びらを集めてきたのだった。
褥が汚れると影家の近習からは渋い顔をされるだろうが、構うものか。千伽とて白狐と立場を同じくする儲君である。そう強く怒られることはないだろう。
それに何よりも大切な幼馴染のこんなにも嬉しそうな笑顔を見られたのだ。多少の説教なら聞き流してやる。と、まあ、千伽にしては珍しく寛大な気分だった。
「しかし、やはり外の桜を見せてやりたいな」
思わず、そんな言葉が口をつく。ただの花びらや手折った枝では味気がない。やはり桜は満開の木々がどこまでも連なり、視界一杯を、穏やかな薄紅に染める風光明媚にこそ趣があるというもの。
花弁を浴びた白狐はそのひとつひとつを掌に乗せては、きょとんと首をかしげていた。そのあどけない顔を輝かせてやりたいと願うのは千伽の優しさであり、男の意地のようなものでもある。どんなに筆舌を尽くしたところで白狐には「桜は木になる花」以上の理解の域を出ないのだから。
「内緒で抜け出してみようか」面白半分に口を滑らせた。そして内向的な幼馴染が、その提案にぱっと目を輝かせたのも予想外だった。
「連れて行ってくれますか?」
自分から言いだした癖に、驚いた。千伽は呟く。「お前がそんなことを言うなんて、珍しいな」
「だって……」
白狐は布団を口許に持ち上げ、言い淀む。その気恥ずかしげな、消え入るような声は最後まで続かないが、言わんとすることは何となく伝わった。否、伝わってしまった。
だって、いつまで生きていられるか分からないんですもの、と。
それは普段彼が吐露しない、将来への漠然とした心細さ、危機感、宮中に閉じ込められ続ける憂鬱が綯交ぜになった声。白狐は思考が未熟ではあったが、自分を腫れ物のように扱う周囲の神経質さに感じとるものがあったのだろう。
自身の脆弱さが影家全ての期待を裏切る危うさを孕んでいることを。そして、己の命がそう長くは続かないのではないかという不安、焦り。父親の期待をいつか失望に変えるのではないかと、白狐はいつも怯えていた。
穢れを知らない無邪気さこそが何にも勝る彼の美徳であり、それが病魔と不安に侵されていくのは痛々しい。
自由奔放な家風のもとで育った千伽には励ましの言葉が浮かばない。千伽にできるのはただ慰めるよう、その長い白髪を撫でてやることだけだ。
「そうさな。いつか連れて行ってやるよ。病気が良くなればな」
「いつか、なんて日がきた試しがないですよ」
珍しく拗ねたように唇を尖らせる幼馴染は、そこらの年頃の少年と大差ない。千伽は苦笑を募らせる。「今日はわがままだな」
「自分から言いだした癖に、僕にだけ見せてくれないなんて酷いですよ。千伽のケチー!」
「ええい、がなり立てるな。女官どもが心配しているぞ」
垂れ幕あたりで見え隠れする近習たちの影を手で追っ払い、千伽はやれやれと片肘をついた。ケチと言われて黙ってはいられない。まあ確かに、桜を見せたいと言ったのは自分だったか。
彼の幼稚な頑固さに押し負ける己に苦笑する。緩やかな呆れ半分、千伽の胸はふつふつと高揚した。どうやって白狐を外に連れ出そうか。ずる賢い本性がくすぐられ、脳内で次々と思い浮かぶ悪戯の工程が、色鮮やかな現実味を帯びてくる。
思えば自分はいつだって、この友人を宮殿の外に連れ出してみたかったのだ。ほんの束の間だとしても、自分の住んでいる世界を白狐に見せてやりたかった。その穢れなき硝子玉のような瞳を、薄暗がりに曇らせたままでは可哀想だ、と。
