五十七.風の民
以前の王は真に民の事を思い、決断力のある王だった。
王妃と出逢ってからは、愛を育み子宝を授かった。その幸福な時間はずっと続くものだと誰もが考えていた。
しかし、王の前にとても妖艶な女が現れたのだ。街中を歩けば誰もが振り返る様なその姿は世の男性を魅了せざるを得ない。その女は、旅の踊り子であると名乗っていた。
何処から来たかも定かでは無い女に対し、王は唯の男に成り下がってしまった。
その時から、王は重荷の王妃を遠ざけその女を身近に置き、毎夜甘美なる快楽へと堕ちて行った。
日が経つにつれて、王の頬は痩せこけ、目には力が無く、執政についての行事にも参加しなくなっていった。
当然、仕える者達は王の変化に気付き、王妃もこの限りでは無かった。
臣下もその状況に手を子招いていた訳では無かった。あれこれと、その女を遠ざけ様と策を巡らし終いには一服毒を盛ってはどうだろうか? と言う所まで膨らんでいったのだった。
だが……どれも効果は無く以前の王の姿に戻る事は無かった。
年月が過ぎ、王妃が王女を出産された。
この国では、世継ぎが生まれると代々伝わる儀式がある。
我々、ウィンティア国民の先祖は風の民と呼ばれていた。一般の者達は風の声を聴き天候が分かる程度の力がある。より、風に愛されている者には、自らが風を操り、その風に乗って自由に飛ぶ事が出来たという。
その儀式というのは、全ての風の主であるドラゴンに世継ぎを見て貰い、国の繁栄を祝って貰おうというものだ。
その儀式が行われる場所が、渓谷にあるドラゴンの鳴き声が聞こえると言う《竜の喉笛》で行われる。
そこで、ある事故がきっかけでこの国の中枢は完全に崩壊した。いや、乗っ取られたのだ。
王妃が祭壇へ赤子の王女を抱えたまま、祈りを捧げている時に突然身体を仰け反らす程の突風が吹き荒れ、ドラゴンの鳴き声が聞こえたかと思うと、王妃は王女を抱えたまま渓谷の淵へと消えて行ったのだ。
我々が、祭壇に駆け寄る時間さえ無かった。一瞬の出来事だった。その悲しみに誰もがその場で呆然と立っている事しか出来なかった。
そんな中、王は耳を疑う言葉を言ったのだ。
「あの者達は、風に愛されなかったのだ。この女との間に出来る子こそ世継ぎに相応しい」
以前の王からは、想像も出来ない言葉だった。あの、民を王妃を愛していた。以前の王は死んでしまわれた。
そう告げて王は、振り向く事なくその女を連れ王城へと戻って行った。その時、王の陰に隠れる瞬間、その女の口角が上がったのを俺は見てしまった。
我々は、王妃が風に愛されていない等と微塵も思わなかった。あの方は誰に対しても自身の愛を配り、何より風を操る事には長けていた。
以前、採掘現場の視察に赴いた時、落石が直撃しそうになった時、見事に風を操り回避したのを我々は目撃していたのだから。
万が一、もしかしたらと、王妃は無事なのでは? 王女は無事なのでは? とすがる思いで我々は装備を整え、渓谷を谷底めざし降りて行った。
数日かかり漸く底について辺りを隈なく探索した。その時には既に御遺体だけでも墓所にという思いが強かったと思う。
身体も心も憔悴し、半ば諦めかけた時、赤子の泣き叫ぶような声が聞こえその場所に駆け寄った。
ぽっかりと空いた洞穴の中に王妃が身に着けていた衣服に包まった赤子が元気に泣いていた。
王妃はどこだ? と、その周囲を中心に探索はしなかった。
壁面には石で刻まれた文字があり、そこにはこう書かれていた。
「この子をお願い」
洞穴の入り口には大量の血痕があり、その血は暗闇に吸い込まれるように渓谷の更に奥へと続いていた。
滅多に人が踏み入れない渓谷の底にはまだ未知の生物がいるに違いない。遭遇しなかったのは運が良かった。
我々は、壁面の文字通り赤子を連れ、涙ながらに退却せざるを得なかった。我々が来る事を信じてくれた王妃の為に出来る事はそのくらいしか無かった。
そのまま我々は、王都には戻らず、自分達だけでこの子を守ろうと誓った。
こうして、我々は王妃救出作戦中に全員が帰らぬ人となっていた筈だった。
しばらくして、王は老衰により崩御なされたという話を風の噂で聞いた。その時は臣下の彼奴が代理になるんだろうなと皆して話し合ったものだが、あの女が王位を継いだと聞いた時は皆信じられないでいた。
その頃から、我々の身の回りを嗅ぎまわる奴らが目についた。
何処からか流れた噂では、近衛騎士団が生きていて、王女を匿い反乱を起こすつもりだと――。
当然、そんなつもりは一切ない。唯平穏にこの子の成長していく姿が見れたら良いと皆思っている。
だが、その女は正当な世継ぎを見逃してくれそうにはない。噂程度だったものが、確信へと変わりじわじわと我々を追い込んでくる。
その対策の為、相手の懐つまり王都での情報収集がレスターの役割だ。
「反乱の首謀者が近衛騎士団団長ヴィクトール、実兄って話だ。笑えるだろう?」
お調子者っぽく軽快な軽口を叩いたが、目の奥は疲労感とも悲壮感とも言えない物を映していた。