吊り人形
足元に浮かぶ夕日に照らされて、僕はそっとほくそ笑んだ。
屋上は冷たい場所だった。コンクリートの地面に、周りは鉄条網の張られたフェンスに囲まれ、まるで何かをここから出さないようにしているようだった。小さな監獄。事実、誰もこのフェンスの向こうに行けないようにしている。もう、誰も、死ぬことがないように。
三ヶ月と三日と一時間前。ほとんどの生徒が下校した後の放課後、一人の男子生徒がこの屋上から落ちた。無論、その男子生徒は死んだ。土の上なら生きていたかもしれないが、その男子生徒は運が悪かったようだ。頭から落ちたのか、頭蓋骨は潰れ、レンガの敷き詰められた前庭には赤黒い薔薇が咲いた。骨と肉の拉げる音が今でも耳に残っている。
僕は今、その男子生徒が立っていた場所を眺めていた。二メートル以上のフェンスが聳え立つ。当時はこれほど高いフェンスはなかった。せいぜい僕の肩の高さぐらいまでである。だから、死ぬという結末を迎えてしまったのだ。フェンスが今のように高ければ、あの男子生徒は絶対に死ななかった。少なくとも、ここから落ちるという死に方ではなかったはずだ。
まあ、どちらにしても死んでいただろう。
男子生徒が死んでから、屋上は立ち入り禁止になっていた。以前からも屋上には出てはいけないと言われていたが、今ほど厳重ではなかった。屋上へ上がる階段に机や椅子などのバリケードが置かれていた程度で、肝心の屋上に出るドアに鍵などは掛かっていなかった。それが今では、南京錠などで厳重に鍵が掛けられ、ガムテープで目張りまでされている。
現金なものだ。学校側は、いつも何かが起こってから気づく。事が起こってから対処しても遅いというのに、アピールでもしているかのように過剰反応をする。
せっかく生徒達の記憶から消え掛けているというのに、思い出させようと教員達は死んだ男子生徒の話をする。「屋上に出てはいけない」と壊れたラジカセのように何度も繰り返し、規則は絶対に破るなと命じる。
どうやら学校側は今回のことで、かなりの痛手を負ったらしい。ただでさえ取り柄のない私立高校なのだから、少しでも評判が落ちれば、経営への悪影響は計り知れない。況して生徒の死亡、しかも原因は学校側のセキュリティーの甘さだ。最早、致命的といってもいい。
必死になるのも当然だ。
しかし、遅い。あまりにも遅過ぎた。死んでしまったという事実は変わらない。それを世間がどのように受け取るかはわからないが、誰かを糾弾するのは必至だ。今回の場合、最も責め易いのは学校だろう。実際、ニュースでは事故と報じられているし、遺族も学校側に非があるとして訴訟を起こすつもりだと聞いた。
何とも悩ましい。
偶然が重なり、悪意のない者同士が互いに傷つけ合っている。そして、そこから憎悪が生まれ、また傷つけ合うという悪循環。こんな不幸を断ち切ろうとして、悪の根源を滅ぼしたというのに、結局は元に戻ってしまう。
もしかしたら、これは無駄な行為だったのかもしれない。
しかし、救われた者もいたはずだ。少なくとも、僕はその一人だった。
もしも僕が責められるとするならば、それは無関係な者達を巻き込んでしまったことだろう。
だが、後悔はしない。
まだ、終わっていない。
だからこそ、僕は今ここに立っている。
キィ・・・・・・。
鉄の軋む音が夢の終わりを告げる。
後ろを振り返ると、待ち人は愛おしいほどに冷たい目を僕に向けていた。不気味なくらい落ち着いていて、何もかもを達観しているようだった。
僕は殺されるな・・・・・・、と思った。
長い黒髪が風に靡く。磁器人形のように真っ白だった肌は、生気を失って蒼白くなっていた。袖やスカートから覗く四肢は、細く、弱々しく、そして綺麗だった。
「よく来れたわね・・・・・・」
美しい容姿に見蕩れていた僕は、彼女の澄んだ声に呼び覚まされた。
「ピッキングは得意なんですよ。まあ、ガムテープを剥がすのには苦労しましたけど」
照れ隠しに作り笑いをしてみせる。目を細めて、口を引きつらせて・・・・・・僕は巧く笑えているだろうか?