さて、とは言ってもどうしたものか。桜を見せるにはこの影家の白天宮から東にずっと離れた朧家の正殿まで行かなければならない。影家の庭園にも桜の木はあるだろうが、千伽の知る限り、自身の家の庭の一角である桜苑の桜ほど見事なものはなかった。
問題は、そこへ辿り着くにはかなりの距離を歩かねばならないし、誰かに見つからないとも限らないということだ。皇族や貴族の住まうこの広寒清虚では昼夜問わず宮中に仕える女や世話役の目がある。見つかれば即刻捕まるのは言うまでもない。深夜に忍び込んだとしても、儲君たる白狐をそこまで連れ出すのは不可能だろう。……常人ならば。
もうひとつ問題があった。白狐は太陽の光に弱い。それは影家の過保護さが暴走して生まれた迷信でもあったが、生まれつき色素の薄い白狐が強い光を浴びると肌や眼を痛めてしまうのは、残念ながら事実でもある。
明るい春の陽気のもとでこそ映える桜の景観を、夜の暗がりで妥協するのは少し惜しい。どうせ見せるのなら、やはり一番美しい、この季節にしか味わえないうららかな和気香風の桜花を見せたい。
「……よし」思案を巡らせ、千伽は幾分声を落ち着かせる。そして、花弁と戯れる幼馴染に向き直った。「今宵の夜更け、ここで起きて待っていろ。誰にも見つからないよう、外へ連れ出してやる」
「そんなことできるんですか?」
「俺を誰だと心得る」
大袈裟に胸を張る千伽に、頼もしいと白狐は白い歯をこぼした。
***
丸い月が真上に昇り、徐々に傾く時刻。夜更けの薄闇と冷気に満たされた影家の白天宮を疾駆するものが一人。
白木の廊下を駆けるその影を見るものはいない。例え侍衛とすれ違ったところでせいぜい旋風が通り過ぎたようにしか感じないだろう。足音も消し、気配も断ち、自身のスコノスを最大限に活用した千伽が、東の棟にある白狐の寝所に忍び込むのは実に容易かった。
「おい」
千伽は息を整え、小声で呼びかける。灰色の天蓋の向こう、身じろぎする気配があった。約束通り、起きていたらしい。
相変わらず、息苦しく閉鎖的な部屋だ。がらんと広い寝所、まるで壁に埋め込むようにして奥まった寝床は、天蓋を上げれば意外なほど広い。いや、その方形の空間こそが、本当の寝間と呼ぶべき白狐の世界である。
足を踏み入れば柔らかな畳が敷き詰められ、その奥に一段高くなった臥榻が幅を埋めるよう据えられていた。寝具を肩に眠たげな目を擦っている白狐は、千伽が入ってきたのを見て懸命に頭を擡げようとしている。その寝ぼけ眼と仕草はいつにも増してあどけなく、千伽は苦笑を禁じ得ない。こんな遅い時刻に起きるなど、冬至の儀以来だろう。
「行けるか?」ずり落ちた夜着を肩に羽織らせてやり、顔を覗けば白狐は必死に頷いた。
よしきた。では行こうか。千伽は微笑む。幼馴染が睡魔に挫けず、計画に乗ってくれたことが嬉しかった。そしてそんな彼に生まれて初めて本物の桜を見せてやるのが自分であることを思えば、千伽の胸に誇りが実る。そのためには何としても、誰にも見つからないようここから抜け出さなければならない。
耳を澄ませ、周囲の気配を探る。空気の匂いを嗅ぎ、一息。やや不安げな面持ちで寝台に座り込んでいる白狐に手を差し伸べる。「ほら」
「寝ずの番をしている侍衛がいます。見つかってしまいますよ」
おずおずと手を取る白狐は、弱気にも眉を下げた。確かにこの白木の宮には、あたかも儲君へかけられた期待の重さそのものであるかのように、見張りの数も多い。
彼らは、例えば千伽のような曲者が入り込まないよう眠らずに夜を過ごしている。本来ならば彼らの警備の網を掻い潜るなど不可能だろう。そう、本来ならば。
