ご褒美#2
残った全ての実を同様の戦略で美味しく頂き、ハーミットは改めて大樹を見た。
自分の爪が引っ掻いた場所から吹き出していた白い樹液も、今は滴る程度まで勢いが弱まっていた。
周囲が明るくなり始めたことで、その白い液体の真の様子が明らかになった。樹液はただ白いだけではなかった。とろりとした白濁液の中に高濃度の微粒子が煙のように溶け込んで、その微細な粒が陽光を虹の粒に粉砕し、複雑な対流の中で無数のチラつきを放っているのだ。例えるなら、少し水っぽいラメ入りマニキュア液というか、液体真珠というか、そういったところだ。
「――食っていいもんだったのか……?」
もはや言葉通り、昨晩たっぷりと腹の中に収めてしまったわけで、本当に今更だったが、それでも少し不安になる。
相変わらず不思議な存在感のある大樹だ。高密度な幹は金属質にも見え、太く、枝は広く張っている。遠目に見ると“この木なんの木”が枯れたら、こうなるだろうという見た目だった。昨晩、死の淵まで追い込まれたハーミットは、この大樹に背中をもたれかけている間、言葉では言い表せない奇妙な一体感を感じていた。それは断崖でも感じた謎めいた感覚だった。
「本当に……妙な木だ」
ハーミットはそう呟いてから、おもむろに腕を回して軽くストレッチをして身体の調子を確かめた。赤い実を食って僅かにでも血糖値が回復したのか、頭は少し軽くなったが、微熱のような全身の気怠さは残っていた。
その時、ふと女の遺骨が大樹の袂に散らかっている様子が目に入った。傍らには一晩中ハーミットの腹に巻き付けていた薄緑の布が落ちている。元々はこの骸が身にまとっていた衣服だった。持ち上げてみると、それは上品な作りの薄緑のワンピースのようだった。大きさからして、実はこの骸は少女だったのかも知れない。
生地に独特の艶と光沢がある。そんな上等な衣服が、今はハーミットの血液で半分以上血染めになった様子を眺めると、なんだかとても罰当たりなことをしたという、居心地の悪い気分になってくる。
ハーミットの闘衣は左脇腹に大穴が空いていた。錆神銀の闘衣は破られた。そしてこの穴を晒したまま地獄を行くのは、ものすごく嫌だった。この先、蚊とか虻とか蛭とか、そういった不快生物に対して無防備に肌を晒し続けるのが耐えられない。服の中に気味の悪い魍魎が入り込んできたら、と想像すると怖気が走る。だから、ハーミットはこの薄緑の布を腹の穴に巻き付けて進もうと考えていた。
しかしその行為も、改めて考えると相当に業深い感じがする。遺骸から衣服を剥ぎ取って持ち去るわけだ。
「――羅生門かよ、ってな」
考えた末、ハーミットは木の近くに穴を掘って遺骨を埋葬することにした。
大樹の領域の中に拳を打ち込み、【マインフレイル】で大量の土砂を噴き上げて穴を掘った。散らかった骨と、自分の腹に当てていた骨を丁寧にその中に並べていく。
少女の骨を手に持ってよく見ると、それは夕陽のように燃える深い橙色の輝きを閉じ込め、そんな透き通った内部にラメが散っていた。今まで見たこともない状態の骨だった。
「――君は、どうしてここで死んでしまったんだ?」
ハーミットを痛めつけた恐竜の骨は黒いラメ入りの骨だった。その橙色版だ。一体どんな種族なのだろう。骨がキラキラしている生き物は聞いたことがない。最後に長い髪の毛が付着した頭蓋骨を穴に収めた時、白みがかった金髪の、毛先だけが青く染まっていることに気が付いた。変わった髪の色だと思った。
不意に藤色の娘の顔と、穴に収まった少女の髑髏が重なった。あの娘の髪も鮮やかな藤色で、変わった色だった。すると途端に土の中でこぢんまりと綺麗にまとまった骨が酷く寂しげに見えた。
こんな過酷な場所に置いていかれる少女が、ハーミットには不憫に思え、先ほど収めた骨の中から血に濡れた骨を再び取り出すと、朝の状態と同じように腹に数本当てて、その上から薄緑のワンピースを巻き付けた。意外にも、その状態はサラシに懐刀を手挟んだ感じで、ハーミットの動きを妨げなかった。
「――もう少し、いい場所に埋めてやるよ」
