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ほどけた心#2


 手に持った光る石を掲げ、眼前のどっしりとした赤い塊に目を向ける。どう考えてもおかしな一品だ。


 白く枯れた木々を背景に、色彩の乏しい幽々たる空間に脈絡もなく忽然(こつぜん)と現れた、茨に覆われた鮮烈に赤い卵形。前面は大きく陥没していたが、それ以外の部分は綺麗で傷ひとつない。そのあまりにも不自然な(たたず)まいはどこか前衛芸術を連想させる。


 内側からめくれた内部は水っぽく、鼻に抜ける青臭さと、オレンジに(かじ)り付いたときの瑞々しい柑橘系の匂いを感じた。


 光る石を近くにかざし、鋭い茨を避けて慎重にその合間に手を伸ばすと表面はつるりとしていて、ささやかな弾力も感じた。


「――あれ?」


 ひとしきり赤い塊を観察すると、手に持っていた光る石が徐々に光量を失いつつあることに気が付いた。きょろきょろと周囲を見回せば、別の光っている地面はすぐに見つかった。そして新たな光る石を拾おうとして身をかがめた直後、思わず「わっ⁉」と声が出て、腕を引っ込めた。


 手を伸ばした先の闇の中から浮かび上がったのは――蜘蛛(くも)だ。


 ただの蜘蛛ではない。大型犬ほどの大きさの、蜘蛛だ。


「――死ん……でる?」


 その巨大蜘蛛は、いわゆる虫の死骸の様相(ようそう)(てい)していて、黒く濁った水溜まりの上でひっくり返って脚を折りたたんでいた。おかげで節足動物的な腹が丸見えで、黒と黄色の縞模様と相まって、ことさらに気持ち悪い外観を(さら)している。


 蜘蛛の腹を蹴ってみたが反応はなかった。からっからに乾いていて軽い。脚を握ってみると軽い音と共にいとも簡単に手折(たお)れてしまった。死んでから、相当な時間が経っているようだ。


 中身のない脚をまじまじと眺めていると、だんだんと気味が悪くなり、掴んだ脚をポイッと脇に捨てた。蜘蛛は間違いなく死んでいる。今度はためらわずに光る石を地面から抜き取った。しかしその際、うっかり指先が死骸の下に広がる泥水と触れてしまい、その指からただならぬ異臭を感じたため、鼻に近付けてみると、つんとした刺激臭が鼻を突いて反射的に顔を背けた。


「んぐ……くさっ!」


 それは有機溶剤の匂いだった。化学的臭気とは、予想外だ。


 慌てて近くの木の幹で指を拭うと、その木は先ほど見ていた鈍色の大樹だった。


 幹へ押し付けた指先に伝わってくるのは、樹木とは思えない凝縮感。それでいて金属ではあり得ない生命感。手のひらで幹に触れ、額を静かに押し付けると吐息が漏れた。まったく予期していなかった感情が胸を(かす)め、不思議な充足感に包まれる。


 そのまま目を閉じて、しばらくの間、枯森を支配する静けさに耳を傾け続けた。


 たっぷりと時間をかけた後、ゆっくり目を開くと、大樹の太い根が地面から顔を出しているのが見えた。それを目で追うと、わずか数歩先の地面に“境界線”が引かれていることに、はたと気が付いた。


 その境界線の向こう側は、黒かった。


 光る石を掲げても何も見えない。


 物理的質量を伴った暗黒の圧力に思わず一歩後じさった。


 暗黒は地面の境界線から立ち上がって壁となり、視界一杯に広がっていた。境界線に沿って左右を見渡しても、見上げても、暗黒がそそり立っている。伸び上がった暗黒が空の闇と混じり合い、一口でこの場所を飲み込もうとしているような錯覚に陥る。