「大丈夫だ」千伽の口に滲む自信は、決して自意識過剰なものではない。「俺のスコノスがどんなものか知っているだろ?」
言うや否や幼馴染の身体を引き寄せ、夜着もろとも抱き上げた。ろくに外を歩いたことのない箱入り娘のことだから、こうして運ぶほうが早いだろう。白狐も端からそのつもりだったのか、さして訝るでもなくこちらの首に腕を回す。その細い膝裏に腕を差し込んで横抱きにすれば、着物に薫き染められた白檀の香りが一層強くなった。
顔に垂れる長い白髪を払い、ほとんど片腕で白狐の体重を支えた千伽は、ただ「捕まっていろよ」とだけ囁いて天蓋を押し退ける。華奢な友人の体は羽のように軽い。
千伽の足の裏に冷ややかな夜の静寂が染み入った。さすがに緊張を覚えながら、二人は沈黙のままに空っぽの寝間を後にする。
***
まずは影家の敷地を出なければならなかった。ここが最大の難関だろう。千伽は白木の廊下を急ぐ。足音を立てないよう慎重に。やがてくぐり戸から庭に面した透廊へ出れば、夜の外気が頬を撫でた。
千伽に抱きかかえられた白狐は、目をぱちくりとさせている。この時点で、白狐は既に自分の足では出たことのない空間にいた。高欄の向こうは闇の帳の下りた庭園があり、暗がりに息を顰める植物たちはいつもより鬱蒼として見える。逆に言えば、逃げ隠れるのにはもってこいの場所だ。
行ける。そう確信した千伽の喉が、次の瞬間引き攣った。思わず足が止まる。廊下の角を曲がったところから、夜通しの番をしている侍衛が歩いてきたのだ。
運が悪い。舌打ちしそうになる。
千伽に比べるまでもなく冴えない顔つきをした男は、寝不足らしい目元に影を落としながらも決して怠けることなく護衛としての責務を果たさんとしている。全く、ご苦労なことだ。幾ら貴人の侍衛とはいえ眠いものは眠いだろうに、真面目に働く男に呆れを覚える。
もっとも、生まれながらの儲君たる千伽には、同情などという人並みの感情が芽生えるはずもなかったが。
何にせよ、ここはどうにか見つからないようやり過ごさなければならない。やり方は難しくなかった。ただ息を殺し、ここに立っていればいい。そして彼の姿が見えなくなってからまた動けばいいのだ。
千伽は白狐を支える腕に力を込め、黙っていろよと心で念じる。物分かりのいい幼馴染はぴたりと唇を閉じ、やや強張った面持ちでじっと前を見据えていた。その緊張した視線の先には、こちらへ向かって歩いてくる侍衛の姿がある。
二人の少年は透廊の中央で息を止めた。千伽は目を瞑る。今こそが己のスコノスの本領を発揮するときだった。姿を隠すという単純で初歩的な幻術。自分だけならまだしも、白狐を抱えた今の状況では全て上手くまやかしにかけられるか、らしくない一抹の不安が千伽にはあった。
――時間の流れがひどく遅く感じられる。足音が近付いてきた。すぐ横を通り過ぎんとする男は、こちらを見ない。気掛かりだったのは、侍衛本人ではなく彼に宿るスコノスがこちらに勘付くのではということだ。案の定スコノスが何か察したか、或は男の野生の勘が働いたか、その目線がこちらを振り返る。ゆっくりと。
「……」
どくん、と心臓の鼓動が三度ほど。ほんの短い時間向けられた彼の視線は、やがて何事もなかったかのように前へと向き直る。そうして去っていく侍衛の後ろ姿を見送る千伽と白狐は、しばらく経って安堵の息を吐いた。
首に回された幼馴染の細い腕が、微かに震えている。怖かったのだろう。こうして息を顰めて隠れたことで、自身らがしていることの罪の重さを思い知ったのかもしれない。千伽には慣れ親しんだ悪巧みの背徳感など、人形である白狐には知りようがないのだから。
