第一話 憧れの異世界へ
「冬太~。動物たちの餌やりしてくれた~?」
「今から行くところ~」
「わかった~、お願いね~」
「うん」
読んでいたお気に入りのライトノベル小説を読むのを止め、毎日の日課をしに自宅を出る。
ヒュゥ~。
外に出ると四月になったというのに未だに肌寒さを感じさせる風が身に染みる。
まぁ北海道に住んでいる以上、毎年の事だから慣れているのだが。
僕の名前は、柏木冬太。今年の四月から中学二年に進級したばかりの十三歳。僕の家は代々酪農で生計を立ててきた家系なのだけど、大の動物好きである両親が、僕が母親のおなかの中にいる頃に、自宅の敷地内にある牧場の隣で動物園を開業した。
とはいえ、家の生計は酪農が主軸なので、両親は本業である牧場の方をおろそかにできず、物心ついた頃には動物園の掃除と餌やりは僕の仕事になっていた。
ガタガタ。
餌の貯蔵庫からリアカーの荷台に動物たちの餌を載せ、各々の餌箱に入れていく。
「ふぅ、あとはみゆきだけだな」
一通りの餌やりを済ませ、あとは動物園一番のお転婆娘――――熊のみゆきに餌を食べさせるだけ。
みゆきの檻小屋に近づくと、僕が来た事に気が付いたのであろう――――「グガ~」と嬉しそうに吠えているのが聴こえてくる。
「みゆき、ごめんな~。お腹空いただろう? 今ご飯やるからな~」
「グガ~」
檻の間に顔を挟めて待っていたみゆきの為に、扉の鍵を開け小屋の中に入る。その瞬間みゆきが飛び掛かってくる。
「ガウ~」
「うわっと。まったくみゆきは甘えん坊だな~」
「ガウガウ~」
みゆきの飛びつきで床に倒れながらも、顔をベロベロと舐めてくるみゆきの頭を撫でてやる。
僕とみゆきの関係性を知らない人が見たら、子供が熊に襲われている様にしか見えない光景も、日常的に行われているみゆきの愛情表現でしかない。
――――ひとしきりじゃれついて満足したのか目をウルウルと潤ませて餌を催促してくる。
「しょうがないなぁ~。……ほら、お食べ」
雑食である熊のみゆき用に野菜・穀物・肉をブレンドした配合食を、餌を入れたバケツから両手で餌を掬い出し、手で直接みゆきに食べさせる。
「ガウ~。ガウクチャガウクチャ」
本当は、他の動物と同様に餌箱から食べて欲しいのだけれど、幼い頃のなごりで僕の手から餌を食べる事を好むみゆきの為に出会ってから十年間、手からあげ続けて今更変えるのもどうかと思い今も手であげている。しかし相変わらず美味そうに食べるなぁ。嬉しそうに食べている所を見ているとこちらも嬉しくなる。
しばしみゆきに癒されていたが、ふっと最近の悩みを思い出す。
「……なぁ、みゆき。僕って大人になったら何してるんだろうね」
「ガウクチャガウクチャ」
食べる事に夢中になっているみゆきを気にせず、話を続ける。
「多分この牧場と動物園を継ぐことになるのはわかっているんだ。それに不満もないんだ。みゆき達の事大好きだから。……でも……でもね」
つい先日クラスメートの友人達六人程と将来の話になった。驚いた事に僕以外の全員が、将来東京に行く事を望んでいた。それも曖昧な都会への憧憬ではなく、しっかりとした目標を持って。
僕にも都会へ憧れる気持ちはある。だけど、皆のように役者になりたい、漫画家になりたい、一流企業に勤めたい、ファッションデザイナーになりたいなどの目標があるわけではなく、ただなんとなくで、そこに何かの為にという強い思いはない。
物心付いた頃から親の仕事を手伝ってきたから、家の仕事を継ぐことに違和感なんてなかった。
描いていたのは大学には行っとこうかなという漠然とした将来設計だけ。
だからこそ、同級生達のしっかりとしたビジョンに焦りを感じてしまった。
僕には何もないのだ。何かが得意、何かがしたいなどの個性ともいうべきものが。
動物好きは、家庭環境を考えれば当たり前だし、それを除けば僕には何も残らない。
今まで自分に対して何も疑問を持った事などなかったけど、友人達を見て思ってしまったのだ。今のままでいいのかと。自分にも自分にしかできない何か特別な物があるのではないのかと。
だが、確固とした目標もないのに都会に行くリスクを冒せるほど勇気のある人間ではない僕は、おそらく安全牌である家の仕事を継ぐ事を選ぶ様な気がする。
だがそれでいいのかと、堂々巡りの思春期特有の悩みで最近頭を抱えていた。
「……異世界があったらなぁ」
自分が発した無意識の言葉に一瞬驚いたが、ここ数日、現実逃避の様に異世界冒険物のライトノベルを読みまくっていた影響だと納得する。馬鹿げた発言だとも思うが、物語の主人公の様に異世界に行けたらと強く憧憬してしまう。