答えはノーだった。冷ややかな言葉が僕を刺す。
「下品な顔。人殺しが、よく私に会う気になったわね」
「お手紙をいただきましたから。羽倉先輩のお誘いは断れませんよ」僕は怯むことなく、言葉を返した。「それに風紀委員長殿に逆らえば、審問会に掛けられてしまいますので」
「っ!」
予想通りというか、案の定、羽倉のどかの表情は崩れた。人を喰った態度と軽い挑発だけで、無表情という仮面は破れ、激情が剥き出しになった素顔が露呈した。
「ふざけないでっ!」
怒号と共に、表情が一変した。何ものにも囚われない無機質な仮面の下は、怒りに燃える修羅だった。歯を食い縛り、目を大きく開き、黒い眼は焦点が合っていないようだった。汚く歪んだ顔に、さっきまでの面影はなかった。
「人の命を何だと思ってるの!?」
わなわなと身体を震わせて、羽倉のどかは一生懸命に怒りを表現する。傍から見れば酷くみっともないが、それほど彼女は今という現実と真摯に向き合っているということだった。
そんな人間を笑うことなど出来ない。出来るはずがなかった。
僕は作り笑いを捨て、真顔で相対する。これが僕の、彼女に対するせめてもの礼儀だった。
「等しく、命です」
「だったら、どうして?」
そこで僕は黙ってしまった。つまらない未来が見えてしまったからである。
二つの影が夕闇に溶ける。ビルに沈んだ太陽の残り日が夜と混じり、薄い陰が二人を包んでいた。
・・・・・・・・・・・・チッ!
耳が疼くほどの静けさに、どちらかが舌打ちをした。
「どうして殺したのよっ!?」
何も答えない僕に痺れを切らし、羽倉のどかは三度激昂した。
真実を話したとして、彼女はそれを受け入れてくれるだろうか、いや、拒絶するだろう。それは間違っている、正しくない、と。いや、それならまだましだ。最悪、現実として受け入れてもらえないかもしれない。それでは全く意味がないのだ。
狼少年は誰にも信じてもらえない。
では、彼は何をした?
そんなことは誰もが知っている。
「羽倉先輩は勘違いをしています。僕は、誰も殺していません」
恥。愁いを含んだ微笑を浮かべる。
「高宮彰良、でしたっけ? 誤って屋上から転落し、そのまま死んでしまった不運な男子生徒。ありふれた転落事故です。だが、どうやら羽倉先輩は事故ではなく、殺人だと思い込んでいる。誰かがその男子生徒をここから落とした、と。推理小説では定番の展開ですが、現実的ではありません」
「でも、私は見た」
「そうですか。そういう有力な情報は僕のような阿呆ではなく、警察に提供することをお勧めします」
「あんたが捕まるかもしれないのに?」
「四次元の話にはついて行けません」
のらりくらりと下手な尋問を受け流す。
目の前にいる女子生徒は、根が正直な人なのだろう。嘘を吐いたり卑怯な言葉を並べたり、相手を自分の思い通りに弄ぶことが出来ない。にもかかわらず、それを遣って退けようとする。滑稽を通り越して、愛おしい。
「どうしても認めないつもり?」
「はい」
一〇〇パーセント演技で作られた返事は、薬っぽい甘さで味つけされている。言ってしまった僕ですら胸焼けしてしまいそうなほど、胡散臭さ抜群だった。
とんでもない茶番だ。
相手の顔を見れば、白けているのがよくわかる。
何のために、この人はここにいるのだろう?
「・・・・・・何であんたはここに来たの?」
思わぬ偶然に、僕は親近感を覚えた。
「・・・・・・・・・・・・呼び出しの手紙をもらいましたから」
「嘘」
落とされた小さな爆弾に、僕は心底怯え切ってしまった。瞬間、背筋に悪寒が走る。手の平から嫌な汗が噴き出す。脚が小刻みに震える。
悟られまいと表情を取り繕ったが、目が死んでいた。
「〈放課後、人殺しは屋上に来なさい〉・・・・・・そう書いたはずだけど?」
「まあ、そうだったような・・・・・・そうじゃなかったような・・・・・・」
この場に相応しい言葉が浮かばない。イエスでもノーでもない、いい加減で貧弱な言葉に自分を託す。今時、政治家でも吐かない嘘だ。顔が火照ってしょうがない。
「・・・・・・わからない?」
「何が・・・・・・ですか?」
敢えて訊ねる。意味はないけど。
「あんたは人殺しだってこと」
「すいません。話が飛躍し過ぎてわかりません」
正しくは『笑えません』。
怒りで燃える瞳の奥には、氷のような冷たさが宿っていた。
「あんたは選べたのよ。イエスか、ノーをね。でも、あんたはここに来た。自分で証明したのよ。自分が――」
僕はその眼を見たくなかった。だが、動くことが出来なかった。
「――人殺しだって」
その通りだ。
「最低・・・・・・」
だから、どうした?