千伽は黙し、再び脚を進めた。今度は先程よりも歩幅を狭くする。またどこに別の侍衛がいるとも知れない。白狐が動揺するほどにこちらの幻術も破られやすくなる。周囲に誰もいないことをよく確認し、やがて千伽は廊下の端に備えられた高欄から身を乗り出した。
真っ暗だ。下から吹き抜ける風が幼馴染の白髪を弄らせる。庭に面して造られたこの透廊は、地面からかなり離れたところにあり、眼下を覗き込めば大人の背丈の二倍はあろう高さである。しかし迷いはない。
「せんかっ――」
千伽が何をしようとしているのか理解した白狐が、息を飲んだ。やめて、と声なき悲鳴が訴える。案ずるな、と千伽は口角を上げた。「猫よりも静かに跳んでみせるさ」
高欄を軽々乗り越え、足場を蹴る。
――落下は、思ったよりも短かった。衝撃を覚悟してきつく両目を瞑った白狐は、痛みもなく柔らかな着地をしたことにしばらく実感が湧かない。ぐらぐら目の前が揺れていた。生まれて初めて体感した自由落下の浮遊に、何だかまだ空中にいる気分だ。
ぎゅっと強く抱きついてきた幼馴染に、千伽は呆れ笑いをする。何だ、本当に少女のようじゃないか。腕を休めるために庭の地面に下ろしてやれば、白狐は自力で立つこともままならずその場で目を回している。千伽にはそれが可笑しかった。
「なあ」狼狽が収まるのを待って、無垢な幼馴染の顔を覗き込む。「ここまで来たこと、後悔しているか?」
大きな丸い眼球はまるで硝子玉のように色がない。奥底に透ける血管が、涙に乱反射して赤く煌めいていた。しばらくこちらを見つめた白狐は、やがて力なく首を左右に振る。「いいえ」と発音された声は意外にもしっかりしていた。
「だって、桜が見たいんですもの」
「その意気だ。……何、ここからはそう気張らなくても抜けられるさ」
励ましともつかぬ言葉をかけ、千伽は地面にへたり込んでいる友人を再び抱き上げる。そして暗がりに身を翻し、広大な影家の庭を駆けた。
休んで心に余裕ができたのか、白狐は先程よりも幾分落ち着いた様子で千伽にしがみついている。お陰で走りやすいし暖かい。
どこからか水の流れる音がした。貴族の邸宅では傍に川や池をつくり、そこに魚を放して遊んだりするのが常だ。無論、白狐はそんなものまともに見たことがない。見たいと小声でせがむので、少し遠回りをすることにした。夜が明けるまでまだ時間がある。
朧げな月光のほかは明かりのない宵の庭園、蛇行する川はただ静かに微かな光を反射している。水流の穏やかな音色が心地よかった。
流れに沿って歩き、少しふざけて飛び石を順に渡れば、白狐の真っ白な髪も優美に跳ねる。梟の低い鳴き声に楽しげな二人の笑いが重なった。すっかり緊張が解けたらしい。川に触りたいとごね、水の冷たさにしばらくはしゃいだ幼馴染を抱え直し、千伽はやがて影家の敷地の外へ出ていく。
そこからは並木に沿って幾重にも伸びた放射状の道を進んだ。版築で固められた貴人の馬車が通る舗路は、緩やかな下り坂。身分の高い人の車を隠すために植えられた青松が、今は二人の影を覆う目隠しとなっていた。本来ならば踏んではいけない路を堂々と闊歩するのも愉快な気分である。
人気のない舗路を辿る千伽は、自身らの影を後ろに引き摺ってふと苦笑いした。
「こうしているとまるで姫御を攫っている気分だな」
「略奪逃亡譚ですね」白狐はもっともらしく難しい言葉を口ずさむ。「絵巻で読みました」
「このまま駆け落ちでもしようか?」