「なぁ、みゆき……異世界ってあると思う?」
「……ガウ?」
「あはは、みゆきに言ってもしょうがないよな。ごめんな食事の邪魔して。食べ直していいぞ」
食事を止め、少し不思議そうに僕の顔を見つめたが、餌の乗った両手をみゆきに近づけると再び餌目掛けて口を開く。
「ガウクチャガウクチャ」
「お前は本当に可愛いなぁ」
あまりの可愛さについつい頬が緩んでしまう。一心不乱に食事するみゆきの姿に先程までの憂鬱感が薄れた気がする。
「ははっ、お前のおかげで気持ちが楽になったよ」
みゆきが餌を食べ終わり、頭を軽く撫でる。
小さい頃からいつも何か悩みがあるとみゆきに誰にも言えない独り言を言っていた。そうするといつも元気になっていたのだが、今回もそうらしい。
「ありがとう、じゃあまた明日来るからな、おやすみ」
みゆきを最後にもう一撫でし、小屋の外に出て扉に鍵をかけ直おそうと手を伸ばす。
『そんなに異世界が気になるのか?』
「――えっ?」
小屋の鍵をガチャッと回すと同時に、直接頭の中に響いてくるような声がした。鈴のような可愛らしい声が聴こえた気がするのだが、周囲を確認しても人影はない。第一閉演時間を過ぎている現在、家族以外の人間がいる筈もない。
気のせい……か? 鍵をかける音がたまたま人の声に聴こえたのかもしれない。
聞き間違いだと自身に言い聞かせ、家に戻ろうとしたが、みゆきの様子がおかしい事に気づく。
「みゆき?」
「グルルルルゥゥ」
普段、僕や家族だけでなく、初対面のお客さんにも警戒心を見せないみゆきが珍しく威嚇の唸り声を上げているが、みゆきの目線の先には何もいない。いない筈なのにみゆきは顔を険しく歪ませ唸り声を上げ続けている。
「みゆき? どうしたんだよ、みゆき!」
「グルルルルルゥゥッ」
結局、この後何度みゆきに呼びかけてもみゆきは威嚇を止めなかった。
みゆきの事が気になりながらも家に戻り、夕食を食べ、風呂に入り、寝る時間になったが、やはり先程の事が気になる。もう一度様子を見に行くか。
外は寒いだろうから、パジャマの上にコートを羽織り、玄関に向かうが、途中で母に見つかる。
「冬太? こんな遅い時間にどこに行くの?」
「みゆきの様子が少しおかしかったから気になって……」
「なら母さんも一緒に行こうか?」
「いや、いいよ、近くだし。すぐに戻ってくるよ」
「――そう? ……目の前だから大丈夫だと思うけど気を付けてね」
「うん、行ってきます」
母は心配性な所があるから見つかりたくなかったのだが、まぁすぐに戻ればいいか。
玄関で靴を履き、家を出る。扉を開けるとやはり外は寒い。駆け足でみゆきの元へ向かう。
『――異世界が気になるんだろう?』
「――なっ?」
動物園へ向かう道中、突然頭に響く声が。この声は夕方の? 聞き間違いじゃなかったのか?
周囲を確認するがやはり人影はなかった。
「だ、誰か居るのかっ? 居るのなら隠れてないで出てこいよっ!」
冷たい澄んだ空気に響いていく僕の声に反応する者は居らず、いつも行き慣れた筈の動物園に向かう木々に囲まれた道中は、暗闇のせいか得体のしれない不気味さを感じさせる。
「な、何だよ。また空耳かよ」
言い知れない不安を声を出すことでごまかし、動物園へ向けて歩を進めようとするが。
『異世界に行けると言ったらどうする?』
頭に響く声で再度足を止められてしまう。
「さ、さっきから何なんだよっ! 異世界って……そんなのあるわけないだろっ!」
『あんなに行きたがっていたのに?』
「行きたがってなんかないっっ!」
自分の心を探られている様な口調にイラつき、ついむきになって誰もいない周囲に向かって怒鳴ってしまう。そんな僕のイラつきなど気にもしないようで淡々と言葉を紡ぐ鈴なりの声。
『ここ数日、お前を見てたからわかる。周囲が夢に輝く中、自分だけ親の敷いたレールを歩くつまらなさとレールから外れる度胸さえない自分に悩んでいた事。現実逃避でありもしない空想話の英雄譚に憧れていた事。なりたかったのだろう? 誰かに必要とされ語り継がれる誰かの為の特別に』
「なんだよ、見透かしたようなこと言って……あぁ、そうだよ。馬鹿げた事だとはわかってるんだ。それでも僕の知らないどこかには誰かをじゃない、僕を必要としている世界があるんじゃないかって期待している自分がいるんだ……そんなところある訳ないのに」
