ほどけた心#1
――まとわりつく影の中。
寂寞たる浮遊感の彼方に哀切の声を聞いた。
温い褥に包まれた魄の奥底で、今ひっそりと小さな火口が灯った。
しかし意識の種火は酸欠に喘いでいる。
まとわりつく影が、昏い褥を重ねて火勢に待ったをかけていた。
圧倒的倦怠感に押さえ付けられて、身体は燻ったままぴくりとも動かなかった。
辛うじて繋いでいた呼吸すらもやがて億劫になり、諦めてその重圧に身を任せてしまえば、後はゆっくりと、全身の筋肉が消え入るように弛緩していくのを待つだけだった――。
――意識が再びまどろむ中。
か細い気流が鼻の奥に届けられた。
豊かな花の香りが脳をくすぐった。
それは鋭く胸を刺した。
弾けて紅蓮の火の手が上がった。
「――! っはぁ‼」
安らかに手放しかけた意識とは裏腹に、全身の細胞に叱咤されて身体が大きく跳ねた。窒息を拒絶する脳の奥深いところから、一条の雷が放たれて脊椎を走り抜けると、身体中の筋繊維が背中に向かって限界まで収縮し、制御不能の激痛が全身を駆け巡った。神経網を迸るフラッシュの中、上半身が海老反りになって虚空に喘ぎ、悶える。
「――――っ‼ っはぁ! はぁ……はぁ……」
心臓が別の生き物になったように激しく打ち鳴らされ、身体が自然と仰向きになった。その勢いのまま、繰り返し覆い被さってくる分厚い睡魔を押し除けて上半身を跳ね起こす。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
両の眼を見開き、深い呼吸を繰り返していると、悪夢から目覚めた直後のように全身が火照り始めた。
熱の篭もった額から一滴の汗が伝い、こめかみ、頬へと滑り落ちていく。その感覚がこそばゆくて顔を拭うと、湿った音を立ててその手が頬を滑った。予想外の感覚に視線を落とすと手のひらが真っ赤に染まっていた。それだけではない。全身がべっとりと赤い液体にまみれていることに気が付く。
「――はぁ、うぇ、なに……これ……?」
付着した液体を確認しようと右手を上げようとすると、ずっしりした重みを腕に感じた。まるで誰かに腕を掴まれて引き留められているかのような、強い抵抗感があった。
右腕には金属が装着されていた。どこか恨めしそうな表情を湛えた黒い金属だった。手首から肘に至る前腕部をすっぽりと覆った形状は籠手に見える。
籠手の外側中央には特徴的な紋様が浮き彫りになっていた。二本の尾が、ひとつの六芒星に絡みついた紋様だ――不意にその紋様に強い既視感を覚えたものの、それが何だったのか、靄がかかったように判然としない。
籠手にも付着していた赤い液体を指で拭うと、その指は表面をぬるりと滑り、弱い粘性を帯びた液体が指先に付着した。指先の液体をまじまじと見つめ、鼻を効かせてみると、果実性の酸味を含んだ匂いを感じた。柑橘系の香油のように強く爽やかで、心落ち着く香りだった。
あらためて肺一杯にその香りを吸い込むと、ふやけた脳が引き締められ、未だ激しく打ち続けている心臓がなだめられていく。
「はぁ……はぁ」
ふと、前方に気配を感じた。顔を上げると深紅に染まった大きな塊があった。目の前には大きな卵型の物体が鎮座していた。それは成人男性の身長よりも大きく、表面には茨の蔦が這っており、正面は破れて内部も真っ赤に湿っていた。まるで熟れすぎた果実が、内部にため込んだ腐敗ガスの圧力に耐えきれずに弾けたようだった。
その様子が、自ずと身体中に付着している赤い液体との関連性を窺わせる。
この塊から噴き出した液体を浴びたのだろうが、そこに至る文脈が意味不明だった。いかに良い香りとはいえども、それを全身に浴びているのは気分が悪い。
「――はぁ」
軽い不快感に嘆息をついて周囲を見渡すと、そこは一言で表せば――薄暗い、枯れた森だった。
周辺一帯が暗すぎてシルエットしか確認できないが、不規則に立ち並んだ木々には葉が一枚もついていない。全てが苦痛に悶え、ねじれ上がり、燃え尽きたように白んで立ち枯れていた。
次いで視線を落とせば、そこには厚く敷き込まれた枯枝の絨毯と、赤い液体で濡れた人型のくぼみ。
「ここに倒れて……なんで……⁇」
頬をさすり、ぽつり――その呟きは、異様な静けさに包まれた暗い木立の合間を縫って散っていったが、答えてくれる者は誰もいなかった。
上半身だけを起こした寝起きの姿勢のまま天を仰いだ。見上げても空は真っ黒で星ひとつ見えない。この空の暗さは深夜だろう。ではなぜ、薄暗いながらも枯れた森を見渡せるのか――答えは下にあった。