冗談めかして言えば、幼馴染は満更でもなさそうにくすくす微笑んだ。
気分がいい。月天子の血を引く二人は、夜になると透明な体内水分が跳ねて躍る。その抑えきれない高揚感は、上手くは言えないが、闇のもとに生まれたネクロ・エグロの本能のようなものらしい。
目指すは朧家の正殿。代々の当主が桜を植え、大事にしてきた桜苑。千伽の足取りは軽やかだ。
それからの道のりは呆気なかった。境の見張りに気付かれるのではないかと思ったが、杞憂に終わる。版築の路を外れ、生け垣を潜ればそこはもう勝手知ったる己の家の庭だ。
ただの庭といっても、貴族の邸宅の庭というのはとにかく広い。古くからの習慣で、立派な庭というのは築山があり、川があり、池があり、丘があり、あたかも地上ないし仙界の縮図であるかのような景観を理想とする。朧家もそれに倣い広大な土地を庭に割いている訳だから、始めて来た者なら間違いなく道を失うだろう。
気品あふれる玉蘭の林を抜け、細い水の流れを横目に、木陰を辿るようにして丘陵と小路を越える。春に花盛りを迎える草木が多い朧家の庭とあって、次々と通り過ぎていく茉莉花やら白梅やら山吹やらを惜しがる白狐を宥めつつ、現当主の自慢の一つである桜苑へと向かった。
「千伽、千伽」白狐が抱きかかえられたまま、じゃれつくように後方を指さす。「向こうの空が、ほら、紫色になってきました。雲が色付いて、仄かに明るくて、とても綺麗ですよ」
分かっている、と千伽は返した。「お前は太陽を見るなよ。失明するぞ」
幼馴染の言葉通り、月は傾き、辺りは夜明けの静謐な紫に染まりつつあった。少しばかり霧が立ち込め、冷たい夜露が足に染みる。千伽は緩やかな坂を上っていた。正殿から左手側を占める、爛漫桜苑へと続く小路を。
しかし、途中で脚を止める。訝るように身じろぎする幼馴染を抱え直し、千伽はふと口角を上げた。
「――なあ白狐。少し目を瞑っていてくれないか」
悪戯っぽいその声に興が乗ったのか、白狐は大人しく瞼を閉じる。俺がいいと言うまで見るなよと念を押し、千伽はそのままゆっくり坂を上り切った。
ふわり、そよ風が頬を撫でる。夜明けの直前の、冴えた夜の名残。そこに包含された甘い甘い香りに、白狐も気づいただろうか。瞼をうずうずさせる彼に含み笑いを零しつつ、一帯が見張らせるような、柔らかな土の地面に下ろしてやる。そうして、告げた。
「着いた。もう、見てもいいぞ」
耳元で聞こえた千伽の笑い声に、白狐は恐る恐る眼を上げる。途端に、白いものが頬を掠めた。
花びらだった。
わあ、と声なき息を飲む。景色が目になだれ込んでくる。見渡す限り、なだらかな丘陵とその先一面を埋める――満開の桜が。
まるで、花の洪水だ。甘美な蜜の香りが、薄明の気を満たしている。頭上を埋め尽くす花の群れから薄紫の光が差し込み、夢を見ているようだった。風にそよいで舞い散る花びらは、雪のようで――。
感嘆の息を漏らした。それが今の白狐に出せる唯一の声だった。
「朧家自慢の桜苑、気に入ったか?」
「――……」
幼馴染の問いに、返す言葉が見当たらない。しかし、千伽にはそれで満足だった。初めて桜を見えた白狐の、その驚嘆と感動と喜びに満ちた表情だけで、充分だ。言葉なんて、この苑の美しさには無粋である。
二人は何も言わず、丘を下りた。方角の関係で東を背にしているから、太陽が昇っても最初の光はほとんど届かない。百、二百と連なる桜の木々は、明かりもないのに淡く光っている。薄紅の雲のように花々が甘く咲きこぼれ、夜明けの紫や金が柔らかく溶け合った。