 今にもこちらに倒れてきそうな暗黒の壁に触れようと、ゆっくりと手を差し出してみると、すうっと、吸い込まれるようにして指先が境界線の向こうまで伸びていった。


 それは言葉にならない奇妙な感覚だった。


 確かにそこに“ある”はずの黒い壁に、何の抵抗もなく手が侵入していく。(くら)い水に腕を突っ込むような感覚なのに、伸ばした腕は闇に沈むわけでもなく、指先までしっかり見えている。手を伸ばせば伸ばした分だけ、闇が道を空けていく。今すぐ目を背けたくなる威圧感を放っているのに、なぜか吸い込まれるような力が働いていて――――。


「ぅ⁉」


 つんのめって慌てて身を引いた。カラリと境界線の(へり)が欠けて向こう側に消えていった。


「――崖、か」


 恐らく、境界線の向こうには想像を絶するほどの広大な空間が広がっているのだろう。左を見ても、右を見ても、断崖の(きわ)が一直線に続いて先が見えない。見渡す限りの断崖。それがこの境界線だった。


 ここは底知れぬ闇黒(くらやみ)のほとりだった。


 凝然(ぎょうぜん)と闇黒を見据え、崖から更に一歩距離を取った。


 この鈍色の大樹は、果てしない断崖の際に立ち、その向こうには正体不明の闇黒の(おり)が溜まっている。


 手を添えた大樹のどっしりとした感触が心強かった。広く頭上に張られた大樹の枝は親鳥のように優しく周囲を包み込んで、大樹の領域とも言うべき空間を作り出していた。


 付近は静まり返っており、風の音もしない。誰もいない。ここはとても寂しげな場所だ。そんな中で赤い卵型の塊も、人型のくぼみも、蜘蛛の死骸も。みんな鈍色の大樹の領域に抱かれていた。


 ずいぶん時間をかけた観察で得られた、まったく役に立たない情報の数々に嘆息をついた。


 両手を組んで大きく背伸びをすると、凝り固まった全身の筋膜(きんまく)が剥がれ、新鮮な血流が行き渡っていく。


「うー……っ……?」


 筋繊維の隙間に油が差されていく快感に身を委ねていると、ふと視界の端に何かを捉えた。枯森の向こうで(またた)く何かが、ひょっこりと頭を出していた。


 遠くに見える無数の瞬きは、一つひとつが夜空の六等星のように(ほの)かだった。数多(あまた)の星が群れて垂直にすらりと伸び上がったシルエットは人工的にも見える。


 誘蛾灯(ゆうがとう)に魅せられてしまった虫のように、その暗い明滅から目が離せなかった。


 行かなくてはならない。そんな(きざ)しを感じる。


「行くか」


 ひとつ確かなことは、巨大節足動物の存在だろう。この大きさの蜘蛛やら何やらに、ぞろぞろと集団で襲われでもしたら(こと)だ。


 そう考える一方で、確信めいた自負もあった。


 自分はこの蜘蛛に対抗できる。武器を持たずとも、この捕食者を圧倒できる。


 そう思った時、自然と右脚が浮いていた。そのまま無駄のない所作で身体をひねり、流れるように右脚を振り抜いて虚空を切り裂く。


 超常の速度で放たれた蹴りによって一陣の風が立ち、地面の枯枝が足先の軌跡を追って舞い上がった。しかし風を受けた体軸には一切(いっさい)のぶれがない。上段の回し蹴りを放った姿勢でぴたりと静止した姿は、闘技の(すい)を凝縮した結晶から削り出された彫像のようで――同時に、抜き身の刀剣の如き(りん)とした凄みを(たた)えていた。


 全身を武器と化して、立ち塞がる全てを破壊する解体屋(こわしや)


 脳が忘れていても、肉体に染みついた動きがはっきりとその事実を教えてくれた。


 ゆっくり姿勢を()いて「よし」と(うなず)くと、遠くに見える瞬きに向かって大樹の領域から歩み出す。


 右も左も分からない中、不思議と気楽に構えていられた。


 ただ、ばらけてしまった心だけが、ふらふらと胸の奥底で所在(しょざい)なく揺れていた。




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