「死ね」
ごもっとも。
僕は身を翻すと、勢いよくフェンスに飛びついた。ガチャガチャと音を立てながらよじ登り、鉄条網に手を掛ける。皮膚が切れた。血が出た。
別にいいや。関係ない。
針金が肉に食い込み、真っ赤に染まっていく。身体を動かす度に痛みが走るのだが、耐性を持っているので、あまり感じてはいなかった。普通の人なら耐えられない感覚だが、僕は壊れているから安心だ。
少し残念なのは、服が破れてしまったこと。それだけ。
腕や脚からボタボタと血を垂らしながら、僕はフェンスの向こう側に立った。
辺りは、夜に飲まれつつあった。
僕は向き直り、フェンス越しに羽倉のどかを見る。彼女は目を丸くさせ、小さく口を開いて、石のように固まっていた。
「高宮彰良はここに立っていました。どうしてだか・・・・・・わかりますか?」
羽倉のどかはゆっくりと首を振った。
僕はゆっくりと話し始める。
「その日の放課後、高宮彰良は自分の財布がなくなっていることに気がつきました。『ロッカーの中に入れておいたはずなのに』と呟きます。代わりに、そのロッカーの中には一枚の手紙が入っていました。『財布はもらった。屋上まで取りに来い』と書かれていました。高宮彰良は怒り狂い、急いで屋上に来ましたが、そこには誰もいませんでした」
僕は、そのときのことを克明に思い出す。
「『チッ! クソッ! 誰もいねぇじゃねえかっ!』と汚らしい言葉を吐き出しながら、高宮彰良は財布を探し始めました。すると、フェンスの向こう側に何かが落ちていました。財布です。探し求めていた自分の財布を見つけ、高宮彰良はフェンスを越えて、財布を拾い上げました」
込み上げてくる笑いを、僕は必死に堪える。
「そのときです。財布を拾い上げて、ホッと安堵した瞬間、高宮彰良の背中を何かが押しました。丸い。そう、まるで棒の先が当たっているような感触。落とされる。しかし、気づいた頃には、もう死んでいましたとさ。めでたし、めでたし」
パチパチと僕はぎこちなく拍手をした。何せ、手は血まみれですから。
話が終わると、羽倉のどかは、やはり怒りの表情をしていた。
「やっぱりあんたが・・・・・・」
「いえいえ、勘違いをしないでください。今(、)の(、)は(、)、フィクションです。もし先輩の考え通りに殺人だとしたら、こういうシナリオが適当かなと思い、作ってみただけですよ。どうですか? 疑問とかがあれば修正しますよ?」
満面の営業スマイル。おそらく今の僕は、狼少年以上に狼少年なのだろう。不気味なほどに心が清々しい。
対して、羽倉のどかは非常に不服そうだった。僕の言動、態度、存在そのものが気に食わないのだろう。無理もない。彼女の正義の基準からすれば、僕の正義は悪以外の何ものでもないのだから。
「・・・・・・・・・・・・・動機は何なの? その犯人の」
なるほど。『その犯人の』ね・・・・・・。やはり、この人は愛おしい。
「悪を滅ぼすため。もっと言えば、正義を成すためです」
「ふざけるなっ! 殺人が正義だって言うのかっ!」
羽倉のどかは必死だった。自分の主義を守るため、声が掠れてしまうほど咆哮した。
しかし、僕も退くわけにはいかない。
「高宮彰良はゴミでした。他人を傷つけ、悲しませ、貶めていました。あのゴミの暴力で、何人が人生を狂わされたか・・・・・・。万引きを強要され、警察に捕まった者もいます。苛めを受け、退学したものもいます。自殺した者もいました。あのゴミは罰を受けなければならない。いや、法律などという温いルールでは足りない。そもそもあのゴミは死ななければならない。誰かが殺さなければならない。被害者のためにも、世界のためにも・・・・・・・・・・・・これは紛れもない正義です。悪とは言わせない!」
「彼が死んで、悲しむ人達もいるのよ!」
「そんな者はいない!」
「彼の遺族よ!」
「悲しんでいるわけがない。寧ろ、喜んでいるはずだ。厄介者がいなくなって清々した。加えて、保険金まで入ってくる。何て好都合なんだってな! 訴訟を起こしたのも、学校側から慰謝料を取るためだ。もしも、仮に、たとえ、万が一、悲しんでいたとしても、それは罰だ。悪人を、罪人をこの世に生み出した罰だ!」
鉄条網が揺れる。弱々しい拳が、僕に届く前に、フェンスに止められていた。
僕の読み通りだな。あのゴミもそうだった。
いつの間にか嘘が剥がれていた。笑顔も敬語も消え去って、十数年ぶりの素顔だった。家に帰ったら、鏡に向かって「久しぶり」って言わないと。
帰れたら、ね・・・・・・。
フェンスの向こうでは、阿修羅姫が僕を怒り狂った眼で僕を睨んでいた。
「・・・・・・満足ですか?」
卑しい笑みを浮かべて、僕は心にもないことを尋ねる。どんな答えが返ってきたとしても、結末は同じだというのに・・・・・・。
おそらく、疲れていた。僕も、彼女も。
どうして・・・・・・こんなくだらないことに拘っているのだろう?