千伽はひらりと幼馴染の前で柔らかく手を広げる。緩やかな旋風が吹き回り、二人の長い髪を狂わせた。荒れる毛先を落ち着かせながら、白狐は肌から霊の気配を感じていた。とても優しい、母君の微笑みのようなぬくもりを。
一歩、二歩。前に歩んだ千伽が、ちらりとこちらに一瞥くれる。晴れやかな笑みにどこか艶すら滲ませ、さあ、と彼は高々と声音を張った。
「この苑の花神に、一差し舞い奉らん」
優雅に首を伸ばし、その長い右腕を蝶の飛ぶようにして開けば、ぴんと張られた指の先まで美しい。骨ばった足が動く。高く結わえた黒髪がそよぐ。千伽の舞いは桜に溶け、一幅の絵のように――。
これぞまさに春宮。誰よりも春を愛し、春に愛され、句芒神に祝福された御子である。
さすがの白狐も、舞い遊ぶ幼馴染の姿にしばし見惚れた。さすがと言うべきか。少女のように儚げな白狐とは違い、千伽の所作は精悍で力強く、しなやかな美しさを全身で表している。背の高い彼に優美な踊りは似合いだった。
くるりと回れば、千伽の着物が広がる。そのまま彼は、こちらを誘うように微笑んだ。白狐は笑み崩れる。手を伸ばし、鳥の羽ばたきの如く優美に波打たせ、悪戯っぽく片目を瞑る幼馴染の後を追った。
桜の木々が、横目に過ぎていく。二人はほとんど寝巻だったが、軽やかに舞った。楽も詞も必要なかった。乱舞する花びらが髪を飾り、土を踏む二人の足と衣擦れが拍子だった。
花神へと捧げた神聖な舞は、やがて子供同士がふざけたじゃれ合いに転じていく。千伽が不意に伸ばす腕を、白狐は魚のようにすり抜ける。その華奢な体躯をわざとゆっくり引いたり、大きく跳んでみせたり、追いかける方も逃げる方もくすくすと笑い声をこだまさせた。
武術に長けた千伽にとって白狐を捕えることなど赤子の手をひねるより易かったが、今しばらくは可愛い幼馴染との戯れに興じる。動き回る度にふわりと宙に浮く白髪が、甘い風に溶けていくようだった。
静謐な朝が足音を忍ばせる。夜明けの桜苑、逃げ、追いかける二人の悪餓鬼の弾む息はやがて堪えきれない大きな笑い声に変わった。ひとしきりはしゃいで走り疲れ、やがて大きな桜の木の下に寝そべる。
上下する胸も、少し火照った頬も心地よい。白狐は眼前に広がる桜の洪水が、薄金に染まっていく光景に目を輝かせた。舞い散る花びらがきらきら光って見える。こんなに綺麗な色があるなんて知らなかった。裸足で土を踏むのも、風が頬を撫でるのも、外で身体を動かすのも、こんなに気持ちいいなんて知らなかった。
なかなか動悸の収まらない白狐を、千伽は心配して覗き込む。
「大丈夫か?」
「うん」
乱れた呼気の間から漏れた返事は、少年らしく元気のいい声だった。そうして起き上がった幼馴染は、高揚に気恥ずかしさを滲ませ、白眉を下げる。
「千伽」
「ん?」
「また、僕を外へ連れ出してくださいね」
ああ、と笑う。勿論だとも。お前が望むなら、いつだって。そうして交わした口約束は決して出まかせではなかったし、こんなに生き生きとした顔をしてくれるなら初夏の清楚な睡蓮も、真夏の向日葵も、秋風に揺れる秋桜も見せてやろうと、千伽は大胆にもそう宣言した。
その後、朧家に仕える世話役に見つかり、死ぬほど怒られたのもいい思い出である。
明後日の空模様シリーズのスピンオフ作品となります。白狐と千伽の幼少期のお話ですが、これ単体でもお楽しみいただけるかと思います。
明後日の空模様、シリーズ一覧はこちら→https://ncode.syosetu.com/s8500d/