物語の勇者や魔王。善悪は別にして彼らは誰かの特別の象徴だ。異世界に行く主人公達は勇者や魔王になることが多い。もし自分も行けたならと、他人には話せないバカバカしい空想が僕の胸には詰まっている。
『もしあると言ったらどうする? お前が馬鹿げていると言いながらも夢見た異世界が。そしてそこに行けると言ったら』
「……異世界に行け……る?」
何でだろう。異世界なんてない筈なのに。こんなの悩み過ぎて幻聴が聴こえているだけと、耳を貸さなければいいだけの筈なのに。
「……行けるのか?」
『――ああ行ける。ただし今居る世界に戻ってこれる保証はない』
戻ってこれない。その言葉を聞いても驚きはなかった。小説ではお決まり事だということもあった。だけど、異世界の事を夢想するとき、異世界に行けるなら何でもするという気持ちがどこかにあった。
『今あるすべてを捨てる覚悟がお前にある?』
「……異世界に行けるのなら」
それは本心からの言葉だった。だが鈴なりの声にとっては意外だったらしく少し間を置いた後、笑い声が頭に響く。
『――ふふっ、ふふふ……は~はっはっは! 面白い奴だなお前は。もっと取り乱して説得するのに時間がかかると思っていたのだが。……まぁ、話が早くて助かる』
頭に響く声に夢中になっていると、次の瞬間左側の木々の一本に、白い光が灯る。
「なっ? フ、フクロウ?」
木に灯った白い光が収まると、そこには純白のフクロウが止まっていた。
『今からお前を異世界の道へと案内する。ついてこい』
頭に声が響くと同時に、作り物のようなフクロウが羽を広げ、木々の奥へと飛んで行く。
言われたとおりフクロウを追いかけ木々の中を駆ける。暗いのでよく見えないが、うちの敷地内の林はこんなに広く木々が生い茂ってはいなかった筈。もう二、三分は走っている筈なのに未だ開けた場所が見えない。
「はぁはぁ、異世界の道というのはまだなのか?」
フクロウを見失わないように全力で走ってそろそろバテてきたのだが。
『フフッ、そろそろだ』
声と同時に追いかけているフクロウの先から木々が消え、かわりに月の光に照らされた開けた場所が出現した。
「な、なんだここ。こんな所、うちの敷地内にはなかったよな?」
月に照らされ、周囲をたくさんの木々に囲まれたこの場所は、森の広場という風情がある。
その広場の中心には、淡く輝く五芒星の円陣が描かれている。その円陣の中心には先程のフクロウの姿もある。
「もしかして、それが異世界の道なのか?」
『そうだ。その五芒星の中心に立てば、異世界への転送が始まる。転送が始まればもう取り消しもきかないが、もう一度だけ言う。すべてを捨てる覚悟があるか?』
「じゃなければここまで追いかけてこないよ」
そうなのだ。僕の中では既に迷いは消えている。心残りがないと言えば嘘になる。学校の友達に会えない事。家族に会えない事。動物たちに会えない事。それでも行けるなら行きたい。
「ねぇ、これから行く異世界には魔物がいたり、勇者や魔王、ドラゴンがいたりするの?」
『あぁ、いるとも』
姿は見えないが、鈴なりの声が今ニヤリと笑った気がした。
「そっか……それならやっぱり行かなきゃな」
思った通りの異世界ならもはや異世界に行かない選択肢はない。歩を五芒星の中心へと進める。
(母さん、すぐに戻るって言ったのにごめん。みゆき、もう僕の手で餌をあげる事ができそうにないよ)
この世界での未練を整理しながら足を進め、五芒星の中心にたどり着く。
次の瞬間、それまで淡く輝いていた円陣が激しく光り始めたかと思うと、視界が歪み始めた。
「こ、これは?」
『異世界への転送が開始されたんだ。これでもう後戻りできない』
「……そっか」
蜃気楼のように見えている視界の歪みがさらに強くなる。それとともに身体が透けだした。
あぁ、本当にこの世界から消えるんだなぁ。
(学校の皆お元気で。父さん、母さん、親不孝な息子でごめん。動物のみんな世話できなくなってごめん。みゆき……一緒に居てやれなくてごめん)
意識が遠のいていく中、心の中で皆に別れを告げる。
「ぐぉぉぉぉおおおっ」
意識が完全にブラックアウトする寸前、遠くの方で、みゆきの鳴き声が聴こえた気がした。
「――うわっ」
意識の覚醒と共に訪れた浮遊感に思わず尻餅をついてしまう。地面が石畳らしく尻に鈍痛が走る。
「いてて……ここは?」
「お前が憧れていた異世界さ、カシワギトウタ」
覚えのある鈴なりの声に顔を上げれば、すぐ目の前に黒いドレスを着た黒髪おかっぱの幼女が居た。
「ようこそ、異世界トドメントへ」
読んでいただきありがとうございます。