雪中行
(ああああっ、もおおおぉっ!!)
ハーミットは胸中で叫んだ。突風に乗った氷の結晶が激しく顔を叩き、数歩先も見通せない。
雲海の中は想像を超えたブリザードだった。
瞬く間にホワイトアウトした視界の中、手のひらで眼球を保護しながら腰まで沈む雪の斜面を慎重に下っていく。ごうごうと耳元を切り裂く零下の嵐によって三半規管が狂ってしまい、何度かよろめいて手をついた。その度に身体ごと雪に沈み込み、雪下から霜まみれの顔を出す羽目になった。それでもハーミットは足裏の感覚だけで斜面の角度を測り、とにかく下を目指して足を止めなかった。今立ち止まったら間違いなく、死ぬからだ。
大袈裟に膝を高く振り上げ、雪を乗り越えながら山を下っていく。焦る気持ちとは裏腹に身体が思うように動いてくれない。ハーミットがそうやって幾度となく雪に足を取られて転倒し、立ち上がる度に全身がユキウサギめいて白くなっていき、やがてその雪もカチカチに凍り付いていった。
いっそ何も考えずに転げ落ちるように坂を駆け下りてしまおうか、とも思った。しかし数歩先も見通せない中、崖やクレバスの存在を警告する理性がその無謀な案をすんでのところで却下した。
雪山遭難という四文字が脳裏で現実味を帯び始めた頃、ハーミットの周囲がふっと明るくなった。強風の中から氷の飛礫が瞬時に消え失せ、頭上から陽光が彼の周囲を照らし上げた。
風を避けるために上げていた手を下ろすと、そこはだだっ広い雪原のど真ん中だった。地吹雪を残して寒々しく晴れた雪原が放つ真っ白な反射光が網膜を刺激してちくちくと痛んだ。どうやら雲の隙間に入った様子だった。
ふと、ハーミットは緩やかな斜面の遠方に青い塊を見つけた。滑らかな雪原の表面でこんもりとした塊はとても目立っていた。その青っぽい塊は雪を被った岩か低木にも見えた。たまたま進路上にあったそれは、迷えるハーミットにとって格好の目印となった。いつまた吹雪に飲まれてもおかしくはない。その目印を見失うまいとハーミットは急かされたように雪原を進んだ。
少しずつその姿がはっきりと見え始めた頃、カリッとした硬い感触を靴底が伝えてきた。雪の下にアイスバーンがあるのかも知れない。ハーミットは構うことなく大股で雪を乗り越えて、目標に近づいていく。
地吹雪の向こうで青い塊の様子が鮮明になってきた。その塊は見上げるほど大きく、上から青い布が被さっていて、強い風を受けて裾がばたついていた。ハーミットはその様子に妙な違和感を覚えて目を凝らした。よく見ると、青い塊の前に景色の歪みがあった。それはまるで――。
ハーミットが訝しげに前方を凝視しながら一歩を踏み込んだ、その瞬間、脚甲が何か薄いものを踏み抜く感触と共に、何枚ものガラス板が一斉に割れたような破砕音が周囲に散った。
「――ぅえっ!?」
地面を蹴るはずだった足が虚空を蹴り、目印にしていた青い塊が、黒い壁にぐーっと持ち上げられていく。そして同時に胃が押し上げられるような浮遊感を覚え、ハーミットは自分が落下していることを理解した。
斜面の底が抜けたのだ。その不測の事態にハーミットはもんどりうって空中に放り出された。眼下に広がった闇に心臓を鷲づかみにされて全身が強ばった。穴の底は墨汁が溜まったように真っ黒で見通せない。
「ちょっ……!」
天地がひっくり返ってぐるぐると回る視界の中、ハーミットは類稀なる運動神経を発揮し、打ちつける風圧を巧みに利用して身体の回転を止めた。下から吹き付ける激しい風。自分の身体がどんどん加速していくのが分かった。視界がつるべ落としに暗くなっていく――この穴、一体どれほどの深さがあるのか。
落下による脚の骨折。その可能性が脳裏をよぎって血の気が引いた。この穴の底に魍魎がたむろしていれば一環の終わり。嬲り殺しの刑だ。
ハーミットはまだ運に見放されていなかった。
思いの外すぐに穴底の接近を察したハーミットが、鮮やかな体捌きを披露した。関節に柔軟性を与え、筋肉をダンパーにし、猛烈な勢いの付いた着地を一拍の激突音の中でぴたりと止めて見せたのだ。直後、金属の脚甲が岩むき出しの地面を砕き、石礫と土埃を勢いよく舞い上げた。
ハーミットの着地に続いて、薄い透明な板が陽光をちかちかと乱反射させながら次々と舞い降りてくる。慌てて両腕を合わせて頭上に掲げると、籠手に一枚の板が当たって甲高い音を立てて砕け散ったのが分かった。ハーミットはその感触の向こうにカミソリのような鋭さを直感し、背筋に冷たいものを感じた。直後、割れる音、引っ掻く音、突き刺さる音、重い音、何か長いものがたわんで振動する音が渾然一体となって、にわか雨が地表を叩くように騒々しく降り注いだ。
嵐は数秒で収まった。けたたましい音が未だ残響する中、ハーミットが恐る恐る腕を下ろして立ち上がって周囲の様子を窺う。
そこは広い竪穴だった。円形闘技場が一個まるごと入ってしまいそうなほど広く、上では空がぽっかりと円形に切り取られており、まっすぐに地下まで下りた壁面や底面では岩がむき出しになった黒い壁が、ハーミットの周囲を囲っていた。
竪穴の縁はかなり高く、これも丁度、円形闘技場の高さに見えた。ここはまさに地下円形闘技場とも言うべき空間だった。竪穴の上部は陽光で明るく見えるが、ハーミットが立つ地底までは十分な光りが届いておらず、周囲には影が溜まっていた。
やがて音が収まり、竪穴の底には地上の地吹雪で巻き上げられた粉雪が静かに降り注ぐだけとなった。この地下は吹き溜まりとなっており、上の強風は届かず、空気がしんと止まっていた。
頭上から届けられる風の音がとても遠くに感じられた。