・・・・・・どうでもいいや。
本題に戻ろう。
「まだよ。まだ、本当の、犯行を聞いてない」
バレバレだった。やはり、心の綺麗な人に嘘は通じないらしい。とんだピエロを演じてしまった。
「・・・・・・それを知ってどうするんですか?」
「警察に言う。そして、あんたの殺人を立証する」
どこまでも自分の信念に真っ直ぐな人だ。自分の恨んでいる相手が死んだというのに、どうしていつまでもレールの上を歩いていられるのだろう。きっと、生まれたときから心が壊れているのだろう。正常だったら、僕みたいに後から壊れるはずだ。
「立証は出来ないと思いますよ」
「そんなことは聞いてから決めるわ」
気丈な人だ。
気がつけば、辺りは真っ暗。いつの間にか夜になっていた。夜の学校に女子生徒と二人っきり、こんな特殊な状況下に置かれれば思春期の頭の中はピンク一色にもなるだろうに、僕の脳は灰色一色だった。夢も希望もない、枯れた高校生だ。
「そうですねぇ・・・・・・手紙と財布は僕の仕業ですけど、押してはいないんですよ」
「じゃあ、どうやって?」
「いやいや、どうもしていません。そもそも高宮彰良が落ちたときは、友達とゲーセンに行っていました」
半分嘘で、半分本当。僕は往生際が悪いから、ここまで追い詰められても偏屈だった。第一、本当のことを言ったとしても信じてもらえるはずがない。恥を掻くくらいなら嘘吐きでいい。
「じゃあ、その友達の名前は?」
「スズキ」
「マグロっていう友達もいそうね」
激昂したり咆哮したり散々騒いでいたくせに、ピンポイントで見抜いて来る。どちらが本当の羽倉のどかなのか判別すら出来ない。女性は単純なようで難解だ。
そういう僕も懲りないなぁ。
一体、心を乱しているのはどちらなんだか・・・・・・。
「・・・・・・願いですよ」
「願い?」
怪訝そうに羽倉のどかは訊き返した。
「ただ願うんです。死ね。死ね。死ね。僕の描いたシナリオ通りに死ね、と。そう強く願い続けるんです」
「そんなことで・・・・・・」
「事実、死にました」
羽倉のどかは、信じられないといった顔をしていた。当たり前だ。そんなことを言われれば、僕だって驚くだろう。だが、事実だ。しかし・・・・・・。
「殺人としての立証は無理です」
「で、でも、殺意はあった」
「僕の供述で否定されれば終わりです。たとえ、今までの会話を録音していたとしても物的証拠がなければ意味がない」
「くっ・・・・・・」
「そもそもこの国の法律では、人を一人殺しても死刑にはならない。せいぜい無期懲役でしょうね」
「・・・・・・っ」
「僕が罪に問われるとしたら、窃盗罪ぐらいです」
これでもかと言わんばかりに、僕は現実を突きつける。
羽倉のどかはフェンスにしがみつき、冷たいコンクリートに膝をついた。力なく項垂れ、スイッチが切れたように黙ってしまった。
昔の自分を見ているようだった。
正義は無敵だと思っていた。人は正義に従うと、正義を持っていると思っていた。
だが、実際は脆いものだった。そして、人は醜いものだと知った。
「先輩」
僕は優しく呼び掛ける。
僕を見上げる羽倉のどかの顔は、涙で濡れていた。
僕はその場にしゃがみ、彼女に視線を合わせる。
「もう、いいんですよ」
「え・・・・・・?」
「あなたは正しかった。だから、もう充分です。精一杯頑張りました。だから、もういいんです」
正義が絶対ではないことを、人の心に正義がないことを、法律では正義を成すことは出来ないと思い知らなければ、そしてそれを受け入れなければ、羽倉のどかは人間として生きていけなくなる。
そうして、自分の立場を、身の程を知るのだ。
僕は失敗した。その有様がこれだ。
しかし、受け入れを強要するだけでは意味がない。寧ろ、逆効果だ。
今、彼女に必要なのは安心だ。
そして、結末だ。
「えっ?」
振り返って、空を見た。
満天の星空だった。
これが正しいとは言わない。
優しさでもない。
捻くれ者の最後の手向けだ。
「先輩、ばいばい」
僕は境界線を越えた。
夜に、
闇に、
光に、
飲み込まれて、
ひと言。
素顔を見損ねたなぁ。