枯枝の絨毯の下に隠れて、うっすら光っている何かが見える。
敷き込まれた枯枝を払い除けると、奥からぼんやりと光る石が顔を出した。周辺にはこの光る石がぽつりぽつりと転がっていて、枯森全体を淡い光で照らし上げているのだ。
下から淡い光を受けて闇の中に浮かび上がる、白くひねくれた枯木の数々。それはまるで闇夜の中に立ち並ぶ亡霊のようで、どこか幽玄さを感じる光景だった。
この光る石の正体は謎だが、光源として使えそうだったので、手っ取り早く引っ掴んで力を込めると、それは抵抗なく地面から外れた。拳大ほどの光る石の表面はつるつると滑らかで、透き通った八面体の形をしており、全体的にうっすら青みがかった白い光を放っていた。
そんな不思議な光源を頭上高く掲げる。
その明かりは頼りなく、どんよりと闇が降りた枯森を見通すことはできなかった。その代わりに、すぐ近くに立つ一本の木の姿を、闇の奥から浮かび上がらせた。
その木の幹は有機物とは思えないほどの質量感を持った鈍色で、異様に太く、両手を抱えても大人が八人は必要そうな太さがあった。周りの枯木とは一線を画す大きさだ。高さは一般的な木よりもやや高い程度だが、しかし枝の張りが尋常ではない。この鈍色の大樹もまた、裸となって枯れ果てていたが、かつての隆盛を想像させるには十分な威風堂々たる立ち姿だった。
呼吸を落ち着かせるのに十分な時間、その大樹を眺めていた。不思議と飽きることはなかった。
やがて呼吸も鼓動も完全に鎮まり、大樹に眺めることにも満足すると、次はそれに触りたくなってくる。わくっと好奇心がうずくのを感じ、立ち上がろうとした直後、全身の関節がぎりぎりと悲鳴を上げた。まるで油が切れた機械のような重苦しさだった。接合部の錆をこそぎ落とすように、ゆっくりと膝をついて立ち上がると、今度は不意にぐいっと頭を後ろに引っ張られ、首がのけぞって「ぐぇ」と変な声が出た。
手に持った光る石を背中に回すと、赤い液体にびっしょりと濡れた長い髪が垂れ下がっていた。本当に長い髪だ。一見して赤く濡れそぼっているものの、よく見ると地の白い色が見え隠れしている。膝裏を通り過ぎて踵にまで達しようかというその後ろ髪は、球状の髪留めで先端がひとつにまとめられていた。
この長く豊かな毛髪が赤い液体を含んだために、その重みで頭を引かれたようだ。
「――ううっ、最悪……」
それなりに髪の毛にはこだわりがある。そうむっつりと口を結んでから、ふと、それはなぜなのかと眉を顰めた。
立ち上がってから、そのまま光る石で全身をなぞると、血錆びた黒鉄色の服を着用しているのが分かった。ほとんど装飾が施されていないレーシングスーツに近い形状で、身体に程よくフィットして動きを妨げない服だった。その服は首から全身を隙間なく包んでおり、両手だけが空気に晒されている状態だった。首元までしっかり覆ったネックガードを指先でつまんでみると、ざらつく繊維質の触り心地の裏に、つるつるとした滑らかな感触と、金属質な冷たい感触がいっぺんに伝わってきた。
両腕には例の漆黒の籠手が、そして両脚の脛にも同じ黒い金属で出来た脛当が装着されていた。足にも同様の金属製の靴を履いており、脛当と靴は一体化していてロングブーツにも見える。そして、それら四肢の装具それぞれに、二本の尾に絡めとられた六芒星の紋様が彫られていた。
これらの装具を身にまとっている事実に、異郷で古い友人にばったり出会う、そんな不可解な安堵を覚えた。
ひとしきり身体の状態を確認すると、徐々にではあったが混乱し始める。
「……ここ、どこ?」
完全にここはどこ、私は誰。
腕を組んで頭をひねり、「んんー?」と唸って立ち尽す。
何か記憶があるはずなのに、それに手を伸ばすと引っかかりもなく霞のように散ってしまう。煮え切らないような、不快なむずかゆさに脳がかき乱されて思考がまとまらない。
それでも不思議と不安は湧いてこなかった。焦りも怖れもない。寂しさも心細さもない。何も感じない。ただ、そわそわと心が落ち着かない。
ばらばらに、ほどけて散ってしまった心。
しばらくの間、腕を組んだまま眉間にしわを寄せ、ぐるぐると首を振りながら唸っていたが、やがてぴたりとその動きを止め、大きく息を吐き、諦めた。
記憶の切っ掛けがどこかにないかと、付近の捜索をもうしばらく続けてみることにした。