ハーミットはそう言って周りに散った土をかぶせてやり、穴を埋めた。墓標代わりにと、飛び散った土砂の中にあったラグビーボール大の透き通った紫色の硝子を乗せ、全体を手でぽんぽん叩いて固め、そのまま跪いて黙祷を捧げた。
しばらくの間そうやって目を閉じて弔っていると、ハーミットの頭がこっくりと船を漕いだ。
「――っ⁉」
ハーミットは慌てて立ち上がり、パンパンと数度頬を張った。
竪穴の底で大杯の水を飲んで渇きが癒え、腹にも赤い実が少し収まったところで、次は眠気だった。まだまだ起きていられる自信はあったが、いつまでもと言うわけにもいかない。どこかで眠らなければ。
だが夜は闇に這い回る何かがいて横にはなれない。さりとて、昼間は餓狼が徘徊し、どこから魍魎が襲ってくるか分からないのだから、やはりどうやっても寝られない。
「そういえば――」
昨晩は結局、魍魎の気配を感じなかった。ハーミットはまさかと思った。
「この茨、そういう効果があったり……?」
確証はなかったが、もしこの茨のバリケードが魍魎を寄せ付けない、一種の結界のようなものであれば、これは折良く休憩ポイントを見つけたと言えるだろう。
――この大樹の領域内部であれば、寝られるのか?
ハーミットの気が緩みかけた時、あの汽笛の音が聞こえた。
予想外に近い場所から聞こえてきたその音に、ハーミットは驚いて身構えた。
「――そうだよなぁ、一緒に落っこちたもんなぁ……」
できれば今日はこのままここで過ごし、夜を待って睡眠を取りたかった。しかし、あの射干玉の追跡者がそれを許すはずもない。もう時間だ。実を食べたり、骨の埋葬をしている間に、朝のまどろむ休戦期間が終わってしまったのた。遠くの木々の陰に見えていた餓狼どもの痙攣が徐々に治まっていくのが見えた。バンダースナッチもきっと、すぐに動き出す。
これまで来る間も、鈍色の大樹は何本も見た。きっとこれからもあるはずだ。
次に見つけたら必ずそこで寝る。そう自分に言い聞かせると、ハーミットは後ろ髪を引かれつつも大樹の領域の外に出た。
ハーミットの足元に、突如イタチのような白い毛むくじゃらの何かが駆け寄って来た。それはまるで猫がじゃれつくようにハーミットの両脚に身体をこすり付けると、さぁっと向こうに走り去っていった。しかしそれも目が深海魚のように黒かった。あの仕草で、生き物ではないのだ。
時々、ああいった何の攻撃性も見せない魍魎を見かける。身体に色硝子が埋まっていないので餓狼ではない。しかし、魍魎にしてはこちらを攻撃してこないのが妙な感じだ。そういった魍魎は若干生物的な見た目に近いことにも気付いていた。魍魎でも餓狼でもない分類の怪物がいるのだ。
「そういえば、あんな妖怪がいたような……脛擦り、だっけか」
ハーミットは自分が鬼であるせいなのか、何かと周りの事象を和風のコンテクストで理解しがちだった。
魍魎どもの中にも、更に意図不明で無害な連中がいる。そんな新たなカテゴリに“妖怪”と名付けると、走り去るイタチめいた妖怪に「案内してくれよ」と話しかけてみるが、それがこちらを振り返ることはなかった。
ハーミットは会話相手に飢えていた。
特に今朝から独り言が多くなってきている。ハーミット自身も気付いていない事だったが、この地獄で精神の平衡を保つための、無意識の防衛行動として言葉を発するようになっていたのだ。枯森では声を出さない方が良いのだが、それよりも心を支えることの方が先決だった。
孤独は心を蝕む。まして、朝から晩まで死にかけている孤立無援の状況では、平時のそれを遥かに上回る速度で正常な部分が侵されていく。
何気なく、両腕の八房に向かっても「あいつ可愛くないな」と声をかけてみた。
八房はハーミットの魂を“食って”質量を増加させる。その効果が有効である以上、魂を食っている“主体”が――自分を呪う存在が、この地獄の果てまでついて来ているはずだった。
「……まぁ、お前は……可愛いげがある方だよな」
そうして話しかけてみても、八房は静かに黒く冷たい気配を発するだけだった。




