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あざなえる鬼


 満足げに勝ち誇り、悠然と峭立(しょうりつ)する敵に(おの)が持つ十全(じゅうぜん)の力を叩きつける。その一念で腰を落とし、駆け出そうとした。まさにその矢先。それに待ったを掛けるように、信じがたい力で両手両脚を下に引かれた。


 両脚が大地に張り付いて動かず、両腕は肩が外れそうなほどに重い。


 ぴくりとも動けなかった。


 心臓を握りつぶさんばかりの圧迫感と共に、胸に冷たい痛みが突き刺さり、暗紫色に霞んだ視界がぐるりと暗転する。


 自分の身体に何かがまとわりついて肌に侵入しては出ていき、やがてそれは内面にまで染み込んでくると、ついには外界との繋がりが完全に絶たれて、全身の肉の下を柔らかく撫で回される感覚だけが残された。


 上下左右すら不覚となり、暖かい常闇(とこやみ)の中に溶け込んでしまうと、時間の感覚すら不明瞭になって、数瞬とも数刻ともとれる時をそこで漂っていたような、自分が何人も存在しているかのような――。


 唐突に世界から切り取られた夢幻(むげん)の領域。


 その空虚の中。獣のものとも、人のものともつかぬ声音が、耳の奥を()め回すように鼓膜をくすぐっていた。


「――俺…………ぁぁあっ‼」


 にわかに視界が光を取り戻すと、四肢が解放されて意識が明瞭になった。


 心臓が夢うつつから揺さぶり起されて脈拍が急上昇し、ぐるぐると目眩(めまい)に振り回されて膝をついた。厳冬の北海灘(ほっかいなだ)に脳味噌を放り込まれて、もみくちゃにされたかのような寒気と吐き気に、毛穴という毛穴から汗が噴き出す。


 酷い目覚めだった。


 次々と自己概念が組み立てられていく。


 名はハーミット。姓はカゴメ。


 栄光の末席に名を連ねる闘士にして、〈エリュシオン〉を暴れ回った解体屋(ばらしや)客人(まれびと)にして〈闘鬼(とうき)〉。世界有数の〈ブレカート〉の(つか)い手――兵戈(へいか)の体現者。


 そして、〈(まが)八房(やつふさ)〉の所有者でもある。


 鬼としては小柄でありつつも骨太な肉体は、格闘の動作に支障が出ないよう、内部の余分な水分が絞り尽くされたかのように引き締まっており、その人ならざる体躯(たいく)が秘める並外れた馬力は服の上からでもはっきりと分かる。


 髪は雪のように白く、(かかと)に達しようかというほどに長い。その先端は暗色がかった透明な球状の髪留めでまとめられており、その髪留めの内部には六芒星が浮かんでいた。


 精悍(せいかん)な顔立ちではあったが、一方で子供っぽい印象を受けるのは、その少し大きめな瞳のせいだ。印象的な緋色(あけいろ)の瞳はどこか人をからかうような茶目っ気のある、それでいて強く鋭い意志の輝きを湛えていた。


 鬼としての角は失っていたが、その犬歯は鋭く、荒い呼吸を繰り返す口の中でしっかりと存在を主張している。


 身を包んだ血錆(ちさ)びた色の〈錆神銀(さびしんぎん)闘衣(とうい)〉が肌にひんやりと冷たく、四肢に感じる八房(やつふさ)の恨めしい重みには、未だに果たされぬ呪いが宿っていた。


 ハーミットは片膝をついて、左手の小指に指輪をはめた姿勢で固まっていた。


 ――いつの間に指輪をつけたのだろうか。


 自分で指輪をはめた覚えがなかったが、真っ黒に塗りつぶされた視界の中で、無意識の内に小指に差し込んでいたのだろう。


 あの藤色の髪の娘から授かった神秘的な指輪だ――そうだ。闇黒(くらやみ)のほとりで目が覚ましてから絶え間なく続いた、混然たる出来事の数々は白昼夢などではない。あの娘は確かに自分の腕の中にいた。


 ハーミットは断崖を見た。その時すでに暗紫色の壁は視界から()せていた。視線を上げると、頭上には球状の物体が浮かんでいた。崖を上っていったのは壁ではなく、大きな球状の塊だったのだ。


 まるで島ひとつ浮き上がったかのような大質量の発光物体が、崖すれすれを浮上していった。それは未だに上昇を続けている様子で、徐々に遠ざかっていくのが見て取れた。


 ハーミットは狂おしい思いでそれを見上げることしかできなかった。


 上空から降り注ぐ妖しい暗紫色のブラックライトが半壊した瑠璃の丘を照らし出していた。その光を受けて丘の表面が強くネオンに発光し、所々に血管が這ったようにピンク色の筋が現れていた。


 瑠璃の丘だけではない。丘の外に散らばった色硝子さえもが、降り注がれる暗紫色の光と共鳴するかのように妖しくネオンに発光していた。


 立ち上がり、藤色の娘に思いを()せると心がざわつく。娘の花のように可憐な顔がはっきりと脳裏に焼き付いていた。


 奈落に落ちたのか、それとも、あの空飛ぶ塊に拾われたのか。


 ハーミットがギリリと奥歯を鳴らし、癇癪(かんしゃく)を起こして左脚で思いっきり瑠璃の床を踏みつけると、丘全体が恐ろしげに揺れた。未だに目眩が残る目元を押さえて、深い呼吸と共にゆっくりと息を吐き出した。


「あの娘はいったい……」


 ハーミットの記憶にあの人物は存在しない。籠目の記憶にもない。だが、自分は確かに今でもあの娘に親愛の情を抱いている。


「――夜明けの方角に向かう」


 記憶を確かめながら、娘と交わした約束を復唱する。


「あらか? に行って、だれかに何かをする――」


 左手小指にはめた指輪を前方にかざして、その奥に射干玉(ぬばたま)の異形を見た。先ほどの異常な敵意は(つゆ)と消えていた。


 あの異形に対する殺意と、視界を奪った影。それだけではない。目が覚めてから見聞きした全ての点と点が線で結ばれない。


 自分が自分だと認識できなかった、などということが、あり得るのか――。


 そんな思考の渦に飲み込まれ始めていた頃、ドサァッと土嚢(どのう)を放り出したような音が周辺で次々と立ち、現状認識に追われていた思索は中断された。


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